『リップヴァンウィンクルの花嫁』 - 『生産の鏡』から -

 "「あと、いまからはなすことですけど」「はい」「『友だちがほしい』。それが、クライアントの、依頼です」「『友だちがほしい』… それが、わたしの仕事なんですか?」"(岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』)

 

 岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』では社会関係の希薄さと、二者間の関係の構築が中心的な主題になっている。また、その背景として労働という主題があることを以下にのべる。
 黒木華演じる皆川七海は、結婚式の招待客がふたりであることにしめされるように、社会的なつながりが希薄だ。本業の代理教員では退任するさいに生徒たちにうそをつき、副業のコンビニ店員は、生徒たちの視線を気にし、本人だとわからないように変装して働いている。七海が忌憚なく心情を吐露できるのは、SNSサイト《プラネット》のアカウント《クラムボン》としてだけだ。
 "「まあ、役者にとって名前なんてのはなんでもいいんですよ。役をいただいて、その仕事が終わるまではその役の名前が自分の名前ですからね。まあ、そう考えたら名前なんてのは無限大にあるわけで、だって、ほら、あなたもそうでしょう」「え、いやいや、ないです。そんな」「いや、だってほら《クラムボン》って」「ああ… そういう意味では。最近はみんなちがう名前をもってますね」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 ボードリヤールは『生産の鏡』でマルクスの物神崇拝の概念を批判し、使用価値は交換価値にたいし、具体的で比較不可能であり、また、労働のうち質的なものも比較不可能としているが、マルクスはその比較不可能性を根拠として、質的なものにおいて、生産と労働を媒介にしてあらゆる人間的行為を比較可能なものとし、シニフィアンによる構造化として、生産と労働をフェティシズムにしたとのべている。(ジャン・ボードリヤール著『生産の鏡』宇波彰今村仁司訳、pp.12-13)
 "需要すなわち欲望は、ますますシミュレーション・モデルに照応していく。これらの新しい生産力は、今ではもうシステムに問いをつきつけるのではなくて、先取りされた答えであり、システムはそれらの出現を自ら管理している。システムは、記号の戯れによって、矛盾と弁証法に十分耐えることができるし、革命のあらゆる徴候も許容できる。システムはすべての回答を産出するのであるから、問いをたちまち無効ならしめてしまう。これはコードの強制と独占によってはじめて可能である。すなわち、どのような仕方であれシステムの内に身を置くかぎりでは、システム自身の規則に従って、システム自身の用語のなかでしかシステムに応答することはできず、システムにたいしてシステム自身の記号を送り戻すほかはない。だからこの段階への移行は競争の終りとは別物をつくり上げるのであって、その要点はこうだ――すなわち、その論理の面で社会的労働時間によって支配された生産諸力・搾取・利潤のシステム――競争システムがそうであるが――から、問い/答えの巨大な操作的戯れ、すべての価値が操作的記号に従って方向を変え、互いに交換されあう巨大な組み合わせ、への移行である。独占段階は、生産諸手段の独占(これは決して全面的ではない)というよりも、コードの独占を意味する。この段階は、記号の機能や意味作用の様態の面で根本的な変容を伴なう。権威や卓越という目的性はまだ記号の伝統的な定義に照応していた。この定義によれば、意味するものは意味されるものを指示し、形式的差異、弁別的対立(衣服の裁ち方、モノのスタイル)は記号の使用価値とよびうるもの――他人との違いで得をすること、他人に抜きん出ることを経験すること(意味された価値)――を指示している。それはまだ座標軸をなす心理学(および哲学)をともなった意味作用の古典的時代である。それは諸記号の操作の面で競争的時代でもある。形態/記号はまったく別種の組織を描く。意味されるものと座標系は消滅し、意味するものの戯れ、一般化された形式化だけが際立ってくる。コードはもはや主観的であろうと客観的であろうといかなる《実在》にも根差すのではなくて、それ自身の論理で動くのである。記号は自ら自分自身の座標系となる。記号の使用価値は消え去り、変換価値と交換価値だけが登場する。記号はまったく何ものも指示せず、他の諸記号にだけ反響するという極限的な構造論的真理に達する。かくて現実全体が記号神的(セミウルジック)操作と構造論的シミュレーションの場となる。そして伝統的記号が(言語学的交換における記号もまた)意識的投資の対象であり、意味されるものの合理的計算の対象であったのに対して、今や記号が絶対的な準拠審級になり、同時に倒錯した欲望の対象になる(『新精神分析雑誌』第二号、「フェティシズムイデオロギー」をみよ)。"(『生産の鏡』pp.117-119)
 "このような次第で、今日ではどんなものでも《回収可能》である。まずはじめに、欲求とか本物の価値があって、ついでそれらが疎外され、ごまかされ、回収される、などということを認めるとしても、そういう見方はあまりに単純すぎるし、人間主義的二元説はなにも説明しない。すべてが《回収可能》だというのは、独占資本主義社会では、財、知、技術、文化、ひとびと、かれらの関係や野心、などあらゆるものが、はじめから直接に、システムの要素、統合される変数として再生産されるということである。経済的生産部門では久しい以前から真実と認められてきた事実、すなわち使用価値はどこにも現れず、いたるところで交換価値の決定因的論理が現れるという事実は、今日でも、《消費》と文化システム一般の領域の真理として承認されなくてはならない。いいかえれば、どんなものでも、芸術的・知的・科学的生産でも、革新や違反ですら、直接に記号として、交換価値(記号の関係的価値)として産み出される。《欲求》、消費行動、文化行動が回収されるばかりでなく、生産諸力として系統的に誘導され生産されるかぎりではじめて、この抽象化と傾向的体系化に基づく消費の構造分析が可能となる。それは、記号の生産と一般交換の社会的論理の分析を根拠にして可能になる。"(ジャン・ボードリヤール著『記号の経済学批判』今村仁司他訳、p.89)
 結婚はカール・マルクスが『資本論』でいうように、資本家が負担すべき公的扶助を労働者に転嫁する機能をもつ(『資本論』第2巻、向坂逸郎訳)。また、恋愛は佐伯順子が『「色」と「愛」の比較文化史』でいうように、日本の近代化にあたり廃娼論・蓄妾批判が盛んになるなかで、結婚を基礎とする一夫一妻の関係性を称揚するなかで言説化した。
 脱工業社会(ダニエル・ベル著『脱工業社会の到来』内田忠夫他訳)においては、結婚と自由恋愛はもはやドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』でいう《文明資本主義機械》でしかない(『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳)。七海たちが家族を演じる男女は中年にして未婚だ。
 結婚が仮象だったことが顕在化されるかたちで七海は離婚する。だが、そこにおいて七海は自身の寄る辺なさに不安をおぼえる。
 "「ここはどこなの。どこなんだろう。どこなんですか」「え、皆川さんどちらですか。どうしたんですか」「自分が、いま、どこにいるのかわからないんですよ」「えっと…」「どうしたらいいんですか」「あの、落ちついてください。あの、携帯のアプリをひらいて、あの、地図をみればそれでわかると思いますよ」「わたし、どこへいけばいいんですか? わたし、帰るところがなくて」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 七海はある邸宅でメイドとして月給百万円の仕事をする。邸宅は新古典主義様式であり、メイド服は邸宅に保管されているコスプレ用の衣装からとったものだ。Cocco演じる里中真白と現実離れした仕事をしているうちに、七海は自信を回復する。七海がオンラインで家庭教師をしている場面は、もとの自宅と、邸宅と、新居の3箇所があり、それぞれの変化があらわされている。
 ボードリヤールは『生産の鏡』において、バタイユの未開部族における象徴的・神話的思考法の概念をもとに、仕事から労働を隔てるものを、主体と客体の区別の消失、生と死の両立だとのべる。七海と結婚式を挙式した真白は、ワンカットでそれを代表するセリフをのべる。なお、『キネマ旬報』2016年4月上旬号の黒木華のインタビューで、この長回しにおいてはアドリブのないことが語られている。
 "「ほんとうに結婚する?」「はい。してもいいかもしれません」「結婚しようか?」「はい」「ホントに?」「はい」「酔っぱらってる?」「はい。酔っぱらってます!」「わたしね、コンビニとかスーパーで買物してるとき、お店のひとがさ、わたしの買ったものをさ、せっせと、袋にいれてくれてるときにさ。わたしなんかのためにさ、その手がせっせと動いてくれてるんだよ。わたしなんかのためにさ、せっせとお菓子やお惣菜なんかを袋に詰めてくれてるわけその手が。それみてるとさ、なんか胸がギューっとしてね、なんか泣きたくなる」「え? …えへへ。それってなんのはなしですか?」「わたしにはね、幸せの限界があるの。もうこれ以上はムリーって量が。たぶんその限界がくるのがそこらのだれより早いの。アリンコより早いかもしれない、その限界が。だってさあ… ホントはさ、この世界は幸せだらけなんだよ。みんながよくしてくれるんだあ。宅配便のオヤジはさあ、わたしがここって言ったところまで重たい荷物運んでくれるしさ。雨の日は、知らないひとが傘くれたこともあったよ。でもさあ、そんな簡単に幸せになったら、わたし壊れるから。だから、せめてお金はらって買うのが楽。お金ってさあ、たぶんそのためにあるんだよきっと。ひとの真心とかさ、優しさとか、あんまりそんな、はっきりくっきりみえちゃったらさ、ひとはさ、ありがたくってありがたくってさ、みんな壊れちゃうよ。だからさあ、それ、みんなお金に置換えてさ、そんなのみなかったことにするんだよ。だから、やさしいんだよ、この世界はさあ。だからわたしは、お金はらって買うんだ。お金はらって買うの。だってもう限界なんだもん。…だからそんな目でみないで。わたし壊れる」「わたしといっしょに死んで、っていったら死んでくれる?」「はい?」「いっしょに死んでくれる?」「…はい」「ホントに?」「はい」「バカだ… バカ。ありがとう」「わたしこそ」「愛してる」「わたしも、愛してます」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 "職人の仕事について、職人は《かれの労働の生産物》の《主人》であると語るのも、すでにまちがっている。なぜなら、職人は、《制御する》立場、すなわち生産的外面性の立場にある自立的個人の状況にいるわけではないからである。《仕事》を産業労働と対立させて具体的労働過程として定義しても十分ではない。それは労働とは別物であるからだ。生産者の領域と消費者の領域との分離がないのと同様に、労働力と生産物、主体の立場と客体の立場との真の分離もない。職人は自分の仕事を象徴的交換関係のなかで生きる、すなわち、《労働者》としての自己自身の定義と《かれの労働の生産物》としての客体の定義を廃棄する形で、自分の仕事を生きるのである。かれが働きかける材料のなかの何ものかが、かれの仕事とたえず応答しており、この何ものかはあらゆる生産目的性(材料を使用価値あるいは交換価値へと端的に変形する目的性)から免れている。価値法則を免れる何かがあり、それは一種の互酬的浪費を証言している。ここでも、投資されるものは、失われ・与えられ・返される、つまり廃棄されるのであって、正確には《投資される》のではない。以上のことはすべて、芸術作品の場合にとりわけてはっきりするはずであるが、これに関して史的唯物論は、生産図式にとらわれているために、芸術作品の社会的‐歴史的決定の様式(機械論的であれ構造論的であれ)についてとやかく議論することしかできず、芸術作品の働きやその根源的差異の契機を決して説明することができなかった。しかしこのことは、より小さい程度ではあれ、職人的仕事(語源にしたがえば《デミウルゴス》の仕事)についてもあてはまる。仕事(ウーヴル)と労働(トラヴァーユ)を根本的に区別するのは、仕事が《生産》の過程であるのと同じく破壊の過程でもあるということである。まさにこのゆえに、作品は象徴的なのである。つまり、死、消失、不在が、主体の放棄、交換の律動のなかへの主体と客体の消失を通して、そこに書きこまれているからである。生産と労働といった概念から出発することによっては、そこで生起していることをつかむことができない。それは、労働を否定し、価値法則を否定し、価値の破壊を通過するからだ。芸術作品や、ある程度までは職人の仕事も、自分自身の内に、主体と客体の合目的性の消失、生と死との根源的な両立性を刻みこんでいる。これは、労働の生産物が労働の生産物たるかぎりではもうもっていない――なぜなら、労働の生産物には価値の合目的性だけが刻みこまれているから――両義性の働きである。"(『生産の鏡』pp.87-89)
 "奴隷あるいは職人(奴隷制的様式あるいは封建的/職人的様式)についてのこのような唯物論的な書きなおしは、現実には抑圧的図式にほかならない《解放》と乗り越えの図式がそこから展開されるかぎりでは、重大な結果をもつことになる。すでに見たように、奴隷を労働力の搾取の観点から再解釈することは、人間的領域における絶対的進歩としての《自由な》労働者という観点から労働力を再解釈したり、隷層を絶対的野蛮状態――幸いなことに生産諸力のおかげで乗り越えられるといった――にあるものとみなしたりする(自由のイデオロギーは、依然として西欧合理主義の消失点であり、マルクス主義の場合も同断である)。同じく、職人を《自分の労働と生産の主人》、《労働体系の主体》とみなす考え方(ロール『労働社会学入門』)は、ただちに、生産的労働の黄金時代というユートピアを描き出す。ところが、《労働》なるものは存在せず、分業と労働力の販売しかない。つまり、労働の真理とは、労働の資本主義的定義のことである。この定義から出発してはじめて、資本主義的過程に対する職人的代案と解されるような、労働過程全体のなかで再獲得可能な労働にほかならない労働という幻想がつくられる。事実、この代案は想像上のものにとどまる。この代案は、職人的様式における象徴的なものに全く触れておらず、親方の身分や生産者の自立性の観点から見なおされ修正された職人階級に依拠しているからである。ところが、この親方の身分などはとるに足らない。それというのも、それは職人階級を労働と使用価値の観点による定義のなかに閉じこめてしまうからである。自分の労働を《管理する》個人というのは、このような基本的な制約条件を理想化するにすぎない。そのような個人とは、自分自身の主人になった奴隷にほかならない。主人/奴隷の関係は、同一の個人のなかに内面化されはしたが、疎外構造として作用することを止めはしない。かれは自分自身を《自由に処分し》、自分自身への用益権をもつ。それは個人的生産者の水準での自己管理(オートジェスチオン)である。けれども、周知のとおり、自己管理とは生産管理の変身(メタモルフォーゼ)以外のものではない。自己管理が集団的形式をまとうと、今日では、社会(主義)的生産中心主義の黄金時代を描きだす。職人的自己管理はどうかといえば、個人的小生産者の黄金時代、要するに《職人本能》の礼讃にすぎない。"(同pp.93-94)
 "これ以上ぐずぐずせずに言ってしまう。暴力、そして暴力を意味している死は、二つの面を持っている、と。一方では、生への執着心と結びついている恐怖感が私たちを後退りさせる。他方で、厳粛かつ恐ろしげな要素が私たちを誘惑し、至高の混乱を惹き起こす。この両義性についてはあとで語ることにしよう。今はただ、死に関する禁止が表している動き、暴力を前にしての後退りの動きの本質的な面を示すことしかできない。死体は、それが生きていたときに仲間であった人々にとって、依然として関心の対象であったはずである。近親者たちは、暴力の犠牲者であるこの死体を新たな暴力から守ろうと配慮していたと私たちは考えるべきである。埋葬は、おそらく太古の昔から、死者を貪欲な動物から守っておきたいとする埋葬者側の願望を意味していた。しかしこの願望が埋葬の習慣の確立において決定的であったとしても、私たちはとくにこの願望だけをこの習慣に結びつけることはできない。おそらく長いあいだ、死者への恐怖感は、穏和になった文明が育んだ感情をも遠くから支配していたのである。死は、暴力が滅ぼすことができる死者を襲った暴力の性格を帯びていた。暴力の《伝染》が及ぶなかにあったものは、すでにその死者が犠牲になった破滅に脅かされていたのである。死は日常の世界とは無縁の領域から出てきたので、労働が命じる思考法とは反対の思考法だけが死にはふさわしかった。レヴィ=ブリュールが間違って原始的と呼んだ、象徴的もしくは神話的思考法だけが暴力に対応しているのだ。暴力の原理とはまさしく労働が必要としている合理的思考を逸脱する。"ジョルジュ・バタイユ著『エロティシズム』酒井健訳、pp.71-72)
 "労働は明らかに人間と同じほど古い。動物はかならずしも労働に無縁ではないが、動物の労働と違い人間の労働は、絶対に理性と無縁ではない。人間の労働は、労働の対象と労働それ自体との根本的な一致、そして労働の材料と念入りに作り上げられた道具との相違(この相違は労働に由来する)が認められていることを前提にしている。同様に、人間の労働は、道具の有用性への意識、および労働に関する原因と結果の連鎖への意識を必要としている。道具はコントロールされた操作から生まれ、そののちこの操作に仕えることになるのだが、この操作を支配している原理は、最初から、理性の原理なのである。この原理は、労働が構想し実現してゆく変化を規制している。"(同p.76)
 近代の発明である《恋愛》ではないふたりの愛は、死を許容するものだ。説話論的に真白は末期癌で余命いくばくもなく、また、もともとは心中相手を探していた。だが、綾野剛演じる安室行桝がはじめ七海が死んだものと誤解したように、七海は死を覚悟しつつ、結果的に真白ひとりで死ぬ。なお、真白の葬儀において、独身者たちがふたたび家族を演じるのも、そうした近代家族制度との対置において位置づけられる。
 また、真白が新古典主義様式の邸宅を用意したのも、バタイユのいう不連続性の破壊を意味する。
 "すなわち男女二人の恋人の結合が情念の結果だとしても、この情念は他方でもう一つの可能性、つまり死を、殺人への、あるいは自殺への欲望を、惹き起こすということだ。死の輝きが恋の情念を指し示している。この暴力――不連続な個体を絶えず侵犯しているという感覚はこの暴力から生まれるのだが――の下に二人の習慣とエゴイズムの領域が始まる。これは不連続性の新たな形式にほかならない。個人の孤立を侵犯する――死の高みにおいて――ときにだけ、愛する相手の連続性のイメージ、恋人にとっては存在するものすべての意味を持つあのイメージが現れるのだ。恋人にとって愛する相手は世界の透明さである。愛する者のなかに透けて見えるものは、私があとで神聖なもしくは聖なるエロティシズムに関して語る予定でいるものなのである。それは、もはや個人の不連続性によっては限界づけられない完全な、無際限の存在である。一言で言うと、それは、恋人からすれば解放と映る存在の連続性のことである。その外観には、不条理な面もあれば、ひどい混合もある。しかし不条理、混合、苦悩を通して、奇跡のような真実が現れるのだ。結局、恋愛の真実においては何も空しくはない。恋人にとって(あしかに恋人にとってだけだが、そんなことは重要ではない)、愛する相手は存在の真実に匹敵する。偶然のおかげで、愛する相手を通して世界の複雑さが消え、恋人は存在の奥底を、存在の単純さを見出すようになるのだ。"(『エロティシズム』pp.34-35)
 "詩は、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。"(同p.43)
 だが、その邸宅の賃料は、『スワロウテイル』の偽札とも、『リリィ・シュシュのすべて』の旅行資金とも異なり、現実的な労働による所得だ。それは、七海の雇用主が真白であることを示唆しつつ、朝帰りの真白のセリフに〈銀座〉という単語をいれ、それが不労所得であることを想像させながら、のちに真白がAV女優だと明かすことで、七海のおどろきとともに強調してしめされる。また、その労働の現実的な重みは、「3P」という単語を使うことでしめされる。
 そうした記号の経済学から離れた労働は、レヴィナスが『全体性と無限』で語るものだろう。そして、そこにおいて人格は完成する。それは当然、ボードリヤールが批判する、経済学的、心理学的な愛他主義ではない。
 "これらの事実はすべて一点に収斂する――すなわち、いわゆる前産業的な組織を説明するためには、労働、生産、生産諸力、生産諸関係といった諸概念は不適切であるということである(これらの事実は、封建的ないし伝統的組織にもおおむね妥当する)しかしながら、ヴェルナンに対して異議を立てることもできる。ヴェルナンは、生産の優位と手を切り、生産の優位がかかわりのない文脈にそれをおしつける誘惑を論難しながらも、力点のすべてを使用者の欲望や合目的性に移している。合目的性が富を規定し社会関係が基礎づけられる人格的関係は合目的性へと集中する(有意味でない生産へと集中するのではない)。われわれの経済では、交換価値の記号の下に置かれた関係とだけわれわれはかかわりをもつが、それに反してここでは、二人の人格は使用価値の記号の下で結合される。そしてこのことが実は、わたしが主張する奉仕関係を定義するのである。けれども、奉仕(サーヴィス)の概念は、われわれの社会のカテゴリーによってまだ強く侵蝕されていることを知る必要がある――すなわち、経済的カテゴリーによる侵蝕(経済的奉仕の概念は、単純に、交換価値から使用価値への移転をおこなうだけである)、心理学的カテゴリーによる侵蝕(これは生産者と使用者の分離を保持し、両者を単純に共同主観的関係のうちに置く)。このようなやり方では、《人格的》交換は、固有の意味での経済的交換を共示したり重層決定したりする心理学的次元でしかない(これは、今日、交換の《人格化》で知られていることである。つまり、それは関係の心理学的デザインであって、依然として、互いに等しいとみなされた二人の経済主体の関係なのである)。しかもこの《奉仕(サーヴィス)》は、道徳化された愛他主義の図式でしかなく、各主体のそれぞれの立場を、のりこえようとしつつも保持してしまう図式である。"(『生産の鏡』pp91-92)
 "〈私〉は他なるものに巻きこまれる一方で、つねにそのてまえから到来する。こうした身体の両義性が生起するのは労働においてのことである。労働は、原因の連続的な連鎖にあって第一原因となるのではない。すでに啓蒙をかいくぐった思考ならそのようにとらえるにしても、そうではない。思考はおわりからはじめて後方にさかのぼり、私たちにもっとも近い原因に到達したところで歩みをとめる。そこで原因と私たちは一致するからである。労働とは、思考がそのように歩みをとめるときに作用しはじめるような原因ではない。あいことなる原因はすきまなく連鎖して、一箇の機構をかたちづくる。機械がその機構の本質を表現しているのである。機械を構成する歯車はたがいに完全に噛みあって、間隙のない連続性をなしている。機械についてなら、帰結は最初の運動にとって目的因であるとも、帰結はその最初の運動がもたらした結果であるとも、おなじ権利で語ることもできるだろう。これとは対照的に、機械の動作を開始させる身体の運動、ハンマーに、あるいは打ちつけるべき釘に向かう手は、こうした目的のたんなる始動因ではない。その最初の運動の目的因となるはずの目的を始動させる原因ではない。手の運動にあっては、目標を、それにともなう偶然的なことがらのすべてとともに追及し、とらえることが、つねにいくらかは問題だからである。身体は、それが作動させる機械や機構に向かい、このように隔たりを穿って、またそれを踏破するけれども、その隔たりの大小はさまざまでありうる。その隔たりの大小を定める境界は、たとえば習慣的な動作においては、そうとうに狭められることもありうることだろう。とはいえ動作がいかに習慣的なものとなったとしても、習慣をみとびくためには熟達と器用さが必要なのである。"(エマニュエル・レヴィナス著『全体性と無限』熊野純彦訳、上巻、pp.340-341)
 "無限なものの観念は、その観念を限界づけるなにものにもじぶんの外部で出会わない一個の存在体、いっさいの限界をあふれ出し、したがって無限なものである存在体を映し出すために、主体性がたまたま思いえがく概念などではない。無限な存在体の生起を、無限なものの観念から切りはなすことはできない。無限なものの観念と、当の菅根がそれについての観念である無限なものとのあいだで均衡がとれていないことにおいてこそ、限界の踏み越えが生起しているからである。無限なものの観念は存在することの様相であり、つまりは無限なものの無限化にほからない。無限なものはまず存在し、そのあとで、啓示されるのではない。無限なものの無限化が啓示として生起し、〈私〉のうちに無限なものの観念を植えつけることとして生起する。無限なものの無限化が生起するのは、およそありえそうもない状況にあってであって、そこではじぶんの同一性のうちに固定され分離された存在、すなわち〈同〉、《私》が、にもかかわらず自己のうちに、ただじぶんの同一性のはたらきによるだけではそれが含みこむことのできないもの、受けいれることもできないものを含みこむことになる。主体性によって実現されるのは、この不可能な要求である
。主体性とはつまり、含みこむことが可能である以上のものを含みこむという、驚くべきことがらを実現するのである。本書は、こうして、〈他者〉を迎えるものとして、他者を迎えいれること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。だから、対象に対して思考が適合的なものでありつづける志向性によって、意識をその根本的な水準で定義することはできない。志向性であるかぎりでの知のいっさいはすでに、無限なものの観念を、つまり際だったかたちで非適合的であることを前提しているのである。"(同pp.25-27)
 結果的に、七海は新居に引越しし、ひとり暮らしをする。安室からは引越し祝いに家具をもらう。だが、その家具は粗大ゴミシールが貼ってあり、安室が方々から横領してきたものだ。
 七海が変わらずに《リップヴァンウィンクルの花嫁》でいることは、2匹のベタを新居にもってきていることからわかる。

『まんがの作り方』は孤独に耐えること - ルカーチ『小説の理論』から -

 "「上流社会」の調子――すなわち因習的な幻想や非真理がもっているところの無関心で無感動な調子――がとりも直さず現代の支配的な通常の調子である。現代では多分単に本来政治的である要件(これは自明なことである)ばかりでなく、宗教上の要件および学問上の要件も、そしてそのためにまた現代の害悪も、この調子で取り扱われ論じられなければならないのである。見せかけは現代の本質である。われわれの政治も見せかけであり、われわれの道徳も見せかけであり、われわれの宗教も見せかけであり、われわれの学問も見せかけである。今は、真理を語るものは厚顔であり「無作法」であり、「無作法」なものは不道徳である。真理はわれわれの時代にとっては不道徳である。キリスト教の欺瞞的な否認――これはキリスト教の肯定という外観を呈している――は道徳的である、そうだ権威にされ名誉にされる。しかるに、キリスト教の真実の――すなわち道徳的な――否認、いいかえれば自己を否認として公言するような否認は、不道徳であり不評判である。恣意はキリスト教をもてあそんで、キリスト教の一方の根本条項は実際に放棄し、他方の根本条項は外見上存立させるのであるが、この恣意のもてあそびは道徳的である。そして、一方の根本条項を実際に放棄することはなぜに外見的に他方の根本条項を存立させることになるのかというと、すでにルターがいったように、一つの信条を破棄するものは少なくとも原理の方からはすべての信条を破棄するのだからである。しかるに内的必然性によってキリスト教から自由になるという真剣な態度は不道徳である。機転がきかない中途半端な態度は道徳的であるが、しかし自己自身を確信し確認している徹底性は不道徳である。怠慢な矛盾は道徳的であるが、しかし整合性という厳格な態度は不道徳である。凡庸な人間は何事にも始末をつけずまたどこでも根本にまで立ち入らないために道徳的であるが、しかし天才は自分の問題を片づけ徹底的に究明するために不道徳である。かんたんにいえば道徳的なのはただ虚偽だけである。なぜかといえば、虚偽は真理の害悪――または今はこれと同一であるが害悪の真理――を回避し且つかくすからである。"(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著『キリスト教の本質』舩山信一訳、pp.18-19)

 『まんがの作り方』(全8巻、平尾アウリ著、徳間書店、2009-2014年)の表題の意味を探り、それを通じて描写の特徴を分析する。副読本にはルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』(所収『ルカーチ著作集』第2巻)を用いる。さらにそののち、その特徴が『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(全2巻、2016年-連載中)、『私のアイドル』(所収『エクレア』、2016年)にも通底していることを確認する。
 『まんがの作り方』は読切りだった第1話において、作品のメタ=フィクショナルな視点を作中に導入してオチをつけている(第1巻、p.28)。本作は当初からフィクションをそのように相対化している。第1巻のプロットは、川口が百合マンガをかくために森下との交際を試みるというものだ。川口が百合マンガではないマンガの連載をはじめるまで、本作は自己言及的な構造をとることになる。
 それが第6-7話に当たる。出版社にプロットの提出を求められるという外的な要請により、川口は森下との交際の経験を創作に活かそうとするが、失敗する(同pp.128-130)。その失敗について、川口は現実がフィクションに転化する過程を逆転させ、原因を現実に求める。"(今なら絶対百合漫画描けると思ったのに)(百合を理解出来てない?)「森下――…」(もしかしてまだ森下のこと好きになれてないの?)"(同p.130)。
 しかし、それはフィクションの存在意義をも否定する。川口は森下にプロットの作成を依頼し、森下に諌止され、そのことに気づく。"「森下私のこと好き?」「え あの」「うん そうだよね」「なら 私の代わりにプロット書いてくれたらいいのに」「それだとダメです」「先輩の漫画じゃないと意味ないです わたし先輩の漫画と一緒に載りたいです」「だよね(コマが変わる)ごめん冗談だから」「?」"(同pp.131-132)。
 そして、とくにじしんの経験とかかわりのないプロットが採用される。ここにおいて、現実から独立した、フィクションのそれじたいの存在が認識される。"〈結局 適当に書いた二行ほどのプロットとも言えないようなものが通ってしまった。〉(描きたいものと描けるものは違うもんなんだな)"(同p.133)。川口は創作にかかわりなく森下と交際をつづけることにする。現実とフィクションの二重性の認識が、肯定的に作用する。"〈自分のためじゃなくてこの子のために一緒にいてあげなきゃって思った。〉"(同p.138)。
 ジョルジュ・ルカーチは『小説の理論』において、ゲオルク・ヘーゲルの『美学講義』におけるエマニュエル・カントの『判断力批判』の概念と感覚の一致という美学の基準を主観的なものにすぎないとする批判(ゲオルク・ヘーゲル著『ヘーゲル美学講義』長谷川宏訳、上巻、pp.62-66)を継ぎ、文学を劇文学と叙事文学の二者に区分する。劇文学は具象化した超越性の描写としてではなく、本質が生の世界を包含しているが、叙事文学は本質が超越性により措定をおこなう当為でしかない。よって、叙事文学は生そのものではありえず、もはや弁証法としてしか芸術をおこなうことはできない。なお、距離の有無により叙事文学は叙事詩と小説に区分される。小説はイロニーという自己認識と自己止揚の過程をとる。
 "先験的な標識点のかかる変化によって、芸術形式は歴史哲学の弁証法に従属することになる。しかし、弁証法のゆきつく結果は個々のジャンルの先験的故郷に応じ、すべての形式にとってかわらざるをえない。変化がおよぶのが対象と対象を形象化する諸条件のみであって、形象とその先験的存在理由との究極の関係には、一指も触れない場合も、おこりうる。その場合、たんに形式が変化するにとどまり、なるほどこの変化によって技術的な細部のすべてにおいて分解が進行しても、形象化の根本原理がくつがえることはない。しかし、ほかならぬすべてを規定する、ジャンルの様式化の原理に変化があらわれ、芸術意志が変わらないのに(歴史哲学的に条件づけられているが)同じ芸術意志にさまざまな芸術形式が適当する場合がありうる。これはジャンルを創造する志向の変化ではない。たとえば主人公と運命とが問題化すると、エウリピデスの非悲劇的演劇があらわれるごとく、すでにかかる例はギリシアの歴史のうちにみられたことであった。そこでは創造へかりたてる先験的要求と、主観の形而上学的苦悩とのあいだに、先験的要求と、完成された形象化が逢着する、あらかじめ決定された永遠の形式の場とのあいだに、完全な一致が支配するのである。しかし、ここで言うジャンルを創造する原理は、志向のいかなる変化も要求しない。むしろ必要なのは、古い目標と本質的に異なる、新たなる目標を目ざす、かわらぬ志向なのだ。それは、形象化する主観と仕上げられた形式によって出現した世界における、先験的構造の昔ながらの平行もまた引き裂かれ、形象化の究極の基盤が故郷を喪失したことを、意味するのである。たとえ必ずしも徹底的に究明されたわけではないが、小説の概念をロマン的なるものの概念と密接に結びつけたのはドイツ・ロマン派であった。それは大いに正しかったのである。なぜなら小説形式はほかのいかなる形式にもまして、先験的な寄るべなさの表現なのだから。歴史と歴史哲学が一致していたから、そこからギリシアがえた結果は、どのジャンルの芸術も、精神の日時計のうえにまさにその時の来たことが読みとられてはじめて出現し、その存在の典型がもはや水平線上にとどまることがなくなれば、どのジャンルの芸術も消え去らなければならなかった、という結果なのだ。ギリシア以降の時代にとってはかかる哲学的循環は失われた。ジャンルはそれらの時代にとってはときほぐしえない縺のなかでからみあい、もはや明白、明解にあたえられてはいない目標の、本物の探求、にせの探求のしるしとなった。ジャンルをよせ集めてもその総計からあらわれるのは、経験の歴史的全体性にすぎないのである。そこに人は個々の形式のために形式の生まれくる可能性を、その経験的(社会学的)条件を探し求めるであろうし、ときにはそれを見出すこともあろう。しかし、そこではもはやあの循環の歴史哲学的意味は、象徴と化したジャンルのうえに集中せず、そこでは歴史哲学的意味は時代の総体のうちに見出されるより、むしろ時代の総体から解読され読みとられるのである。しかし、この先験的な関わり合いはわずかにゆらぐだけでも、意味の生内性は救いようもなく失われたのに、生から遠のいた本質、生にうとましい本質はおのれの実在を王冠としてみずからを飾り、大きな騒乱に見舞われ、その尊厳の色褪せることがあろうと、尊厳そのものが飛び散り消滅することはありえないのだ。それゆえ悲劇はたとえ変貌しても、その本質は無傷のままにわれわれの時代へと救いだされたが、叙事詩は姿を消し、まったく新たなる形式、小説にその席をゆずらざるをえなかったのである。"(ルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』大久保健治訳(所収『ルカーチ著作集』第2巻、pp.36-38))
 "現実の現存性と相在に結びつき引きはなしようのないことが、叙事文学を劇文学から決定的に分かつ境界であり、それは叙事文学の対象たる生に由来する必然的結果である。本質という概念はたんに措定するだけですでに超越性へと向かうが、しかしそこで新たなより高次の存在へと結晶化し、その形式によってあるべきものとしての存在を表現する。それは形式によって生みだされた現実性のなかで、ただたんに存在するにすぎないもののもつ、内容としての所与性から独立を維持する、当為としての存在を表現するのである。生の概念はそれとは異なり、とらえられ、凝固した超越性のもつ、具象性を排除する。本質の世界は形式のもつ力によって現存在の上にはりめぐらされ、ただこの力の内なる可能性によってその種類と内容を制約されるのだ。生の世界は地上に居すわり、ただ形式によって受けとめられ、形象化されて、それ本来の意味へと導かれるにすぎないのである。そして生の世界では、ただ思想誕生のさいの、ソクラテスの役割を果たすことを許されるにすぎない形式は、前もってみずからのうちにおかれたものでなければ、魔術によろうと、なにひとつとしてみずからのうちから生みだしようがない。演劇の創造する形式は(これは同じ事情の別の表現にすぎないが)人間の知性的自我であり、叙事文学の性格は経験的自我である。地上で追放された本質が、逃れながら死にもの狂いにみずからに課し、それを強めながら達する当為、この知的な自我のなかにおいて、それは主人公の規範的な心理学として客観化される。経験的な自我においては当為はあくまで当為にとどまるのである。その力はただたんに心理的な力にとどまり、魂のほかのさまざまな要素と、その種類を同じくする。当為の目標設定は経験的なものであり、人間あるいは環境によってあたえられる、ほかのさまざまな可能な努力と種類を同じくするのだ。その内容は歴史的内容であって、時の流れによって生みだされた、ほかのさまざまな内容と同質であり、それが成長した大地から引きはなしようがない。それは枯れ果てることがあっても、新たに、宙に漂よう現存在へとは、とうてい目覚めえないのである。当為は生を殺す。そこで演劇の主人公は、生の明白な現象を象徴的な持物として身に帯びるのである。それはただ超越を死とみたて、象徴としての葬儀をとりおこない、明白に目にしうるものにかえるためなのだ、しかし、叙事文学の人間たちは生きなければならない。さもなくばかれらを担い、取り巻き、満たす要素を引き裂くか、あるいは損ねてしまう。(当為は生を殺す、そして概念はすべて対象の当為を表現する。それゆえ思索は生の現実的定義とはとうていなりえないし、ゆえに芸術哲学は叙事文学よりも、おそらく悲劇にそれだけいっそうふさわしいのである。)当為は生を殺す。それゆえ当為としての存在から組み立てられた叙事詩の主人公とは、必ず歴史的現実のなかに生きる、人間の影にすぎないのである。その影ではあっても、とうていその典型ではありえないのだ。主人公に体験として、あるいは冒険として課せられる世界は、実際の世界のあまい隈取りであっても、その核心、その精髄ではとうていありえない。ユートピア的叙事文学の様式化は、ただ距離を創造しうるにすぎないが、しかしこの距離もまた経験と経験とのあいだの距離にとどまる。そしてその隔たり、その隔たりの悲哀、その隔たりの気高さも、ただ響きを修辞的響きにかえるにすぎないのである。なるほど悲歌に似た抒情詩の、またとなく美しい果実を結ぶことはあろうが、しかし、ただたんに距離をおくことからは、存在をこえてゆく内容が、溌溂とした生に目覚めることはありえないし、とうてい独立した現実に変わることはありえない。この距離の示すのが前進であれ後退であれ、それが生にたいして描くのが上昇であれ下降であれ、それはとうてい新たなる現実の創造とはならない。それはあいもかわらぬ、すでに存在する現実性の主観的反映にすぎないのである。ウェルギリウスの主人公たちはひややかで落ち着いた影の生をいとなむが、それは永遠に消え去ったものをよびもどすために、みずからを生贄とした、美しき熱情に養われる。そしてゾラの作りあげた記念碑は、現在の生は知りつくしたとうぬぼれる、社会学的範疇体系の多様ではあるが、見通された一分枝を前にしての、短調きわまりない感動にすぎないのである。"(同pp.44-46)
 ルカーチは理念と現実の最大の相違を時間におく。叙事詩および演劇は無時間的だ。時間は本質を規定するものであり、それに形式を用いるが、時間体験は価値を担うものとしての叙事詩と意味を見放されたものに区分される。
 また、ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、19世紀の小説は、時間が精神的に知覚された当時において内的時間と外的時間の統一を試みており、それは、後期ロマン主義において、持続のなかに存在する自己を創造することの無力さを自覚させ、非創造の念願を発生させたと述べている(ジョルジュ・プーレ『人間的時間の研究』井上究一郎他訳、p.38)。また、その端点にベルグソンの思想を位置づけている。ベルグソンは『時間と自由』において、《持続》を記号的表象としての等質的持続と根底的自我との融和として定義している(アンリ・ベルグソン著『時間と自由』中村文郎訳、p.167)。
 さて、現実とフィクションの二重性を肯定的に認識したのち、川口は森下からどのようなマンガがかきたいか尋ねられ、答えに窮する(『まんがの作り方』第1巻、pp.148-149)。川口が思考に沈潜したのち(同p.149)、なにもおこらない時間がえがかれる。エビグラタンを注文し、それが配膳されるまでのなにもおこらない時間の経過が、見開きの2ページの紙幅と対応して描写される(同p.150-151)。そののち、ついに川口は森下に創作のために交際していたことを間接的に告白する。が、森下は気にしない。"「でも私がさ まんがのネタ探しのために森下と一緒にいるんだって言ったら やっぱり怒るでしょ?」「いただきます なんでわざわざそんなこと?」「なんでっていうか… 流行ってんじゃん ガ(ールズラブ)」「(吹出しを重ね)わたしは気にしないですよ」「なんでもいいですよ 先輩がわたしといてくれるんなら」「むしろ嬉しいです」"(同pp.152-153)。そこで、153ページの6コマ目から154ページの1コマ目のカッティングで、ページをまたぐ劇的さをともない、180度の切返しがおこなわれる。川口はひとこと"「よかった」"という(同p.154)。ここが本巻でもっとも劇的なシーンだろう。ここで、川口と森下との関係における、創作のためという目的によるものという緊張が解消され、同時に、現実とフィクションの位相差にたいする不安が解消される。
 150-151ページの作中の時間と紙幅との一致、ウンベルト・エーコのいう物語の時間と言説の時間、読書の時間(ウンベルト・エーコ『小説の森散策』)、あるいはジェラール・ジュネットのいう物語内容(イストワール)の時間と物語言説(レシ)の時間(ジェラール・ジュネット『フィギュールⅢ』)との一致は、いわば理想の顕現だ。ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』でギュスターヴ・フローベールについて、『ボヴァリー夫人』の一場面を題材にその瞬間を分析している。そして、フローベールにあってはその持続における過去との時間の隔絶による断絶が、過去が一連の思い出=情景(souvenirs-tabletax)という映像の行列として、精神によって系列化されることで解消すると控えめに提唱している。
 "理念と現実とのあいだでもっとも大きくくいちがっているもの、それが時間である。すなわち、持続としての時間の流れなのである。主観性がみずからを証明する力をもたないことを、もっとも深刻に、もっとも屈辱的にあらわすのは、理念を欠如する社会的形態や、その化身としての代表的人物との、空しい戦いにおいてではない。それはむしろ、主観性が緩慢でとだえることのない時の流れに抗しえず、ようやくにして征服した頂きから、徐々に、しかもとめどなくずり落ちてゆき、このとらえようのなく目にとらえがたく動くものが、主観性からそのいっさいの財産を徐々にもぎとり――いつのまにか――主観性に異質の内容を押しつけてゆくところ、その点なのだ。それゆえ理念の先験的な故郷喪失の形式である小説だけが、実際の時間、すなわちベルグソンのいう「持続」を、本質規定的原理の系列のうちへ取り入れるのである。演劇は時間の概念を知らないし、すべての演劇は正しく理解された場合の三一致の法則に(その場合の時間の統一とは、時の流れから取り出された時間を意味するが)従うことを、わたしはすでに別の関連において論証したことがある。たしかに叙事詩は時間の持続を知るかにみえる。『イーリアス』と『オデュッセイア』の十年間を考えてみるだけでよかろう。しかし、この時間もひとしく現実性を、あの真の持続をもたない。人間と運命はあくまでも時間の手にふれることがないのだ。かかる時間はみずからのうちに固有な動きをもたないのである。かかる時間の役割はある冒険の偉大さとか、ある緊張の大きさなどを目立つように表現することでしかない。トロイアの占領が何を意味するのか、オデュッセウスの遍歴が何を意味するのであるか、聴き手が体験するために、かかる十年の年月は欠くべからざるものなのであり、それは同じく多数の戦士が余儀なくさまよった、大地の表面が欠くべからざるものであるのと、なんらかわるところがないのだ。しかし、英雄たちが作品の内部において時間を体験することはない。かれらの内的変化、あるいは不動の内面に、時間の手がおよぶことはありえない。かれらはみずからの年齢をすでに性格の一部としてもつのである。ネストールが年老いているのは、ヘレナが美しく、アガメムノンが力強くあるのとかわるところがない。叙事詩の人間たちもまた、老いゆくこと、死などの、あらゆる生の痛ましい認識をもつことはあるが、しかし、それもまたただたんなる認識に終わるのである。かれらがいかなる体験をし、かれらがどのような体験をしようとも、それは神々の世界にひとしく、幸福な、時間をはなれた世界の出来事なのだ。ゲーテ、シラーによれば叙事詩にたいする規範的な立場とは、完全に過去となってしまったものにたいする立場である。ここであたえられる時間は、それゆえ停滞しており、一望のもとに見渡される。作者と人物たちはこの時間のなかを、あらゆる方向にむけて自由に動きまわれるのである。かかる時間はすべての空間がそうであるがごとく、次元をもつことはあっても方向を知らない。そして同じくゲーテ、シラーによって認識された、演劇のもつ規範的現在性なるものは、グルネマンツの言葉をかりれば、時間を空間にかえるのである。そして近代文学が完全に方向を喪失してしまってはじめて、発展を、徐々にすすむ時間の流れを、演劇的に表現しようとする不可能な課題が提起されたのである。
 時間は先験的故郷との結びつきがとだえてしまったときはじめて、本質規定的なものとなりうる。恍惚は神秘主義者を、持続と時間の流れすべての停止した領域へと高めるが、かれは被造物として有機的に制約されているがゆえに、やむなく時間の世界へ下降する。親密に、目にはっきりうつるものとして、本質に結びついている形式は、かかる必然性を先験性(ア・プリオリ)にまぬかれた宇宙を創造するのだ。本質を探究すべきなのはただ小説のみであり、本質を見出しえず、そのことを素材とする小説においてのみ、時間は形式とともにおかれるのである。かかる時間とはただ生命あるものにすぎない有機性が、現存する意味に逆らって反抗することであり、生がみずからの完全に閉ざされた内性のうちに、とどまろうと意欲することである。叙事詩においては意味の生内性があまりにも強力であり、時間はそれによって止揚される。生は生としてそのまま、永遠性のなかへ入りこんでしまうのだ。有機体はただ開花を時間のなかからもたらし、花がしぼみ死のいたることをことごとく忘れさる。小説において意味は生から区別されるが、それによって本質的なるものが時間的なものから区別される。小説の内的筋(ハンドルング)とはことごとく、時間の力との闘争にほかならぬとまで、言いきれるのである。幻滅のロマン主義にあっては時間は堕落の原理なのだ。詩、すなわち本質的なるものは死滅しなければならず、この衰弱の究極の原因になるのが時間である。それゆえここにおいては、価値はことごとく消滅するがゆえに、色褪せる青春の性格を保つ土台としての部分の側にあり、時間の側に粗野なもののすべて、理念を欠如した厳しさがくる。そして没落してゆく本質に自己嘲笑が向けられても、それは勝ちすすむ力による、一面的な抒情的征服にたいするあとからの訂正にすぎないのである。本質はいまひとたび青春という属性を身にまとうが、それは新たなそしていまや忌まわしいものとなってしまった、意味においてなのだ。すなわち理想はただ未成熟な魂の状態にとってのみ、本質規定的なものかとみえるのである。しかし、この闘いのなかで価値と無価値とが、二つの側面のあいだであまりにも鋭く区別され、分割されることになるなら、小説の全体としての組み立てもゆがまざるをえない。形式は生を先験的(ア・プリオリ)にその領域からしめだしうるときのみ、生の原理を実際に否定しうるのである。生の原理をみずからのうちに受け入れる羽目になるなら、それは形式にとって肯定的なものとなっていたのだ。価値は生の原理の抵抗を前提とし、生の原理の本来の実在を前提として実現されるのである。"(『小説の理論』pp.119-122)
 "かくて、宇宙的生命と同化するということは、多様な物と、人間がそれらの物について抱く多様な表象像とを無差別に包含しつくす体の神のごとき拡がり、そのなかへ溢れ出てゆくことである。思惟と外界とはここに同じ一つの拡がりとなる。《存在の多様性という点で、ぼくはインドの大森林のようなものだった。そこでは原子のひとつひとつに生命が脈うっている…》が、生命は多様性であるがゆえに、その多様に変化する動きのなかでしかとらえられない。感覚的思考作用が表象の場全体にわたって展がりうる一点、そこに到達するだけでは充分ではないのだ。さらにこの点に立ちつつ、現在という時間内容を持たないこの点から逸脱することなしに、魂は「この生命全体のなかで生きて、そのあらゆる形を身によそいつつ、あらゆる形とともに持続し、絶えず多様に変化しながら、永遠の太陽をめざして絶え間なく自己の変身を押し進めて」行かなければならない。生命とは持続である以上、生命を絶対的に表現する瞬間は瞬間=持続(moment-duree)でなくてはならない。さて、フローベールがこの特殊な瞬間の持続性を感じとるのは、「おお、うれしい! うれしい! うれしい! わしは見たのだ、生命がここに生まれるのを、運動がここにはじまるのを見たのだ」というふうに、物の起源を目のあたり直観的にとらえたときである場合もあるが、それよりもむしろ、なにか深い感銘を与えるような事件をきっかけとしてこの特殊な持続性が作品中に描かれる場合のほうがいっそう多い。つまり、感覚が物の生命一般と符合するあまりに、一方がいわば他方の比喩的表現となるような瞬間があって、そこでは、自分が生きていると感じることは、生命一般が生きていると感じること、時間持続の脈がうつのを感じることと同じになる。『ボヴァリー夫人』のなかの肉体関係の場面がその好例だ。《あたりは静かだった。しっとりした気配が木立ちからただよい出るようだった。彼女は心臓がまた規則正しく動悸を打ちはじめるのを感じ、血があたたかい乳の流れのように体内にめぐるのを感じた。そのとき、はるか遠く、森のかなたのどこか向こうの丘の上で、何とも知れぬ、長く尾を引く叫び声、哀調をおびた声が聞こえた。まだ興奮のさめやらぬ神経のふるえの余波にとけ込んでくるその声は、音楽のようにこころよく、彼女はしみじみと聞き入った。》この一節で、フローベールはある一つの瞬間に、まったく特殊な空間的、時間的濃密性を付与するに至っているため、(おそらくこれこそフローベールが生み出したかった効果なのだろうが)この瞬間は日常普通の時間持続とは異なった次元の持続――物のテンポがいっそう穏やかにゆるやかであり、そのためにいっそうまざまざと感じとることができるような持続、いわば伸び拡がる持続に属しているかに思われる。あたかも時間は吹き過ぎる微風に似て、ふたたび打ちはじめた動悸のなか、乳の流れのようにめぐる血のなかに感じられるかのようだ。ここにはもう、外界との隔たりが深まってゆくという苦い意識はない。隔たりはもう存在しないのだ。ここにあるのはもはや、事物とそれを感じる人間とが一体となって滑ってゆく動きと、この瞬間の内容を構成するさまざまな要素の間にある絶対的な同質性の感じとだけである。感じる人間、彼の肉体、そして風景、自然、生命、すべてが同じ生成途上の同じ瞬間を領ち合い、共にするのである。"(ジョルジュ・プーレ著『人間的時間の研究』山田𣝣他訳、pp.348-349)
 そして、そうして現実とフィクションの二重性を認識していれば、理念をそれじたいとして描写することはない。よって、川口と森下との関係における緊張が解消されたのちも、それがそのままロマンスとして発展することはない。"〈だからこういうのもうイミないんだって!〉〈森下といてネタになるようなまんが描いてないしね!〉"(『まんがの作り方』第1巻、p.156)。
 これが作風であり、ひとのいない風景のインサート・カットがしばしばはさまり、コメディでありながらデフォルメの使われることのほとんどない、安定したテンポ設計の進行の理由だ。また、デフォルメが使われても、それは風俗的なものではない、マンガそれじたいのパスティーシュだ。第23話(所収、第3巻)ではロマンスが前景化するが、むしろ、その後はロマン主義的なものの使われることがないことに注目したい。
 つぎにロマン主義的なものの前景化するとき、第59話で武田が政人に自分がマンガをつづけることを人質に、川口と森下に別れるように脅すことを提案される。しかし、最終話の第61話で武田はそれを実行しないことにきめる。"(「漫画描かない」って言えなかった)(言いたくなかった)"(同第8巻、p.118)。ここでもまた、現実の人間関係とのかかわりにおいて、フィクションがそれじたいとして認識される。しかし、川口と森下とは異なり、武田の好意が報われることはない。だが、最終話の雰囲気はあくまでもあかるい。そして、川口、森下、武田、政人の4人は仕事部屋を離れ、卓球場におもむく。
 テオドア・アドルノは『否定弁証法』で、ルカーチの『小説の理論』はカール・マルクスが『資本論』第1巻でおこなった弁証法唯物論を発展させた『歴史と階級意識』の物象化論が用いられていると述べている。
 アドルノは『否定弁証法』で、マルクスヘーゲルにたいし、歴史的な生の客観性を自然史の客観性として認識したと述べている。ヘーゲルの超越論的主観はすでに主観を離れており、歴史を神格化していた。マルクスはいわゆる〈自然法則〉を神秘化〔Mystifkation〕と呼び、資本主義社会の法則にすぎないとして批判した。それは弁証法唯物論の試みだ。交換が可能なのは生活に社会的な仮象が内包されているからであり、いわゆる自然もこのうえにあり、よって、自然法則は存在しない。この仮象イデオロギーだ。自然法則は廃絶できるものであり、存在論化してはならない。それは、交換価値という社会関係を物そのものの価値だと思わせる物神性に端的にあらわれている。しかし、ヘーゲルは『法哲学講義』ですでに理論が大衆をとらえたときに、虚偽意識に先立つ構造として認識されることを指摘しており、〈自然によって(フュセイ)〉存在するものの概念を、〈人為によるもの(テセイ)〉の対概念を定義していたものにまで拡大する。アドルノヘーゲルの〈世界精神〉はこの自然史のイデオロギーである第二の自然だとしている。
 "商品が社会的存在全体の普遍的カテゴリーである場合にのみ、商品はその偽りのない本質的あり方において把握されることができる。このような連関のなかではじめて、商品関係によって生じてくる物象化は、社会の客観的発展に対しても、この発展に対する人間の態度に対しても、決定的な意味をもつようになる。すなわちこの物象化は、物象化がそこに表現されている諸形態に人間の意識が従属させられるということに対しても、またこの物象化の過程を把握したり、物象化の人間を破滅させる作用に反抗したり、その作用のために生じた「第二の自然」のもとに隷属している状態からみずからを解放しようとしたりする人間の試みに対しても、決定的な意味をもつようになるのである。マルクスは物象化の基本的現象を次のように述べている。「したがって商品形態の秘密は、ただたんに次のことのうちにある。すなわち、商品形態は人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、諸対象のかれらの外に存在する社会的関係として反映させる、ということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物となる……。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」"(ルカーチ・ジョルジュ著『歴史と階級意識城塚登他訳(所収『ルカーチ著作集』第9巻、p.166))
 "これは、西欧の自然神話がこれまで人間に教えてきたことにほかならない。ヘーゲルは、歴史哲学がどうすることもできない一種の自動書式にしたがって、自然や自然の威力を歴史のモデルとして引き合いに出す。しかし、それらが哲学の中で発言権を持つのは、同一性を措定する精神と盲目的自然の呪縛とが、精神を否定する点において同一だからである。この深淵を覗き込みながら、ヘーゲルは世界史の主役である国家の働きを「第二の自然」と感じたのだが、しかし不埒にもそれと手を組んで、そのただなかで第一の自然を賛美した。《法の基盤は総じて精神的なものであり、その位置と出発点は、自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定を形づくる。そして法の体系は、実現された自由の国、精神が自分自身の内から第二の自然として造り出した精神の世界である。》ルカーチの『小説の理論』において、はじめて哲学的に再び取り上げられたこの「第二の自然」は、しかし、何らかの仕方で第一の自然と考えられたものの陰画(ネガ)である。それは本当は人為的なもの(テセイ)で、たとえ個々人によってではないにしてもその機能連関によってはじめて産み出されるものなのだが、市民的意識にとって「自然」とか「自然的」と言われるものの印綬を奪い取って自分の身に着けている。意識の外にあるものは、全面的媒介を逃れられない。それ故に、意識にとって自分とは別のものという意味をもつものは、囚われているもの以外にはなくなってしまう。これこそ観念論の根本現象である。社会化が人間と人間関係の直接性の全契機を容赦なく我がものにするにつれて、社会の複雑な仕組みが生成したものであることを思い出すことはますます不可能になり、自然という仮象はますまず抗い難いものになる。人類の歴史が自然から遠ざかるにつれて、この仮象はさらに強まり、「自然」がこの囚われの身を示す不可抗的な比喩となる。若いマルクスは、二つの契機のとめどもない絡み合いを力をこめて次のように言い出したが、それは教条主義唯物論者たちを刺激せずにはいないだろう。《われわれはただ一つの学問しか知らない。それは歴史の学問である。歴史は二つの側面から考察することができ、自然の歴史と人類の歴史に分けることができる。しかし、この二つの側面を分離することはできない。人間が存在する限り、自然の歴史と人間の歴史は相互に制約し合っている。》自然と歴史とを対立させる伝統的な考えは、真であるとともに偽である。それが自然的契機の上に振り掛かったできごとを言い表している限り、この考えは真である。しかし、歴史そのものによる、歴史の自然発生性の隠蔽を、歴史の概念的採光性によって護教論的に反復している限り、それは間違っている。"(テオドール・アドルノ著『否定弁証法木田元他訳、pp.454-455)
 『推しが……』と『私のアイドル』においては、アイドルという仮象と実体の位相差がギャグになっている。『私のアイドル』はいわゆる百合営業を題材とし、聖夜に好意をもつ七奈が百合営業をもちかけるが、聖夜が舞台に慣れてからは百合営業が統語論的なものでしかない、ただの演技になり、七奈が逆ギレするというのがオチだ。"「ビジネス百合」「ビジネス百合…!?」「そう メンバー同士がイチャイチャしてるだけでファンの人は喜ぶの!」「だから聖夜ちゃんも私に堂々と! イチャイチャしにくればいいの!」「本番中に!? でもそんなの許されるんですか!?」「許されるも何も…そうした方が売れる!」"(『私のアイドル』(所収『エクレア』p.270))。
"「見てないからいいんじゃん」「えー? いみないじゃないですか~」「!! 私のことビジネスでしか愛してない!!」「七奈ちゃんが…それでいいって言ったから…!」"(同pp.271-272)。最後のコマにギャグキャラクターとしてえがかれる《エル・グレコの受胎告知》は、ジャン・ルイシェフェールが『エル・グレコのまどろみ』で語る、エル・グレコから宗教画としての意味論を剥奪する、以下のような解釈が妥当するだろう。"それに、わたしとしたことが、エル・グレコにひとりの神秘画家を見ない書物が一冊くらいはあってもよいではないかと望んでいた。あれはバレスやコクトーやドヴォルシャックが溺愛したグレコ観である。わたしはそれにまったく意味がないと思っている。絵のなかで多くの人が祈っているように見える。上を見ている、というくらいのことなのだ。"(ジャン・ルイシェフェール著『エル・グレコのまどろみ』與謝野文子訳、pp.10-11)。
 『推しが……』では本来は相思相愛なのに、えりぴよはファンの体裁を、舞菜はアイドルの体裁をまもっていることが基本的なギャグになっている。ここにおけるファンとアイドルの関係は第1話で説明される。"「チラシ配りの時にあんまりお話するのは良くないですから」「あ… そうですよね すみません!」「いやいや決まっているわけでもなくて」「お金を出してこその接触 気持ちいいでしょう?」「1000円で買う推しの5秒 興奮するでしょう?」"(『推しが……』第1巻、p.13)。
 しかし、ここにおけるアイドルという仮象は、営業中と営業外ですがたは異なり、別個の人格が存在するという通俗的な二元論ではない。むしろ、そうしたいわゆる〈実像〉なるものが、仮象となんらかわるところはないという統語論の原理を暴露するものだ。舞菜に玲奈という自分をのぞくはじめての女性ファンがついたとき、その統語論は崩壊しかける。"(舞菜が今までに見たことないくらい楽しそうなんですけど!!)『舞菜にはみんなのものになってもらいたいんだよね』(なんて言っといて今まで舞菜推しが実際にいなかったからわからなかったけど…)「ありがとう! また次も来てね」(私以外に笑いかける舞菜を見るのいやだ―――――)(はしゃぎすぎたかな… えりぴよさんにも見られちゃった…?)「…1枚で」「1枚!?」「1枚!!?」(だってれなちゃんが1枚であれだけしてもらえるんならさあ… 私だって…)「どうしてですか?」「やっぱあと28枚あります」"(同pp.149-150)。
 その後、偶然にえりぴよとプライベートの舞菜は出会うが、上述の理由により、そのことで両者の関係が劇的に変化することはない。しかし、そのとき舞菜が、個人の感情にもとづいていうセリフは統語論から演繹される観念的なものではなく、統語論それじたいを剥きだしにする物質的なものだ。統語論の攪乱は、記号の体系としての統語論を再編成するにすぎない(フェルディナン・ソシュール『一般言語学講義)。"「い…」「いつも… ありがとうございます 握手… しにきてくれて」(そこは「応援してくれて」で「推してくれて」でいいんだよ――――!!)(好き そういうとこ好き)「これからもいっぱい握手しに行く」"(同pp.156-158)。
 ギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会』で、仮象を社会すべてにおよぶものとして指摘する。
 "5 スペクタクルを、視覚的世界の濫用や、イメージの大量伝播技術の産物と理解することはできない。むしろそれは、物質的に翻訳され、実効性を有するようになった一つの世界観(Weltanschauung)である。それは客体化されてしまった世界についての一つのヴィジョンである。6 スペクタクルは、その全体性において理解すれば、既存の生産様式の結果であると同時にその企図でもある。それは、現実世界を補うものでも、余分に付加された飾りでもない。スペクタクルは、現実の社会の非現実性の核心なのだ。スペクタクルは、情報やプロパガンダ、広告や娯楽の直接消費といった個々の形式の下で、この社会に支配的な生の明示的モデルとなる。それは、生産と、その必然的帰結としての消費において、既になされてしまっている選択を、あらゆる場所で肯定する。スペクタクルとは、その形式も内容も、完全に同じように、ともに現体制の諸条件と目的とを完全に正当化するのである。それと同時に、スペクタクルはこの正当化を常に現前させ、近代的生産の外で生きられた時間の主要な部分を占拠するのである。7 分離とは、それ自体、セカイの統一性の一部である。すなわち現実とイメージとに分断されてしまった全体的な社会的実践(プラクティス)の一部である。自律的なスペクタクルは社会的実践の前に差し出されるが、この社会的実践の方もまた、スペクタクルをそのなかに含んだ現実的全体性である。だが、この全体性のうちに生じた分裂は、スペクタクルこそがその実践の目的だと思わせるまでに社会的実践を損なってしまうのである。スペクタクルの言葉(ランガージュ)は時代に支配的な生産活動の記号から構成されるが、これらの記号が同時に、この生産活動の究極的な目的ともなるのである。8 スペクタクルと実際の社会的活動とを抽象的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている。現実を転倒するスペクタクルは現実に生産されている。同時に、生きた現実のなかにもスペクタクルの凝視が物質的に浸透し、現実は、スペクタクル的な秩序に積極的な支持を与えることによって、己れの裡にその秩序を再び取り込むのである。両方の側に客観的現実が存在する。こうして固定されたおのおのの概念は、反対物のなかへの移行だけを己れの基盤としている。すなわち、現実はスペクタクルのなかに生起し、スペクタクルは現実である。この相互的な疎外こそが現存の社会の本質であり、それを支えるものなのである。9 現実に逆転された世界では、真は偽の契機である。10 スペクタクルという概念は、多様な外観を示す現象を統一し、説明する。この多様性や対照(コントラスト)は、社会的に組織された外観が示すさまざまな外観であるが、社会的に組織された外観そのものは、その一般的真理において認識せねばならない。それ固有の観点にもとづいて考察すれば、スペクタクルとは外観の肯定であり、人間的な、すなわち社会的な生を単なる外観として肯定することなのである。しかし、スペクタクルの真理をあばく批評は、スペクタクルとは生の明らかな(visible)否定、眼に見えるもの(visible)となった生の否定にほかならないことを意識する。11 スペクタクルの形成と機能、その解体をめざす諸力とを記述するには、本来分類しえないさまざまな要素を人工的に分離しなければならない。スペクタクルの分析には、ふつう、ある程度までスペクタクル的なものの言語そのものが用いられ、スペクタクルのなかへと自らを表現するこの社会の方法論的領域に入って語られる。だが、スペクタクルとは、実際は、一つの社会-経済的編成体の全面的実践のもつ意味であり、その時間の使い方にほかならない。われわれを捕らえているのは、歴史的時間なのである。"(ギー・ドゥボール著『スペクタクルの社会』木下誠訳、pp.14-19)
 "35 スペクタクルの本質的運動は、人間の人間の活動のなかに流動的な状態で存在していたすべてのものを自らのうちに取り込み、それらを凝固した状態で、すなわち、生ける価値を否定的に様式化することによって価値を独占的に体現するモノとして、所有することにある。この運動のなかに、われわれの旧来の敵の姿が認められる。その敵とは、見た目には、何か取るに足らぬあたりまえの事物のように見えるが、実は、逆に非常に複雑で、数多くの微妙な形而上学的問題を含むもの、すなわち商品である。36 スペクタクルのなかにおいて絶対的に完遂されるものは、商品の物神化(フェティシズム)の原理であり、「感覚しうるけれども感覚を超えたさまざまなモノ」による社会の支配である。そこでは、感覚しうる世界は、感覚を超えたところに存在すると同時にすぐれて感覚可能なものとして承認されるよう選択されたイメージに置き換えられている。37 スペクタクルが見えるようにする世界は存在すると同時に不在であるが、その世界は、生きられたものすべてを支配する商品の世界である。商品の世界は、そのようにして、あるがままの状態で示される。というのも、商品の運動もまた、人間を他の人間から、そしてまた自分の生産物全体から遠ざける運動と同じものであるからだ。"(同pp.36-37)
 では、なぜそうした認識で創作をおこなうことができるのか。それは《孤独》による。以下の引用をもって結語に代えたい。
 "ここで孤独なものと映るのは、もはや「人間」などではない。実際、悲しみという感情は、遥か以前から人類の資質であることをやめてしまっている。だから、疾走する二匹の犬のいささか唐突なイメージが、ベルリンの壁の崩壊によって二つの国であることをやめてしまった東西ドイツの混乱と、その土地をおおっている孤独や悲しみの映画的な表現などと勘違いすることは許されない。ここで痛ましいまでの孤独な悲しみとして露呈されているのは、間違っても人類の不幸などといった事態ではなく、まさしく切り刻まれたポジのちっぽけな画面そのものとして生き続けるしかないフィルムのたとえようのない孤独、癒すことのできない悲しみにほからない。それは、はからずも生き残ってしまった映画が耐えねばならぬ悲しみであり、映画が芸術として永遠の生命を享受しつつあると信じたりすることとはいっさい無縁の純粋状態の悲しみなのである。いまや、映画は死んだなどという根も葉もない世迷いごとに騙される者はよもやいまいと思う。二匹の犬がそうであるように、映画からは、自死の特権さえも奪われているからである。あたかも社会主義が崩壊したり、西欧が没落したり、歴史が終焉したりすると信じているかのように、映画が崩壊し、没落し、終焉するなどと涼しい顔で公言する者たちこそ、そう口にすることで、あらかじめ世界から姿を消そうとしているかに振る舞うシニカルな連中にすぎない。映画の不幸は、それ本来のオプチミズムゆえに、そうしたシニシズムをフィルムにおさめることができないことにある。密偵レミー・コーションがすれ違う人影が何とも希薄なのも、そうした理由による。あたかも、そして、誰もいなくなってしまったかのように、たしかに人影がいくつも映っていながら、『新ドイツ零年』の画面からはその生死が漂ってこないのである。いま、映画が途方もなく悲しいのは、だから、その終焉の瞬間が近づいているからではなく、世界にキャメラを向けようとすると、世界そのものが、あたかもおのれの輪郭を曖昧に揺るがせるかのようにして被写体たることをこばみ、ファインダーの向こうに浮上するものは、ただ、愚鈍さばかりだからである。愚鈍さとともに、またしても生き残ってしまった映画。そんな苛酷さに耐えられる映画作家は、もちろん、この地上にたったひとりしか存在しない。"(蓮實重彦著『ゴダール革命』p.104-105)

『あの教室』MV - 教室で『箱男』になるということ -

 寡聞にして乃木坂46のMVをあまりみたことがなく、しかし『あの教室』につよい印象をうけた。以下、そのプロットを読解し、その仮説から映像表現の意味を探る。さらにそののち、じっさいのコードと歌詞、映像と対照する。
 プロットは次のようなものだ。齋藤飛鳥演じる少女(以下「齊藤」)が教室で紙袋をかぶっており、教師がそのことを詰問しているが、齊藤はなにも説明せず、教室を去る。生徒たちは遠巻きにしているが、堀未央奈演じる少女(以下「堀」)はひとり、席を立たずに齊藤をみている。のちに、堀と思われる少女が紙袋をかぶっており、教師が質そうとするが、それが堀が判別できない。
 紙袋をかぶるという行為は安部公房の『箱男』における、ダンボール箱をかぶる人びとを思わせる。作中において、ダンボール箱をかぶるという行為は匿名になることを意味する。

 "Aにもし何か落度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑う事は出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市――扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街――のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。"(安部公房著『箱男』p.23)

 みずからの外形を隠すものの製作とその装着というシノプシスにおいて、『箱男』と類比的な同著者の『他人の顔』について解説で大江健三郎が指摘するように、匿名になることは政治的だ。ここに存在するのは仮題が『僕らの革命』だった『サイレントマジョリティー』と同じ〈反抗的人間〉だ。

 "……なるほど、顔のない人間には、朝鮮人のために署名をする資格もないというわけか。むろん、助手に、悪意はなく、おそらく直観的に、ぼくを刺激しかねない要素があることに気づいて、むしろ憐みの気持から敬遠してくれたのだろう。たしかに、最初から人間に顔がなかったとしたら、日本人だとか、朝鮮人だとか、ロシア人だとか、イタリア人だとか、ポリネシア人だとか、そんな人種差別による問題など、起りえたかどうかも疑わしい。それにしても、ちがった顔をもっている朝鮮人に、それほど寛容なこの青年が、顔のないぼくには、なぜこうも分け隔てをするのだろう? 人間は、進化の過程で猿から独立するとき、ふつう言われているように、手や道具などによってではなく、顔で自分を区別してきたとでもいうのだろうか?"(安部公房著『他人の顔』p.243)

 またドゥルーズ=ガタリも『千のプラトー』で、シニフィアンと記号系が機能するのは、専制的アレンジメントによる意味性と権威的アレンジメントによる主体化があってはじめて可能になり、それは身体の脱コード化と顔の超コード化をも要請し、そのため、顔は政治的なものだとしている。

 "仮面さえもここでは以前と正反対の新しい機能を持つ。というのも、仮面の統一的機能とは、否定的な機能でしかないからだ(どんな場合でも、仮面が偽り隠すために使われることはない。たとえ顕示したり開示したりする場合も)。一方に、原始社会の記号系におけるように、身体を頭部に所属させ〈動物になること〉を可能にするものとして仮面がある。逆にもう一方で、今日のように、顔の屹立と高揚、頭部と身体の顔貌化を可能にする仮面がある。仮面はここで、顔そのものであり、顔の抽象あるいは操作となっている。顔の非人間性。顔がシニフィアンと主体をあらかじめ前提することは決してない。順序はまったく違う。専制的かつ権威的な権力の具体的なアレンジメント→ホワイト・ウォール-ブラック・ホール、顔貌性抽象機械の始動→穴のあいたこの表面上への、意味性と主体化からなる新しい記号系の設置。そのためわれわれの考察はずっともっぱら二つの問題を対象にしてきた。顔とそれを生産する抽象機械との関係、顔と、顔の社会的生産を必要とする権力のアレンジメントとの関係。顔とは一つの政治なのだ。"(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著『千のプラトー宇野邦一他訳、p.207)

 では、なぜ齊藤は紙袋をかぶったのか。MVの始まりで齊藤はすでに紙袋をかぶっており、説話論的な因果関係は呈示されない。明確なプロットをもつ『無口なライオン』のMVと対照的だ。齊藤は教室そのものを拒絶している。それは、教師の叱責が"「みんなびっくりするだろう」"、"「先生な、無視はだめだと思うぞ」"など紋切り型で、意味内容をもたないことからもいえる。村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』では、教室のスクールカーストの下位に位置する少女の透明になりたいという欲望が記述される。最下位ではない下位は、外縁ではなく周辺として、中心と示差的にシステムに包摂される。その意味で、離脱できないシステムであるスクールカーストは世界のすべてとなる。スクールカーストと教室はほぼ同義だ。

 透明になるということは、プラトンの『国家』のギュゲスの指輪の例話にしめされているように、万能になることをも意味する(プラトン著、藤沢令夫訳『国家』上巻、pp.118-121)。それは世界そのものの拒絶だ。ジャン・ストロバンスキーは『透明と障害』において、ジャン=ジャック・ルソーが透明を志向したことを著作から分析し、それが実践においては孤独を選択させたとする。

 "ジャン=ジャックは狂おしいほどにかれ自身の透明を宣言しているのであるが、他方では、ヴェールは暗黒のなかで重くのしかかり、いっさいの眼に見える空間を覆う。すでに見てきたように、『ヌーヴェル・エロイーズ』の結末では、同じように透明とヴェールが同時に勝利をおさめたのであった。……究極においては、透明は完全に眼に見えないものである。人間はわたしをありのままとは別のものに見ている。したがって、かれらはわたしを見ていないのであり、わたしはかれらにとって眼に見えず、かれらはわたしにとって無縁な不透明をわたしに押しつけ、わたしの顔にわたしに似ないさまざまな仮面をはりつけている。わたしはかれらからいっさいのわたしの現存を隠し、かれらがわたしに外観を与えることを妨げることができればとひたすら願っている。夢想は魔術的な神話に向けられるのだ。《もしもわたしが神のごとく眼に見えず、全能であったなら、わたしは神のごとく慈悲深く、善良であったろう…… もしわたしがジジェスの指輪をもらったなら、人間の隷属から脱して、かれらをわたしの隷属下に置いたことだろう。わたしならこの指輪をどう使うだろうかと、わたしはよくいろいろ夢を描いては考えてみることがあった。(『夢想』)》眼に見えないものになること、それは存在の極端な空虚さがある無限の力に転換される地点である。ジジェスの指輪をそなえるならば、ルソーはかれの無為から脱し、行為に移り、善をなし、女たちを手に入れるであろう。さらに外観から解放されるならば、かれを不随にしている障害から解放されるであろう。そしてこの『第六の散歩』を読んでみるならば、もっとも恐るべき、もっとも不動の障害とは、他人の意識のなかに形成され、かれの透明を否定しているジャン=ジャックのいつわりのイメージにほかならないことが見出される。眼に見えないものとなることは、もはや(一時的に)薄黒い隈で取囲まれた透明となることではなく、禁じられることを知らない視線となることである。それこそまさしく「生きた眼」となることであり、閉ざされていた空間を取戻すことである。"(ジャン・スタロバンスキー著、山路昭訳『透明と障害』、pp.411-412)

 匿名になることは透明になることと同義だ。

 "ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」よいう行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。"(『箱男』pp.117-118)

 透明=匿名になることは実存の超克だ。
 MVで、齊藤と堀は教室から机とイスの折りかさなる舞台にモンタージュ理論に則し、連続的に移行し、ダンスを演じる。ここでのダンスはコンテンポラリー・ダンスだ。なぜ、コンテンポラリー・ダンスなのか。コンテンポラリー・ダンス塚本晋也監督『ヴィタール』で用いられている。『ヴィタール』のシノプシスは、浅野忠信演じる記憶をなくした医学生が、柄本奈美演じる恋人の遺体を解剖実習で解体してゆくうちに、べつの世界で恋人に会う夢をみるようになるというものだ。その世界の柄本は寡黙で、代わりに、浅野にコンテンポラリー・ダンスをみせる。『あの教室』のMVで齊藤と堀がコンテンポラリー・ダンスを演じるのは、そこが夢の世界だからだ。また、舞台の美術もシュルレアリスティックなものとなる。ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』でルソーの透明への志向をエクリチュールを媒介しないパロールへの志向としてとらえる。

 "すでに言ったように、ルソーはこの力――これは音声言語(パロール)を開始し、自身が構成する主体を解体し、主体が自身の記号に現前することを妨げ、主体の言語活動(ランガージュ)を或る文字言語(エクリチュール)の全体によって苦しめるのであるが――を或る仕方で認識していたが、にもかかわらず、その必然性を引受けるよりはそれを払いのけるのに急である。それゆえ彼は、現前の再構成を目ざして、文字言語(エクリチュール)を評価すると同時にその資格を奪う。同時にというのは、分裂してはいるが首尾一貫したものの中において、ということだ。この運動の奇妙な統一性を見失わぬようにせねばなるまい。ルソーは現前の破壊、音声言語(パロール)の病いとして文字言語(エクリチュール)を弾劾する。彼は、それが音声言語(パロール)から奪われていたものの再所有化を可能にするかぎりにおいて、それを復権させる。だが音声言語(パロール)から奪取したのは、それよりも古く、すでに場所を割り当てられていた一つの書差(エクリチュール)でなくして何であろうか。この欲望の最初の運動は、言語理論として表現される。別の運動がこの著作家の経験を支配する。『告白』でジャン=ジャックが自分はいかにして著作家になったかを説明しようとする際に、彼は文章表現(エクリチュール)への移行を、音声言語(パロール)における裏切られた自身の現前の、或る種の不在と或るタイプの計算ずくの消失とによる復興として記述している。その場合、書くことは音声言語(パロール)を保持し、あるいはそれを取り戻すための唯一の方法であるが、それは音声言語(パロール)が与えられるのと同時に拒否されるからである。そのとき記号の経済が形成される。だがこれはまた欺瞞的なものであり、さらに欺瞞の本質と必然性にいっそう近いものである。不在を抑圧したいという気持は避け難いものであるが、われわれはつねにそれを放棄せねばならない。スタロバンスキは、ルソーがそんな具合に位置せざるを得ないところの空間を支配している一つの根本的な法則を記述している。「彼をその真価に従って表現することを妨げているこの誤解を、彼はどのように克服するであろうか。話された音声言語(パロール)の危機をいかにして逃れるであろうか。別のどんな伝達様式に訴えるのか。別のどんな手段によって自己を表現するのだろうか。ジャン=ジャックは不在であることと書くこととを選ぶ。逆説的に言えば、彼はより良く現れるために身を隠すのであって、書かれた音声言語(パロール)に身をゆだねるであろう。『必ず自分に不利なように見られるばかりでなく自分と全く似てもいない別人に見られるという心配さえなければ、私も人なみに社交はすきである。私が選んだ書くことと身を隠すという立場は、誠に私には適わしかった。人々の前に顔を出していたら、世間は私の真価〔私がそれに価するところのもの〕を知ってはくれなかっただろう。』(『告白』)この打明け話は独特であり、強調に価するものだ。ジャン=ジャックは他人たちと手を切るが、それは自分を書かれた言葉(パロール)の中で示す〔現前させる〕ためである。彼は暇に任せ、孤独に護られて、自分の文章に幾度となく推敲を重ね続けるであろう。」"(ジャック・デリダ著、足立和浩訳『グラマトロジーについて』下巻、pp.2-3)

 そのパロールエクリチュールの二項対立をこえるもののひとつが夢だ。

"ソシュールによれば、個的発話(パロール)の受動性はまずその言語体系(ラング)への関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識(言語体系(ラング)における根基としての)と意味作用の根源を構成する間=化(espacement)(休止、余白、句読法、間一般、等々)との関係から区別されない。「言語体系(ラング)は形式であって実体ではない」(p.169)がゆえに、逆説的ではあるが、個的発話(パロール)の能動性はつねにそこから引き出すことができるし、またそうせざるを得ない。だが、それが一つの形式であるのは、まさに「言語体系においては諸々の差異しか存在しない」(p.166)からである。間=化(この語は時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するということがそのうちお分りいただけると思う)は、つねに知覚されないものであり、非=現在であり、無意識的なものである。そういったもので有り得るのは、これらの表現を非=現象学的な仕方で用いる場合にだけである。というのも、ここでわれわれはまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられることは有り得ない。それは、生きた現在の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む。死せる時間は活動しつつある。それだから、痕跡についての思惟は、自身が現象学から借り受けているあらゆる論弁的方策にもかかわらず、なおけっして文字言語(エクリチュール)の現象学と混同されることはないであろう。記号一般の現象学と同様、文字言語(エクリチュール)の現象学は不可能である。いかなる直観も、「『余白』が実際に重要性を引き受けている」(『骰子一擲』〔マラルメ〕への序文)のような場所では実現され得ないのである。フロイトが夢の仕事について、それが話声言語よ(ランガージュ)よりも文字言語(エクリチュール)に、また表音文字エクリチュール)よりもむしろ象形文字エクリチュール)に比較し得るものだと語っているのはなぜか、ということが多分はっきりと理解されるであろう。またソシュールが言語体系(ラング)について、それは「話す主体の一部ではない」(p.30)と語っている理由についても。また同様に、命題の作者と共犯しつつあるいは共犯せずに、現前や意識する主観性の形而上学のたんなる顛倒を越えて理解せねばならぬような諸命題についても。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.139-140)

 齊藤と堀は夢の世界では素顔でいる。実存の超克としての孤独を選択する齊藤、あるいは堀が、なぜ相互に交感を果たすのか。

 "教会に避難する人々は沈黙をまもることができるのであるが(なぜならば教会はその場合にかれらの沈黙を正しいものとするために、かれらの名のもとに聖人、学者などの口を通して語るのである)、しかし自己以外には正当であることの根拠をもたないルソーはけっして沈黙の世界に入ることはできないであろう。かれの孤独の真実の意味をけっして説明しおわることはないが故に、かれは語り続けることをけっしてやめないであろう。事実、かれは孤独が悪人の、そして傲慢な人間の孤独として解釈されうることを知っている。「ひとりでいるのは悪人だけだ」とディドロは言っている。この言葉が自分を目標にしていることを感じとったルソーは、残された全生涯を通してかれに答えることになる。ルソーにとっては、曖昧なことはたえられないからである。ルソーにとって自分を奇矯な存在に見せ、かれの相違を示すことだけが問題であったならば、戦いはかくも悲劇的ではなかったはずである。かれはたんに別人の役割(アルメニア人の服装をして)を演じなければならないだけではなく、悪しき社会に向い合って、根源的に悪とは別のものであるものを示さなければならない。つまり人々の眼前にかれらが見おとしている善を出現させなければならない。ルソーにおける悲劇的緊張は、分離と相剋そのものに由来するものではない。それはかれの孤独をつねに本質的な善と真理に一致させる必要、しかもかれがそれらを深い内面において認めているにもかかわらず、すべての人々によって承認されるような本質的な善と真理に一致させる必要に由来している。したがってわれわれは、対立者として置かれることを主張する意識の非理性的な要求に向い合っているわけではなく、ルソーの主観性が特権を求めているのであり、しかもそれはたんに他者によって完全に承認されるためだけではなく、(そのことは、錯乱気味のジュネーヴの職人の息子がフランスの元帥や徴税請負人たちのなかに迷いこんでいるということですでに十分である)、さらにどうすることもできないような奇矯さを世間の人々にわざわざ見せびらかすためだけではなく、他の人々が忘れさっていた真理の正当な解説者として受容されるためなのである。ルソーはかれの孤独な言葉に否定的な挑戦と予言の意味を与えようとしている。他者に対立することによって、ルソーはたんに奇矯なかれの自我を押しつけようとしているのではなく、自由、徳、真理、自然などの普遍的な価値に一致しようとする英雄的な努力を行っているのである。ルソーは普遍の名のもとに正当性をもって語ることができるために孤独のなかに自己を置いている。かれは都会を離れ、「自称の友人たち」と絶交する。かれは「神秘」もしくは主観的な存在の「精神の深奥」に逃避しようとするのだろうか。絶対にそうではない。ルソーにかれがはるかに遠くから先取りしているにすぎないロマンチシズムを付与してはならない。ルソーにおける主観的な直観は、たとえデカルトやマルブランシュにおいてそれがもっていた知的特質をもたないにせよ、普遍に通じようとするものであり、そしてさらにこのような普遍は本質的に非理性的なものでも超理性的なものでもないという点で、かれらと相通じている。自己自身にかえること、それは確実によりいっそう高い理性的明晰さと直接的な感覚的明証に、社会を支配している無意味に対立することによって近づくことなのである。"(『透明と障害』pp.65-67)

 紙袋をかぶるという行為は政治的な演技(パフォーマンス)だ。そこには実存論的に他者が存在する。そして、それは存在論としてではない、世界が存在することの承認だ。齋藤と堀は屋上と階段で、それぞれ近くに座りつつ、同じ方向をみていて視線は交わらない。夢の世界になり、それまでと対照的に正対すると、手をとりあって走りだす。

 "他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。"(マルティン・ハイデガー著、原佑訳『存在と時間』p.228(所収『世界の名著』第62巻))

"このように「存在の声」を呼び起した後で、ハイデッガーは、それが沈黙しており、声なく響きなく語ももたず、根源的に無音声的である(「隠された源泉の声なき声の保証」(die Gewahr der lautlosen Stimme verborgener Quellen))ことに注意を促す。源泉からの声は聞かれないのだ。存在の根源的意味と語、意味と声、「存在の声」と「フォーネー」、「存在の呼び声」と分節された音、との間の断絶。根本的隠喩を確言すると同時に、隠喩の落差を告発することでそれを疑ってもいるこのような断絶は、現前とロゴス中心主義形而上学にたいするハイデッガーの立場の曖昧さをひじょうによく物語っている。この立場は、それ〔現前とロゴス中心主義形而上学〕に含み込まれていると同時に、それに背を向けてもいる。だが、それを共有することは不可能である。背を向ける運動そのものが、しばしばそれを限界の手前にとどめておく。先に示唆したのとは反対に、存在の意味はハイデッガーにとっては、たんにまた厳密には、一つの〈意味されるもの〉ではないということに注目せねばなるまい。この用語がつかわれていないのも偶然ではない。ということは、存在は記号の運動を逃れているということである。この命題は、古典的伝統の繰返しだと解されてもよいし、また意味作用についての形而上学的な、あるいは技術的な理論にたいする不信だと解されてもよい。他方、存在の意味は文字通り「最初のもの」でも「基礎的なもの」でもなく、またスコラ的意味に解されようと、カント的あるいはフッサール的意味に解されようと、transcendantal〔超越的、先験的、超越論的〕なものでもない。存在者の諸範疇を「超越する」ものとしての存在の解放、基礎的存在論の開示性は、まさに必然的な諸契機ではあるけれども、暫定的なものであるにすぎない。『形而上学入門』以来、ハイデッガー存在論の企てと存在論という語を放棄する。存在の意味の必然的根源的で還元不可能な隠蔽、現前の出現そのものの中における存在の意味の掩蔽。隅から隅まで歴史であり、存在の歴史であった存在史をまさしく成立させるであろうような後退。存在はロゴスによってしか歴史として生みだされず、その外にあっては何ものでもないということにたいするハイデッガーの力説。存在と存在者の差異〔区別〕。こういったものみな、根本的には何ものも〈意味するもの〉の運動を免れてはいないということを、そしてけっきょくのところ〈意味されるもの〉と〈意味するもの〉との差異は何ものでもないということを良く示している。この背反の命題は、〔ロゴス中心主義の時代の哲学に〕先んじる言説の中に取り込まれていないので、退歩それ自体を定式化する危険性がある。それゆえ、この奇妙な無差異についての厳密な思惟に接近し、それを正確に規定するためには、ハイデッガーによってまた彼だけによって、存在論=神学の中でかつそれを越えて定立されているような存在の問いを通過せねばならない。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.52-53)

 さて、以下ではじっさいのコードと歌詞、映像をみたい。主旋律のコードを確認し、要部の映像がどこに配置されているかをみる。


CGAmF×3
CGFG
 導入部はT-Dの完全4度上行の強進行で、短調平行調に下りたあと長調のSDに回帰する。最後に平行調に下りず、D-SD-Dという2度の順次進行ののちにコーラスにはいる。

 

CGAmF
あれから/初めて来た/ね/
何年ぶりに/チャイム聞い/ただろ/う
懐かし/い校庭/は
思ってた/よりも狭/く思え/た
 はじめの章では第1主題を反復する。

 

DmGEmAm
自転/車/二人乗/り
FEmDmEM7♭
ぐるぐ/る/走りな/がら…
 Fで平行短調のDmに転調する。一時的に長調にもどりつつ、SD-D-SD-<T>でサブドミナント終止する。このとき使われるEM7♭はAm7の代理コードで、平行長調に結びつきやすいコードだ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
本当/は知っ/てたよ/と
AmCFE♭
大声/で叫/んでい/た
DmE♭N.C.
あの教室を/を/見上げて…
 Am-Cで一時的に平行長調に転調し、かつ、ここでT-Dの完全4度上行の強進行がおこなわれる。T-T-SD-<T>でふたたびサブドミナント終止をするが、ここではAm7の代理コードでもE♭が用いられ、短調のまま<T>-SD-<T>という結尾への進行を容易にしている。

 

CGAmF×3
CGFG

 

CGAmF
地元の/商店街/で
バッタリ出逢っ/て通学/路たどっ/た
あの頃/は毎日/が
楽しい/なんて気付か/なかっ/た
DmGEmAm
ペダル/を/漕ぎなが/ら
FEmDmEM7♭
時間/を/巻き戻/した
AmCGAm
お互/いに好/きだっ/た
AmCFE♭
過ぎた日/々が/切ない/ね
 ここで齋藤と堀は、現実では屋上のへりに同方向をみて腰かけている。また、夢の世界のカットをはさみ、屋上への階段にふたたび同方向をみて腰かけている。夢の世界では、堀は右方、斎藤は左方に向けて走っている。そして、ふたりは正対する。

 

AmCGAm
胸の/奥し/まいこん/だ
AmCFE♭
ときめき/を思/い出し/た
DmE♭N.C.
あの教室/が/眩しい

 

FGAmG
FGC
FGAmG
FEsus4E♭

 

AmGC
"もしも"なんて/考え/て
AmFE♭
甘酸っぱい/風が吹/く
 長調への転調をまじえたT-D-Tのドミナント終止だが、反復するときはAm7の代理コードが使われ哀切さをともなう。
 ここで斎藤は屋上でひとりで踊っており、堀は遠くからそれを隠れてみている。齋藤の踊りはモンタージュ理論にそって、夢の世界に舞台を移すが、そのさいの齋藤の衣装はそれまでのものとは異なる。それまでは堀とおなじ、現実での丸襟の制服と同様にかわいらしさの目立つ、ジャンパースカートに似た衣装だったが、ここでは赤のシャツにエナメル靴、黒のタイトスカートという気品のあるものであり、堀との距離を思わせる。このとき、夢の世界だが堀は制服のままで齋藤を遠目にみるだけだ。しかし、その後、夢の世界で壇上という舞台により堀と齋藤は同方向をみて立っている。そして、ふたりは顔を見合わせてわらう。

 

AmGC
自転車の二/人乗り/も
AmAmFE♭
少し/だけきゅん/として/る
EM7♭N.C.
 Am-C-F-E♭の主題がふたたび使われるが、ここではAm-Amの2連音になり、緊張をたもつ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
三階/の校/舎の/端
AmCFE♭
ガラス/窓が/反射す/る
 そして、堀と齋藤は夢の世界で踊る。このとき、セットの背景の色調はあかるい。その意味は上述のとおりだ。

 

DmE♭N.C.
DmE♭
CGAmF×3
CGFG

 アコースティック・ギターを思わせる、大部分が和音で構成されたコードが懐かしさを感じさせる。

 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、ルソーの人間観は生まれたままの感情である純粋感覚と、純粋であるために受動的な純粋感覚にたいし、能動的な半面である自我の両面から構成されていると述べている。よって、自分じしんとの一致が、相対的なものではない唯一で絶対の幸福であるとき、その方法のひとつは現在の瞬間という永遠のなかで、純粋感覚と、共同の存在の感情と矛盾するものとしてある、個人の存在の感情が一体化することになる。それは自然との一致をも意味する。もうひとつは、激しい情念を排し、つねに真実のものである、感情の記憶を追想することだ。
 本曲の懐古的な歌詞は、この後者の方法論を実現する。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』あるいは『みすてぃっく・あい』

 "「この手紙を発見する前は、一冊の本がどうして無限であり得るのか、疑問に思っていました。循環する、円環的な本いがいのあり方を思いつかなかったのです。最後のページが最初のページと同一で、限りなく接続する可能性を持った本です。わたしはまた、『千夜一夜物語』のちょうど真ん中にある、あの夜のことを思いだしました。シェヘラザード姫は(筆写係の奇妙な間違いで)『千夜一夜物語』の話を文字どおりくり返し、その話をした夜にふたたび戻るという、そしてこれが無限に続くという危険なはめに落ちいったのです。わたしはまた、親から子へと受け継がれる、世襲的な、プラトン的な作品を想像しました。そのなかでは、新しい人間がそれぞれ一章を書き加えるか、先祖の書いたページを孝心から訂正するのです。これらの推測はわたしを楽しませてくれました。しかし、そのどれかが崔奔の矛盾した章にあてはまるとは、とても思えませんでした。こうして途方に暮れていたとき、すでにあなたもお調べになった草稿が、オックスフォードから送られてきたのです。当然のことですが、以下の文章に気を引かれました。余はさまざまな未来――すべての未来にあらず――にたいし、余の八岐の園をゆだねる。ほとんど即座に、わたしは理解しました。『八岐の園』とは、あの混沌とした小説だったのです。さまざまな未来――すべての未来にあらず――ということばは、空間ではなくて、時間のなかの分岐のイメージを示唆しました。作品ぜんたいを読みなおすことによって、この理論はたしかめられたのです。あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は――同時に――すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。ここから例の小説の矛盾は生まれているのです。……」"
 ――ホルヘ・ルイス・ボルヘス著『八岐の園』(所収『伝奇集』)鼓直

 『みすてぃっく・あい』(一柳凪著、小学館、2007年)は再帰的構造の小説だ。末尾の文は"薄白い霧のようなものが私を包んだ。霧のなかにボンヤリとした影が浮かぶ。こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では。これは、どこかで見た光景だと。そう思いながら私はゆるやかにまどろみのなかにおちていった――"(『みすてぃっく・あい』、pp.224-225)で、冒頭の"一面に積もった雪のうえを、一対の足跡がのびている。"(同p.10)、"こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では、道標がなければあっという間に迷ってしまうだろう。"(同pp.11-12)に結合しており、半透明で"endless"の文字が添えられている。"さえぎるものの何もない平原というのは、迷路とどう違うだろうか。目印ひとつない平原にポツンと置かれたとして、どうやってゴールを目指せばいいのか。始点と終点の見分けすらつかないというのに、何を基準にして順路を決めたらいいんだろう、いや、そもそも終着点などありはしないのだとしたら? 自分が迷っていると気づくことさえなしに、いつまでも迷いつづけることになるだろう。それこそが最悪の(あるいは最良の?)迷路というものだ。白無地のミルクパズルが最も難解なジグソーパズルであるのと同じように。"(同p.11)。そして、主人公の蝶子は自らを"迷い人"(同p.14)と称す。
 全体は「etude」「ⅰ imaginary」「ⅱ garden」「etude」の4章で構成されており、同名の「etude」と題されたプロローグとエピローグは先述のとおり一体化しており、「ⅰ imaginary」で展開された12月27日から29日の3日間が「ⅱ garden」でループしていることが解明される。しかし、その解明そのものが全体を包摂するループ構造の要素であることが明かされ、エピローグに至る。では、なぜループ構造の解明はそれ自体を保存したのか。以下、『ゲーデルエッシャー、バッハ』(ダグラス・リチャード・ホフスタッター著、野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳、白揚社、1985年)を基に読解したい。"湖の畔に到着すると、湖水全体を俯瞰できる恰度よい場所に敷物を敷き、めいめいスケッチブックを取り出して座りこんだ。部長の持ってきた敷物には奇妙な模様が描かれており、鳥の形らしき幾何学模様が少しずつ形を変えながら反復する構成は、エッシャーの騙し絵を連想させた。"(同p.58)。
 ループ構造を実行するプログラムは作中では〈『虚数の庭』〉という題名の小説となっている。"『虚数の庭』……実際、それはなかなかに奇妙な本だった。全体の恰度中央にあたる二頁に書名と同じ《虚数の庭》と題された一篇の詩が配されており、本の前半はその詩に対する長いながい序文、後半は長いながい解題が連なっているという、やたら勿体をつけた構成になっている。言ってみれば、たった二頁の詩こそがこの本の実体で、あとはその中心点のまわりを付随的な言説が浮遊しているようなものだった。"(同pp.102-103)。作者はあとがきで"この作品は第一回小学館ライトノベル大賞ガガガ文庫部門で期待賞を受賞した『虚数の庭』を大幅に改稿のうえ改題したものです。"(同p.229)と原題を明記している。つまり、本書は自己言及の構造をとっている。
 ループの契機となる『虚数の庭』の音読のさいに蝶子は独白する。"のどやかな時間は逆に不安を与える。後ろ向きな私は、安心に浸りきることができない。何かと理由を探してはむやみに憂いを抱いてしまう。大事なことを忘れているんじゃないかと懸念する。憂慮の無限後退。ここに足りないものといえば、そう……。"(同p.101)。それはプロローグで仮想される〈迷路〉を連想させる。"――一本の直線でできた迷路、という話をどこかで聞いたことがある(直線もまた私を苛立たせる)。このうえもなく恐ろしい想像ではないか。直線のうえですら人は迷いうるのだとすれば……そんな迷路から人はどうやって逃れうるというのか。そこではもはや、迷うという概念そのものが全く異なるものになってしまうのではないか。"(同p.13)
 『ゲーデルエッシャー、バッハ』において、TNT(字形的数論)においてG(自己言及文)を適用したときに、「GはTNTの定理ではない」という矛盾が生じることを例に(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.443-445)、形式システムの不完全性を証明する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.464-465)。"これら三つの条件を満足すれば、ゲーデルの構成法が適用できるので、無矛盾なシステムは必ず不完全である。面白いことに、そのようなシステムはどれも固有の穴を掘っている。そのシステムの豊かさがそれ自身の破滅をもたらすのである。破滅は、本質的にそのシステムが自己言及文をもてるほど強力であることから起る。物理学では、ウラニウムのような核分裂性物質の「臨界質量」という概念が存在する。その物質の固体のかたまりは、臨界質量以下ならじっとしていられる。しかし臨界質量を越えると、そのようなかたまりは連鎖反応を起し、爆発してしまう。形式システムにも同じような臨界点があるように思われる。臨界点以下では、システムは「無害」で、算術的真実を形式的に定義することさえはじめられない。それが臨界点を越えると、システムは突如として自己言及の能力を獲得し、そのことによって自分を不完全と運命づける。その発端は大ざっぱにいって、システムが上に挙げた三つの性質を獲得したときである。この自己言及能力がひとたび獲得されると、システムはそれ自身にあわせて作られた「穴」をもつことになる。穴はそのシステムの特性を十分考慮に入れて、そのシステムに逆らうように利用している。"(同p.465)。さらにそこから、チューリングの停止性検定プログラムの不可能性の証明(同pp.424-425)、チャーチの定理(同pp.569-570)、タルスキの定理(pp.570-571)を演繹する。チューリングの証明は"しかしアラン・チューリングの独創的な論考によると、どんなブー・プログラムもこの判別をけっして誤りなく行うことはできない。その技巧は実はゲーデルの技巧とほとんど同じで、当然カントール対角線論法と密接に関連している。ここで詳しくは述べないが、停止性検定プログラムにそれ自身のゲーデル数を入力するという着想による、といえば十分であろう。それはある文全体をその中で引用しようとするのと似たところがあるので、そう簡単ではない。引用を引用する、等々のことが必要で、無限退行に導かれるように見える。しかしチューリングは、あるプログラムにそれ自身のゲーデル数を入力する技巧を案出した。"(同p.425)と要約している。
 『みすてぃっく・あい』において、ループ構造の実現される場は虚数に例えられる。"虚数とは、では何だろう。実数のいかなる領域にも属さぬ仮想上の数でしかない虚数単位iは、ひどく孤独なものに思える。存在しない、だが想定することはできる。そんな存在の曖昧さと不透明さとデタラメさに、私は不安を抱くと同時に惹きつけられるものも感じるのだった。タッタひとつの、けれども決定的な非合理をこの世界が孕み持っているという事実には、幾分心慰められるものがある。虚数とは数の世界において、ゼロとはまた違った意味での奇妙な特異点であり鍵でもあるのではないか。"(『みすてぃっく・あい』p.159)。そして、〈庭〉が入子構造を意味する(同pp.155-156)。TNT(字形的数論)にG(自己言及文)を矛盾なく適用するためには、~G(Gの否定)を公理に足せばよい。それは、自然数を超自然数に拡張することを意味する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.448-451)。つまり、自然数有理数、負数、無理数、そして虚数に拡張する。
 ループ構造の物理的な説明には、エヴェレットの多世界解釈が当てられている。"「ともかくだ。これらのいずれかが起こるんじゃなくて、すべて起きているってことだよ。無限に分岐した並行世界のなかで。それらの世界はどれも同じように存在していて、純粋に確率の問題でしかない。あるのは《私》という主体ないし主観がどこに存在するかの違いだけだ。それぞれの《私》は自分が属している世界しか見ることができないからね」よどみなく説明する先輩の話はあまりに現実離れし過ぎていて(そう、昔そんな内容の小説を読んだことがあったから、いっそう作り話っぽく聞こえた)、正直、私は面食らっていた。「分岐」と聞いて、ある段階までは枝分かれのイメージを浮かべることができたが、「無限」という概念は想像できなかった。"(同pp.140-141)。そして、それを蝶子の選択の回避が具現化する。"昔から、何事につけ選ぶのが苦手だった。(中略)いずれを選んでも大して変わらないような気がするのに……そのくせ、いったんどれかに決めると、後で何故、他の方にしなかったのかと考えて絶望的な悔恨に陥ってしまう。そしておそらくは、仮に別の選択肢を選んでいたとしても全く同じことが起こっているのだろう。最善の選択など、何処にもありはしない。どれかひとつを選択するということは、必然的に残りの可能性を棄てるということで、だから、実現しなかった可能性に思いをめぐらせて煩悶するというのは、結局のところ避けようがないのだ。あらゆる不確定要素を加味して、すべての可能性を想定したうえで先の先のそのまた先まで見通して最良の選択を行うなど、どだい無理な話なのだから。人は皆、そうした感情と折り合いをつけて生きているのだろうけれど、私にはそれがうまくできない。選択するという行為に必然的につきまとうリスクが耐え難かった。それならいっそ、他人に任せた方が良い。そうすれば自分が『選んだ』という事実からは逃れられる。責任を肩代わりしてもらえる。なので、できうる限り周囲の流れに身を委ねてやり過ごしてきた。そこには『私が』という主語はない。主体が、ない。"(同pp.45-47)。そして、その例外がループ構造の起点だ。"いや――ただの一度だけ、後悔したことがあったような気もするのだけれど……。"(同p.47)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは数論における超自然数幾何学におけるアナロジーが量子力学だとしている(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.452-453)。"さらに、そしておそらくこれがずっと大事なことであるが、物理学者はわれわれが住んでいる3次元空間だけを研究しているのではない。物理的計算が行われる「抽象空間」は山ほどあって、それらはわれわれが住んでいる物理的空間からは全くかけ離れた幾何学的性質をもっている。だとすれば、「正しい幾何学」というのは天王星海王星が太陽のまわりで軌道をえがいている空間であると定義したらよい、などとどうしていえようか? 量子力学的な波動関数が波うっている「ヒルベルト空間」がある。フーリエ成分が住んでいる「運動量空間」がある。波動ベクトルがはね回っている「相反空間」がある。素粒子の多体配位が音をたててひしめいている「位相空間」がある、等々。これらすべての空間の幾何学が、同じでなければならないという理由は全くない。事実、これらは同じではありえない! だから物理学者にとっては、異なる「競争相手の」幾何学が存在することは本質的かつ不可欠なことである。"(同p.453)。
 『みすてぃっく・あい』の根幹は符号がなす(『みすてぃっく・あい』pp.169-170)。それは現実を文字に置換することだ。"「並行世界を移動する、か。……んんん、ん……ねえ、ちょっと聞いてくれるかい。カバラの教義を記した『創造の書』のなかに、こんな一節がある――《二十二の基礎となる文字。彼はそれらを刻み、それらを入れ換え、それによってすべての創造と、そしてそれに続いて創造されなければならないすべてを形成した》文字に関するカバラゲマトリアとは、単語に含まれた文字が表わす数字とその組み合わせから、世界の象徴的な意味を読みとる行為だ。単語は各アルファベットに解体されたうえで、数字としての総計が算出される。数字こそが最も重要な要素なんだ」"(同pp.208-209)。"「そのうえで、世界とは起きている事象の総和であるとみなすなら、文字列の集合、記述の仕方こそが世界そのものだと言える。無論、それには果てしなく長い文字列が必要だがね。そう考えると、無数に存在する並行世界のそれぞれに写像のように対応した文字列が存在するはずだ。その文字列を書き換えることさえできれば、別の並行世界に転移することが可能になるのではないか。と――そんなことを、私は夢みていたんだ」(中略)「でも……、無限に続く文字列なんて存在しないでしょう?」「うん、たしかにその通り」噛み締めるような口調で先輩は答える。「現実問題として無限の長さを持つ文字列は作成しえないし、よしんば存在したとしてもそれを読むことじたい不可能だ。無限に長い文字列を読むには、原理的に言って無限の時間が必要なはずだからね」(中略)「そうだね、文字通り果てしなく気の長い話だ。生身の人間になしうる業じゃない。……《虚数》ということでちょっと思い出したんだが、量子論でも虚数が登場するんだ。現実の状態を説明するための量子論に、実際には存在しないはずの虚数が現われるなんて随分と矛盾した話に聞こえるかもしれないけれどね。電子やなんかの状態を記述する波動関数のなかに、粒子に波動性を与える……揺らぎを導入するものとして虚数が組みこまれているんだ。この、揺らぎというのは、ここにあるかもしれないと同時にあちらにもあるかもしれない、という存在の不確定性のことだ。まさしく並行世界の基礎となる概念だよ。ふふん、こんなところで思いがけず虚数が関わってくるなんて、ちょいとゾクゾクするじゃないか」"(同pp.210-212)。そして、それを具現化するのは脳の機能だ。"「ところで久我崎は問題の詩を読んでいて急に眠りに陥ったのだったね。眠り……脳生理学の分野でこんな仮説がある。夢がどのように生起するかについてだが、神経細胞のデタラメな発火によって生じるイメージに対して、脳がさまざまな意味を見出し夢を組み立てるのだと。意味を見出す、それはまさに解釈の問題と言える。夢もまた、書物を読むことと同様の営為とみなすことができるんだ。逆に言えば、書物が夢に似ているということでもある」夢……幾度となく私の頭のなかで再生された、あの記憶。思えばあの夢に、自分はずっと操られていたのではないか。「……話を戻すが。無限に続く文字列を作ることは不可能、ってことだったね。ならば、夢の生成に作用するような文字列を作り上げればどうだろう? 古来から夢をもうひとつの現実として捉える伝承なり創作はそれこそ山のように存在するわけだが、無数の現実――並行世界へ移行するための過渡状態として捉えられないだろうか。そうしてその構造を自在に操ることさえできれば、無限に存在する並行世界のどこへでも思うがままに転移することができるのではないか……」"(同pp.212-213)。そして、そのためのプログラムが『虚数の庭』だ(同p.214)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは自己言及のパラドックスを解消するための仮説として脳の機能を挙げている。"私の感じでは、エピメニデスのパラドクスのタルスキによる変換は、英語版の中に基質を探すことを教えてくれる。算術版では、意味の上位レベルは下位の算術的レベルによって支えられている。おそらく同じように、われわれが読みとる自己言及文(「この文は偽である」)は二重レベルの実体の最上位レベルにすぎない。それなら、下位のレベルは何なのだろうか? 頭脳の上である。したがって、エピメニデスのパラドクスに対する神経基質――たがいにぶつかりあう物理的事象の下位レベルを探すべきである。「ぶつかりあう」とは、二つの事象が、それらの本性から、同時には起りえないことである。もしこの物理的性質が存在するとしたら、われわれがエピメニデスのパラドクスを理解できない理由は、われわれの脳が不可能な仕事をしようとするためである。では、衝突する物理的事象の本性は何なのだろうか? エピメニデスのパラドクスを聞いたときにはおそらく、脳はその文のある「符号化」――相互作用をする諸記号の内部的配置を設定する。そして、その文を「真」か「偽」かに分類しようとする。この分類行為は、いくるかの記号をある特定のしかたで相互作用させるような試みを必要とするはずである。(たぶんこのことは、どんな文を処理するときにも起る。)ところで、もし分類行為が文の符号化を物理的に破壊するようなこと(ふつうはけっして起らないことだが)が起ったときは、プレーヤーにそれ自身を破壊するレコードをかけようとするのと同じ災難がひき起される。われわれは衝突を物理的な用語で説明したが、神経系の用語ではなかった。もしこの分析がこれまでのところ正しいとすると、おそらくあとの議論は、脳の中でのニューロンとその発火による「記号」の構成について何かわかったときに続行できるであろう。また、文が「符号」に変換されるしかたについての知識も必要である。"(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.574)。
 蝶子が選択の回避による無限後退をつづけるためには自己言及のかたちをとるしかなく、それが『虚数の庭』の原題をもつ『みすてぃっく・あい』なのだ。

『青い花』の表現技法とその意味

 "『青みをおびた』(Bleute):ほかのどんな色も、優しさの、このような言語的形態を知らない。ノヴァーリス風の言葉。「非存在のように優しく青みをおびた死」(『笑いと忘却の書』)。"(ミラン・クンデラ著『小説の精神』所収『七十三語』浅野敏夫訳)

 『青い花』(志村貴子著、太田出版、2005-2013年)の表現技法の特徴とその効果について、題名である〈青い花〉の解釈を中心に検討する。
 本作は各話の副題を小説および劇、映画の題名からとっており、よって、最終話の副題でもある「青い花」は一次的にはノヴァーリスの同名の小説を指していると考えてよい。ただ、注意すべきことは、作中で「青い花」という文言が登場したことはない。しかし、第1巻の末尾において〈小さい花〉が象徴的にえがかれている(『青い花』第1巻、p.188)。
 "あまりにも小さなその花は あまりにも小さすぎて すぐそばにあるのにわからない 持て余してしまうかもしれない そんな花……"(同、p.187)
 本稿は巻数と一致するここまでを一編として、検討の対象とする。
 ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』は、ドイツ・ロマン派の特徴を以下のように分析し、小説『青い花』をそのなかに位置づける。
 "だが、その孤立性を意識するということは、ある新たな神秘のまえに立つことである。もし、外的自然がわれわれと異質なものになるにつれて、われわれの目に謎めいたものになるとすれば、逆にまさにそれと同じ度合で、われわれはわれわれの自我がやはり神秘に満ちたものであるという自覚をいちはやくもつのである。われわれはもはや自我をいかなる既知なるものにも関連づけることができない以上、どのようにしてそれを認めるのだろうか。みつめればみつめるほど理解できなくなってゆく。その本質的な差異性による以外には、けっしてそれを把握することができない。それは何ものとも合致することがない。どんなものとも類似していない。光の神秘があるのと同じように、ここには中心の神秘がある。あまりに吟味しすぎると消えてしまう。それ自体、目のまえで霧散しはじめるのだ。しかし、それはいわばその場でおこなわれる。探究がなされなければならないのは、もはや自我から遠く離れた、自我の外側ではない。周辺的世界という遠い遥かな深淵に対して、もうひとつの深淵すなわち中心という身近な深淵が対立する。内観が拡張ではない。それはむしろ凝視である。思考が空間のなかに急いで流出することがなくて、生起したその場所に沈思不動のままとどまっているような凝視である。ロマン主義というもの、とはいわないにしても、少なくともそのもっとも重要な一面は、精神の根源的に主体的な特質を自覚することであるとする以上にうまく定義することは多分できないのではないか。ロマン主義者とは中心を発見するもののことである。"(『円環の変貌』、国文社、1973年、上巻、pp.189-190)
 "そのうえ、当時、フランスでもドイツでもイギリスでも、ほとんど時を同じくしてロマン派の作家たちが人間の中心性のもつ本質的に宗教的な特質を発見ないし再発見していた。《私が中心点であり、聖なる源泉なのだ》と、ノヴァーリスの小説のなかでアストラリスが叫んでいる。人間が源泉であり、しかも神聖なる源泉なのだ。人間の中心性のもつ深淵において、人間固有の本質の神秘とそれにかかわりをもとうとする神の神秘とが、どちらのものとも分からぬような仕方で混じりあっているのだ。中心に引きこもるということは、したがって充実した存在を放棄し、やむを得ず衰退した生を送ることではなく、すでにモーリス・セーヴやその他のルネサンス期のプラトン主義的詩人たちがそうしたように、根源的なちからに立ち帰り、源泉から汲みとることである。しかも、その理由をあえて説明するまでもないほど明らかなひとつの現象によって、外的自然から離れて精神が自己自身のうちに引きこもることが、自然への新たな回帰の、したがって精神が再びそこで活気づけられるような中心の外側で新たに開花するということの、原理そのものになるのだ。"(同、p.193)
 ノヴァーリスは小説『青い花』において主観性の優越を説き、そこにおいて〈青い花〉は神秘との通路の象徴としてえがかれる。ミシェル・フーコーはルートヴィヒ・ビンスワンガー著『夢と実存』の序文において、それを以下のように述べている。
 "このヘラクレイトス的主題は、すべての文学とすべての哲学を貫いてきた。これまで引用してきた、一見したところ精神分析にきわめて近いものに見える多彩なテクストにも、この主題が繰りかえし現われてはいた。だが、実のところ、夢へのその出現が話題にされてきたこの精神の深み、この「魂の深淵」によって指示されているのは、リビドー的本能のような生物学的装置ではない、――それは、自由の原初的な運動であり、実存の運動そのもののうちでの世界の誕生なのである。ほかの誰よりもこの主題に接近し、倦むことなくこれを神話的表現におさめようとしたのがノヴァーリスである。彼は夢の世界のうちに、夢を担っている実存の指示作用を認めた。「われわれは世界中をめぐる旅の夢をみる――とすれば、この世界全体の方が、われわれのうちにあるのではなかろうか。……永遠なるものがその世界、過去、記憶をともなって住みついているのは、自己のうちにであって、他のいずこにでもない。外界とは影の世界であり、この世界がその影を〔内面の〕光の王国に投げかけているのだ。」だが、だからといって夢の時間が、主観性へのアイロニー的な還元の遂行される曖昧な瞬間にすぎないというわけではない。ノヴァーリスは、夢が発生の原初的瞬間だというヘルダーの考えを採りあげなおす。夢こそ詩の最初の心像であり、そして詩は言語活動の原始的形式、「人類の母語」なのである。こうして夢は、生成と客観性との原理そのものに通じている。そして、ノヴァーリスは、「自然とは無限の動物、無限の植物、無限の鉱物なのであり、また自然のこれら三領域は、自然のみる夢の心像なのだ」と付けくわえている。"((『夢と実存』《序論》中村昇、小須田健訳、pp.54-55)『夢と実存』所収、みすず書房、1992年))
 本作における〈青い花〉も、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"(『青い花』第1巻、p.44)とあるように時間性を超越している。
 "したがって神聖な源泉と個体的な諸源泉とのあいだには、起源上の同一性と成長発展上の同一性とがある。神的存在者と同様に人間的存在者も、《自分自身の内側から数限りなく無尽蔵に多量の光を放つような》発生者的な原理に従って発展してゆくのだ。生存のそれぞれの時間、どれほど微妙であろうともごく微小なものによって占められているそれぞれの場所が放射的エネルギーの中心となり、それがサン=マルタンが述べているように、《同時にかつあらゆる意味で拡大し、その円周におけるあらゆる部分を占有し充満させるのだ》。この種の《中心の爆発》については、ウィリアム・ブレイクの詩のなかに数多くの実例がみられる。……ルネサンスの詩人たちにおけるように、とりわけベーメにおける場合と同様に、創造のひとつひとつの点、持続の特定の瞬間瞬間がここでも真に無際限の拡大能力を表している。しかし、もっとも顕著なことは、この詩人の想像力がそれと等しいほどのちからを賦与されている点である。一個の世界となるような一粒の砂、その香りでみたす薔薇となる人間の精神は、神が創造した世界の事物にあたえるのと同じ拡張力をもつ。そこには事物の開花があるのと同じように、精神の拡大がある。誰もが自分自身から真に内的な永遠性と広大さを引き出せるのだ。あらかじめひろがりも持続もない心理的現実に対して感情によってあたえられる空間的ならびに時間的なこうした桁外れの拡張の完璧な実例は恋愛である。それはコンスタンの『アドルフ』の次の有名な一節に見られる。……したがって恋する人には、自分の周辺に空間と時間の持続が拡大するのが見えるものである。というよりむしろ、まさにその内面において存在の二重の拡大が感じられるのだ。恋とは、思惟領域の拡張であり、自分の存在があらゆる面で現実がそこに自分を固定させようとしている時間的空間的な一点をはみ出ようとしているのを感じるひとつの方式である。"(『円環の変貌』上巻、pp.194-195)
 しかし、本作は作品として、主観性を客観性に優越させてはいない。そもそも、ふみが物語の当初において愛していたのはあきらではなく千津だ。この愛は、のちに言明されるように否定的なものではなく、またあきらへの愛情と対立的な関係にあるものでもない(『青い花』第5巻、p.136)。高校に進学したふみが千津に再会した様子は、ふたりが同一のコマのうちで、距離が近く、親密なものとしてえがかれている。しかし、その愛情はページが変わると同時に〈結婚祝いの手作りのケーキ〉というきわめて即物的な存在により否定される(『青い花』第1巻、pp.38-40)。それはまた、結婚という社会的な行事をもしめしている。そもそも、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"という傍白が感動的なのは、それが時間性のなかに位置しているからだ。

 ルカーチ・ジョルジュもまた、『小説の理論』において、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の主観性の自己認識と自己止揚というイロニーにもとづく現実の形象化は、現実をロマン化する危険を冒しており、ノヴァーリスはそれを批判し、『青い花』において、現実のうちに実現された超越である童話(メールヘン)を形象化の目標においたと述べている。それは、現実とその超越との不統一を先鋭化するか、社会としての世界形態の抒情的ロマン化をおこない、やはりそれも、その不統一を先鋭化する。ゲーテの方法は、小説を叙事詩にしなければ達成できず、よって『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は終盤で〈塔の結社〉という幻想装置を登場させるが、それは超越を引下げ、また全体の調子を損なうに留まる。
 "ロマン主義的現実化のかかるイローニッシュなかけひきのうちに、この小説形式がもつもう一つ別の大きな危険がひそむのである。それを逃れえたのはただひとりゲーテあるのみであるが、それもただ、部分的な成功にすぎなかった。それは現実を完全にその彼岸に横たわる領域までロマン化するか、あるいは小説の形象化する形式にはとうてい手が出せぬ、完全に問題から解放された、問題の彼岸の領域まで、現実をロマン化する危険、すなわちよりいっそう明白に実際の芸術的危険を示す、危険なのだ。ほかならぬこの点において、ゲーテの創造を散文的、反文学的であるとして拒絶したノヴァーリスは、現実的なるもののうちにおいて実現された超越、童話(メールヘン)を叙事的な詩の目標、規準として『ヴィルヘルム・マイスター』の形象化方法に対置する。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代は」とかれは書く、「いうなれば徹頭徹尾散文的で近代的な作品である。そのなかではロマン的なものは滅び、自然詩、すなわちあの驚異にあふれたものもまた滅んでゆく。かれがとりあげるものはたんに日常的なもの、人間的なるものにかぎられ、自然、神秘主義などはことごとく忘れさられる。この作品は市民的物語、家庭的物語の詩化されたものにすぎない。このなかで驚異にあふれたものは、はっきり詩、陶酔としてあつかわれる。この書の精神は芸術的無神論である。……この書はその根底において……いかに表現が詩的であろうと、最高に非文学的なのだ。」そしてかかる傾向をもつノヴァーリスが、騎士叙事詩の時代を振りかえり、そこへ立ち戻ってゆくのもこれまた偶然ではなく、それは、謎めいた、しかしきわめて深いところで条理にもとづいている親和力が、志向と素材のあいだにはたらいているからにほかならない。かれが形象化しようとこころざすのは、騎士道物語に似た(もちろんここで問題となるのは努力の先験的共通性であって、なんらかの種類の直接、間接の影響を問題にしているわけではない)、明白なものとなった超越に、此岸で完結した全体性をあたえることなのだ。それゆえかかるかれの様式化は騎士叙事詩の様式化同様に、童話を目標としなければならない。中世の叙事詩人は、素朴にして自明なものである叙事的志向をもって、真一文字に此岸の世界の形象化目ざしてすすめば、超越が光となって現在のうちにさしこみ、それによって現実は光あふれて童話へと変貌し、それをみずからがおかれた、歴史哲学的状況のさしだす贈物として、かれは受け取ればすむのであった。しかしそれに反してノヴァーリスにとっては、この童話の現実が現実性と超越とのあいだの、引き裂かれた統一を回復するもの、意識的な形象化の目標となるのだ。それゆえそこではいっさいを決定する、あますところなき綜合の成就することはありえない。現実は理念に見捨てられた大地の重みに強くとりつかれ、それが重くのしかかり、超越的世界は抽象的一般性という哲学的、要請的領域から、あまりにも直接に由来することにより、空気に似てあまりにも軽く、内容を欠く。それゆえかかる両者を結合し、有機的な生きた全体性の形象化が成就することは不可能なのである。ノヴァーリスが慧眼にもゲーテのうちに見出した、あの芸術上の裂け目は、かくてかれの作品のなかでひときわ拡大し、その架橋は不可能となった。詩の勝利、光をそそぎ救済をもたらす、全宇宙におよぶ詩の支配は、その他もろもろの方へと引きよせる、あの本質規定力を欠如するのだ。現実のロマン化は現実をおおうが、それもただたんに詩の抒情的輝きをもっておおうにすぎず、抒情的輝きは事件にも、叙事文学にも転化されず、そのあげく現実的、叙事的形象化は、ゲーテ的問題性をひときわ尖鋭化して示すか、あるいは現実的叙事的形象化を、抒情的反省、または気分的場面によって回避することに終わるのである。それゆえノヴァーリスの様式化は反省的様式化にすぎず、危険を表面上おおいかくしはするが、しかし、本質的にはそれをただ尖鋭化するにとどまる。なぜなら社会としての世界形態の抒情的、気分的ロマン化は、現在の精神の位置において存在することのない、内面性のもつ本質的な生との、その予定調和にかかわることは不可能であるから。そしてイローニッシュに浮遊し、主観から創造された、可能なかぎり形態にふれることのない平衡を、ここに見出さんとするゲーテの道も、ノヴァーリスは拒絶したから、形態をその客観的現存在のうちで抒情的に詩化し、かくて美しく調和しているが、みずからのうちにとどまる関連を欠く、一つの世界の創造以外、かれにとってはいかなる道も残されない。かかる世界は現実となった究極の超越にも、問題となった内面性にも関係をもつが、しかし、ただ反省的、気分的に関係をもつにすぎず、叙事的な関係をもつことがないから、真の全体性とはなりえないのである。"(ルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』大久保健治訳(所収『ルカーチ著作集』第2巻、pp.148-140))

 では、本作はそのような客観性において、どのように主観性を表現しているのか。
 ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』において、《近代リアリズム》(エーリッヒ・アウエルバッハ著『ミメーシス』)の小説の特徴を単純過去と三人称ととらえる。
 "小説と歴史とは、それらがもっとも華やかに開花したまさにその世紀に緊密な関係をもった。それらの深いむすびつきによってバルザックミシュレをわたしたちは同時に理解することもできるはずだが、そのむすびつきは、これら両者における自給自足的な宇宙の構築である。その宇宙は自らの拡がりと限界を自力でつくり出し、そこに自らの時間や空間や住民や品物のコレクションや神話を配置している。十九世紀の大作品のこうした球状性は、彎曲して連結している世界の平面投射とでも呼べる、小説と歴史との長い叙唱調(レシタチーフ)によって表現された。当時誕生した新聞小説は、渦巻形に錯綜したかたちで、格下げされたイメージをさし出している。しかし、ナレーションはかならずしもそのジャンルの法則ではない。たとえば、ある時代は書簡体小説を構想することができたし、また別のある時代は分析風の歴史をつくることも可能であろう。したがって、小説と同時に歴史にも拡張できる形式としての物語(レシ)〔Recit〕は、がいして、たしかに歴史上の一時期の選択あるいは表現である。単純過去(パセ・サンプル)は、話されるフランス語からは姿を消したが、物語を支える隅石であり、相変わらずひとつの芸術(アール)をさし示している。それは、芸文(ベル・レットル)の儀礼の一部をなしている。その任務はもはやある時を表現することではない。その役割は現実をある一点につれ戻すことであり、たくさんの、体験され、積重ねられた時間から、ある純粋な動詞的行為を抽出することである。その行為は、経験の実存的な根をとり払われ、他の行動、他の経過との論理的な連結、世界の全般的な動きに方向づけられている。つまり、その役割は、事実の帝国のなかにヒエラルキイを維持することをめがけている。動詞は、単純過去によって、暗々裡に因果の連鎖の一部をなし、方向づけられた連帯的行動の相対に関与し、ある意図の代数的記号のように機能する。動詞は一時性と因果性の間のあいまいさを支えつつ、ある展開、すなわち物語のわかりよさといったものを招じ入れる。動詞が、あらゆる宇宙構築の理想的な道具であるのはそのためだ、それは、宇宙発生説や神話や歴史や小説の人工的な時制である。構築され、練上げられ、意味のある線に帰せられる世界を想定していて、投げ出され、陳列され、さし出される世界をではない。単純過去のうしろにはいつも造物主か神か語り手(レシタン)がかくれており、世界は物語られながら説き明かされ、事件のひとつひとつはその場かぎりのものにすぎない。単純過去はまさしく、ナレーターが現実の爆発を、密度もなければボリュームも拡がりもない、痩せて純粋な動詞につれ戻すためにつかう記号である。そして、その動詞はできるかぎり早く原因と結末とをむすびつけることを唯一の機能としている。歴史家が、ギーズ公は一五八八年十二月二十三日に死んだと確認したり、小説家が公爵夫人は五時に外出したと物語るとき、これらの行動は厚味のない往事からたちあらわれる。それらは実存のふるえから解き放たれて、代数の安定性と構図とをもつ。それらは記憶だが、利害関係の方が持続よりもはつかにたくさん勘定に入る有益な記憶なのである。"(『零度のエクリチュール渡辺淳訳、みすず書房、1971年、pp.30-32)
 "単純過去のこうしたあいまいな機能は、また別のエクリチュールの事実のなかにも見出される。それは小説の三人称のことである。殺人者を物語の一人称のもとにかくすことに創意のすべてが賭けられていたある小説のことを多分おぼえているだろう。読者は殺人犯を筋のなかのすべての《かれ》の背後にさがしていた。ところが、殺人犯は《わたし》のもとにいた。作者は、小説では通常《わたし》は証人で、行為者は《かれ》であるということを重々承知していたのである。なぜそうなのか。《かれ》は小説の典型的約束であり、叙述的時称と同じく小説的事実を表示し、完成する。三人称がないと小説に到達できなかったり、小説を破壊するおそれがある。《かれ》は形式的に神話を表している。少なくとも西欧においては、先ほども見たように、自分のマスクを指さない芸術はない。したがって三人称は、単純過去と同様、小説芸術においてそのつとめをはたし、その消費者たちに、信頼できるがたえず偽りだと公表されている仕組の安全性を提供している。《わたし》はそれほどあいまいではないが、まさにそのためにそれほど小説的ではない。だから、《わたし》は、物語が慣習のこちら側にとどまるときにはもっとも直接的な解決となり(たとえばプルーストの作品の意図は、文学への序になることにほからならない)、《わたし》が慣習のかなたに置かれ、物語をいかにも自然を装った打ち明け話にして慣習を破壊しようとするときには、もっとも練りあげられた解決となる(ある種のジッド的物語の狡猾な眺望がこれである)。同様に、小説的な《かれ》の使用は、二つの対立した倫理とかかわりあう。というのは、小説の三人称は異論の余地のない慣習を示し、もっともアカデミックな人々ともっとも文章に凝らない人々を誘惑するが、同時にまた自分たちの作品の新鮮さに慣習を結局のところ不可欠のものと判断している人っちをも魅了するからである。ともかく、三人称は社会と作者との間の明瞭な契約のしるしである。しかし、それはまた作者にとって、自分が欲する流儀で世界を立たせる第一の手段なのだ。したがって、三人称は想像を歴史や実存にむすびつける人間的行為にほかならぬ、文学的経験以上のものである。"(同、pp.35-36)
 こうした透視図法によるような時間的、空間的に均質で等方向的な時空において主観性はどのように表現されるのか。ふみがあきらに同性愛者であることを告白するまでの場面(『青い花』第1巻、pp.136-141)を例に検討する。
 この一連の場面において視点は継起的に移行している。はじめ、視点は京子にあり、京子が立ちばなしするふみとあきらを眺め、各務との会話を回想する。そして、回想が終わったとき、セットは移動しており、そこに登場するふみとあきらに視点は移行している(pp.136-137)。そして、ふたりの会話において、180度システムの視界にとどまる切返しショットは、エスタブリッシング・ショットにつづく5コマのみで、以降、はじめにふみを正面ショットでとらえ、あきらを90度の角度でえがき、つぎにあきらを正面ショットでとらえるとき、ふみは90度の角度でえがいている(pp.138-139)。
 これにより、ふみの熱っぽい様子から、あきらのおどろきまで、視点の移行が円転滑脱としておこなわれ、それぞれの感情が同時的にえがかれている。
 こうした視点の移行の自然さへの工夫は他所でもおこなわれている。恭己と交際をはじめたふみは、恭己に主導権をとられる。したがって、恭己の行動は意外性をもってえがかれる。最初のデートで"またどこか行こうね"(p.106)という約束はそれまでの文脈を無視しておこなわれ、いっしょに登校できないというふみへの"帰りは私のためにとっといて"(p.128)という妥協は、それまでの皮肉な調子に反している。しかし、これらの意外性は停止(ポーズ)ではなく、恭己がコマの枠外にフレーム・アウトしていくなか、内容が描写に反することで演出される。
 そして、このような視点の移行の自然さは、画面における繊弱な輪郭線と淡い塗りが寄与している。
 プーレは『円環の変貌』で《近代リアリズム》の代名詞であるギュスターヴ・フローベールの描写について以下のように述べている。
 "『ミメーシス』すなわち文学における現実描写に関してのあのすぐれた批評書においてエーリッヒ・アウエルバッハは、『ボヴァリー夫人』から次の一節を引用し、注釈をつけ加えている。……さて、ここでアウエルバッハの指摘の要約をかかげておこう。――フローベールはトストにおけるエンマの生活を長々と述べたあと、この一節で、あるひとつの明確なタブローすなわち食事の時間の妻と夫のタブローを提示している。しかし、このタブローはそれ自身のために、それ自体では存在しない。それはエンマの絶望という中心主題に従属している。われわれはまず彼女を見て、それから彼女を通して状況を見る。他方、ここではエンマの思考のたんなる再現つまり彼女が思考してゆく通りの彼女の考えは問題にはならない。たしかにこのタブローを照らす光は彼女から出ているが、彼女みずからはこのタブローの一部分になっていて、その内側に位置づけられている。こうした指摘の意味をよく考えてみることは有益なことである。つまりフローベール的方法とは、凝視の対象としてひとつの存在者を提示し、今度はその存在者が周辺的な現実を凝視の対象とすることにある。《エンマは見る人である。さらに彼女は、彼女がみるのをわれわれがみつめている人でもある。》もし彼女がたんに外面から描かれていたなら、彼女は多くの事物のなかのひとつにすぎなかったであろう。暖炉や壁や夫や皿とともに客体的な雑多なものの一部になっていただろう。逆にもし『ユリシーズ』のブルームか、あるいはダロウェイ夫人のように、彼女がわれわれに内面的独白のなかで提示されていたなら、もはや皿も夫も壁も暖炉も存在しなかっただろう。存在するのはただ、そうした事物によってエンマのなかに喚起される感覚ないし情緒だけであろう。そしてエンマすらもはや存在していないだろう。なぜなら、彼女の身体が事物の基底にみずからの影をおとしながらわれわれにあたえている客観的な統一感は、感情と思考の純粋な流れによってとって代わられるからである。そのいずれの場合にも何かが失われるだろう。つまり一方では客観的世界が、他方では主観的存在が失われ、しかもその両方の場合に、この小説の本質そのものを構成している客体と主観との微妙な関係が失われる。意識と皿のようにまったく相異なる本質をもつものを互いに結びつけるのが明らかにこの関係である。はっきりと区別されている二つの現実が、それなりに、それぞれの構成要素を多様化させることによって自己分解してしまうのを妨げているのがこの関係である。したがって『ボヴァリー夫人』のなかには、ある全般的な一貫性というものがある。それは、事物が、同時的なものであれ、連続的なものであれ、つねに知覚的な思考のもつ統一性によって結びつけられていて、しかもこうした思考自体が絶えず接触をもちつづけているひとつの世界の客観性によって、その連続的な状態のなかでつねに分解から免れているという事実にもとづいている。"(『円環の変貌』下巻、pp.114-116)
 "しかしフローベールは、円周的な原因から点のような意識に至るこのような動きをわれわれに目に見えるようにしてくれたかと思うと、次の瞬間には、たちまちその魂が離心的に作用し、こんどはひとつのものとして自分の感情を空間に投影してゆくという逆の動きをわれわれに描き出してくれる。すなわちまた蒸し肉の湯気とともに彼女の魂の奥底からさらに別のむかつくような息吹きが立ちのぼってくるのだった。要するに求心的と拡張的との相つぐ運動によって、まったく異なる二つの方向に横切られるために、フローベール的環境は円周から中心へと中心から円周へとひろがるひとつの状況的空間のように見えてくる。フローベールにおける現実描写のこのような円環的な特徴は、すこしも隠喩的なものではない。あるいはたとえそれが隠喩だとしても、批評家によって議論の必要上思いつかれたものでないことは確かである。じじつ、こうした隠喩はフローベールの作品のなかにはたえず見出され、しかもそれらがきわめて一貫したものであり、きわめて必然的であり、きわめて意味深いものである以上、われわれはそれをフローベール的想像力における世界と存在の諸関係が表現される本質的イメージとして理解しなければならない。"(同、pp.118-119)
 "以上引用したテクストによって、フローベールがよく知りつくしかつ実現したものは、存在とその対象とのあいだの関係を提示する新しい方法であり、しかも彼の先行者たちのものよりももっと真実で、あらゆる場合に、もっと具体的で、もっと感覚的な方法であることが明らかになるだろう。彼の先行者たちやスタンダールでさえも作中の主人公を時間の流れに沿っていちいちその行動によって追いかけてゆくことに満足していたし、また他方バルザックは主人公の行動をある発端から放射されている諸力の中心として投げかけていたが、フローベールこそは、こうした直線的ないし単一中心的概念を放擲して、自分の小説を一連の中心点において構成し、そこからは数々の対象が前方にも工法にもあらゆる方面に拡散し、さらにそこには時間的であると同時に空間的な放射もあるようにした最初の小説家なのだ。小説の領域においてはじめて人間の意識が、感覚と回想の集中的ないし拡散的な飛翔が限りなくそれをめぐって行なわれ、つねに再構成されている一個の中心として、あるがままの姿を表わすものである。また小説はそれ自体が円環と中心になることによって初めて、人間的実体のもつ密度ないし濃度とでもいえるようなものを表現できるようになる。そうした濃度は、あらゆる方向に拡散してゆく意識の中心から、あるいはまた意識にむかってのひとつの集中運動となって数々の感動や回想の描く円周から形成されるようなものによって可能となる。こうした二つの運動は、すでに考察したように『ボヴァリー夫人』において、それぞれ交互に行なわれている。"(同、pp.137-138)そして、プーレはシャルル・デュ・ボスの批評を例に、『感情教育』への"人々はしばしばこの小説を形の整わない作品、つまり存在のまとまりのなさを主題としている小説と考えている。"(p.138)という定見に次のように反論している。"だが、こうした絶え間ない循環運動は、もし中心にひとつの要素が、つまり創造者でなくて秩序づけをする者のことを言っているのだが、そうした要素が存在しない場合には何の意味ももたないだろうし、また小説は形をなさないだろう。数多くの人物や経験や思い出を休むことなくあるひとつの中心に関連づけているその要素とは、主人公の愛である。仮りにフレデリック・モローがアルヌー夫人を愛さないとすれば、この小説には何の意義も構造も存在しなくなるだろう。だが、この場合はそうではない。ジャン=ピエール・リシャールが『フローベールにおける形式の創造』に関する研究のなかで言っているように、『教育』は《すべてのものが方向づけられた一個の軸のまわりに配置されている》ような小説である。この物語の発端からアルヌー夫人が現われてきてフレデリックに愛してもらったり、外面的には流動的で無定形な生き方をしているすべてのものが、このイメージのまわりに廻わりはじめ、そこから光を浴びるようになるのは、まさにこのためである。もっとも重要な文章を次に引用しておこう。……こうしてこのフローベールの小説は、いまやひとつの構成体として、一個の秩序あるものとして現われてくる。この秩序は形式上のものである。感情的諸要素は、それ自体は無定形な感覚的なものであるが、円環状の流れとなって、フローベールのもっとも美しい表現を借りれば《事物の総体が集中してくるまばゆいばかりの中心》が存在している中央部のある一点にむかって配置されるのだ。中心から円周へ、そして円周から中心へと運動するものがそこにはあり、しかもなお恒常的な関係がある。それが意識が生まれてくるひとつひとつの瞬間、意識が位置づけられているひとつひとつの場所的な地点と、他方、内面的であると同時に外面的でもあるその環境とのあいだに意識が確立しているような関係そのものである。フローベールのこの小説はしたがって状況(アンビアンス)の小説なのだ。"(同、pp.140-141)
 本作において〈青い花〉は作品の底部にライトモチーフとして一貫して存在し、それは、二者の主人公という非人称的な空間により可能になっている。

『荊の城』と『オリバー・ツイスト』

 独白をのぞき、『荊の城』は『オリバー・ツイスト』の観劇の場面ではじまる。本作はロンドンの下町を舞台にしており、主人公のスウは"Fingersimith"=スリであり、『オリバー・ツイスト』でオリバーが仲間にいれられる窃盗団の少年たちとおなじだ。付言すれば、ジョンとデインティのふたりは『オリバー・ツイスト』のノアとシャーロットを想起させる。
 "いまも覚えている――あの日、生まれて初めて見た――世間というものの図を。この世にはビル・サイクスのような悪い人もいれば、イッブズ親方のようないい人もいて、どっちに転ぶかわからないナンシーのような人もいる。よかった、とあたしは思った。ナンシーがようやくたどり着いた側に、あたしは最初からいるのだから――いい人たちの側に。砂糖菓子のある側に。"(『荊の城』上巻、サラ・ウォーターズ著、中村有希訳、東京創元社、2004年、pp.14-15)
 スリであるスウは潔白なオリバーではなく、娼婦のナンシーだ。("「話の中身はたいへん結構だけどね。言葉づかいに問題がある。サクスビーさんはそのへん、ちゃんとしつけてくれたはずだろ。きみは街角ですみれを売るわけじゃないんだ。もう一度、言って」"(同pp.61-62))
 『オリバー・ツイスト』で、有名なロンドン橋での密会や、サイクスの逃亡などの場面につながる前章として、娼婦のナンシーは令嬢のローズと会見する。
 "「いまのあなたのお暮しと、それから逃れ出る機会があることを、もう一度考えて下さいな。あなたは、わたくしにそれを請求する権利をお持ちですわ。自分からすすんで今のようなことを報せて下すったというばかりでなく、ほとんど救いの道を失った女性として、たった一言で救われるというのに、そんな盗賊の群や、そんな男のところへ、お帰りになるのですか。あなたを引戻し、そんな悪業や不幸へ縋りつかせるとは、どんな魅力なのでしょう。ああ、わたくしが触れることのできる琴線が、あなたの心にはないのでしょうか。そうしたおそろしい魅力を相手にして、わたしの力でうったえることのできるものは残っていないのでしょうか」
「お嬢さまのように、若くて、悪をしらない、美しい方が、恋をなさっても、恋というものは、どこまででもあなたを引っぱってゆくものですわ――お嬢さまのように、家庭や、お友だちや、ほかに心を寄せる人や、そのほかあらゆるものがお心を満たしているというのに。きまった屋根といっては棺の蓋しかない、病気になったり死ぬ時の友だちといっては、慈善病院の看護婦しかないわたしのような女が、どんな男にでも望みをかけ、みじめな暮しをしている間じゅう、ぽっかり心の中にあいている空所を、その男でうずめるとなっては、わたしたちにどんな希望がありましょう。わたしたちを憐れんで下さい、お嬢さま――女に残されたたった一つの情(こころ)を持っていることを、そして、神さまの厳かなお裁きで、慰めと誇りに別れ、かえって虐待と苦しみへと向ったわたしたちを、憐れと思って下さいまし」
「わたくしから」とローズはちょっとためらってから云った。「お金を受取って下さいな。お金があれば、悪いことをなさらずに暮らせるでしょう――なにはともあれ、この次おめにかかるまでは」
「いただきませんわ」とナンシーは手を振りながら答えた。
「わたくしがお手助けしようとしているのに、お心をおとじにならないで下さいな」とローズはやさしく歩み寄りながら云った。「ほんとに、わたくし、あんたのお力になりたいと思っているんですから」
「お力になって下さる気なら」とナンシーは両手を砕けるほど握りしめながら答えた。「ここですぐ命をとって下さることがいちばんですわ。だって、今夜ほど自分の身の上を考えて悲しかったことはないんですもの。それに、これまで暮して来たような地獄の中で死ななかったのが、せめてものことですわ。ではさよなら、わたしが自分でうけた恥だけの幸せを、神さまがあなたにお恵みくださいますように」"(『オリバー・ツイスト』下巻、チャールズ・ディケンズ著、中村能三訳、新潮社、1955年、pp.177-179)
 ディケンズの二作目である『オリバー・ツイスト』は、その初期作品の特徴として楽観主義的であり、登場人物は善悪に分かれている。ナンシーはその例外として、オリバーの誘拐に参加しつつ、その救出を手助けし、作品の半ばで死ぬ。ディケンズの作品はヴィクトリア朝にあって社会諷刺に貫かれており、ニューゲート監獄に多くの紙幅を割く『大いなる遺産』は、『荒涼館』『リトル・ドリット』などと同様に後期作品らしく陰鬱で、ジェントリとしての振舞いを重視する価値観そのものを批判する。マーシャル・マクルーハンは『メディア論』で、前期から後期への作風の変化に、可動的な子どもの目を視点に用いた『デヴィッド・カッパーフィールド』を書いたことを一因に挙げる。
 『大いなる遺産』で流刑囚のマグウィッチがピップをジェントリにしようとしたように、『荊の城』ではサクスビー夫人はモードを貴婦人にしようとした(『荊の城』下巻、p.82)。
 おなじヴィクトリア朝を舞台として、『半身』で監獄を、『荊の城』でポルノを主題にした両作は当時の価値観を相対化している。そして、モードは生粋の令嬢ではなく、ポルノの朗読者で、スウもまた公爵の血筋でスリだ。
 "「そうすりゃ、ここに来てあたしになれるってわけかい!」モードは答えない。ああしは言った。「あたしたち、一緒に、あいつを裏切ることだってできたんだ。あんたが言ってくれさえすりゃ。あたしたちで――」
「えっ?」
「なんとかできたのに。あたしがきっとなんとかした。どうにかして……」
 モードは首を横に振り、静かに言った。「あなたはどれだけのものを捨てられたかしら?」
 その視線は闇のように、揺れもせずまっすぐに伸びてきた。突然、あたしは母ちゃんが――そしてジョンもデインティもイッブズ親方も――固唾をのんでこっちを見ていることに気づいた。そしてあたしは、自分の臆病な心を覗きこんで思い知った。あたしにはモードのために何ひとつ、本当に何ひとつ捨てることができなかったのだと。これ以上、モードに恥をかかされるくらいなら死んだほうがましだった。"(『荊の城』下巻、p.336)
 『荊の城』が『オリバー・ツイスト』を引いているとすれば、そこにはディケンズの初期作品では叶えられなかったナンシーとローズの友情にたいする目配せがあるだろう。

 

「ユートピアの臨界点」としての『ハーモニー』

 伊藤計劃著『虐殺器官』に"戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。"(伊藤計劃著『虐殺器官』、p.19)と引用されるジョージ・オーウェル著『1984』には"自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。"という文句が一再ならず登場する。この原則が崩壊することで本書はディストピア小説として完成するが、これより以前にニコライ・チェルヌイシェフスキーの空想的社会主義小説『何をなすべきか』を引きつつ、"二二が四がすばらしいものだということには、ぼくも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないだろうか。"と述べている小説がある。フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。

 この表現には『悪霊』にも"私はそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、私は信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。"(『悪霊』下巻、米川正夫訳、p.309)と反復して(『悪霊』上巻、p.538)登場するが、ユートピア思想は本書でもまた語られる。

"「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにまたあまり謙譲に過ぎるのです。僕は同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶望を服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだと言うのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかも知れませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。(後略)」"(同、下巻、pp.114-115)

"「私は諸君に宣告します、――私に必要なのは直截な返答です。むろん、私もここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、私は、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべり続けるような愚を、二度と再び繰り返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべり続けていたのです)、――私は単刀直入にお訊ねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断りしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? この方は、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』と言ってやかましいことですが、それはまあ、一種の譬喩に過ぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはりなおりっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りがまわって、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんなだめにされてしまって、われわれは結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それは私もぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少し億劫なんでしょう、――いや、しかし私はうまく言いまわすことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行く方か、それとも、全速力でその上をとび越える方か?」"(同、下巻、pp.121-123)

 『1984』との関係では、"「ねえ、スタヴローキン、山をならして平地にする、これはいい思いつきですよ、こっけいじゃありません。僕は、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学ももうたくさんだ! 科学なんかなくったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世はただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、僕らはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない。』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一度くらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、誰も彼も突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦痛はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります。」"(同、下巻、pp.141-142)という補説もみる必要があるだろう。

 『地下室の手記』では以下のとおりだ。

 

"しかし、にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときにがきて、そうなれば古い悪癖のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる。諸君はまた、そのときには人間がわざわざ好きこのんで誤りを犯すようなこともなくなり、自分の正常な利益に反した意志をもつ気になど、なろうたってなれはしない、だいいち、その自由がなくなる、と確信しておられる。そればかりか、諸君に言わせれば、そのときは人間が科学に教えられて(ぼくの考えでは、すこし贅沢すぎる話だが)、人間にはもともと意志も気まぐれもありはしない、いや、これまでにもあったためしがなかった、そもそも人間なんて、せいぜいピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまりの存在なのだと悟るようになる、というわけだ。いや、それ以上に、この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それはけっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。そのときには、人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、まるで対数表か何かのように、その数も十万八千ほどになり、カレンダーなんぞに書きこまれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。そのときこそ――いや、これも諸君の説なのだが――やはり数学的な正確さで計算され、完璧に整備された新しい経済関係がはじまり、およそ問題などというものは、一瞬のうちに消滅してしまう。というのも、いっさいの問題について、ちゃんとその回答が用意されているからである。そのときにこそ、例の水晶宮*が建つわけだ。そのときにこそ……いや、一言でいえば、そのときにこそ鳳凰が舞いおりるわけなのだ。"(『新潮世界文学』10巻 『地下室の手記江川卓訳、pp.170-171)

(*『何をなすべきか』に登場する未来の社会主義社会)

"〈は、は、は! それにしても、その恣欲とやらが、へたをしたら、そもそも存在しないのかもしれないじゃないですか!〉諸君は笑いながらこうさえぎるだろう。〈科学はすでに今日でさえ、人間を立派に解剖してくれていますからね、もう万人周知の事実なんですよ、恣欲とか、いわゆる自由意志とかいうものが、ほかでもない、たんなる……〉いや、待ちたまえ、諸君、ぼく自身、そんなふうに切りだそうと思っていたところなのだ。だから、白状すると、ぎくりとしたくらいだ。たったいま、ぼくは、恣欲なんてわけのわからない代物で、何に左右されるか知れたものじゃないし、そこがまた、おそらく、めっけものなんだろう、と叫びかけたのだが、そこではたと科学のことを思いだして、それで……絶句してしまった。と、そこへさっそく、諸君が半畳を入れたわけなのだ。だって、実際問題として、たとえば、いつの日か、ぼくらの恣欲やら気まぐれやらの方程式がほんとうに発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのようにして拡大していくか、これこれの場合にはどこへ向かって進んでいくか、といったようなことがわかってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、おそらく即座に欲求することをやめてしまうだろう、いや、確実にやめてしまうに相違ない。だいたい、一覧表に従って欲求するだなんて、糞おもしろくもないだろう? それどころか、そうなったら人間は、たちまち人間であることをやめて、オルゴールのピンみたいなものになってしむだろう。なぜって、欲望も意志も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか? 諸君の考えはどうだろう? そういうことがありうるものかどうか、ひとつその可能性をかぞえあげてみようじゃないか? 〈ふむ……〉と諸君は解答を出すだろう。〈ぼくらの恣欲は、ぼらくらの利益に対する見方が誤っているために、あらかたはまちがっているんですよ。ぼくらがときたまとてつもないナンセンスをしたくなるのも、ぼくらのあさはかさから、このナンセンスこそが、あらかじめ予定された何かの利益に到達するいちばんの近道だと思いこむからなんです。だから、もしこうしたことが全部解きあかされて、紙の上で計算されてしまったら(いや、それも大いにありうることですがね。人間がある種の自然法則を認識できないなどと頭からきめこんでしまうのは、みにくい、たわけたことですから)、――そのときには、むろん、いわゆる欲望などというものはなくなってしまうでしょうよ。だって、もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ。だって、たとえば、ぼくが親指をどこかの指の間から突きだして、赤んべえとばかりだれかを侮辱してやったとしても、それはこれこれの理由でそうせざるをえなかったのだ、しかも、ぜひともこれこれこの指を使わざるをえなかったのだ、といったことが計算によって証明されるようなときがくるとしたら、いったいどんな自由がぼくのうちに残されることになります? ましてやぼくが学者で、どこかの大学を卒業でもしていたら。そうなったらぼくは、三十年もの先まで、自分の全人生を計算できることになる。つまり、一言でいえば、もしそんなことになったら、ぼくらはもう何をすることもなくなってしまう、何でもかでも受け入れるしか手はないのですよ。いや、それよりぼくらは、一般的にいって、たえず倦むことなく、自分に言いきかせておくべきですな。これこれの瞬間、またこれこれの状況のもとでは、自然がぼくらの意向をたずねてくれる気づかいはないわけだから、自然のそのあるがままに受け入れるべきで、けっしてぼくらが空想するように受け入れてはいけない。で、もしぼくらがほんとうに例の一覧表やカレンダーをめざして進んでいるということだったら、いや、それと……たとえば例のレトルトさえもめざしているということだったら、仕方がないから。そのレトルトも受け入れなければならない! さもないと、そのレトルトのほうから、きみの意向などかまわず、割りこんでくることになる……〉"(同pp.172-174)

"ぼくが味方するのは……自分の気まぐれ、いや、それから、必要な場合には、この気まぐれがぼくに保証されること。それだけである。苦悩というやつは、たとえば、笑劇などには登場させてもらえない、これは承知している。水晶宮では、これはもう考えられもしないことだ。苦悩とは疑惑であり、否定であるが、水晶宮で暮らしてなおかつ疑惑に悩むくらいなら、これはもう水晶宮でも何でもありはしない。ところで、ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見替えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚噛んでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにしても、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だが、それでも、何もないよりはましというわけだ。"(同pp.180-181)

"「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」「わたしは笑わなかったよ」パシン、とミァハはステップを止めて両手を叩き合せる。バンカーの暗闇の奥に、木霊が逃げていった。「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万という男の子女の子が自殺してる。大人もね。野蛮を、自然を、徹底して自分の内側から排除することはできないんだよ。生府が体現する小さな共同体とか、そういうシステムや関係性を扱う以前に、わたいたちはまずどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めに過ぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」「あなたは思ったのね。この世界に人々がなじめず死んでいくのなら――」「そ、人間であることをやめたほうがいい」タタッ、タタッ、タタッ。再びミァハはステップを軽やかに踏みはじめた。「というより、意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる」タタタタタタッタタッタタッ。「昔、兵隊は靴を身体に合わせるんじゃなくて、身体を靴に合わせろって言われたそうだよ。わたしたちには、それが簡単にできるんだ」「老人たちが認めればね」再び、ミァハのステップが止まった。肩を落としてため息をつくと、「そう。老人たちは『意識の停止』を死と同義に受け取った。それで何千年ってやってきた少数民族が、コーカサスの山のなかにいたっていうのにね。システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ」"(伊藤計劃著『ハーモニー』pp.342-344)

 『1984』と『地下室の手記』のユートピアディストピアの両義性を統一した『ハーモニー』は、まさに"ユートピアの臨界点"をしめしたといえるだろう。

 余談だが、『反抗的人間』で頻々にドストエフスキーの小説の登場人物を〈反抗的人間〉としてあげるアルベール・カミュは、『ペスト』において"二足す二は四"の表現を用いている。

 また、ジョン・マクスウェル・クッツェーも、ユートピアでありディストピアである都市をえがいた『イエスの幼子時代』でこの表現を用いている。

"保健隊に献身的に働いた人々も、事実そうたいして奇特なことをしたわけではなく、つまり彼らはこれこそなすべき唯一のことであるのを知っていたのであって、それを決意しないということのほうが、当時としてはむしろ信じられぬことだったかもしれないのである。こういう隊が作られたことは、市民たちが一層深くペストのなかにはいりこむことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、一部分、彼らに納得させたのである。こうしてペストがある人々の当然なすべき仕事となったため、ペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、眼に映ずるに至った。これはいいことである。しかし、教師が二たす二は四になることを教えたからといって、別にお祝いをいわれはしない。お祝いをいわれることがあれば、それはおそらくそういうりっぱな職業を選んだということであろう。だから、タルーやその他の人々が、どちらかといえばその逆よりも、二たす二は四になることを証明するほうを選んだのは、ほめるべきことであったといっておくとして、しかしまたこの善き意志は、彼らとともに教師および教師と同じ心をもつすべての人々に共通のものであることをいっておきたいのであって、こういう人々は、人類の名誉にかけても、普通考えられている以上に多いのであり、少なくともそれが筆者の確信なのである。もっとも筆者としても、これに対する反駁がありうることは十分意識しており、それはつまり、これらの人々は生命の危険を冒していたということである。しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるというときが、必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。そして問題は、いかなる褒賞あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちがはたしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。"(アルベール・カミュ著『ペスト』宮崎嶺雄訳、pp.156-157)

"「ブント・アレーナスに特殊学校を建てたからさ。フアンとマリアのお話だの、海辺の活動だのに退屈してしまう子たちのための。退屈しているうえに、退屈しているのを隠しもしない子たちの学校だ。担任教師の押しつける足し算引き算の規則に従わない子どもたち。規則ったって、人為的な規則だよ。二足す二は四です、みたいな」「大変っすね。けど、どうして坊やは先生の言うやり方で足し算をしようとしないんだろう?」「先生の言うやり方は正しくないと、内なる声が語りかけているのに、どうしてそんなものに従わなくてはいけない?」「わからないな。その規則がシモンさんやおれや、ほかのみんなにも正しいものなら、どうしてダビードにだけは当てはまらないんですか? それに、どうして人為的な規則なんて呼ぶんです?」「なぜなら、二足す二は、われわれの決め方次第で、イコール三にも五にも十九にもなり得るからだ」「でも、二足す二って四じゃないですか。"イコール"に特別変わった意味でも持たせないかぎり、自分で、指で数えてみたらいいですよ。一、二でしょ、三、四。まじで二足す二、イコール三だったら、なにもかもが滅茶苦茶になりますよ。こことは違う物理法則をもつ、別の宇宙にいるってことになる。現存するこの宇宙では、二足す二、イコール四。これはおれらの意思から独立した普遍的法則で、ぜんぜん人為的とかじゃないです。たとえ、シモンさんとおれが存在しなくなっても、二足す二は四であり続ける」「そうだろうな、しかしどの二とどの二を足すと四になるんだ? ……」"(ジョン・マクスウェル・クッツェー著『イエスの幼子時代』鴻巣友季子訳、pp.327-328)