『ONE ~輝く季節へ~』読解 - 「えいえん」とは何か -

 本稿では1998年、keyの前身であるTacticsが発売した『ONE~輝く季節へ~』を里村茜ルートを中心に読解する。本作では《えいえん》という異世界が主要な道具立てになっている。《えいえん》が筋書きに大きく関わるのは茜ルートのみであり、そのため、茜ルートが本作の主要なルートだと言える。
 読解の構成としては、まず、茜ルートの筋書きを確認しつつ、《えいえん》の表象するものを考察し、そののちに、茜ルートおよび作品そのものの主題を読解する。

 茜ルートの特色は、茜が《えいえん》を経験として知っていることだ。雨の日は、茜はある空地で誰かを待っている。個別ルートに入ったのち、その人物が《えいえん》に行った幼なじみであることがわかる。
 主人公の浩平は、茜にそのことの精神的な決着をつけさせる。そのことを通じ、浩平と茜は愛しあうようになる。しかし、物語の終結部において浩平も《えいえん》に行ってしまう。エンディングののち、翌年、茜のもとに浩平が戻ってきて、今度こそ本当の結末を迎える。
 さて、この《えいえん》とは何なのか。作品そのものが、次の台詞ではじまる。

《「えいえんはあるよ」
「ここにあるよ」》

 説話論的には、各ルートとも個別ルートに入ったのち、《えいえん》の間接的な説明がなされる。浩平は幼少期に妹を亡くした。そのことですべてに絶望していたとき、正体不明の少女に上記の言葉を言われた。そして、浩平は再起した。
 しかしながら、作中で直接的に《えいえん》について説明されることはない。
 部分的に言えることは、《えいえん》による別れは、プレイヤーがゲームを終えることと類比されているということだ。

1月5日
《ぱたんと窓を閉めると、雨音が遠ざかる。
浩平〈今日は、どうするかな…〉
これだけ寝ていたんだ、腹も空いているはずなのに全く食欲がない。
得体の知れない虚脱感に包まれながら、さっきまで横になっていたベッドに再び身体を預けた。
視線だけを動かしてカレンダーを見る。/

1999年。
由起子さんが、職場から貰ってきてくれた真新しいカレンダーだ。
1月から3月まで、3ヶ月分を1枚にまとめた壁掛けのカレンダー。これ以上、このカレンダーをめくることはあるのだろうか…。
そんな考えが、重くけだるい脳裏をよぎる。/

本当に、去年の喧騒が偽りの出来事のように思える。
何が違うのか…。
去年と何が違うのか…。
ただ、今は冬休みで、クラスの奴らと馬鹿騒ぎすることもないだけだ。
違うのはただそれだけだ。/

新学期が始まれば、また学校だ。そして、またお祭り騒ぎのような日常が始まる。
去年と何も変わらない。
くだらなくて、退屈で…。
でも、楽しかった日常。
…そうなるはずだった。
……
浩平「…だった?」/

オレは何を言ってるんだ…。
………
浩平「……ふぅ」
雨音にかき消されないように、わざと大げさにため息をつく。
やめよう。部屋に閉じこもってるから、よけい気分が重くなるんだ。》

 個別ルートの開始する初日の独白だ。浩平の人物造型は90年代のゲームらしく、躁的なものになっている。共通ルートでは浩平が過激な言動をくり返し、そのスラップスティックなギャグはかなり笑える。また、共通ルートは毎朝、ヒロインの長森瑞佳が起こしにくるが、冬季休暇であるこの日はそれがない。
 躁の反動の抑鬱を描写しつつ、メタ=フィクショナルな視点を暗示する、巧みな文章だ。事実、作中の時間は結尾部を除き、3月までで終わる。
 また、ここでは主人公が学生であることで、青春の喪失感が描写されている。そのことも、作中における抑鬱を描くとともに、いわゆる学園モノである本作に対するメタ=フィクショナルな視点を導入し、その虚構性に対する虚無感を暗示している。

2月6日 BAD END
《いつまでも繰り返される日常。
他愛ない友達とのやりとりや、たまのすれ違い。
屈託なく笑い合って過ごす休み時間、退屈な授業。
それは、ふと思うと永遠とも感じられるような
長く、穏やかな時間。/

………。
でも、永遠がほんとうにあることをオレは知っていた。/

ぼくはそれを知っていたんだ。》

 青春の喪失感と、いわゆる学園モノである本作のメタ=フィクショナルな虚無感の問題を前景化している。

2月6日 回想(※各ルート共通)
《〈………〉
長い時間が経ったんだ。
いろいろな人と出会って、いろいろな日々に生きたんだ。
ぼくはあれから強くなったし、泣いてばかりじゃなくなった。
消えていなくなるまでの4ヶ月の間、それに抗うようにして、ぼくはいろんな出会いをした。/

乙女を夢見ては、失敗ばかりの女の子。
光を失っても笑顔を失わなかった先輩。
ただ一途に何かを待ち続けているクラスメイト。
言葉なんか喋れなくても精一杯の気持ちを伝える後輩。
(※ルートによって暗示される人物が増える)
駆け抜けるような4ヶ月だった。
そしてぼくは、幸せだったんだ。/

〈滅びに向かって進んでいるのに…?〉
いや、だからこそなんだよ。
それを、知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってことを。/

こんな永遠なんて、もういらなかった。
だからこそ、あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。
…オレは。》

 前述した《えいえん》の間接的な説明だ。ここでは、作品そのものが明確にメタ=フィクショナルに対象化されている。4ヶ月とは作中の時間だ。

《 『この人……茜の、知り合い?』/

それが日常の崩壊を知らせる警笛だった。
枕元の目覚まし時計を見る。
8時過ぎ。
いつも通りなら、学校へ行かなければならない時間。
いつも通りなら、お節介焼きな幼なじみが布団をはぎ取る時間。/

…でも今日は。
この部屋に勝手に上がり込む者なんていない。
ここは、他人の家だから。
他人の住む家だから。/

……
聞こえるのは雨の音だけ。
そろそろ、ここにいることもできなくなるな…。
今のオレはただの空き巣と同じ存在だった。
由起子さんの留守に、合い鍵を持っているのをいいことに勝手に家に上がり込んでいるんだから…。
…オレはゆっくりと身体を起こし、そして服を着替えた。
簡単に身支度を整えて、廊下へ出る。/

行く宛なんてなかった。
オレの存在を受け入れてくれる場所はもうこの世界にはないんだから…。》

 《えいえん》による別れの予兆がはじまる。主人公は存在ごと周囲のひとびとに認識されなくなってゆく。
 主人公を通じ、作中世界に仮住まいするプレイヤーの立場を明晰に表現している。
 浩平は叔母である《由起子さん》の家に居候しているという設定だが、《由起子さん》は作中に1度も登場しない。茜が会おうとしたときなどは、偶然、行きちがいがおきる。こうした描写も、両親が存在せず、事実上、独居しているという主人公の虚構性を強調する。
 では、《えいえん》とは現実世界の隠喩なのだろうか。そうではない。
 なぜなら、各ルートとも、クリアすると浩平は作中の世界に帰還するからだ。
 さらに、仮に《えいえん》が現実世界の隠喩だったとして、意味はそれにとどまらない。《えいえん》は強い懐かしさをおぼえる場所として描写されている。

3月9日
《網膜の奥にまで侵食する赤。
それは直接涙腺を刺激するようにオレの中に入り込んでいた。
目の奥から何かがこみ上げてくる感覚。
オレはそれを誤魔化すようにゆっくりと上を見上げる。/

360度パノラマの中で、視界が別の光景を映し出す。
赤から赤へ。
雲の天井。
流れる。/

浩平「…なあ、茜」
茜 「…はい」
浩平「もし、オレがどこかへ行ってしまったらどうする?」
茜 「…嫌です」
浩平「…そうか」
茜 「…はい」/

信号が点滅して、人が動き出す。
浩平「綺麗な夕焼けだよな」
茜 「…本当に綿飴みたい」
浩平「綿飴か、懐かしいな」/

茜 「今度私が作りますよ」
浩平「作れるのか?」
茜 「見よう見まねですけど」
浩平「…そうか、だったらできるだけ早いほうがいいな」/

見上げた瞳。
ゆったりと流れる雲。
浩平「…もうすぐオレはあの雲の向こう側に行くんだから」
こみ上げる涙が頬を伝って流れ落ちていた。
それは確かな確信だった。/

あの日、オレの切望した世界がその向こうにあった。
オレはその世界に行くのだろうか…。
すると、この世界のオレはどうなるんだろうか…。/

茜 「…消えますよ」
点滅する横断歩道を、困った顔で指さしていた。
浩平「…ああ、そうだな」/

時間は移ろいゆくものの象徴。
永遠なんてないって…。
止まらない時間なんてないって…。
ぼくはずっとそう思っていた。》

 見事な懐かしさの感覚の描写だ。
 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』でルソーの分析において、個人と世界の対立につき、その葛藤を解消する方法は、本能的な感覚と感情を一体化させるか、激しい感情を排し、感情の記憶を追想するかしかないと述べる。それが懐かしさの効用だ。
 また、その懐かしさはフィクションを体験するときの全能感と同質だ。サルトルは『想像力の問題』でその全能感を指摘する。
 《大多数の人間にとって最悪のものに他ならぬ、作りもので、ぎこちなく、テンポが遅く、味もそっけもないその生活、これこそまさしく分裂病患者たちが望むところのものなのだ。自分を王様だと想像する病的な夢想家は実際の王位には我慢できぬであろうし、一切の彼の欲望がきき容れられるような専制君主の位にさえも我慢がならぬであろう。》(ジャン・ポール・サルトル著、平井啓之訳、『想像力の問題』(『サルトル全集』第12巻)、p.204)
 プルーストはこの両者を理論的にまとめ、実作した。それが『失われた時を求めて』全7篇だ。
 『失われた時を求めて』においてプルーストは過去を永遠化しようと、その文章そのものを書記している。その理論は最終巻で直接的に述べられる。非在を対象とする想像力、すなわち美の享受が現在においておこなわれることで、記憶は超時間的なものとなる。そして、そのことによりひとびとははじめて幸福を得る。《というのも、本当の楽園とは失われた楽園にほかならないからだ。》(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、『失われた時を求めて』第7篇『見出された時2』、p.373)。
 それは『ONE~輝く季節へ~』の構造と同じだ。《えいえん》は作中における超越的な異世界を指し、それが現実世界を指すと同時に、現実世界における作品そのものをも指す。つまり、現実世界と作品とで、《えいえん》はクラインの壺のような無限に循環する構造をもつ。
 そして、われわれは『ONE~輝く季節へ~』の物語を哀惜する。しかし、それこそが鑑賞体験に他ならない。だから、その体験は超時間的で、無限におこなえるものだ。つまり、永遠だ。
 そのため、本作は循環構造のように、次の台詞ではじまる。

《「えいえんはあるよ」
「ここにあるよ」》

『さらざんまい』読解 - 欲望機械、円環、永劫回帰 -

 本稿では『さらざんまい 』(幾原邦彦監督、MAPPA、ラパントラック制作、2019年)の読解をおこなう。概要としては、まず本作の世界観を確認したのち、同時代性を踏まえ、その問題意識を特定する。そして物語によるその解答を分析する。また、本作はメッセージ性が明確なことから、これを幾原邦彦の過去の監督作品と比較対照する。
 本作の世界観は、ヒトの世界と河童の世界が存在し、主人公たちがヒトの姿と河童の姿のあいだで変身しつつ、両世界の危機を解決するというものだ。
 この世界観は芥川龍之介の『河童』のオマージュだ。

《「私は王子であるがゆえに、カエルという侮辱を受けると、ついかっとなって尻子玉を抜いてしまうのですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)

 

《「その河童は誰かに蛙だと言はれ、――勿論あなたも御承知でせう、この国で蛙だと言はれるのは人非人と云ふ意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです。」》(『河童』、芥川龍之介著、青空文庫

 また、本作では河童の国の敵国が獺の国となっているが、これは芥川龍之介の『河童』そのままだ。
 なぜ、いま芥川龍之介なのか。野口武彦は『近代小説の言語空間』で、芥川龍之介の自殺を分析的な知性の現実に対する敗北と類比させている。また、その敗北の顕著な例として、『或る阿呆の一生』の失敗を挙げている。これはラカンで言うところの象徴界の内破であり、きわめて現代的な問題だ。

《千葉「そうですね。言いかえれば、情報テクノロジーの発達で行きついたのは要するにSNSでの承認欲求のゲームであるということで、最先端のテクノロジーを使って何をやっているかと言えば、そこで展開されているのはきわめて人文的な風景ですよね。まさにラカンジジェクが得意とするような主人と奴隷の弁証法が展開している状況で、テクノロジーに還元することが難しいような主体化のロジックこそがやはり人間には大事なのだということがわかります。加速主義者がある種の科学主義者であるならば、そうした主体の問題は時間の経過とともに消滅するのかもしれませんが、まったくそうなっていない。それどころか、テクノロジーによるある意味での脱主体化、テクノロジーによる脱意味化とでも言うのでしょうか――つまり、すべてがお金の量の計算、クオンティティ(量)の問題になっていく一方で、人間はそれでも主体的な意味にしがみついてしまう。こういった状況の二重性があります。つまり、人間がより無機的な数の次元に還元されていくと同時に、ある意味きわめて純粋に主体化の次元が抽出されてくる。それが加速主義と新反動主義が双子であるということの一つの意味なのではないかと思うのです。」》(「加速主義の政治的可能性と哲学的射程」、千葉雅也、河南瑠莉、セバスチャン・ブロイ、仲山ひふみ、所収『現代思想』2019年6月号《特集=加速主義》、p.16)

 人文学における左派加速主義は、こうした資本主義のシステムへの埋没を剔抉する。そこで生じていることは象徴界想像界に対する敗北、より端的には、記号に対する意味の喪失だ。その顕著な例は、SNSのタコツボ化だ(『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、木澤佐登志著、イースト・プレス、2019年)。
 本作のキャッチコピーは《つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。》というものだ。《つながり》は作中に頻出する言葉で、多義的に使用されている。しかし、本作の第1話ではスマートフォンSNS、アマゾンのネットショッピングの小道具が強調されており、少なくとも《つながり》は部分的にSNSを主題化している。
 左派加速主義の代表作である『資本主義リアリズム』において、マーク・フィッシャーはラカンの分裂症理論を援用し、そうした意味を失った記号の流通する資本主義を批判している(『資本主義リアリズム』、マーク・フィッシャー著、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、2018年、p.52)。
 《つながり》につき、芥川龍之介は半自伝的小説の『大導寺信輔の半生』において、友人をつくることの困難さを語っている。

《信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たといどう言う君子にもせよ、素行以外に取り柄のない青年は彼には用のない行人だった。いや、寧ろ顔を見る度に揶揄せずにはいられない道化者だった。》(『大導寺信輔の半生』、芥川龍之介著、青空文庫

 また、芥川龍之介は『大導寺信輔の半生』で象徴界の住人である自己を素描している。芥川龍之介は《自分は人生からは何も学ばない。書物から学ぶのだ。》というアナトール・フランスの言葉に賛同していた。

《こう言う信輔は当然又あらゆるものを本の中に学んだ。少くとも本に負う所の全然ないものは一つもなかった。実際彼は人生を知る為に街頭の行人を眺めなかった。寧ろ行人を眺める為に本の中の人生を知ろうとした。》(同前)

 デイヴィッド・ピース芥川龍之介にオマージュを捧げた『Xと云う患者』において、芥川龍之介とともに、マーク・フィッシャーに献辞を送っている。《Aに捧ぐ。マーク・フィッシャー、ウィリアム・ミラー、および我等が人生の全ての幽霊たちを偲びつつ。》(『Xと云う患者 龍之介幻想』、デイヴィッド・ピース著、黒原敏行訳、文藝春秋、2019年)。ピースは芥川龍之介の作品で『河童』を最高傑作として評している。

《ピース「ちなみに「河童」は、芥川の最高傑作だと思います。アナトール・フランスのような政治風刺と、幻滅した作家の内面が、あれだけの長さに収まっているのは見事です。死を意識した芥川にとって、書かずにはいられない小説だったのでしょう。」》(《巧みな「コラージュ」で浮かびあがる、芥川の人生の闇 デイヴィッド・ピースさん「Xと云う患者 龍之介幻想」》

http:// https://book.asahi.com/article/12305730

 作品の世界観と問題意識を確認したところで、物語の内容を分析する。ここでは作品の思想にドゥルーズの批判哲学を仮定する。なぜなら、承認の欲求というものをはじめに問題にしたのは『精神現象学』におけるヘーゲルであり、ラカンジジェクがそれを発展させたが、ヘーゲルの解答は個人間の対立を家族、市民社会、国家へと糾合して解消する愚劣なものだったからだ。問題意識を継ぎつつ、そのもっとも先鋭な批判者だったのがドゥルーズだ。また、左派加速主義はドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』、ボードリヤールの『象徴交換と死』、リオタールの『リビドー経済』を一般に援用している。

 主人公の矢逆一稀、陣内燕太、久慈悠らは尻子玉を抜かれることで河童に変身し、欲望フィールドで活動できるようになる。

《「ここは欲望フィールドですケロ。人の世の裏側。人間にはこの世界もカッパも見ることはできませんケロ。つまりあなたたちは生きていて死んでいるのですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)

 欲望フィールドは死の向こう側であり、象徴界現実界、記号と意味が完全に同致する場所、アイロニーがそのまま真理である場所だ。そして、河童は人間の世界における象徴界現実界の乖離の象徴だ。

《我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。(僕はこの章を読んだ時思はず笑つてしまひました。)》(『河童』)

 尻子玉はそのまま『アンチ・オイディプス』における《欲望機械》に相当する。『アンチ・オイディプス』の全編において肛門は《欲望機械》の比喩として用いられる。《欲望機械》は人間を駆動させるもの全般を指す。

《「その尻子玉って何?」
「尻子玉とは人間の欲望エネルギーを蓄積する臓器ですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)
《「これからあなたたちにはカパゾンビと戦っていただきますケロ。やつらは生前執着していた欲望を満たそうとしてますケロ。カパゾンビは尻子玉を抜けば消滅しますケロ。河童になったあなたたちになら抜けますケロ」》(同前)

 

《〈それ(エス)〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。》(『アンチ・オイディプス』、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳、河出書房、2006年、上巻、pp.15-6)

 一方、《欲望機械》はそれ自体では抽象的な欲求しかない。その欲求を具体化するため、記号が展開する場が《器官なき身体》だ。

《欲望機械と器官なき身体との間に、あからさまな戦いがまき起る。諸機械の接続、機械の生産、機械のノイズ、いちいちの場合にそれらは器官なき身体にとって耐え難いものとなってきた。この身体は、もろもろの器官の下にいまわしい蛆虫や寄生虫がうごめくのを感じ、この身体に器官を与えて台なしにし窒息させる神の行為をかぎつける。「身体は身体だ/他に何もない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ」器官は彼の肉に打ちこまれる釘、数々の拷問に等しい。もろもろの〈器官機械〉にむけて、器官なき身体はすべすべした不透明な、はりつめた自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる。結びつけられ、接続され、また切断されるもろもろの流れに、器官なき身体は、自分の未分化な不定形の流体を対抗させる。音声学的に明瞭なことばに、器官なき身体は、分節されない音のブロックに等しい息吹や叫びを対抗させる。根源的といわれる抑圧はこれと別の意味をもっているとは思われない。 つまり、それは〈逆備給〉などではなく、器官なき身体による、欲望機械へのあの反発を意味しているのだ。 そしてパラノイア機械はまさにこのことを意味している。それは器官なき身体の上に欲望機械が侵入してゆく作用であり、欲望機械を全体として迫害装置と感ずる器官なき身体の反発的反作用なのである。》(『アンチ・オイディプス』、上巻、pp.27-8)

 新星玲央と阿久津真武は獺の手先として、欲望をもつ人間を殺害し、カパゾンビに変身させる。
 そのときの劇中歌である『カワウソイヤァ』の歌詞は以下のとおりだ。

《去勢された負け犬ども 牙を剥け
惰性で生きる虫ケラよ 身を焦がせ
欲望を 手放すな!
欲望を 手放すな!
我らが獲たもの ふたつの運命
我らは似たもの ひとつの生命
欲望を 搾り取れ!
欲望を 搾り取れ!》

 《去勢》こそがドゥルーズガタリが『アンチ・オイディプス』でもっとも問題にしたことであり、《欲望機械》と《器官なき身体》をもつ人間が主体性を損なわれ、資本主義に埋没させられる過程だ。そして、これは前述のとおり、きわめて同時代的な問題だ。

《したがって、資本のもろもろのイメージそのものはもはや欲望の中にはまったく認められず、欲望は、これらの資本のイメージの幻影のみを備給するように規定される。家族的諸規定は、社会の公理系の適用となる。家族は、部分集合となり、これに社会野の集合が適用される。各人(、、)は私的な資格において父と母をもっているので、ある配分的な部分集合が、各人に対して社会的人物の全体集合を模倣し、社会的人物の領域を閉じ、これらの人物のイメージを見失わせてしまう。すべては父-母-子の三角形に還元され、この三角形は、資本のもろもろのイメージによって刺戦されるたびごとに、〈パパーママ〉と答えて反響することになる。要するに、オイディプスがやってくるのだ。オイディプスは、資本主義システムにおいて、第一の次元の社会的イメージが、第二の次元の私的家族的イメージに適合することから生まれてくる。オイディプスは到達点の集合であり、これは社会的に規定された出発点の集合に対応する。オイディプスは、私たちの内に秘められた植民地的組織体であり、これは、社会的主権の形態に対応する。私たちはみんな小さな植民地であり、オイディプスが私たちを植民地化するのである。家族が生産と再生産の単位であることをやめるとき、連接の働きが家族の中に単なる消費の単位を見いだすとき、私たちはまさに父-母を消費するのだ。出発点の集合に存在するものは、社長、指導者、神父、警官、徴税吏、兵士、労働者であり、あらゆる機械と大地性であり、私たちの社会のあらゆる社会的イメージである。ところが、到達点の集合に存在しているのは、結局はもはや、パパとママと私でしかない。専制君主の記号はパパによって受けつがれ、残滓的大地性はママによって引き受けられ、〈私〉は分割され、切断され、去勢される。》(『アンチ・オイディプス』、下巻、pp.97-8)

 

《この操作こそが、オイディプスを現代的社会野の中に構成することになる。それはまさに三角形化の原因なのだ。こうして精神分析における最も根本的な改革者の説は、きわめて重要であるとともに、不確定で決定不能なものになる。この説は、象徴界想像界との間に、象徴的な去勢と想像的なオイディプスの間に、置き換えられた極限を介入させる》(同前、pp.163-4)

 では、《去勢》されず、しかもカパゾンビのようなパラノイア(偏執症)としてではなく、主体性を回復するにはどうすればよいか。『アンチ・オイディプス』は現代の病質を描破しただけで、その処方箋までは記述していない。そこで、ドゥルーズが自身の哲学を全般的に解説した『差異と反復』を参照する。
 『差異と反復』はヘーゲル主義を批判し、随伴現象でしかないヘーゲル止揚に対し、ニーチェ永遠回帰を称揚している。この随伴現象は資本主義の亡霊に等しい。

ニーチェは、永遠回帰を「信じよう」としない者たちに対して、軽い罰しか告知しない――君たちは、束の間の生しか感じないだろうし、それしかもたないだろう! 彼らは、おのれがそれであるところのものがほかならぬ随伴現象である、ということを感じ、そしてそれを知るだろう。以上が、彼らの絶対《知》になるだろう。このようにして、帰結としての否定は、十全な肯定から生じて、否定的であるものすべてを焼き尽し、永遠回帰の可動的な中心においておのれ自身をも焼き尽すのである。というのも、永遠回帰がひとつの円環であるならば――すなわち、絶えず脱中心化され、つねに捩れていて、〈不等なもの〉のまわりしか回らないような円環であるならば、その中心に存在するのはまさに《差異》であって、《同じ》ものはその周辺にしか存在しないからである。》(『差異と反復』、ジル・ドゥルーズ著、財津理訳、河出書房、2007年、上巻、pp.159-60)

 この永遠回帰の円環こそ、『さらざんまい』の主題である《つながり》だ。
 玲央と真武は人間をカパゾンビに変身させるときに《「始まらず終わらずつながれないものたちよ」 「いま、一つの扉を開こう」「愛か、欲望か」》という口上を述べ、一稀たちがカパゾンビの尻子玉を抜くと、《はじまらない おわらない つながらない》というタイポグラフィーの演出が表れる。

《「ちがう服を着てたって、大人になって離れ離れになったって。僕とカズちゃんは、始めから終わりまで、まあるい円でつながってるよ」》(『さらざんまい』、ep.5)

《「俺と一緒に円の外側へ行こう。そのつまらねえつながりを断つんだ」》(『さらざんまい』、ep.10)

 ドゥルーズは『ニーチェ』で永遠回帰について簡明に説明している。
 それは、《意思を二分化し、活動し抑制する能力が要求される自由意志をもった中立的主体》(『ニーチェ』、ジル・ドゥルーズ著、湯浅博雄訳、筑摩書房、1998年、p.60)がおこなう《決して過ぎ去ることのない過去の瞬間》、《生成の生成》(同前、p.104)だ。
 要言すれば、主体性を失わず、絶えず思考を続けることだ。一見、簡単そうだが、そうではない。《去勢》され、内面化されたコードのうち、もっとも代表的なものは異性愛規範だ。
 その批判は同監督の『少女革命ウテナ』(幾原邦彦監督、J.C.STAFF制作、1997年)の主要主題だった。だが、同作品の放送から20年経った現在も、状況は当時と変わらない。ネグリは『〈帝国〉』でフーコードゥルーズの議論を援用し、性別、人種、性志向の被抑圧者が資本主義のシステムに糾合される状況を批判した(『〈帝国〉』、アントニオ・ネグリマイケル・ハート著、水島一憲訳、以文社、2003年)。

 ひとが永遠回帰の意思をもつことは、哲学的に大きな意味をもつ。それは、多数の可能性を意識するとともに、そうならなかった現実を肯定することだからだ。
 これは、始まりと終わりを設定することをも意味する。始まりと終わりは所与のものではない。ドゥルーズの批判哲学において、真正なものは存在しない。存在しない真正なものを求めることは愚劣なヘーゲル主義だ。現代の世界は見せかけ(シミュラクル)の世界であり、そのため、現代思想は表象=再現前化(ルプレザンタシオン)のもとで作用している威力の発見から生まれる(『差異と反復』、上巻、p.13)。
 第7話で、真正な友情を幻視した一稀は《つながり》を絶たれる。その失敗は当然のものだ。

《ところで、《理念(イデア)》のなかにあるかぎりでの、諸関係=比のヴァリエーションと、諸特異性の配分は、存在論的にひとつであるそうした投擲にとってのそれら形式的に区別される規則よりほかに、いかなる起源ももっていない。それは、根源的な始点(オリジン)が起源(オリジン)の不在(永遠回帰というっねに置き換えられる円環のなかで)転倒する点である。ひとつの不確定の点は、すべての回にとっての一回のように、複数の設子のすべての目を通じて置き換えられる。おのれ自身の規則を発明し、そして多くの形式においてまた永遠回帰において、ただひとつの設子振りを組み立てる、それらもろもろの異なった投擲は、いずれも命令的な問いであり、しかもそれらの問いは、それらの問いを開いたままにしてけっして埋めてしまうことのない唯一同一の答えによって裏打ちされている。それらの投擲は、イデア的な諸問題を活気づけ、その諸問題の諸関係=比と諸特異性を規定する。さらにそれらの投擲は、その諸問題を介して、もろもろの成果を、すなわち、それらの関係=比と特異性を具現している異化=分化したもろもろの解をインスパイアする。「意志」の世界。偶然についての諸肯定(命令的で自由決定によるもろもろの問い)と、産出された結果的な諸青定(決定的な解の諸事例あるいはもろもろの決意)とのあいだで、諸《理念(イデア)》の全定立性が展開される。問題的なものと命令的なものとの遊び=賭けが、仮言的なものと定言的なものとの遊び=賭けに取ってかわったのである。差異と反復との遊び=賭けが、《同じ》ものと表象=再現前化との遊び=賭けに取ってかわったのだ。》(『差異と反復』、下巻、pp.299-300)

 

《自己への還帰が、裸の諸反復の基底(フォン)であってみれば、他のものへの還帰は、着衣の諸反復の基底(フォン)である。他方において、見せかけ(シミュラクル)たちの配分を司る遊び=賭けは、数的に区別されるそれぞれの組み合わせの反復を保証する。なぜなら、もろもろの異なる「骰子振り」は、それらの計算のために数的に区別されるというのではなく、たんに「形式的に」区別されるのであり、したがってすべての結果は、いまわたしたちが再確認したばかりの巻き込まれるものと巻き込むものとの諸関係に従って、それぞれの骰子振りの数のなかに含まれており、それぞれの骰子振りは、それら骰子振りの形式的区別に即して他の骰子振りのなかに還帰し、またそればかりでなく、つねに差異の遊び=賭けの統一に即して自己自身に還帰するからである。永遠回帰における反復は、以上のすべてのアスペクトのもとで、差異の固有な力(ピュイサンス)として現われる。そして反復されるものの置き換えと偽装は、運搬としてのディアフォラ(、、、、、、)であるところの唯一の運動のなかで、異なるものの発散と脱中心化の再生しか遂行しないのだ。永遠回帰は差異を肯定する。永遠回帰は、非類似と齟齬をきたすものとを、偶然を、多様なものと生成とを肯定する。ツァラトゥストラ、それは永遠回帰の暗き先触れである。永遠回帰が除去するもの、それはまさしく、差異を表象=再現前化の四重のくびきに従わせることによって、差異を押さえつけ、差異の運搬を停止させるすべての審廷である。差異が奪い返され、解放されるのは、差異の力の末端においてでしかない、すなわち永遠回帰における反復によってでしかないのだ。差異の運搬を不可能にすることによって永遠回帰それ自身をも不可能にするものをこそ、永遠回帰は除去するのである。永遠回帰が除去するものとは、表象=再現前化の前提としての《同じ》ものと《似ている》もの、《類比的な》ものと《否定的な》ものである。なぜなら、再-現前化(ル-プレザンタシオン)とその諸前提は、なるほど還帰しはするが、それもただ一回だけ、これを最後に還帰し、その都度除去されるからである。》(同前、下巻、pp.340-1)

 この決定論のため、尻子玉を失うことは、将来的ではなく遡及的に存在が消えることを意味する。

《「人間は尻子玉でつながっていますケロ。それを失うと誰ともつながれなくなって、世界の円の外側にはじかれるのですケロ」

「円の外側…」

「矢逆一稀という人間は初めからこの世界に存在しなかったことになりますケロ。あなたにまつわる記憶や出来事や物、すべてがなかったことになりますケロ」》(『さらざんまい』、ep.6)

 最終回である第11話では、一稀たちがサッカー選手になるという可能性を意識しつつ、現実となった、悠が少年院で服役したという、そうした可能性のひとつを肯定する。
 同監督の『輪るピングドラム』(幾原邦彦監督、ブレインズ・ベース制作、2011年)における《運命日記》の《運命の乗り換え》も同じ効果をもつ。同作の第15話で、巨大なダビデ像が東京タワーに変化していることで、《運命の乗り換え》が果たされたことが示される。これは現実のものである東京タワーに変化したから、可能性の主題について感興をもたらすのであり、東京タワーが巨大なダビデ像に変化していても、何の説得力もない。同作の最終回である第24話においても、《運命の乗り換え》がおこなわれるが、やはりその効果は遡及的なものであり、そのため当事者は《運命の乗り換え》がおこなわれたことすら知ることができない。
 『差異と反復』は、この決定論の肯定を、円環から分前=運命(ロ)を受けとる籤(ロトリー)と表現している(『差異と反復』、下巻、p.274)。
 さて、《欲望機械》、または欲望は『さらざんまい』の作中で原則的に肯定されている。

《「忘れないで。喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」》(『さらざんまい』、ep.11)

 《「欲望を手放すな。未来は欲望をつなぐものだけが手にできる」》は、玲央と真武の決め台詞だ。
 では、そうした欲望と区別される愛とは何なのか。第6話で、矢逆春河は一稀への利他心が利己心を上回ったため、抱えているものが《欲望》ではなく《愛》と判定され、カパゾンビになることを免れる。
 『差異と反復』は他者の他者性について述べている。これはサルトルの『存在と無』の他者論を発展させたものだ。サルトルは『存在と無』で、他者の他者性を受けいれることを《愛》と定義しているため(『存在と無』、ジャン=ポール・サルトル著、松浪信三郎訳、筑摩書房、2007年、第2巻、p.372)、これを《愛》に関する議論とみていいだろう。
 ドゥルーズは『差異と反復』で、他者の他者性を、自己と他者の構造を受けいれることと述べている。

《繰り広げの途上にある心的なシステムのなかには、個体化の諸ファクターにとって有利な証拠となる巻きこみの諸価値つまり包み込みの諸中心が、何と言っても存在するのでなければならない。それらの中心は、ならかに《私》によっても《自我》によっても構成されず、かえって、《私》-《自我》のシステムに帰属している或るまったく異なった構造によ って構成されているのである。この構造は、「他者」という名のもので指示されなければならない。この構造は、だれも指示することはなく、ただ、他の《私》に対する自我、および、自我に対する他の《私》、を示すだけである。従来の諸理論の誤りはまさに、他者が客観の状態に還元される次元と、他者が主観の状態に帰着させられる次元とのあいだを、絶えず揺れ動くということにあった。サルトルでさえも、そのような揺れ動きを他者そのもののなかに合ませるだけで済ま していた。というのもサルトルは、他者は、私が主観であるときには客観になり、私が今度は客観であるときには必ず主観になる、ということを指摘していたからである。したがって、他者の構造も、心的なシステムにおける他者の機能の仕方も同様によく理解されないままであったのだ。だれであるわけでもないが、しかし二つの心的なシステムにおいては〈他の私に対する自我〉および〈自我に対する他の私〉であるような他者、つまりア・プリオリな《他者》(、、、、、、、)は、その二つのシステムのそれぞれにおいて、表現的な価値、すなわち暗黙のかつ包み込む価値として定義される。》(『差異と反復』、下巻、pp.241-2)

 

《わたしたちはすでに、以上の点を、心的な諸システムにおける《他者》に関して見た。《他者》は、システムのなかに巻き込まれている個体化の諸ファクターと混じりあっていず、むしろ或る意味でそれらのファクターを「代表=再現前化」し、それらのファクターに相当する価値をもっている。事実、知覚的世界において展開されたもろもろの質と延長のあいだで、《他者》は、おのれの表現の外では存在しないいくつかの可能な世界を、包み込みかつ表現している。こうして、表象=再現前化された知覚的世界のなかで《他者》にひとつの本質的な機能を与える執拗な巻き込みの諸価値を、当の《他者》が証示しているのである。なぜなら、《他者》は、すでにもろもろの個体化の場の組織化を前提しているにせよ、反対に、わたしたちがそれらの場のなかで判明な諸対象や諸主体を知覚する(、、、、)ための、しかもわたしたちがそれらの対象や主体を、再認や同定の可能な個体を様々な資格で形成しているものとして知覚するための条件になっているからである。《他者》は、厳密に言えば、だれでもなく、私でも君でもない、ということは、《他者》はひとつの構造であるということを意味しているのであり、この構造が実現されるとすれば、それは、互いに異なるもろもろの知覚的世界のなかでの変化可能ないくつかの項――君の世界のなかでの君にとっての私、私の世界のなかでの私にとっての君――によってのみである。他者に、知覚的世界一般のひとつの個別的なあるいは種的な構造を見る、というのではまだ十分ではない。実際には、他者は、そうした知覚的世界全体の機能の仕方のすべてを根拠づけ保証するひとつの構造なのである。というのも、(わたしたちにとって)基底において存在するものが、同時に、ひとつの可能な形式、たとえば深さであるものとして、またひとつの可能な幅などとして、そこで前-知覚的にあるいは下-知覚的に捉えられるような当のいくつかの可能な世界を表現するところの《他者》が、現に存在しないということにでもなれば、そうした知覚的世界の記述にとって必要なもろもろの基礎概念――図-地、対象の諸射影-統一、深さ-幅、地平-焦点など――は、空虚で使用不能なものにとどまるであろうからだ。諸対象の裁断、断絶としての推移、ひとつの対象から他の世界の利益にかなうよう過ぎ去ってゆくという事実、巻き込まれていながらなお繰り広げられなければならぬものが必ずや何か存在するという事実、それら一切は、〈他者-構造〉と、知覚におけるその表現力とによるのでなければ可能にはならないのである。要するに、知覚的世界における個体化を保証するものは、ほかならぬ〈他者-構造〉なのである。》(同前、下巻、pp.293-4)

 玲央は理想の真武を求め、結果として現実の真武をみず、すでに手にしていたはずの理想の真武さえ失う。
 また、真武は玲央との関係を失うより、一方向的な関係を求め、結果としてその関係すら失う。
 サルトルは『存在と無』で、自己を相手の対象とすることを望むマゾヒズムは、結局、自己の主観において対象としての自己をみることはできないため、不毛だと述べている。真武が玲央の人形として振舞うかぎり、両者の関係の破綻は必然だった。

《「滑稽だね! 誰だって自分の欲望のためなら簡単につながりを捨ててしまえるんだ」

「それでも僕はつながりを諦めたくないんだ。僕たちが一緒にいる未来のために!」》(『さらざんまい』、ep.10)

《「触るな!お前は俺の真武じゃない。一人だった俺を見つけてくれた…俺が欲しかった言葉をくれた真武じゃない!」》(同前)

《「ウッソー。われわれはお前たちの欲望そのもの。われわれはみる者の望む姿でこの世界に顕現することができる」》(同前)

 《「俺はそのままの一稀とつながっていたいんだ!」》(同前)はこれらに対比される台詞だ。

 第10話において、愛か欲望かの二者択一が示唆される。

《「僕またあの夢を見たんだよ。おっきなニャンタローに乗って、星の王子様と出会う夢。王子様は僕に、欲望か愛か選べって言うんだ。でも僕は怖かった。選んだら、まあるい円が壊れちゃうんじゃないかって」

「この世界は今、再び試されようとしています。つながっているのか。つながっていないのか」》(同前)

 だが、最終回において、その二者択一は《つながり》の肯定のもとで無化される。
 『差異と反復』は、自己と他者の構造を受けいれることで、他者性を暫定的に認めることができても、前提として主体は独我論者でしかありえないと述べている。

《したがって、もろもろの強度的セリーのなかにあるかぎりでの個体化の諸ファクターと、《理念(イデア)》のなかにあるかぎりでの前個体的な諸特異性とを再発見するためには、この道を逆方向にたどらなければならず、〈他者-構造〉を実現している諸主体から出発して、その構造それ自身にまで遡行しなければならないのであり、したがって《他者》を《だれ》でもないものとして了解しなければならず、さらには、充足理由の曲がり角に沿ってもっと先まで進み、〈他者-構造〉がその条件となっている諸対象と諸主体のはるかかなたにあって、もろもろの特異性が純粋な《理念(イデア)》のなかで展開され配分されるために、また個体化の諸ファクターが純然たる強度のなかで割りふられるために、もはや〈他者-構造〉がそこでは機能しなくなるそうした諸領域に到達しなければならないのである。思想家が必然的に孤独で独我論者であるのは、そうした意味において、まさに真実である。》(『差異と反復』、下巻、p.295)

 これが同監督の『ユリ熊嵐』(幾原邦彦監督、SILVER LINK.制作、2015年)において《蜂蜜》と《キス》につき、自ら《キス》を与えることが肯定されるゆえんだ。本作において《透明な嵐》に抗うことが主唱され、自ら《キス》を与えることと同じ立場にあるが、これは『さらざんまい』における《欲望》の肯定と同じだ。
 また、この《キス》と《欲望》はすでに『輪るピングドラム』で提示されている。

《「さて、今日はある恋のお話です。追えば逃げ、逃げれば追われる。あれほどうまくいっていたのに、ある日突然そっけない。 逃げられた! さあ、君ならどうする?」
「私だったら、追いかけない」
「なぜ?」
「疲れちゃうし」

「たしかに、そういうタイプの人もいるね。つまり君は逃げる役目しかやらないと宣言するわけだ」
「どういう意味?」

「両方が逃げるんだから、それはお互いが《私からは近づきませんよ》と相手に言うのと同じってことさ」
「つまり?」
「その恋は実らない」
「それでいいよ。私、恋なんかしないもん。例えばだけど、相手が逃げたら、私は追えばいいの? それで恋は実るの?」
「実る場合もある」
「そうかな。そういう相手は、逃げ続けて絶対こっちには実りの果実を与えないんじゃないかな」
「鋭いね。そう、逃げるものは追うものに決して果実を与えない。それをすると、楽ちんなゲームが終わるからね」
「ひどい」
「君は果実を手に入れたいわけだ。キスをするだけじゃ駄目なんだね」
「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばかりしていると、私は空っぽになっちゃうよ」
「空っぽになったらダメなのかい?」
「空っぽになったら、ポイされるんだよ」
「ポイされてもいいじゃないか。百回のキスをやり返すんだよ」
「ムリだよ。そうなっちゃったら、
心が凍りついて息もできなくなっちゃう」
「じゃあ心が凍りついて、息もできなくなるギリギリまでキスを繰り返せばいい」
「そんなの惨めだよ」
「惨めでもいいじゃないか。キスができるんだから。何もしないで凍りついてもおもしろくないよ。だったらキスをして凍りつくほうが楽しいんじゃないかな」
「だったらどうすればいいの?」
「気持ちに任せろってこと。キスだけが果実じゃないかな」》(『輪るピングドラム』、ep.20)

 ここで《キス》を与えることを主張している渡瀬眞悧は世界のシステムの破壊を志す人間であり、『少女革命ウテナ』における天上ウテナと同じだ。
 最終回で眞悧はテロリズムに失敗し、ウテナは《王子様》になることに失敗する。
 ドゥルーズは『ニーチェ』で、ニーチェの超人を、決して実現することのない抽象的な存在として定義している。主体は永遠回帰により超人になることを目指すが、決して超人そのものには到達しない。
 『少女革命ウテナ』の最終回において、ウテナは《王子様》になることに失敗する。しかし、ウテナにより姫宮アンシーの認識は変わり、世界のシステムから脱出する。これは《革命》と言えるが、しかし、だとすれば《革命》とはきわめて現実的なものだ。この現実性は、すでに『輪るピングドラム』の《運命の乗り換え》で示したとおりだ。
 この現実性は劇場版である『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦監督、1999年)で明確にされている。

《「ねえ、これからボクたちの行くところは、道のない世界なんだ。そこで、やっぱりボクたちは、ダメになるかもしれない」
ウテナ、私わかったの。私たちはもともと、その外の世界で生まれたんだわ」
「じゃあ、ボクたちは、元いたふるさとに帰るんだね。ボクも分かったよ。どうして君がボクを求め、ボクが君を拒まなかったか」
「ボクたちは、王子様を失ってた共犯者だったんだね」
《そうよ、外の世界に道はないけど》
《新しい道を造ることは出来るのよね》
「だからボクらは行かなくっちゃ。ボクらが進めば、それだけ世界は拡がる。きっと」》(『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』)

 奇跡はおこらず、過去の現実は受けいれる他なく、理想は永遠に実現せず、絶えず自己批判を続けなければならず、他者と完全な合意に至ることは決してない。
 それでも、われわれは欲望をつなぐ、つまり円環の永遠回帰を続けなければならない。なぜなら、それをやめることは、《去勢された負け犬》になることで、《生きながら死ぬ》ことだからだ。

《「そうか… 残念だな。でも、お前たちには、やはりあの世界でお姫さまを続けてもらうよ。何、生きながら死んでいればいいだけのことさ」》(同前)

 『さらざんまい』は幾原邦彦の過去作より結末の雰囲気が爽快だが、幾原が思想的に転回したわけではない。幾原は明晰な理論家だ。
 そうした安易で短絡的な解釈をするなら、それは《去勢》されていることに他ならない。
 幾原邦彦の監督作品の主人公たちがつねにしていることは、決して同致することのない、利己性と利他性をともに実現することの試みだ。『さらざんまい』も、また。

『淡島百景』 - どこにも繋がらない人びとの肖像 -

"「そうだとも。あんたは彼を自分のために愛していて、彼のために愛しているのじゃない。あんたを魅する現世的な快楽のためであって、彼に寄せる愛のためじゃない。あんたがそういう風に彼をわがものとしたということは、神の手でもっとも崇むべき完璧の刻印を捺された人間がつねに呼びさますあの聖なる戦慄を感じていないということだ。あんたはあんたの不純な過去のために彼が堕落するということを考えたことがあるかね。あんたに破廉恥を誇りとするようなあの渾名を頂戴させる例の恐ろしい快楽によって、一人の子供を腐敗させようとしているのだということを。あんたはあんた自身に対しても、また一日こっきりのあんたの情熱に対しても、筋道を通していない……」
「一日きりのですって」と彼女は目をあげながら鸚鵡返しに言った。
「永遠のものではない、キリスト教徒としての来世に至るまでわれわれをわれわれの愛するものに結びつけることがない愛、これをいかなる名で呼べばよいというのかな」"(オノレ・ド・バルザック著『浮かれ女盛衰記』寺田透訳、上巻(所収『バルザック全集』第13巻、p.30))

 『淡島百景』(志村貴子著、太田出版、2015年)の構成の特徴とその演出意図についてのべる。
 吉田秋生は『櫻の園』でチェーホフの戯曲に材をとり、群像劇としてその説話論的な契機と人称のない物語を創造した。中原俊監督、じんのひろあき脚本の劇場版もまた、カメラという統一された視点のもとに、その意図を継承した。群像劇の登場人物は、みずからの役割ではなく、世界を要求する。トルストイが『人間にはどれほどの土地がいるか』で人間には3アルシンの土地があれば十分だとのべたのにたいし、チェーホフは『すぐり』で、3アルシンの土地で十分なのは死体だけだ、人間には地球全体が必要だとこたえた。
 チェーホフの近代リアリズム演劇はじしんの仮構性を剥きだしにする。だが、志村貴子は、群像劇の『淡島百景』をえがくにあたり、網目状の登場人物の配置と錯綜した時系列を綿密に構成することで、世界そのものを創造した。
 第1話『田畑若菜と竹原王子』は、"まんまとその気になってしまった"(『淡島百景』p.20)という理由で淡島歌劇学校に入学した田畑若菜の視点で寮生活が語られる。本話は校内の権力争いに辟易する若菜に、いまだ〈竹原王子〉というあだ名で名指されることのない竹原絹枝が"わたしの友達"(同p.24)という、若菜にとっては伝聞情報でしかない人物を引合いにして在校する理由を語る場面を最終部とする。
 しかし、"こんど寄宿生のみんなと町へ買い物に行くことになりました その話はまたいずれ"(同p.28)という間奏をはさみ展開する第2話『竹原絹枝と上田良子』は、読者が予期するだろう絹枝ではなく、"わたしは父に話すことさえしなかった"(同p.47)という、淡島に入学しなかった人物である"わたしの友達"こと上田良子を視点とする。こうした入子構造は、バルザックが『谷間のゆり』で青年フェリックスとモルソーフ伯爵夫人の情事を語るにあたり、フェリックスが現在の恋人であるマネヴィル伯爵夫人へ宛てた書簡という体裁をとったのとおなじものだ。
 第3話『岡部絵美と小野田幸恵』で、その構造はもっとも美しい結晶をみせる。"〈すてきだった〉〈わたしの初恋はあの人よ 男役の あの〉"(同p.53)という導入部の独白は、視点の人物の語るものではない。岡部絵美は顔のみえない回想と電話越しの声をのぞき、作中には故人として登場する。視点の人物の旧姓竹原、新姓浦上悦子という姓名がわかるのは、念入りにも、小野田幸恵と人違いされてからだ(同p.65)。そして、悦子は絹枝の淡島への入学の後押しをした"叔母"(同p.45)だ。
 絵美が淡島を退学した理由が、のちに再登場する伊吹桂子を交え、絵美、幸恵の人間関係の綾によるものであったことが語られる。絵美の総括は、説話論的な因果関係を否定するものだ。それは、人間が継起的に他人に影響を与えることをも否定する。そのため、本作は入子構造をとり、接点としてのみ存在する人間関係をえがいた。"「わたしを追いつめたのは」「伊吹桂子だし 小野田幸恵だし わたし自身よ」「口実を探していたのよ わたしたち 幸せになれないのは誰かのせいだって」「まるで歌謡曲ね」"(同p.87)。
 だが、そうした孤独がしめされたあとで、物語の時制は悦子が絹枝の淡島入学を後押しした時点に回帰する。"(挫折した絵美ちゃんを見とうなかったんは)(面倒に思ったけえじゃ)"(同p.83)というとおり、悦子に進学後の絵美との面識はなく、そこに因果的な契機はあり得ない。ただ、絵美という存在が、悦子に間接的な影響を及ぼすのみだ。そして、その影響力の余波が絹枝に伝播する。これが説話論な因果関係でないことは、先後関係の反転した第2話において、悦子が役名のないただの叔母として登場するにとどまることからわかる。
 "「おっせーよ タコ」「なに」「いい女がバスん中で泣いてた」"(同p.97)と、無名の男性によりその存在が予示されるだけの絵美の涙は、異なる時制の挿入により物語から遮られ、かつ、乗客の視線の向きが車両の進行方向と一致するバスの車内にあって、だれにも目撃されることがない。ゆえに、作品そのものとおなじくする〈歌劇〉という示導動機で書記される、絵美の淡島からの退学、絹枝の入学、という下行、上行、の音型ののち、ふたたび下行をするとともに、1ページ全体という強勢をともなう表現、作中における岡本絵美のすがたの終端であり、物語から孤絶した涙は、いかなる意味論にも還元されない。
 ここにおいて、第4話『伊吹桂子と田畑若菜』で、成人した伊吹桂子が淡島の教師として独自の立ち位置をもっているのは当然のことだ。
 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、そのような継起的ではなく存在そのものである時間がバルザックの『人間喜劇』の特徴だとした。

" そのようにして、十九世紀の時間は、本質的に一つの連続した運動のように見られる。その運動は、運動の最初の原因からつかむことができる。十九世紀の時間は一つの生成であり、その生成はつねに未来である。現実はアリストテレスの生成におけるように、完了したものではなくて、発生の過程そのものであり、その過程から原因が結果を生みだすのである。私は自分が事物の発生とともに生きているという限りにおいてしか実在しないし、また事物の実在に参加しない。民衆の全的性格を精神と肉体を備えた一個の存在として理解するたすけとなったあの内的経験について語りながら、ミシュレは書く、「私は民衆の全的性格を理解した、なぜか? なぜなら私は歴史的起源のなかでそれのあとをたどることができたからだ。時間の奥深くからそれがやってくるのを見ることができたからだ。」
 そのような発生の意味をバルザックにも増して小説の部門に適用した人がない。『人間喜劇』のどの事件においても、小説のすべての時間に先立ち小説のすべての時間を決定するある力の、時間を通した作用、といったものがただちに見わけられる。一方、反対にフローベールにあっては、人生の各瞬間は、無限に連続する一組の原因の帰結のようなものに感じられる。"(ジョルジュ・プーレ著『人間的時間の研究』井上究一郎他訳、p.36)

 


 プーレは『円環の変貌』で、『人間喜劇』のそうした世界にあって、人物間の相互作用は影響力により生じるという。

" 次の一節はモンコルネ将軍の物語であるが、『農民』のなかで、周辺の村々が彼に対して同盟を組んでいる。
 《あるひとりの老将軍に対する郡全体や小さな村のこうした同盟が……いくつかの地方において善いことをしようとする人たちに対してもち上がることを想像してみなさい。こうした連合は、たえず天才的な人間、大政治家、大農学者、最後にあらゆる改革者たちを脅かすのです!》
 バルザックは別の個所で、《われわれは、悪の絶えざる陰謀を挫折させる必要はないのだろうか》と記している。陰謀、共謀、貪欲の集まりというものは、いとも簡単に同一目的にむかって力を結集する。バルザックのほとんどすべての小説において、羨望の犠牲であると同時にその対象であるような人物の周辺に、例えば『老嬢』という小説にみられるように、《じつに多くの利己心が集約されている》とバルザックが述べているような人間的中心にむかって、貪欲な意志の円環が構成される。バルザックは、彼が《集団的感情》と呼んでいるもの、つまり円周から中心にむけて、あらゆる方向から同時的に作用をおよぼすものを描くすばらしい画家である。またバルザックは、ある連合が孤立した個人よりも強力であることを欲する包囲の社会的力学によって余儀なくされるような、中心に対する包囲攻撃を描くとき、同じようにすばらしい画家である。
 社会によって囲まれているあらゆる人間の状況固有の弱さには、さらに、そのひと自身の性質に固有の弱さが加わる。なぜなら人間は、社会によって攻撃され、しかもなおそこに気晴らしと食糧とを求めてゆかねばならず、《たえず中心から円周上のあらゆる点へ進んでゆかねばならない。人間は、数多くの情念、数多くの観念をもっているが、しかもなおその土台とその作用のひろがりとのあいだにはあまりにもわずかな均衡しかないために、一刻一刻、過失による現行犯でとらえられるのだ》。しかし、他方、個人が多数の情念のかわりにたったひとつの情念しかもたないと想定してみると、その個人のあらゆる関心のこのような危険な集中化は、ある防御不能の点から彼を攻撃できるような機会をその敵に対してもあたえることにもなりえよう。
 《あるあたえられた一点に、若干の激烈な観念を統合させてみよう。すると、人間はナイフで突き刺されたかのようにして、それらの観念によって殺されるだろう。》
 《ある気体から創造行為の縮小版をおこなう現代化学に、その気紛れの点でそっくりの人間の魂は、その楽しみや力や観念などの急速な集中化によって、ある恐るべき毒薬をつくり出すのではないだろうか。夥しい数の人間が、彼らの内面に突然そそいこまれた若干の道徳的な酸の衝撃で死亡しているのではないか。》
 したがって思想は武器であり毒薬である。それは《一点に注ぎこまれることによって、ライデンびんのように作用し、死をもたらすこともできる》ような液体である。
 このように力が流れこみ致命傷をあたえるような点こそ、存在の肝要な中心である。つまり《われわれの魂と呼ばれるものは、われわれの感覚のなかを通っている多くの進路が行き着くところの幾何学的な点》であるとバルザックはいう。そのような進路は敵に盗用され、そこから敵が接近してくるものでもある。したがって社会における人間は、二重の意味で無防備である。それは、適性国のまんなかで包囲攻撃をうけている場所に似ているのと、彼自身の情念がその防壁をひらかせ、攻撃側が集中攻撃をしかけてくるような弱点をしばしば露呈するからである。
 しかしバルザックは、周辺的な社会と中心的な個人との相剋を、後者の即座の敗北という形でつねに表現しているわけではない。もし彼にとって生活が本質的にこの二つの傾向の相剋であるとすれば、一方が他方によってあまりにも早急に打ち敗かされ、社会的な喜劇ないし悲劇というものがすべて、人間が位置づけられている環境による人間の屈服ということに還元されるのは都合のよいことではない。なぜなら、その場合には、要するに相剋がすぐになくなるだろうし、その結果、生活もなくなるからである。したがって逆に、この小説家は敵対するエネルギーに対して、攻撃と同様に防御においても、ほぼ等しい力をあたえる必要がある。個人が社会によってつねに粉砕されてしまうわけではない。個人が社会を粉砕することさえあるのだ。じじつ人間は、平和の期間に蓄積することができ、しかも危険な瞬間にそれを使いはたせるような莫大な資力を準備しているものである。バルザック的な人間は、しばしば情念によって中心から円周のあらゆる点につれられてゆくことによって弱体化するとしても、同じようにしばしば節制つまり思考と欲望の節約、すなわちバルザックのいう《内的な諸力の集中化》ということによって再び力をとりもどすのだ。もっとも抵抗力をもっている性格というのは、バルザックにとっては《純潔なる性格》である。《純潔は、あらゆる奇怪なものと同様に、特別な豊饒さ、大いなる吸引力をもっているものである。その諸力が節約されているような生活は、純潔なる個人において、計りしれないほどの抵抗力と持続力をもつものである。》精神的身体的な不変性、瞑想的な生活、欲望の簡素、激しい情念の欠如などが、バルザックにとっては一種の存在の初原的な状態である。このような状態とは、力をたくわえ、それらを浪費することなく、中心に立ちもどり、いわば潜在的で規則正しい生活だけしかしないもので、いまは締められているが、必要な場合には荒々しくいつでもゆるめられるようになっているぜんまいのようなものである。
 《諸原理からの論理的で単純な還元によって、意志が、内的存在のもつ完全に収縮性の運動によって蓄積され、それから、さらに別の運動によって外部へ放射されることができることを彼は知るようになった。》
 《あるひとたちは……言葉なり、行為によって世界を支配することができるようになって再びそこから出られるために、長いあいだ沈黙して、自己のもつ諸力を集中しようとしないのではないか。》
 だが、このような沈黙した集中化は、まだ初原的で潜在的な状態にすぎず、まだ作動していない潜在力にすぎない。ところがこれとは逆に、バルザックの場合、いまや集中化は欲望の目標となっている対象にむかって存在のあらゆるエネルギーを働らかせ、可能態から作用への、しばしば急激におこなわれる、その移行を把えることができるような個所が数多く存在している。
 《どんな激しさでわたしの欲求は彼女にまで高まってゆくことか! もしこれまでの日々、宇宙がわたしのために拡大していたとすれば、じつに一夜にしてそれはひとつの中心をもったのだ。わたしの願望、わたしの野心は、じつに彼女にひきつけられていた。》
 《その瞬間、わたしの全生活、わたしの思考、わたしの諸力が、欲求を名づけるもののうちに基礎づけられ、そこに統合されるのだ。……》"(ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』岡三郎訳、上巻、p.268-272)

" しかし、バルザックは虚空におけるさまざまな創造にはほとんど関心をもっていない。彼に興味のあることは、充実した創造ないし噴出である。阿片には想像的な空間のなかでの空しい膨張しかできない。種々の障害や圧力、作用と反作用などのある世界こそもっと価値のあるものである。バルザックの宇宙において、誰かがある決定的な危機にある場合、その人物は、たちまち自分の持てる力を集中し、それまで考えられなかったような物質的ならびに精神的な手段を自分のものとし、周辺的な脅威に対してほとんど桁外れの抵抗力ないし反撃力をむけるのだ。
 《極度の危機というものは……強力な反応体が肉体におよぼすのと同じような、恐るべき効果を魂に対してもつものである。それは精神的な電圧(ボルト)をもつ電池である。おそらく、電気の流れに似たような流れとなって、感情が化学的に凝縮するような方法がえられる日も、たぶん、そう遠いことではないのではないか。……打ちひしがれ、いまにも死にそうで、ずっと眠っていないこの女性、着物を着せてやるのにたいそう難儀するこの公爵夫人は、窮地に追いこまれたライオンのような力と、戦陣における将軍のような機知をやがて取りもどすだろう。》
 したがってここでは、周辺的な圧力は反応体の役割をはたしている。包囲されている中心に収縮する求心的な運動に対して、脅威をうけているものがそれによって攻撃に転じ、侵攻してくるものを撃退させるような、逆方向の、遠心的な運動が対立されている。これが『従兄ポンス』において起こることで、この場合、無一物にされ、貪欲の重みでいまにも倒されそうな余命いくばくもない老音楽家が、突然、病いの床から立ちあがり、これまでの状態では見られなかったほどの肉体と精神のエネルギーをもって、自分の敵に対して攻撃をあびせるのがみられる。
 こうしたことは、人間喜劇における場合、意志の力学によって生じる方向の逆転である。《魂は、離心的な力で獲得するものを、向心的な力でうしなう》が、またその逆でもある。魂はあらかじめ向心的な力で凝縮するその度合においてだけ離心的な力をもつのである。その拡大力は、その撤退力にかかっているのだ。ある人間がやがてその力点を外部に投げだし、行動によって中心から周辺に移行し、自分の周辺に次第に拡大してゆく活動領域のなかで変化してゆけるのは、彼がその力点のうちに自己を集中できる場合に限られる。
 すべてのわがままなものたち、つまりすべて力強い連中は、バルザックにおいては、退却と拡大という二重の運動ができるものである。ルイ・ランベールはそのような型の人間である。
 《ランベールは、ある一定の瞬間に、異常な力を自分によび起こし、それらの力を放射するためにあたえられたある一点に集中する才能をもっていた。》
 《……ある人間がこうした力を集中させ、その全体を操作し、そうした流動体の投影をつねに他の人々にむけているような習慣を身につける場合には、なにものもそうした力に抵抗できないだろう。》
 したがってバルザックの小説のなかには、共謀の小説とはまさに正反対であるような創造形式を識別することができる。後者は圧縮のプロセスを述べるが、前者は拡大と表現のプロセスを述べる。人間喜劇において、集中作用によって十倍も強力になった個人の力の放射ほど著しいものはないだろう。バルザックの作品において、すべての偉大な野心家や情熱家たちは一様に、自分たちの周辺に、動物磁気的(メスメリック)な流体つまりその効力と作用範囲がたえず増大してゆく擾乱的で威圧的なエネルギーを発散させているものとして表現されている。影響をうけるのは、一般的にはまず彼ら自身の精神的物質的生活であり、次は直接彼らをとり巻いている人々、つまり妻、子供たち、愛人ないし友人であり、その次が知り合いであり、彼らが中心をなしている社交的な集り全体であり、ついには彼らの意志は枠をうち破り、社会全体が彼らの活動がゆきわたり支配的であるような領域になってゆく。
 《人間は、その運動にもとづく一切の活動によって、自分自身からそとへ、自分の活動領域においてなんらかの結果を生ずべき多量の力を放射できるものだという判断をわたしはくだしていた。……
 じじつ、もし、きわめてすばらしい分析的な天才で、教会の門前で多くのことを聞きとったある数学者がいったことだが、地中海の岸辺で放たれたピストルの弾丸は、中国の海岸でも感じられるような運動をひきおこすとすれば、われわれが自分たちのそとへ多くの力を放射する場合、われわれは自分たちの周辺で雰囲気的な諸条件を変化させるか、あるいは必然的に、しかるべき場所を求めているこのいきいきとした力の効果によって、われわれがとり囲まれている人間や事物のうえに影響をおよぼすか、いずれかに多分なるのではないか。》
 《ひとりの人間のものつ全部の力は、他の人々に対して反作用をおこし、もし彼らがこうした攻撃に対して自衛しなければ、彼らにとって異質のものを彼らのなかに滲みこませるといった特質をもつにちがいない。》"(同p.275-277)
"運動をその初原的な一点に把える場合に、ひとは究極的にはもはやその運動ではなくて、その一点しか把えないという危険をおかす。まだ結果をうみ出さない原因、まだ姿をとらない原理としての絶対的な一者は、バルザックの思想が一致する傾向をもっているプロティノス的な神がである。しかし、プロティノスの神は、現実に創造者としての神ではない。もし世界がそうした神から発生するならば、その発生は、結局、たいした重要性もまた現実性ももつものではなく、それは夢における非実在性をもつにすぎない。最終的には、形態をもたない原理、宇宙をもたない神、円周も放射も空間ももたない中心点がのこるにすぎない。《抽象は萌芽状態のまったくひとつの性質を含んでいる》ということは事実である。しかし、その性質は萌芽にすぎず、それは潜在的なものであり、現実には存在しいないものである。したがって、バルザックが実際しばしばそうしているように、すべてのものをある中心的で原因を示す原理に還元することから成立するような、彼の発展の究極的な一点、つまり、そこからすべての線が生じるが、またすべての線がそこに消え去ってゆくような一点に立ち至る場合、彼は、人間喜劇のなかにあふれている具体的な数々の人物の、ある円形をなしている、じつに驚くべき展開を、その逆のものによって、すなわち、そこにはもはやなにものも存在せず、それ自体が無であるような一点にそれらの人物を吸収させることによって替えているのだ。"(同p.290)

 その唯物論の徹底ために、ティボーデは『人間喜劇』を父なる神のまねび(イミタシオン)といった。志村貴子も『淡島百景』でまたおなじことをした。

" 『ゴリオ爺さん』の場合でもおなじだが、『谷間のゆり』を読むと、「哲学的研究」が「人間喜劇」の肝要な部分をなしていて、それのアクロポリスのようにそびえていることが感じられる。その小説が一つの実証哲学によって、一つの世界観によってつらぬかれているような大小説家はバルザックひとりである。彼はそれを哲学の伝統から学ばずに、神秘主義の伝統から受けついでいる。ところが神秘主義者という印象をわれわれに与えない点で、バルザックの人品や小説の上を行くような人間なり作風なり天分なり、めったにあるものではない。サント=ブーヴやヴェース、そしてつまるところテーヌといった二代にわたる批評家たちが、バルザックを特徴づけ、描き出し、賞讃したのは右とまったく反対に唯物論者として、「獣的文学」の頭目、その巨頭としてである。けれどもバルザックのような作家の場合、感覚的事物の莫大な重みがそこにあるのは、精神や愛情や透視力の、それとひとしく巨大な量と均衡をたもつためなのである。そこでバルザックの世界観の起源にいる神秘主義者の一人、トゥーレーヌ生まれのサン・マルタンなり、あるいはスウェーデン人のスウェーデンボルグなりを他の哲学者にくらべるならば、想像力にとって神秘主義者の優越は思想に同位、とまでは行かなくとも支柱を与えることにあるのがわかり、その神の国に関する写実主義がいかに哲学者の崇高な実在論と対立するかがわかる。『あら皮』から『絶対の探究』を経て『セラフィタ』にいたる「哲学的研究」は、地上から天界に達する螺旋を描いている。パリのわきかえるような物の世界を土台とし、フィヨールドの天使の詩で終わっている螺旋形だ。この小説体の叙事詩はラマルティーヌとユゴーの哲学的叙事詩よりも一段とゆたかで、込み入っていて、暗い。けれどもおなじ源から出て、おなじ方向に向かっている。
 源とは神秘主義であり、方角とは新しい「キリスト教」である。「人間喜劇」の序文の次のようなバルザックの宣言は大いに論議の種となった。曰く「私はキリスト教と君主政体という二つの永遠の真理に照らされて書く」と。バルザックが、信念にもよるが同時に家庭や女性の影響をも受けて、正統王朝派でもありナポレオン讃美者(いささかその後継者として)でもあったこと、そしてフランスを君主の統治する国として考えていたことは明らかである。けれどもそれ以上に「人間喜劇」をカトリック的に考えていた。よしんば信仰は持たなかったにしろ、かつて『神曲』がかく考えられたように、「人間喜劇」をカトリック的に考えていたのである。
 バルザックサン・マルタンとおなじく影の状態で、水をわった状態で、香水のあきビンに残った匂いの状態でカトリック教を感じてはいなかった。この点ではシャトーブリアンやルナンのような作家と反対である。それとは逆に彼の方向は超カトリック教、過度のカトリック教の方向である。「人間喜劇」の序文で彼は、ルイ・ランベールの手紙を参照してほしいと読者にいっている。『その若い神秘哲学者はそこでスウェーデンボルグの教義について、この世がはじまって以来宗教はただ一つしかなかった次第を説いている。』そしてバルザックは『セラフィタ』を「キリスト教仏陀の行動的教義」と呼んでいる。「人間喜劇」はシャトーブリアンや「進歩的な司祭たち」や折衷主義などから引っぱりだこにされた可もなく不可もない普通のキリスト教を採用せず、逆にもっとはげしい永遠のキリスト教をえらんでいる。もろもろの宗教の神秘的な、逆説的な、まっかにもえている炉であり、透視力の天賦がそれらの宗教を眺め、認め、分類する中心ともいうべきキリスト教である。バルザックヴォルテールの詩の文句のように、「めいめい安心して信仰のうちに光を求める」とはいうまいが、「信仰のうちにあまねき光を楽しむ」とはいうだろう。信仰のうちに、そして職業のうちに、である。社会科学の精通家と自称するバルザックにとって、「キリスト教ことにカトリック教は、『田舎医者』でも述べておいたように人間の頽廃的傾向を抑圧する完全な組織なるがゆえに、社会秩序の最大要素である。」
 社会秩序は世界の秩序としかいっしょにならない。バルザックが宗教を一つの警察力とみなすのは、はじめまずそれを一つの神秘神学とみなしたからにほかならない。「人間喜劇」もまた、そして何よりもまず『神曲』である。バルザックは上機嫌で健康にもめぐまれて、自発的にというよりむしろずうずうしくといいたいほど神にみたされている。なぜなら存在にみたされているからである。彼はその創造的な精力のなかを神が通りすぎることを、反逆的な題材を通じて、――ただにいろいろの情熱によってばかりでなく「情熱」そのものを通じて自覚する。バルザックデカルトと共に神が何よりもまず意志であることを、ベルクソンと共に神がそうおいそれと行動を起こさないことを、生命や思想や創造は上り坂であることをみとめるだろう。およそ神の見地ほど、インゲンの芝居がはっきり目にうつる見地はない。
 されば「人間喜劇」を別のはじっこで、つまりその物質性のはじっこでとらえるのは、バルザック主義に関する大きな誤解なのである。バルザックもそれをいい、釈明さえしている。「私がかように多くの事実をあつめ、かつ描くのを見て、人はあやまって私を汎神論という同一事実の両面なる感覚論ならびに唯物論の派に属するものと想像した。しかしこのような勘ちがいはおそらくありうることで、むしろ当然だった。」
 事実、二代にわたる批評家はその点思い違いをした。バルザックの物質主義、というのがサント=ブーヴの口ぐせであった。そしてお上品な小説は「理想主義」をかつぎ出してこれと対抗するのに精根をからした。一八五〇年代はバルザックをもって官能主義的で「獣的な」文学の先頭第一人とし、ヴェースはこれを讃美した。文学提要の類はかかる判断を忠実にまもってきた。いまやこれは完全に用いつくされた見地である。ブリュンティエールもバルザックに関するその見解の第二期において、すでにかかる判断をすててしまった。クルティウスからベレッソールにいたる現代の批評においても、そのなごりすらみとめることはできまい。
 なぜなら「人間喜劇」の世界は芸術が生み出したもっとも広いセカイであり、太陽の沈むことなきこの帝国を一望のもとにおさめたり、われわれの昼夜の観念で理解したりするのはむずかしいからである。ひとたび透視力の天賦という中心観念さえ呑みこめれば、この世界について抱きうつもっとも完全に近い映像は、一つの世紀すなわち十九世紀をフランスに具象化しようとする自然の試み、――自然のあらゆる試みとおなじくそれは半ば失敗に終わったが、とにかくそういう試みというふうにバルザックの天分を見ることにあるだろう。人間の芝居、――まさにそれにちがいない。けれどもそれはフランスの芝居、一世紀に一度の芝居という限定づきで現れる。"(アルベール・ティボーデ著『バルザック』水野亮訳(所収『バルザック全集』第3巻))

 

『リップヴァンウィンクルの花嫁』 - 『生産の鏡』から -

 "「あと、いまからはなすことですけど」「はい」「『友だちがほしい』。それが、クライアントの、依頼です」「『友だちがほしい』… それが、わたしの仕事なんですか?」"(岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』)

 

 岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』では社会関係の希薄さと、二者間の関係の構築が中心的な主題になっている。また、その背景として労働という主題があることを以下にのべる。
 黒木華演じる皆川七海は、結婚式の招待客がふたりであることにしめされるように、社会的なつながりが希薄だ。本業の代理教員では退任するさいに生徒たちにうそをつき、副業のコンビニ店員は、生徒たちの視線を気にし、本人だとわからないように変装して働いている。七海が忌憚なく心情を吐露できるのは、SNSサイト《プラネット》のアカウント《クラムボン》としてだけだ。
 "「まあ、役者にとって名前なんてのはなんでもいいんですよ。役をいただいて、その仕事が終わるまではその役の名前が自分の名前ですからね。まあ、そう考えたら名前なんてのは無限大にあるわけで、だって、ほら、あなたもそうでしょう」「え、いやいや、ないです。そんな」「いや、だってほら《クラムボン》って」「ああ… そういう意味では。最近はみんなちがう名前をもってますね」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 ボードリヤールは『生産の鏡』でマルクスの物神崇拝の概念を批判し、使用価値は交換価値にたいし、具体的で比較不可能であり、また、労働のうち質的なものも比較不可能としているが、マルクスはその比較不可能性を根拠として、質的なものにおいて、生産と労働を媒介にしてあらゆる人間的行為を比較可能なものとし、シニフィアンによる構造化として、生産と労働をフェティシズムにしたとのべている。(ジャン・ボードリヤール著『生産の鏡』宇波彰今村仁司訳、pp.12-13)
 "需要すなわち欲望は、ますますシミュレーション・モデルに照応していく。これらの新しい生産力は、今ではもうシステムに問いをつきつけるのではなくて、先取りされた答えであり、システムはそれらの出現を自ら管理している。システムは、記号の戯れによって、矛盾と弁証法に十分耐えることができるし、革命のあらゆる徴候も許容できる。システムはすべての回答を産出するのであるから、問いをたちまち無効ならしめてしまう。これはコードの強制と独占によってはじめて可能である。すなわち、どのような仕方であれシステムの内に身を置くかぎりでは、システム自身の規則に従って、システム自身の用語のなかでしかシステムに応答することはできず、システムにたいしてシステム自身の記号を送り戻すほかはない。だからこの段階への移行は競争の終りとは別物をつくり上げるのであって、その要点はこうだ――すなわち、その論理の面で社会的労働時間によって支配された生産諸力・搾取・利潤のシステム――競争システムがそうであるが――から、問い/答えの巨大な操作的戯れ、すべての価値が操作的記号に従って方向を変え、互いに交換されあう巨大な組み合わせ、への移行である。独占段階は、生産諸手段の独占(これは決して全面的ではない)というよりも、コードの独占を意味する。この段階は、記号の機能や意味作用の様態の面で根本的な変容を伴なう。権威や卓越という目的性はまだ記号の伝統的な定義に照応していた。この定義によれば、意味するものは意味されるものを指示し、形式的差異、弁別的対立(衣服の裁ち方、モノのスタイル)は記号の使用価値とよびうるもの――他人との違いで得をすること、他人に抜きん出ることを経験すること(意味された価値)――を指示している。それはまだ座標軸をなす心理学(および哲学)をともなった意味作用の古典的時代である。それは諸記号の操作の面で競争的時代でもある。形態/記号はまったく別種の組織を描く。意味されるものと座標系は消滅し、意味するものの戯れ、一般化された形式化だけが際立ってくる。コードはもはや主観的であろうと客観的であろうといかなる《実在》にも根差すのではなくて、それ自身の論理で動くのである。記号は自ら自分自身の座標系となる。記号の使用価値は消え去り、変換価値と交換価値だけが登場する。記号はまったく何ものも指示せず、他の諸記号にだけ反響するという極限的な構造論的真理に達する。かくて現実全体が記号神的(セミウルジック)操作と構造論的シミュレーションの場となる。そして伝統的記号が(言語学的交換における記号もまた)意識的投資の対象であり、意味されるものの合理的計算の対象であったのに対して、今や記号が絶対的な準拠審級になり、同時に倒錯した欲望の対象になる(『新精神分析雑誌』第二号、「フェティシズムイデオロギー」をみよ)。"(『生産の鏡』pp.117-119)
 "このような次第で、今日ではどんなものでも《回収可能》である。まずはじめに、欲求とか本物の価値があって、ついでそれらが疎外され、ごまかされ、回収される、などということを認めるとしても、そういう見方はあまりに単純すぎるし、人間主義的二元説はなにも説明しない。すべてが《回収可能》だというのは、独占資本主義社会では、財、知、技術、文化、ひとびと、かれらの関係や野心、などあらゆるものが、はじめから直接に、システムの要素、統合される変数として再生産されるということである。経済的生産部門では久しい以前から真実と認められてきた事実、すなわち使用価値はどこにも現れず、いたるところで交換価値の決定因的論理が現れるという事実は、今日でも、《消費》と文化システム一般の領域の真理として承認されなくてはならない。いいかえれば、どんなものでも、芸術的・知的・科学的生産でも、革新や違反ですら、直接に記号として、交換価値(記号の関係的価値)として産み出される。《欲求》、消費行動、文化行動が回収されるばかりでなく、生産諸力として系統的に誘導され生産されるかぎりではじめて、この抽象化と傾向的体系化に基づく消費の構造分析が可能となる。それは、記号の生産と一般交換の社会的論理の分析を根拠にして可能になる。"(ジャン・ボードリヤール著『記号の経済学批判』今村仁司他訳、p.89)
 結婚はカール・マルクスが『資本論』でいうように、資本家が負担すべき公的扶助を労働者に転嫁する機能をもつ(『資本論』第2巻、向坂逸郎訳)。また、恋愛は佐伯順子が『「色」と「愛」の比較文化史』でいうように、日本の近代化にあたり廃娼論・蓄妾批判が盛んになるなかで、結婚を基礎とする一夫一妻の関係性を称揚するなかで言説化した。
 脱工業社会(ダニエル・ベル著『脱工業社会の到来』内田忠夫他訳)、あるいはポスト・フォーディズムクリスティアン・マラッツィ著『現代経済の大転換』多賀健太郎訳)においては、結婚と自由恋愛はもはやドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』でいう《文明資本主義機械》でしかない(『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳)。七海たちが家族を演じる男女は中年にして未婚だ。
 結婚が仮象だったことが顕在化されるかたちで七海は離婚する。だが、そこにおいて七海は自身の寄る辺なさに不安をおぼえる。
 "「ここはどこなの。どこなんだろう。どこなんですか」「え、皆川さんどちらですか。どうしたんですか」「自分が、いま、どこにいるのかわからないんですよ」「えっと…」「どうしたらいいんですか」「あの、落ちついてください。あの、携帯のアプリをひらいて、あの、地図をみればそれでわかると思いますよ」「わたし、どこへいけばいいんですか? わたし、帰るところがなくて」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 七海はある邸宅でメイドとして月給百万円の仕事をする。邸宅は新古典主義様式であり、メイド服は邸宅に保管されているコスプレ用の衣装からとったものだ。Cocco演じる里中真白と現実離れした仕事をしているうちに、七海は自信を回復する。七海がオンラインで家庭教師をしている場面は、もとの自宅と、邸宅と、新居の3箇所があり、それぞれの変化があらわされている。
 ボードリヤールは『生産の鏡』において、バタイユの未開部族における象徴的・神話的思考法の概念をもとに、仕事から労働を隔てるものを、主体と客体の区別の消失、生と死の両立だとのべる。七海と結婚式を挙式した真白は、ワンカットでそれを代表するセリフをのべる。なお、『キネマ旬報』2016年4月上旬号の黒木華のインタビューで、この長回しにおいてはアドリブのないことが語られている。
 "「ほんとうに結婚する?」「はい。してもいいかもしれません」「結婚しようか?」「はい」「ホントに?」「はい」「酔っぱらってる?」「はい。酔っぱらってます!」「わたしね、コンビニとかスーパーで買物してるとき、お店のひとがさ、わたしの買ったものをさ、せっせと、袋にいれてくれてるときにさ。わたしなんかのためにさ、その手がせっせと動いてくれてるんだよ。わたしなんかのためにさ、せっせとお菓子やお惣菜なんかを袋に詰めてくれてるわけその手が。それみてるとさ、なんか胸がギューっとしてね、なんか泣きたくなる」「え? …えへへ。それってなんのはなしですか?」「わたしにはね、幸せの限界があるの。もうこれ以上はムリーって量が。たぶんその限界がくるのがそこらのだれより早いの。アリンコより早いかもしれない、その限界が。だってさあ… ホントはさ、この世界は幸せだらけなんだよ。みんながよくしてくれるんだあ。宅配便のオヤジはさあ、わたしがここって言ったところまで重たい荷物運んでくれるしさ。雨の日は、知らないひとが傘くれたこともあったよ。でもさあ、そんな簡単に幸せになったら、わたし壊れるから。だから、せめてお金はらって買うのが楽。お金ってさあ、たぶんそのためにあるんだよきっと。ひとの真心とかさ、優しさとか、あんまりそんな、はっきりくっきりみえちゃったらさ、ひとはさ、ありがたくってありがたくってさ、みんな壊れちゃうよ。だからさあ、それ、みんなお金に置換えてさ、そんなのみなかったことにするんだよ。だから、やさしいんだよ、この世界はさあ。だからわたしは、お金はらって買うんだ。お金はらって買うの。だってもう限界なんだもん。…だからそんな目でみないで。わたし壊れる」「わたしといっしょに死んで、っていったら死んでくれる?」「はい?」「いっしょに死んでくれる?」「…はい」「ホントに?」「はい」「バカだ… バカ。ありがとう」「わたしこそ」「愛してる」「わたしも、愛してます」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 "職人の仕事について、職人は《かれの労働の生産物》の《主人》であると語るのも、すでにまちがっている。なぜなら、職人は、《制御する》立場、すなわち生産的外面性の立場にある自立的個人の状況にいるわけではないからである。《仕事》を産業労働と対立させて具体的労働過程として定義しても十分ではない。それは労働とは別物であるからだ。生産者の領域と消費者の領域との分離がないのと同様に、労働力と生産物、主体の立場と客体の立場との真の分離もない。職人は自分の仕事を象徴的交換関係のなかで生きる、すなわち、《労働者》としての自己自身の定義と《かれの労働の生産物》としての客体の定義を廃棄する形で、自分の仕事を生きるのである。かれが働きかける材料のなかの何ものかが、かれの仕事とたえず応答しており、この何ものかはあらゆる生産目的性(材料を使用価値あるいは交換価値へと端的に変形する目的性)から免れている。価値法則を免れる何かがあり、それは一種の互酬的浪費を証言している。ここでも、投資されるものは、失われ・与えられ・返される、つまり廃棄されるのであって、正確には《投資される》のではない。以上のことはすべて、芸術作品の場合にとりわけてはっきりするはずであるが、これに関して史的唯物論は、生産図式にとらわれているために、芸術作品の社会的‐歴史的決定の様式(機械論的であれ構造論的であれ)についてとやかく議論することしかできず、芸術作品の働きやその根源的差異の契機を決して説明することができなかった。しかしこのことは、より小さい程度ではあれ、職人的仕事(語源にしたがえば《デミウルゴス》の仕事)についてもあてはまる。仕事(ウーヴル)と労働(トラヴァーユ)を根本的に区別するのは、仕事が《生産》の過程であるのと同じく破壊の過程でもあるということである。まさにこのゆえに、作品は象徴的なのである。つまり、死、消失、不在が、主体の放棄、交換の律動のなかへの主体と客体の消失を通して、そこに書きこまれているからである。生産と労働といった概念から出発することによっては、そこで生起していることをつかむことができない。それは、労働を否定し、価値法則を否定し、価値の破壊を通過するからだ。芸術作品や、ある程度までは職人の仕事も、自分自身の内に、主体と客体の合目的性の消失、生と死との根源的な両立性を刻みこんでいる。これは、労働の生産物が労働の生産物たるかぎりではもうもっていない――なぜなら、労働の生産物には価値の合目的性だけが刻みこまれているから――両義性の働きである。"(『生産の鏡』pp.87-89)
 "奴隷あるいは職人(奴隷制的様式あるいは封建的/職人的様式)についてのこのような唯物論的な書きなおしは、現実には抑圧的図式にほかならない《解放》と乗り越えの図式がそこから展開されるかぎりでは、重大な結果をもつことになる。すでに見たように、奴隷を労働力の搾取の観点から再解釈することは、人間的領域における絶対的進歩としての《自由な》労働者という観点から労働力を再解釈したり、隷層を絶対的野蛮状態――幸いなことに生産諸力のおかげで乗り越えられるといった――にあるものとみなしたりする(自由のイデオロギーは、依然として西欧合理主義の消失点であり、マルクス主義の場合も同断である)。同じく、職人を《自分の労働と生産の主人》、《労働体系の主体》とみなす考え方(ロール『労働社会学入門』)は、ただちに、生産的労働の黄金時代というユートピアを描き出す。ところが、《労働》なるものは存在せず、分業と労働力の販売しかない。つまり、労働の真理とは、労働の資本主義的定義のことである。この定義から出発してはじめて、資本主義的過程に対する職人的代案と解されるような、労働過程全体のなかで再獲得可能な労働にほかならない労働という幻想がつくられる。事実、この代案は想像上のものにとどまる。この代案は、職人的様式における象徴的なものに全く触れておらず、親方の身分や生産者の自立性の観点から見なおされ修正された職人階級に依拠しているからである。ところが、この親方の身分などはとるに足らない。それというのも、それは職人階級を労働と使用価値の観点による定義のなかに閉じこめてしまうからである。自分の労働を《管理する》個人というのは、このような基本的な制約条件を理想化するにすぎない。そのような個人とは、自分自身の主人になった奴隷にほかならない。主人/奴隷の関係は、同一の個人のなかに内面化されはしたが、疎外構造として作用することを止めはしない。かれは自分自身を《自由に処分し》、自分自身への用益権をもつ。それは個人的生産者の水準での自己管理(オートジェスチオン)である。けれども、周知のとおり、自己管理とは生産管理の変身(メタモルフォーゼ)以外のものではない。自己管理が集団的形式をまとうと、今日では、社会(主義)的生産中心主義の黄金時代を描きだす。職人的自己管理はどうかといえば、個人的小生産者の黄金時代、要するに《職人本能》の礼讃にすぎない。"(同pp.93-94)
 "これ以上ぐずぐずせずに言ってしまう。暴力、そして暴力を意味している死は、二つの面を持っている、と。一方では、生への執着心と結びついている恐怖感が私たちを後退りさせる。他方で、厳粛かつ恐ろしげな要素が私たちを誘惑し、至高の混乱を惹き起こす。この両義性についてはあとで語ることにしよう。今はただ、死に関する禁止が表している動き、暴力を前にしての後退りの動きの本質的な面を示すことしかできない。死体は、それが生きていたときに仲間であった人々にとって、依然として関心の対象であったはずである。近親者たちは、暴力の犠牲者であるこの死体を新たな暴力から守ろうと配慮していたと私たちは考えるべきである。埋葬は、おそらく太古の昔から、死者を貪欲な動物から守っておきたいとする埋葬者側の願望を意味していた。しかしこの願望が埋葬の習慣の確立において決定的であったとしても、私たちはとくにこの願望だけをこの習慣に結びつけることはできない。おそらく長いあいだ、死者への恐怖感は、穏和になった文明が育んだ感情をも遠くから支配していたのである。死は、暴力が滅ぼすことができる死者を襲った暴力の性格を帯びていた。暴力の《伝染》が及ぶなかにあったものは、すでにその死者が犠牲になった破滅に脅かされていたのである。死は日常の世界とは無縁の領域から出てきたので、労働が命じる思考法とは反対の思考法だけが死にはふさわしかった。レヴィ=ブリュールが間違って原始的と呼んだ、象徴的もしくは神話的思考法だけが暴力に対応しているのだ。暴力の原理とはまさしく労働が必要としている合理的思考を逸脱する。"ジョルジュ・バタイユ著『エロティシズム』酒井健訳、pp.71-72)
 "労働は明らかに人間と同じほど古い。動物はかならずしも労働に無縁ではないが、動物の労働と違い人間の労働は、絶対に理性と無縁ではない。人間の労働は、労働の対象と労働それ自体との根本的な一致、そして労働の材料と念入りに作り上げられた道具との相違(この相違は労働に由来する)が認められていることを前提にしている。同様に、人間の労働は、道具の有用性への意識、および労働に関する原因と結果の連鎖への意識を必要としている。道具はコントロールされた操作から生まれ、そののちこの操作に仕えることになるのだが、この操作を支配している原理は、最初から、理性の原理なのである。この原理は、労働が構想し実現してゆく変化を規制している。"(同p.76)
 近代の発明である《恋愛》ではないふたりの愛は、死を許容するものだ。説話論的に真白は末期癌で余命いくばくもなく、また、もともとは心中相手を探していた。だが、綾野剛演じる安室行桝がはじめ七海が死んだものと誤解したように、七海は死を覚悟しつつ、結果的に真白ひとりで死ぬ。なお、真白の葬儀において、独身者たちがふたたび家族を演じるのも、そうした近代家族制度との対置において位置づけられる。
 また、真白が新古典主義様式の邸宅を用意したのも、バタイユのいう不連続性の破壊を意味する。
 "すなわち男女二人の恋人の結合が情念の結果だとしても、この情念は他方でもう一つの可能性、つまり死を、殺人への、あるいは自殺への欲望を、惹き起こすということだ。死の輝きが恋の情念を指し示している。この暴力――不連続な個体を絶えず侵犯しているという感覚はこの暴力から生まれるのだが――の下に二人の習慣とエゴイズムの領域が始まる。これは不連続性の新たな形式にほかならない。個人の孤立を侵犯する――死の高みにおいて――ときにだけ、愛する相手の連続性のイメージ、恋人にとっては存在するものすべての意味を持つあのイメージが現れるのだ。恋人にとって愛する相手は世界の透明さである。愛する者のなかに透けて見えるものは、私があとで神聖なもしくは聖なるエロティシズムに関して語る予定でいるものなのである。それは、もはや個人の不連続性によっては限界づけられない完全な、無際限の存在である。一言で言うと、それは、恋人からすれば解放と映る存在の連続性のことである。その外観には、不条理な面もあれば、ひどい混合もある。しかし不条理、混合、苦悩を通して、奇跡のような真実が現れるのだ。結局、恋愛の真実においては何も空しくはない。恋人にとって(あしかに恋人にとってだけだが、そんなことは重要ではない)、愛する相手は存在の真実に匹敵する。偶然のおかげで、愛する相手を通して世界の複雑さが消え、恋人は存在の奥底を、存在の単純さを見出すようになるのだ。"(『エロティシズム』pp.34-35)
 "詩は、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。"(同p.43)
 だが、その邸宅の賃料は、『スワロウテイル』の偽札とも、『リリィ・シュシュのすべて』の旅行資金とも異なり、現実的な労働による所得だ。それは、七海の雇用主が真白であることを示唆しつつ、朝帰りの真白のセリフに〈銀座〉という単語をいれ、それが不労所得であることを想像させながら、のちに真白がAV女優だと明かすことで、七海のおどろきとともに強調してしめされる。また、その労働の現実的な重みは、「3P」という単語を使うことでしめされる。
 そうした記号の経済学から離れた労働は、レヴィナスが『全体性と無限』で語るものだろう。そして、そこにおいて人格は完成する。それは当然、ボードリヤールが批判する、経済学的、心理学的な愛他主義ではない。
 "これらの事実はすべて一点に収斂する――すなわち、いわゆる前産業的な組織を説明するためには、労働、生産、生産諸力、生産諸関係といった諸概念は不適切であるということである(これらの事実は、封建的ないし伝統的組織にもおおむね妥当する)しかしながら、ヴェルナンに対して異議を立てることもできる。ヴェルナンは、生産の優位と手を切り、生産の優位がかかわりのない文脈にそれをおしつける誘惑を論難しながらも、力点のすべてを使用者の欲望や合目的性に移している。合目的性が富を規定し社会関係が基礎づけられる人格的関係は合目的性へと集中する(有意味でない生産へと集中するのではない)。われわれの経済では、交換価値の記号の下に置かれた関係とだけわれわれはかかわりをもつが、それに反してここでは、二人の人格は使用価値の記号の下で結合される。そしてこのことが実は、わたしが主張する奉仕関係を定義するのである。けれども、奉仕(サーヴィス)の概念は、われわれの社会のカテゴリーによってまだ強く侵蝕されていることを知る必要がある――すなわち、経済的カテゴリーによる侵蝕(経済的奉仕の概念は、単純に、交換価値から使用価値への移転をおこなうだけである)、心理学的カテゴリーによる侵蝕(これは生産者と使用者の分離を保持し、両者を単純に共同主観的関係のうちに置く)。このようなやり方では、《人格的》交換は、固有の意味での経済的交換を共示したり重層決定したりする心理学的次元でしかない(これは、今日、交換の《人格化》で知られていることである。つまり、それは関係の心理学的デザインであって、依然として、互いに等しいとみなされた二人の経済主体の関係なのである)。しかもこの《奉仕(サーヴィス)》は、道徳化された愛他主義の図式でしかなく、各主体のそれぞれの立場を、のりこえようとしつつも保持してしまう図式である。"(『生産の鏡』pp91-92)
 "〈私〉は他なるものに巻きこまれる一方で、つねにそのてまえから到来する。こうした身体の両義性が生起するのは労働においてのことである。労働は、原因の連続的な連鎖にあって第一原因となるのではない。すでに啓蒙をかいくぐった思考ならそのようにとらえるにしても、そうではない。思考はおわりからはじめて後方にさかのぼり、私たちにもっとも近い原因に到達したところで歩みをとめる。そこで原因と私たちは一致するからである。労働とは、思考がそのように歩みをとめるときに作用しはじめるような原因ではない。あいことなる原因はすきまなく連鎖して、一箇の機構をかたちづくる。機械がその機構の本質を表現しているのである。機械を構成する歯車はたがいに完全に噛みあって、間隙のない連続性をなしている。機械についてなら、帰結は最初の運動にとって目的因であるとも、帰結はその最初の運動がもたらした結果であるとも、おなじ権利で語ることもできるだろう。これとは対照的に、機械の動作を開始させる身体の運動、ハンマーに、あるいは打ちつけるべき釘に向かう手は、こうした目的のたんなる始動因ではない。その最初の運動の目的因となるはずの目的を始動させる原因ではない。手の運動にあっては、目標を、それにともなう偶然的なことがらのすべてとともに追及し、とらえることが、つねにいくらかは問題だからである。身体は、それが作動させる機械や機構に向かい、このように隔たりを穿って、またそれを踏破するけれども、その隔たりの大小はさまざまでありうる。その隔たりの大小を定める境界は、たとえば習慣的な動作においては、そうとうに狭められることもありうることだろう。とはいえ動作がいかに習慣的なものとなったとしても、習慣をみとびくためには熟達と器用さが必要なのである。"(エマニュエル・レヴィナス著『全体性と無限』熊野純彦訳、上巻、pp.340-341)
 "無限なものの観念は、その観念を限界づけるなにものにもじぶんの外部で出会わない一個の存在体、いっさいの限界をあふれ出し、したがって無限なものである存在体を映し出すために、主体性がたまたま思いえがく概念などではない。無限な存在体の生起を、無限なものの観念から切りはなすことはできない。無限なものの観念と、当の菅根がそれについての観念である無限なものとのあいだで均衡がとれていないことにおいてこそ、限界の踏み越えが生起しているからである。無限なものの観念は存在することの様相であり、つまりは無限なものの無限化にほからない。無限なものはまず存在し、そのあとで、啓示されるのではない。無限なものの無限化が啓示として生起し、〈私〉のうちに無限なものの観念を植えつけることとして生起する。無限なものの無限化が生起するのは、およそありえそうもない状況にあってであって、そこではじぶんの同一性のうちに固定され分離された存在、すなわち〈同〉、《私》が、にもかかわらず自己のうちに、ただじぶんの同一性のはたらきによるだけではそれが含みこむことのできないもの、受けいれることもできないものを含みこむことになる。主体性によって実現されるのは、この不可能な要求である
。主体性とはつまり、含みこむことが可能である以上のものを含みこむという、驚くべきことがらを実現するのである。本書は、こうして、〈他者〉を迎えるものとして、他者を迎えいれること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。だから、対象に対して思考が適合的なものでありつづける志向性によって、意識をその根本的な水準で定義することはできない。志向性であるかぎりでの知のいっさいはすでに、無限なものの観念を、つまり際だったかたちで非適合的であることを前提しているのである。"(同pp.25-27)
 結果的に、七海は新居に引越しし、ひとり暮らしをする。安室からは引越し祝いに家具をもらう。だが、その家具は粗大ゴミシールが貼ってあり、安室が方々から横領してきたものだ。
 七海が変わらずに《リップヴァンウィンクルの花嫁》でいることは、2匹のベタを新居にもってきていることからわかる。

『まんがの作り方』は孤独に耐えること - ルカーチ『小説の理論』から -

 "「上流社会」の調子――すなわち因習的な幻想や非真理がもっているところの無関心で無感動な調子――がとりも直さず現代の支配的な通常の調子である。現代では多分単に本来政治的である要件(これは自明なことである)ばかりでなく、宗教上の要件および学問上の要件も、そしてそのためにまた現代の害悪も、この調子で取り扱われ論じられなければならないのである。見せかけは現代の本質である。われわれの政治も見せかけであり、われわれの道徳も見せかけであり、われわれの宗教も見せかけであり、われわれの学問も見せかけである。今は、真理を語るものは厚顔であり「無作法」であり、「無作法」なものは不道徳である。真理はわれわれの時代にとっては不道徳である。キリスト教の欺瞞的な否認――これはキリスト教の肯定という外観を呈している――は道徳的である、そうだ権威にされ名誉にされる。しかるに、キリスト教の真実の――すなわち道徳的な――否認、いいかえれば自己を否認として公言するような否認は、不道徳であり不評判である。恣意はキリスト教をもてあそんで、キリスト教の一方の根本条項は実際に放棄し、他方の根本条項は外見上存立させるのであるが、この恣意のもてあそびは道徳的である。そして、一方の根本条項を実際に放棄することはなぜに外見的に他方の根本条項を存立させることになるのかというと、すでにルターがいったように、一つの信条を破棄するものは少なくとも原理の方からはすべての信条を破棄するのだからである。しかるに内的必然性によってキリスト教から自由になるという真剣な態度は不道徳である。機転がきかない中途半端な態度は道徳的であるが、しかし自己自身を確信し確認している徹底性は不道徳である。怠慢な矛盾は道徳的であるが、しかし整合性という厳格な態度は不道徳である。凡庸な人間は何事にも始末をつけずまたどこでも根本にまで立ち入らないために道徳的であるが、しかし天才は自分の問題を片づけ徹底的に究明するために不道徳である。かんたんにいえば道徳的なのはただ虚偽だけである。なぜかといえば、虚偽は真理の害悪――または今はこれと同一であるが害悪の真理――を回避し且つかくすからである。"(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ著『キリスト教の本質』舩山信一訳、pp.18-19)

 『まんがの作り方』(全8巻、平尾アウリ著、徳間書店、2009-2014年)の表題の意味を探り、それを通じて描写の特徴を分析する。副読本にはルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』(所収『ルカーチ著作集』第2巻)を用いる。さらにそののち、その特徴が『推しが武道館いってくれたら死ぬ』(全2巻、2016年-連載中)、『私のアイドル』(所収『エクレア』、2016年)にも通底していることを確認する。
 『まんがの作り方』は読切りだった第1話において、作品のメタ=フィクショナルな視点を作中に導入してオチをつけている(第1巻、p.28)。本作は当初からフィクションをそのように相対化している。第1巻のプロットは、川口が百合マンガをかくために森下との交際を試みるというものだ。川口が百合マンガではないマンガの連載をはじめるまで、本作は自己言及的な構造をとることになる。
 それが第6-7話に当たる。出版社にプロットの提出を求められるという外的な要請により、川口は森下との交際の経験を創作に活かそうとするが、失敗する(同pp.128-130)。その失敗について、川口は現実がフィクションに転化する過程を逆転させ、原因を現実に求める。"(今なら絶対百合漫画描けると思ったのに)(百合を理解出来てない?)「森下――…」(もしかしてまだ森下のこと好きになれてないの?)"(同p.130)。
 しかし、それはフィクションの存在意義をも否定する。川口は森下にプロットの作成を依頼し、森下に諌止され、そのことに気づく。"「森下私のこと好き?」「え あの」「うん そうだよね」「なら 私の代わりにプロット書いてくれたらいいのに」「それだとダメです」「先輩の漫画じゃないと意味ないです わたし先輩の漫画と一緒に載りたいです」「だよね(コマが変わる)ごめん冗談だから」「?」"(同pp.131-132)。
 そして、とくにじしんの経験とかかわりのないプロットが採用される。ここにおいて、現実から独立した、フィクションのそれじたいの存在が認識される。"〈結局 適当に書いた二行ほどのプロットとも言えないようなものが通ってしまった。〉(描きたいものと描けるものは違うもんなんだな)"(同p.133)。川口は創作にかかわりなく森下と交際をつづけることにする。現実とフィクションの二重性の認識が、肯定的に作用する。"〈自分のためじゃなくてこの子のために一緒にいてあげなきゃって思った。〉"(同p.138)。
 ジョルジュ・ルカーチは『小説の理論』において、ゲオルク・ヘーゲルの『美学講義』におけるエマニュエル・カントの『判断力批判』の概念と感覚の一致という美学の基準を主観的なものにすぎないとする批判(ゲオルク・ヘーゲル著『ヘーゲル美学講義』長谷川宏訳、上巻、pp.62-66)を継ぎ、文学を劇文学と叙事文学の二者に区分する。劇文学は具象化した超越性の描写としてではなく、本質が生の世界を包含しているが、叙事文学は本質が超越性により措定をおこなう当為でしかない。よって、叙事文学は生そのものではありえず、もはや弁証法としてしか芸術をおこなうことはできない。なお、距離の有無により叙事文学は叙事詩と小説に区分される。小説はイロニーという自己認識と自己止揚の過程をとる。

"先験的な標識点のかかる変化によって、芸術形式は歴史哲学の弁証法に従属することになる。しかし、弁証法のゆきつく結果は個々のジャンルの先験的故郷に応じ、すべての形式にとってかわらざるをえない。変化がおよぶのが対象と対象を形象化する諸条件のみであって、形象とその先験的存在理由との究極の関係には、一指も触れない場合も、おこりうる。その場合、たんに形式が変化するにとどまり、なるほどこの変化によって技術的な細部のすべてにおいて分解が進行しても、形象化の根本原理がくつがえることはない。しかし、ほかならぬすべてを規定する、ジャンルの様式化の原理に変化があらわれ、芸術意志が変わらないのに(歴史哲学的に条件づけられているが)同じ芸術意志にさまざまな芸術形式が適当する場合がありうる。これはジャンルを創造する志向の変化ではない。たとえば主人公と運命とが問題化すると、エウリピデスの非悲劇的演劇があらわれるごとく、すでにかかる例はギリシアの歴史のうちにみられたことであった。そこでは創造へかりたてる先験的要求と、主観の形而上学的苦悩とのあいだに、先験的要求と、完成された形象化が逢着する、あらかじめ決定された永遠の形式の場とのあいだに、完全な一致が支配するのである。しかし、ここで言うジャンルを創造する原理は、志向のいかなる変化も要求しない。むしろ必要なのは、古い目標と本質的に異なる、新たなる目標を目ざす、かわらぬ志向なのだ。それは、形象化する主観と仕上げられた形式によって出現した世界における、先験的構造の昔ながらの平行もまた引き裂かれ、形象化の究極の基盤が故郷を喪失したことを、意味するのである。たとえ必ずしも徹底的に究明されたわけではないが、小説の概念をロマン的なるものの概念と密接に結びつけたのはドイツ・ロマン派であった。それは大いに正しかったのである。なぜなら小説形式はほかのいかなる形式にもまして、先験的な寄るべなさの表現なのだから。歴史と歴史哲学が一致していたから、そこからギリシアがえた結果は、どのジャンルの芸術も、精神の日時計のうえにまさにその時の来たことが読みとられてはじめて出現し、その存在の典型がもはや水平線上にとどまることがなくなれば、どのジャンルの芸術も消え去らなければならなかった、という結果なのだ。ギリシア以降の時代にとってはかかる哲学的循環は失われた。ジャンルはそれらの時代にとってはときほぐしえない縺のなかでからみあい、もはや明白、明解にあたえられてはいない目標の、本物の探求、にせの探求のしるしとなった。ジャンルをよせ集めてもその総計からあらわれるのは、経験の歴史的全体性にすぎないのである。そこに人は個々の形式のために形式の生まれくる可能性を、その経験的(社会学的)条件を探し求めるであろうし、ときにはそれを見出すこともあろう。しかし、そこではもはやあの循環の歴史哲学的意味は、象徴と化したジャンルのうえに集中せず、そこでは歴史哲学的意味は時代の総体のうちに見出されるより、むしろ時代の総体から解読され読みとられるのである。しかし、この先験的な関わり合いはわずかにゆらぐだけでも、意味の生内性は救いようもなく失われたのに、生から遠のいた本質、生にうとましい本質はおのれの実在を王冠としてみずからを飾り、大きな騒乱に見舞われ、その尊厳の色褪せることがあろうと、尊厳そのものが飛び散り消滅することはありえないのだ。それゆえ悲劇はたとえ変貌しても、その本質は無傷のままにわれわれの時代へと救いだされたが、叙事詩は姿を消し、まったく新たなる形式、小説にその席をゆずらざるをえなかったのである。"(ルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』大久保健治訳(所収『ルカーチ著作集』第2巻、pp.36-38))

"現実の現存性と相在に結びつき引きはなしようのないことが、叙事文学を劇文学から決定的に分かつ境界であり、それは叙事文学の対象たる生に由来する必然的結果である。本質という概念はたんに措定するだけですでに超越性へと向かうが、しかしそこで新たなより高次の存在へと結晶化し、その形式によってあるべきものとしての存在を表現する。それは形式によって生みだされた現実性のなかで、ただたんに存在するにすぎないもののもつ、内容としての所与性から独立を維持する、当為としての存在を表現するのである。生の概念はそれとは異なり、とらえられ、凝固した超越性のもつ、具象性を排除する。本質の世界は形式のもつ力によって現存在の上にはりめぐらされ、ただこの力の内なる可能性によってその種類と内容を制約されるのだ。生の世界は地上に居すわり、ただ形式によって受けとめられ、形象化されて、それ本来の意味へと導かれるにすぎないのである。そして生の世界では、ただ思想誕生のさいの、ソクラテスの役割を果たすことを許されるにすぎない形式は、前もってみずからのうちにおかれたものでなければ、魔術によろうと、なにひとつとしてみずからのうちから生みだしようがない。演劇の創造する形式は(これは同じ事情の別の表現にすぎないが)人間の知性的自我であり、叙事文学の性格は経験的自我である。地上で追放された本質が、逃れながら死にもの狂いにみずからに課し、それを強めながら達する当為、この知的な自我のなかにおいて、それは主人公の規範的な心理学として客観化される。経験的な自我においては当為はあくまで当為にとどまるのである。その力はただたんに心理的な力にとどまり、魂のほかのさまざまな要素と、その種類を同じくする。当為の目標設定は経験的なものであり、人間あるいは環境によってあたえられる、ほかのさまざまな可能な努力と種類を同じくするのだ。その内容は歴史的内容であって、時の流れによって生みだされた、ほかのさまざまな内容と同質であり、それが成長した大地から引きはなしようがない。それは枯れ果てることがあっても、新たに、宙に漂よう現存在へとは、とうてい目覚めえないのである。当為は生を殺す。そこで演劇の主人公は、生の明白な現象を象徴的な持物として身に帯びるのである。それはただ超越を死とみたて、象徴としての葬儀をとりおこない、明白に目にしうるものにかえるためなのだ、しかし、叙事文学の人間たちは生きなければならない。さもなくばかれらを担い、取り巻き、満たす要素を引き裂くか、あるいは損ねてしまう。(当為は生を殺す、そして概念はすべて対象の当為を表現する。それゆえ思索は生の現実的定義とはとうていなりえないし、ゆえに芸術哲学は叙事文学よりも、おそらく悲劇にそれだけいっそうふさわしいのである。)当為は生を殺す。それゆえ当為としての存在から組み立てられた叙事詩の主人公とは、必ず歴史的現実のなかに生きる、人間の影にすぎないのである。その影ではあっても、とうていその典型ではありえないのだ。主人公に体験として、あるいは冒険として課せられる世界は、実際の世界のあまい隈取りであっても、その核心、その精髄ではとうていありえない。ユートピア的叙事文学の様式化は、ただ距離を創造しうるにすぎないが、しかしこの距離もまた経験と経験とのあいだの距離にとどまる。そしてその隔たり、その隔たりの悲哀、その隔たりの気高さも、ただ響きを修辞的響きにかえるにすぎないのである。なるほど悲歌に似た抒情詩の、またとなく美しい果実を結ぶことはあろうが、しかし、ただたんに距離をおくことからは、存在をこえてゆく内容が、溌溂とした生に目覚めることはありえないし、とうてい独立した現実に変わることはありえない。この距離の示すのが前進であれ後退であれ、それが生にたいして描くのが上昇であれ下降であれ、それはとうてい新たなる現実の創造とはならない。それはあいもかわらぬ、すでに存在する現実性の主観的反映にすぎないのである。ウェルギリウスの主人公たちはひややかで落ち着いた影の生をいとなむが、それは永遠に消え去ったものをよびもどすために、みずからを生贄とした、美しき熱情に養われる。そしてゾラの作りあげた記念碑は、現在の生は知りつくしたとうぬぼれる、社会学的範疇体系の多様ではあるが、見通された一分枝を前にしての、短調きわまりない感動にすぎないのである。"(同pp.44-46)

 ルカーチは理念と現実の最大の相違を時間におく。叙事詩および演劇は無時間的だ。時間は本質を規定するものであり、それに形式を用いるが、時間体験は価値を担うものとしての叙事詩と意味を見放されたものに区分される。
 また、ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、19世紀の小説は、時間が精神的に知覚された当時において内的時間と外的時間の統一を試みており、それは、後期ロマン主義において、持続のなかに存在する自己を創造することの無力さを自覚させ、非創造の念願を発生させたと述べている(ジョルジュ・プーレ『人間的時間の研究』井上究一郎他訳、p.38)。また、その端点にベルグソンの思想を位置づけている。ベルグソンは『時間と自由』において、《持続》を記号的表象としての等質的持続と根底的自我との融和として定義している(アンリ・ベルグソン著『時間と自由』中村文郎訳、p.167)。
 さて、現実とフィクションの二重性を肯定的に認識したのち、川口は森下からどのようなマンガがかきたいか尋ねられ、答えに窮する(『まんがの作り方』第1巻、pp.148-149)。川口が思考に沈潜したのち(同p.149)、なにもおこらない時間がえがかれる。エビグラタンを注文し、それが配膳されるまでのなにもおこらない時間の経過が、見開きの2ページの紙幅と対応して描写される(同p.150-151)。そののち、ついに川口は森下に創作のために交際していたことを間接的に告白する。が、森下は気にしない。"「でも私がさ まんがのネタ探しのために森下と一緒にいるんだって言ったら やっぱり怒るでしょ?」「いただきます なんでわざわざそんなこと?」「なんでっていうか… 流行ってんじゃん ガ(ールズラブ)」「(吹出しを重ね)わたしは気にしないですよ」「なんでもいいですよ 先輩がわたしといてくれるんなら」「むしろ嬉しいです」"(同pp.152-153)。そこで、153ページの6コマ目から154ページの1コマ目のカッティングで、ページをまたぐ劇的さをともない、180度の切返しがおこなわれる。川口はひとこと"「よかった」"という(同p.154)。ここが本巻でもっとも劇的なシーンだろう。ここで、川口と森下との関係における、創作のためという目的によるものという緊張が解消され、同時に、現実とフィクションの位相差にたいする不安が解消される。
 150-151ページの作中の時間と紙幅との一致、ウンベルト・エーコのいう物語の時間と言説の時間、読書の時間(ウンベルト・エーコ『小説の森散策』)、あるいはジェラール・ジュネットのいう物語内容(イストワール)の時間と物語言説(レシ)の時間(ジェラール・ジュネット『フィギュールⅢ』)との一致は、いわば理想の顕現だ。ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』でギュスターヴ・フローベールについて、『ボヴァリー夫人』の一場面を題材にその瞬間を分析している。そして、フローベールにあってはその持続における過去との時間の隔絶による断絶が、過去が一連の思い出=情景(souvenirs-tabletax)という映像の行列として、精神によって系列化されることで解消すると控えめに提唱している。

"理念と現実とのあいだでもっとも大きくくいちがっているもの、それが時間である。すなわち、持続としての時間の流れなのである。主観性がみずからを証明する力をもたないことを、もっとも深刻に、もっとも屈辱的にあらわすのは、理念を欠如する社会的形態や、その化身としての代表的人物との、空しい戦いにおいてではない。それはむしろ、主観性が緩慢でとだえることのない時の流れに抗しえず、ようやくにして征服した頂きから、徐々に、しかもとめどなくずり落ちてゆき、このとらえようのなく目にとらえがたく動くものが、主観性からそのいっさいの財産を徐々にもぎとり――いつのまにか――主観性に異質の内容を押しつけてゆくところ、その点なのだ。それゆえ理念の先験的な故郷喪失の形式である小説だけが、実際の時間、すなわちベルグソンのいう「持続」を、本質規定的原理の系列のうちへ取り入れるのである。演劇は時間の概念を知らないし、すべての演劇は正しく理解された場合の三一致の法則に(その場合の時間の統一とは、時の流れから取り出された時間を意味するが)従うことを、わたしはすでに別の関連において論証したことがある。たしかに叙事詩は時間の持続を知るかにみえる。『イーリアス』と『オデュッセイア』の十年間を考えてみるだけでよかろう。しかし、この時間もひとしく現実性を、あの真の持続をもたない。人間と運命はあくまでも時間の手にふれることがないのだ。かかる時間はみずからのうちに固有な動きをもたないのである。かかる時間の役割はある冒険の偉大さとか、ある緊張の大きさなどを目立つように表現することでしかない。トロイアの占領が何を意味するのか、オデュッセウスの遍歴が何を意味するのであるか、聴き手が体験するために、かかる十年の年月は欠くべからざるものなのであり、それは同じく多数の戦士が余儀なくさまよった、大地の表面が欠くべからざるものであるのと、なんらかわるところがないのだ。しかし、英雄たちが作品の内部において時間を体験することはない。かれらの内的変化、あるいは不動の内面に、時間の手がおよぶことはありえない。かれらはみずからの年齢をすでに性格の一部としてもつのである。ネストールが年老いているのは、ヘレナが美しく、アガメムノンが力強くあるのとかわるところがない。叙事詩の人間たちもまた、老いゆくこと、死などの、あらゆる生の痛ましい認識をもつことはあるが、しかし、それもまたただたんなる認識に終わるのである。かれらがいかなる体験をし、かれらがどのような体験をしようとも、それは神々の世界にひとしく、幸福な、時間をはなれた世界の出来事なのだ。ゲーテ、シラーによれば叙事詩にたいする規範的な立場とは、完全に過去となってしまったものにたいする立場である。ここであたえられる時間は、それゆえ停滞しており、一望のもとに見渡される。作者と人物たちはこの時間のなかを、あらゆる方向にむけて自由に動きまわれるのである。かかる時間はすべての空間がそうであるがごとく、次元をもつことはあっても方向を知らない。そして同じくゲーテ、シラーによって認識された、演劇のもつ規範的現在性なるものは、グルネマンツの言葉をかりれば、時間を空間にかえるのである。そして近代文学が完全に方向を喪失してしまってはじめて、発展を、徐々にすすむ時間の流れを、演劇的に表現しようとする不可能な課題が提起されたのである。
 時間は先験的故郷との結びつきがとだえてしまったときはじめて、本質規定的なものとなりうる。恍惚は神秘主義者を、持続と時間の流れすべての停止した領域へと高めるが、かれは被造物として有機的に制約されているがゆえに、やむなく時間の世界へ下降する。親密に、目にはっきりうつるものとして、本質に結びついている形式は、かかる必然性を先験性(ア・プリオリ)にまぬかれた宇宙を創造するのだ。本質を探究すべきなのはただ小説のみであり、本質を見出しえず、そのことを素材とする小説においてのみ、時間は形式とともにおかれるのである。かかる時間とはただ生命あるものにすぎない有機性が、現存する意味に逆らって反抗することであり、生がみずからの完全に閉ざされた内性のうちに、とどまろうと意欲することである。叙事詩においては意味の生内性があまりにも強力であり、時間はそれによって止揚される。生は生としてそのまま、永遠性のなかへ入りこんでしまうのだ。有機体はただ開花を時間のなかからもたらし、花がしぼみ死のいたることをことごとく忘れさる。小説において意味は生から区別されるが、それによって本質的なるものが時間的なものから区別される。小説の内的筋(ハンドルング)とはことごとく、時間の力との闘争にほかならぬとまで、言いきれるのである。幻滅のロマン主義にあっては時間は堕落の原理なのだ。詩、すなわち本質的なるものは死滅しなければならず、この衰弱の究極の原因になるのが時間である。それゆえここにおいては、価値はことごとく消滅するがゆえに、色褪せる青春の性格を保つ土台としての部分の側にあり、時間の側に粗野なもののすべて、理念を欠如した厳しさがくる。そして没落してゆく本質に自己嘲笑が向けられても、それは勝ちすすむ力による、一面的な抒情的征服にたいするあとからの訂正にすぎないのである。本質はいまひとたび青春という属性を身にまとうが、それは新たなそしていまや忌まわしいものとなってしまった、意味においてなのだ。すなわち理想はただ未成熟な魂の状態にとってのみ、本質規定的なものかとみえるのである。しかし、この闘いのなかで価値と無価値とが、二つの側面のあいだであまりにも鋭く区別され、分割されることになるなら、小説の全体としての組み立てもゆがまざるをえない。形式は生を先験的(ア・プリオリ)にその領域からしめだしうるときのみ、生の原理を実際に否定しうるのである。生の原理をみずからのうちに受け入れる羽目になるなら、それは形式にとって肯定的なものとなっていたのだ。価値は生の原理の抵抗を前提とし、生の原理の本来の実在を前提として実現されるのである。"(『小説の理論』pp.119-122)

"かくて、宇宙的生命と同化するということは、多様な物と、人間がそれらの物について抱く多様な表象像とを無差別に包含しつくす体の神のごとき拡がり、そのなかへ溢れ出てゆくことである。思惟と外界とはここに同じ一つの拡がりとなる。《存在の多様性という点で、ぼくはインドの大森林のようなものだった。そこでは原子のひとつひとつに生命が脈うっている…》が、生命は多様性であるがゆえに、その多様に変化する動きのなかでしかとらえられない。感覚的思考作用が表象の場全体にわたって展がりうる一点、そこに到達するだけでは充分ではないのだ。さらにこの点に立ちつつ、現在という時間内容を持たないこの点から逸脱することなしに、魂は「この生命全体のなかで生きて、そのあらゆる形を身によそいつつ、あらゆる形とともに持続し、絶えず多様に変化しながら、永遠の太陽をめざして絶え間なく自己の変身を押し進めて」行かなければならない。生命とは持続である以上、生命を絶対的に表現する瞬間は瞬間=持続(moment-duree)でなくてはならない。さて、フローベールがこの特殊な瞬間の持続性を感じとるのは、「おお、うれしい! うれしい! うれしい! わしは見たのだ、生命がここに生まれるのを、運動がここにはじまるのを見たのだ」というふうに、物の起源を目のあたり直観的にとらえたときである場合もあるが、それよりもむしろ、なにか深い感銘を与えるような事件をきっかけとしてこの特殊な持続性が作品中に描かれる場合のほうがいっそう多い。つまり、感覚が物の生命一般と符合するあまりに、一方がいわば他方の比喩的表現となるような瞬間があって、そこでは、自分が生きていると感じることは、生命一般が生きていると感じること、時間持続の脈がうつのを感じることと同じになる。『ボヴァリー夫人』のなかの肉体関係の場面がその好例だ。《あたりは静かだった。しっとりした気配が木立ちからただよい出るようだった。彼女は心臓がまた規則正しく動悸を打ちはじめるのを感じ、血があたたかい乳の流れのように体内にめぐるのを感じた。そのとき、はるか遠く、森のかなたのどこか向こうの丘の上で、何とも知れぬ、長く尾を引く叫び声、哀調をおびた声が聞こえた。まだ興奮のさめやらぬ神経のふるえの余波にとけ込んでくるその声は、音楽のようにこころよく、彼女はしみじみと聞き入った。》この一節で、フローベールはある一つの瞬間に、まったく特殊な空間的、時間的濃密性を付与するに至っているため、(おそらくこれこそフローベールが生み出したかった効果なのだろうが)この瞬間は日常普通の時間持続とは異なった次元の持続――物のテンポがいっそう穏やかにゆるやかであり、そのためにいっそうまざまざと感じとることができるような持続、いわば伸び拡がる持続に属しているかに思われる。あたかも時間は吹き過ぎる微風に似て、ふたたび打ちはじめた動悸のなか、乳の流れのようにめぐる血のなかに感じられるかのようだ。ここにはもう、外界との隔たりが深まってゆくという苦い意識はない。隔たりはもう存在しないのだ。ここにあるのはもはや、事物とそれを感じる人間とが一体となって滑ってゆく動きと、この瞬間の内容を構成するさまざまな要素の間にある絶対的な同質性の感じとだけである。感じる人間、彼の肉体、そして風景、自然、生命、すべてが同じ生成途上の同じ瞬間を領ち合い、共にするのである。"(ジョルジュ・プーレ著『人間的時間の研究』山田𣝣他訳、pp.348-349)

 そして、そうして現実とフィクションの二重性を認識していれば、理念をそれじたいとして描写することはない。よって、川口と森下との関係における緊張が解消されたのちも、それがそのままロマンスとして発展することはない。"〈だからこういうのもうイミないんだって!〉〈森下といてネタになるようなまんが描いてないしね!〉"(『まんがの作り方』第1巻、p.156)。
 平尾アウリは東京マンガラボのインタビューで、『まんがの作り方』のギャグマンガらしからぬ安定した進行、具体的にはデフォルメの使用の抑制や、風景ショットのインサート・カットについて尋ねられ、時としてカット間につながりのない映画の文法のことを挙げている。言うまでもなく、しばしば人物の登場に久米田康治のいうところの《四段ぶち抜き》を用い、マンガ用トーンを使用する平尾アウリが実写を志向しているわけではない。また、風景ショットのインサート・カットはエスタブリッシュ・ショットとして、マンガでも一般的に用いられるものだ。しかし、コマの大小による感情表現の強調を抑制して、コマ割りのテンポを保つ。また、ロング・カットに相当するおなじ構図のコマを並置して、時間経過をしめすというマンガ的表現は、第1巻では132ページの4-5コマ目しか用いていなく、第2巻では、130ページ1-2コマ目、137ページ4-5コマ目と他2箇所で用いているが、130ページではズーム・アウト、137ページではドリーによってカメラをわずかに動かしている。また、180度切返しショットをしばしば使用する。エスタブリッシュ・ショットではまま俯瞰ショットを用いるものの、構図を意識させず、ロング・ショットおよび会話シーンのバスト・ショット、アイ・ポジションを原則とする。これが意図された演出であることは、未発表作品である『4月1日』を、いささかの照れをもった本人による作品解説とともに、それを表題に掲げる作品集で読むことのできるいま、多くのものが知っている。小津安二郎が戦後まもないころ、『風の中の牝雞』を撮ったというフィルモグラフィーを知っているもののように。こうした、誇張表現の抑制を、とくにデフォルメの使用を避けていることをもって、映画的だと断じることは簡単だろう。
 しかし、その映画的なるものは、現代の映画を指しているわけではない。正確には、アメリカ古典映画と、そのコードの意識的な違反だ。
 黒沢清は、蓮實重彦との対談に寄せた文章で、アメリカ映画の変質の起点を1997年、タランティーノが『ジャッキー・ブラウン』を、スピルバーグが『アミスタッド』を、イーストウッドが『真夜中のサバナ』を撮った年においている。

"ところで、ひょっとすると、これはいわゆる映画のデジタル化をどれくらい上手に取り入れるか、という問題に還元できるかもしれません。アメリカ映画のしたたかな監督たちは、ほぼ例外なく全員、いつの間にかちょっかちデジタル技術を取り入れていて、それが売りになろうがなるまいが素知らぬ振りを決め込むことに長けているようです。この点で、アメリカ以外の国の監督たちが大きく水をあけられていることは事実でしょう。リュック・ベンソンもパク・チャヌクもチャン・イーモゥも三池崇史も、懸命にデジタルに取り組んではいますが何か心もとない。と言うか、彼等の中のどこかに、デジタル化した言いわけが企画全体から立ち上がっているような、明らかな気負いと後ろめたさがあるようです。それに較べて、イーストウッドなどは本当にあっけらかんとデジタル化によって作りこんだ画面を導入する。……フォードでもホークスでもヒッチコックでも構いませんし、オルドリッチでもイーストウッドでもいいのですが、彼らの作品一本の長さが仮に一〇〇分だとして、その内のほぼ九〇分以上を占めているのは実は「見詰め合った瞳」なのだと知って、映画の奇跡に胸を打たれる人よりも、その欺瞞に怒りを露わにする人の方が断然多いのではないかと思います。ヒッチコックが映像の魔術師だとか、よくもまあ言ったものです。彼の映画のほとんどの部分は、俳優たちが見詰め合ってしゃべっているシーンばかりなのに。つまり、映画とはおおよそ、俳優の科白によって伝えられる物語を観客が享受することで成立している、そういう表現形式のようなのです。そして、科白は会話というダンドリで行われ、会話の最中ほとんどの場合俳優たちが見詰め合っています。だから僕たちが一本の映画を見たと言うとき、その九割は見詰め合った瞳を見ている。にもかかわらず、それは実は撮影できない!……何だそれは?……いや、このように言い換えた方がいいかもしれません。見詰め合った瞳は本当は撮影できないからこそ、見詰め合っているかのように一見みえる俳優たちによって語られる言葉は、しゃべる人間を映した生々しい映像というものをうっちゃって、どこか遠いところから響いてくるナレーションのような役割を持つ。そして、ここに強力なフィクションを観客に伝達する力が生まれるのであり、単なる映像がこうして「豊かな物語性」を獲得したことによって、こんにちの映画が成立したのだ、と。……いや、何を隠そう僕だってしょっちゅうやります。役所広司と荻原聖人が見詰め合ったり、西島秀俊哀川翔が見詰め合ったり、オダギリジョー浅野忠信が見詰め合ったり、中谷美紀豊川悦司が見詰め合ったり、香川照之小泉今日子が見詰め合ったりして、そこから立ち上がる何やらえも言われぬ物語性らしきものを、ちゃっかりその作品の主題ででもあるかのように後のインタビューで語ってみせたりしている。やれやれ、自分のことについては何ともお恥ずかしい次第ですが、しかし映画における顔の切り返しが、他の芸術にはない独特の表現形式であることもまた事実なのでしょう。だから誰もが小津に心酔します。キアロスタミの車中の正確な見詰め合いの方が、ラース・フォン・トリアーの乱雑な見詰め合いよりずっと映画的であると直感しもします。しかし一方で、どうでしょう、溝口、ドライヤー、アンゲロプス、相米エドワード・ヤンジャ・ジャンクー……彼らの作品はやっぱりすごい。凡庸な見詰め合いや会話劇を撮らない彼らこそ本当の映画作家だと断言していいとさえ思います。そして、これなら日本ででもできる! だから僕もやってみた。案外うまくいった。海外の映画祭などにもぽつぽつと呼ばれるようになった……。"(蓮實重彦黒沢清『東京から』pp.161-167)

 そのデジタル化とは、マイク・フィギスが『デジタル・フィルムメイキング』でデジタルカメラの特性として、フォーカスの問題がなくなり役者が自由に動ける、モニターの設置によるカメラマンとビューファインダーの分離、およびカメラの小型化によりカメラが自由に動ける、暗くても写り、また照明を設計しなくても明度を自動調整する、ポスト・プロダクションでカラーバランスの設定ができる、編集ソフトの導入により編集機と技師が不要になり、監督みずからが編集できる、などと挙げるもの、つまり撮影の簡易化をもたらすもののことだろう。
 蓮實は『ゴダール マネ フーコー』で、"モンタージュとは、つなぎ(ラコール)を通じて、カッティング〔切断〕と偽のつなぎ(フォ・ラコール)を通じて、〈全体〉なるものを規定することである(ベルクソンの第三の水準)。"(ジル・ドゥルーズ著『シネマ1』財津理、齋藤範訳、p.54)という、やはりベルクソン公準としたドゥルーズの『シネマ1』を引きつつ、フーコーの『言葉と物』に基づき、同著者の講演『マネの絵画』の失敗の原因を指摘するとともに、映画が物象化されたものでしかないことを説明する。そして、そこにはフーコーが『言葉と物』で〈もはやわれわれは存在しない〉といったように、もはや〈人間〉は存在しない。

"小林康夫の指摘を待つまでもなく、彼の『マネの絵画』はあらゆる意味で「失敗した試み」である。だがそれは、小林氏がいうように、フーコーが《侍女たち》で「インファンスの身体をあえて見ないようにしている」ように、《フォリー・ベルジェールの酒場》の「無の表面で輝くバーメイドの身体の輝き」を見なかったことのみからくるのではあるまい。「表象の関係」という見えてはいないものにしか興味がないフーコーは、可視的に表象されているバーメイドの肉感的な肖像になど、いかなる関心もいだいてはいないはずだからである。とはいえ、であるがゆえに、彼がエドワール・マネについて語りそびれたのではない。フーコーは、マネにかぎらず、「われわれにとってまだ同時代であるもの」としての一九世紀についてはほとんど何ひとつ語ってはいないのであり、それは、彼の提起する「考古学」の限界だとはいわぬまでも、それがあらかじめかかえこんでいる論理的な不可能性にほかならない。彼は、エドワール・マネとともに、「われわれにとってまだ同時代であるもの」という現実の中に位置しており、ほとんど自分自身でありながら同時にほとんど自分自身ではないマネを語ることで、いかなるフィクションも始動させえなかったのである。それは、ことによると、ジル・ドゥルーズとは異なり、ミシェル・フーコーが映画についてほとんど何ひとつ発言しえなかったことと通じているかもしれない。『マネの絵画』に収録されたシンポジウムの発言者のほとんどが、美術史的な視点からのフーコーのテクストのいささか困難な擁護に言葉を費やし、できればこれを読まずにすましたかったという視点がまったく感じられないのは、「われわれにとってまだ同時代であるもの」に対する畏怖の念が彼らに欠けていたからとしか思えない。例えば、「"ああ、マネね……"――マネはいかにして《フォリー・ベルジェールの酒場》を構築したか」のティエリー・ド・デューヴのように、フーコーの提案をいくぶんか修正しつつ、背後の鏡をしかるべく傾けさえすればバーメイドの右隅の後ろ姿は容易に正当化されうるということは、フーコーを読むにあたって何ら有効な指針とはなりがたい。手前におかれた品々がほとんど反映していないと指摘するフーコーが気づいていたように、バーメイドの背後にあるのは、鏡というよりは空間を極端にせばめる壁にほかならないからだ。そして、「われわれにとってまだ同時代であるもの」にふさわしい映画においてなら、セットの鏡などいつでもとりはずして壁に置き換えて撮影することができるし、本書「鏡とキャメラ」の章で見たゴダールの自画像のように、キャメラとモニターの位置ひとつで、こちら側を向いているわけではない人物の表情を、あたかもこちらを向いているかのようにスクリーンの枠内に浮かび上がらせることさえいくらでもできるのである。《フォリー・ベルジェールの酒場》について、映画的な視点から論じた文章がまったく存在しないわけではない。宇野邦一の「フレームという恐ろしいもの」(『映像身体論』みすず書房)がそれである。だが、ドゥルーズやノエル・バーチにしたがい、小津安二郎における交わらない視線との関係でマネにおけるバーメイドの後ろ姿の「ずれ」を語ろうとするこの文章は、ほんの思いつき程度の貧しい発想をいささか大袈裟に論じたてただけのものにすぎず、その言葉は、小津安二郎にもエドワール・マネにもとどいてはいない。実際、小津において「誰でも異様な印象をうけるにちがいないことのひとつ」は、「視線の方向が、まったくちぐはぐな、あの型破りなモンタージュである」という宇野氏の粗雑な指摘は、誰もがそこで読むのをやめてよいと判断するに充分なものである。というのも、小津の切り返しショットにあって、視線の方向が「ちぐはぐ」であったことなど一度としてないからである。誰もが知っているように、小津の視線は、あらゆるショットにおいて一貫しており、ノエル・バーチが問題としたのも、その一貫性が誘発する「つなぎ間違い」の印象にほかならない。いうまでもなく、映画における「つなぎ」は、視線の交錯をめぐるものにつきているわけではない。動作の「つなぎ」もあれば、時間と空間――持続と瞬間、部分と全体、画面外と画面内、等々――の「つなぎ」もあり、それらを「つなぎ」一般として、あるいは「つなぎ間違い」一般として論じることにはいささかの理論的、かつ実践的な困難がともなう。『映像身体論』の著者である宇野氏はその困難にいたって無自覚なのだが、そのことから導きだされる好ましからぬ帰結については論じておかねばなるまい。いずれにせよ、少なくとも視線をめぐる「つなぎ」に関するかぎり、それは目に見える瞳と異なり、あくまで不可視の対象でしかない視線が、それそのものとしてはフィルムに映らないという現実を前提としている。キャメラは、交わる視線に対しては徹底して無力なものであり、一般に「正しいつなぎ」として受けいれられているハリウッド流のアイライン・マッチの原則とは、「正しさ」や「間違い」とはいっさい無縁のたんなる撮影作法にほかならない。そのほうがより「自然」に見えそうだというだけの理由で、多くの映画作家がひとまず従っているいわば「制度」にすぎないのだから、厳密には「正しいつなぎ」も「誤ったつなぎ」も存在しないというべきだろう。実際、小津安二郎独特の一八〇度の「切り返し」ショットが「つなぎ間違い」――あるいは「誤ったつなぎ」――として論じられるのはごく稀なことである。それをあえて論じてみせた例外的な一人であるノエル・バーチにしても、それを「誤った」とは断じておらず、その形容詞「誤った」をひとまず括弧で括り、「"誤った"アイライン・マッチ("bad"eyeline match)」とことさら語調を緩和せざるをえない。それを間違っても「誤った」とは呼べないことを、このアメリカの映画理論家もよく承知しているからだ。ところが、バーチの書物のフランス語訳で、「"誤った"アイライン・マッチ」という表現が「"誤った"つなぎ(«faux»raccord)」という言葉に置き換えられてしまったことから、バーチの原著を読んでいないらしい宇野氏の理論的かつ実践的な混乱が始まる。事実、『映像身体論』の著者は、ノエル・バーチが「"誤った"アイライン・マッチ」とわざわざ括弧つきで呼ばざるをえなかったものを、ジル・ドゥルーズが『シネマ1 運動イメージ』で括弧をつけずに「誤ったつなぎ(faux raccord)」と呼んだ現象と同じものだと判断してしまったのである。宇野邦一は、おそらくはノエル・バーチの書物で小津を論じた部分に拠りながら、小津の「切り返し」を「しばしば"誤ったつなぎ"といわれるモンタージュ」だとして論を進めるのだが、それはまったくの「誤り」である。すでに指摘したように、バーチはわざわざ「"誤った"アイライン・マッチ」と留保をつけているのであり、だから、括弧によるその語調緩和を考慮することのない宇野氏自身をのぞいて、これを「誤ったつなぎ」と性急に断じてしまった理論家は皆無だといわざるをえない。もちろん、小津の「切り返し」を「大胆な冒険」と呼んでいるジル・ドゥルーズも、それを「誤ったつなぎ」だなどと断じて論を進めていたりはしない。彼が『シネマ1 運動イメージ』で「誤ったつなぎ」に言及しているのは、交錯する視線の「つなぎ」ではなく、より本質的に映画の存在論にかかわるものだともいえる時間と空間の「つなぎ」にかぎられている。実際、ドゥルーズが「誤ったつなぎ」の中には映画固有の問題がひそんでいそうに思うと述べるとき、宇野氏が軽率にも「誤ったつなぎ」だと思いこんでしまった小津の「切り返し」のことなどまったく想定されてはいない。そこで問題となっている映画作家は、時間と空間の「つなぎ」、つまり、持続と瞬間、部分と全体、画面外と画面内、等々の関係をモンタージュとして視覚化してみせたセルゲイ・エイゼンシュテインであり、その対極にあるワンシーン・ワンショットとして視覚化してみせたカール・Th・ドライヤーなのである。宇野氏もひいている「誤ったつなぎとは、それだけで"ひらかれたもの"の次元であり、総体とその部分から逃れている」という言葉は、まさにエイゼンシュテインとドライヤーについていわれたもので、小津とはいっさい無縁である。にもかかわらず、宇野氏は、あたかもドゥルーズに勇気づけられたかのように、小津の「切り返し」を「誤ったつなぎ」だと確信しつつ論を進め、あげくのはてに、「誤ったつなぎ」という「誤った」概念を小津からエドワール・マネへと拡張しようとする。これが「ほんの思いつき程度の貧しい発想」でなくて、いったい何だというのか。"(蓮實重彦著『ゴダール マネ フーコー』pp.119-124)

 つぎにロマン主義的なものの前景化するとき、第59話で武田が政人に自分がマンガをつづけることを人質に、川口と森下に別れるように脅すことを提案される。しかし、最終話の第61話で武田はそれを実行しないことにきめる。"(「漫画描かない」って言えなかった)(言いたくなかった)"(同第8巻、p.118)。ここでもまた、現実の人間関係とのかかわりにおいて、フィクションがそれじたいとして認識される。しかし、川口と森下とは異なり、武田の好意が報われることはない。だが、最終話の雰囲気はあくまでもあかるい。そして、川口、森下、武田、政人の4人は仕事部屋を離れ、卓球場におもむく。
 テオドア・アドルノは『否定弁証法』で、ルカーチの『小説の理論』はカール・マルクスが『資本論』第1巻でおこなった弁証法唯物論を発展させた『歴史と階級意識』の物象化論が用いられていると述べている。
 アドルノは『否定弁証法』で、マルクスヘーゲルにたいし、歴史的な生の客観性を自然史の客観性として認識したと述べている。ヘーゲルの超越論的主観はすでに主観を離れており、歴史を神格化していた。マルクスはいわゆる〈自然法則〉を神秘化〔Mystifkation〕と呼び、資本主義社会の法則にすぎないとして批判した。それは弁証法唯物論の試みだ。交換が可能なのは生活に社会的な仮象が内包されているからであり、いわゆる自然もこのうえにあり、よって、自然法則は存在しない。この仮象イデオロギーだ。自然法則は廃絶できるものであり、存在論化してはならない。それは、交換価値という社会関係を物そのものの価値だと思わせる物神性に端的にあらわれている。しかし、ヘーゲルは『法哲学講義』ですでに理論が大衆をとらえたときに、虚偽意識に先立つ構造として認識されることを指摘しており、〈自然によって(フュセイ)〉存在するものの概念を、〈人為によるもの(テセイ)〉の対概念を定義していたものにまで拡大する。アドルノヘーゲルの〈世界精神〉はこの自然史のイデオロギーである第二の自然だとしている。

"商品が社会的存在全体の普遍的カテゴリーである場合にのみ、商品はその偽りのない本質的あり方において把握されることができる。このような連関のなかではじめて、商品関係によって生じてくる物象化は、社会の客観的発展に対しても、この発展に対する人間の態度に対しても、決定的な意味をもつようになる。すなわちこの物象化は、物象化がそこに表現されている諸形態に人間の意識が従属させられるということに対しても、またこの物象化の過程を把握したり、物象化の人間を破滅させる作用に反抗したり、その作用のために生じた「第二の自然」のもとに隷属している状態からみずからを解放しようとしたりする人間の試みに対しても、決定的な意味をもつようになるのである。マルクスは物象化の基本的現象を次のように述べている。「したがって商品形態の秘密は、ただたんに次のことのうちにある。すなわち、商品形態は人間に対して、人間自身の労働の社会的性格を、労働生産物そのものの対象的性格として反映させ、これらの物の社会的な自然属性として反映させ、したがってまた、総労働に対する生産者たちの社会的関係をも、諸対象のかれらの外に存在する社会的関係として反映させる、ということである。このような置き換えによって、労働生産物は商品となり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的な物となる……。ここで人間にとって諸物の関係という幻影的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。」"(ルカーチ・ジョルジュ著『歴史と階級意識城塚登他訳(所収『ルカーチ著作集』第9巻、p.166))

"これは、西欧の自然神話がこれまで人間に教えてきたことにほかならない。ヘーゲルは、歴史哲学がどうすることもできない一種の自動書式にしたがって、自然や自然の威力を歴史のモデルとして引き合いに出す。しかし、それらが哲学の中で発言権を持つのは、同一性を措定する精神と盲目的自然の呪縛とが、精神を否定する点において同一だからである。この深淵を覗き込みながら、ヘーゲルは世界史の主役である国家の働きを「第二の自然」と感じたのだが、しかし不埒にもそれと手を組んで、そのただなかで第一の自然を賛美した。《法の基盤は総じて精神的なものであり、その位置と出発点は、自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定を形づくる。そして法の体系は、実現された自由の国、精神が自分自身の内から第二の自然として造り出した精神の世界である。》ルカーチの『小説の理論』において、はじめて哲学的に再び取り上げられたこの「第二の自然」は、しかし、何らかの仕方で第一の自然と考えられたものの陰画(ネガ)である。それは本当は人為的なもの(テセイ)で、たとえ個々人によってではないにしてもその機能連関によってはじめて産み出されるものなのだが、市民的意識にとって「自然」とか「自然的」と言われるものの印綬を奪い取って自分の身に着けている。意識の外にあるものは、全面的媒介を逃れられない。それ故に、意識にとって自分とは別のものという意味をもつものは、囚われているもの以外にはなくなってしまう。これこそ観念論の根本現象である。社会化が人間と人間関係の直接性の全契機を容赦なく我がものにするにつれて、社会の複雑な仕組みが生成したものであることを思い出すことはますます不可能になり、自然という仮象はますまず抗い難いものになる。人類の歴史が自然から遠ざかるにつれて、この仮象はさらに強まり、「自然」がこの囚われの身を示す不可抗的な比喩となる。若いマルクスは、二つの契機のとめどもない絡み合いを力をこめて次のように言い出したが、それは教条主義唯物論者たちを刺激せずにはいないだろう。《われわれはただ一つの学問しか知らない。それは歴史の学問である。歴史は二つの側面から考察することができ、自然の歴史と人類の歴史に分けることができる。しかし、この二つの側面を分離することはできない。人間が存在する限り、自然の歴史と人間の歴史は相互に制約し合っている。》自然と歴史とを対立させる伝統的な考えは、真であるとともに偽である。それが自然的契機の上に振り掛かったできごとを言い表している限り、この考えは真である。しかし、歴史そのものによる、歴史の自然発生性の隠蔽を、歴史の概念的採光性によって護教論的に反復している限り、それは間違っている。"(テオドール・アドルノ著『否定弁証法木田元他訳、pp.454-455)

 『推しが……』と『私のアイドル』においては、アイドルという仮象と実体の位相差がギャグになっている。『私のアイドル』はいわゆる百合営業を題材とし、聖夜に好意をもつ七奈が百合営業をもちかけるが、聖夜が舞台に慣れてからは百合営業が統語論的なものでしかない、ただの演技になり、七奈が逆ギレするというのがオチだ。"「ビジネス百合」「ビジネス百合…!?」「そう メンバー同士がイチャイチャしてるだけでファンの人は喜ぶの!」「だから聖夜ちゃんも私に堂々と! イチャイチャしにくればいいの!」「本番中に!? でもそんなの許されるんですか!?」「許されるも何も…そうした方が売れる!」"(『私のアイドル』(所収『エクレア』p.270))。
"「見てないからいいんじゃん」「えー? いみないじゃないですか~」「!! 私のことビジネスでしか愛してない!!」「七奈ちゃんが…それでいいって言ったから…!」"(同pp.271-272)。最後のコマにギャグキャラクターとしてえがかれる《エル・グレコの受胎告知》は、ジャン・ルイシェフェールが『エル・グレコのまどろみ』で語る、エル・グレコから宗教画としての意味論を剥奪する、以下のような解釈が妥当するだろう。"それに、わたしとしたことが、エル・グレコにひとりの神秘画家を見ない書物が一冊くらいはあってもよいではないかと望んでいた。あれはバレスやコクトーやドヴォルシャックが溺愛したグレコ観である。わたしはそれにまったく意味がないと思っている。絵のなかで多くの人が祈っているように見える。上を見ている、というくらいのことなのだ。"(ジャン・ルイシェフェール著『エル・グレコのまどろみ』與謝野文子訳、pp.10-11)。
 『推しが……』では本来は相思相愛なのに、えりぴよはファンの体裁を、舞菜はアイドルの体裁をまもっていることが基本的なギャグになっている。ここにおけるファンとアイドルの関係は第1話で説明される。"「チラシ配りの時にあんまりお話するのは良くないですから」「あ… そうですよね すみません!」「いやいや決まっているわけでもなくて」「お金を出してこその接触 気持ちいいでしょう?」「1000円で買う推しの5秒 興奮するでしょう?」"(『推しが……』第1巻、p.13)。
 しかし、ここにおけるアイドルという仮象は、営業中と営業外ですがたは異なり、別個の人格が存在するという通俗的な二元論ではない。むしろ、そうしたいわゆる〈実像〉なるものが、仮象となんらかわるところはないという統語論の原理を暴露するものだ。舞菜に玲奈という自分をのぞくはじめての女性ファンがついたとき、その統語論は崩壊しかける。"(舞菜が今までに見たことないくらい楽しそうなんですけど!!)『舞菜にはみんなのものになってもらいたいんだよね』(なんて言っといて今まで舞菜推しが実際にいなかったからわからなかったけど…)「ありがとう! また次も来てね」(私以外に笑いかける舞菜を見るのいやだ―――――)(はしゃぎすぎたかな… えりぴよさんにも見られちゃった…?)「…1枚で」「1枚!?」「1枚!!?」(だってれなちゃんが1枚であれだけしてもらえるんならさあ… 私だって…)「どうしてですか?」「やっぱあと28枚あります」"(同pp.149-150)。
 その後、偶然にえりぴよとプライベートの舞菜は出会うが、上述の理由により、そのことで両者の関係が劇的に変化することはない。しかし、そのとき舞菜が、個人の感情にもとづいていうセリフは統語論から演繹される観念的なものではなく、統語論それじたいを剥きだしにする物質的なものだ。統語論の攪乱は、記号の体系としての統語論を再編成するにすぎない(フェルディナン・ソシュール『一般言語学講義)。"「い…」「いつも… ありがとうございます 握手… しにきてくれて」(そこは「応援してくれて」で「推してくれて」でいいんだよ――――!!)(好き そういうとこ好き)「これからもいっぱい握手しに行く」"(同pp.156-158)。
 ギー・ドゥボールは『スペクタクルの社会』で、仮象を社会すべてにおよぶものとして指摘する。

"5 スペクタクルを、視覚的世界の濫用や、イメージの大量伝播技術の産物と理解することはできない。むしろそれは、物質的に翻訳され、実効性を有するようになった一つの世界観(Weltanschauung)である。それは客体化されてしまった世界についての一つのヴィジョンである。6 スペクタクルは、その全体性において理解すれば、既存の生産様式の結果であると同時にその企図でもある。それは、現実世界を補うものでも、余分に付加された飾りでもない。スペクタクルは、現実の社会の非現実性の核心なのだ。スペクタクルは、情報やプロパガンダ、広告や娯楽の直接消費といった個々の形式の下で、この社会に支配的な生の明示的モデルとなる。それは、生産と、その必然的帰結としての消費において、既になされてしまっている選択を、あらゆる場所で肯定する。スペクタクルとは、その形式も内容も、完全に同じように、ともに現体制の諸条件と目的とを完全に正当化するのである。それと同時に、スペクタクルはこの正当化を常に現前させ、近代的生産の外で生きられた時間の主要な部分を占拠するのである。7 分離とは、それ自体、セカイの統一性の一部である。すなわち現実とイメージとに分断されてしまった全体的な社会的実践(プラクティス)の一部である。自律的なスペクタクルは社会的実践の前に差し出されるが、この社会的実践の方もまた、スペクタクルをそのなかに含んだ現実的全体性である。だが、この全体性のうちに生じた分裂は、スペクタクルこそがその実践の目的だと思わせるまでに社会的実践を損なってしまうのである。スペクタクルの言葉(ランガージュ)は時代に支配的な生産活動の記号から構成されるが、これらの記号が同時に、この生産活動の究極的な目的ともなるのである。8 スペクタクルと実際の社会的活動とを抽象的に対立させることはできない。この二極化はそれ自体、二重化されている。現実を転倒するスペクタクルは現実に生産されている。同時に、生きた現実のなかにもスペクタクルの凝視が物質的に浸透し、現実は、スペクタクル的な秩序に積極的な支持を与えることによって、己れの裡にその秩序を再び取り込むのである。両方の側に客観的現実が存在する。こうして固定されたおのおのの概念は、反対物のなかへの移行だけを己れの基盤としている。すなわち、現実はスペクタクルのなかに生起し、スペクタクルは現実である。この相互的な疎外こそが現存の社会の本質であり、それを支えるものなのである。9 現実に逆転された世界では、真は偽の契機である。10 スペクタクルという概念は、多様な外観を示す現象を統一し、説明する。この多様性や対照(コントラスト)は、社会的に組織された外観が示すさまざまな外観であるが、社会的に組織された外観そのものは、その一般的真理において認識せねばならない。それ固有の観点にもとづいて考察すれば、スペクタクルとは外観の肯定であり、人間的な、すなわち社会的な生を単なる外観として肯定することなのである。しかし、スペクタクルの真理をあばく批評は、スペクタクルとは生の明らかな(visible)否定、眼に見えるもの(visible)となった生の否定にほかならないことを意識する。11 スペクタクルの形成と機能、その解体をめざす諸力とを記述するには、本来分類しえないさまざまな要素を人工的に分離しなければならない。スペクタクルの分析には、ふつう、ある程度までスペクタクル的なものの言語そのものが用いられ、スペクタクルのなかへと自らを表現するこの社会の方法論的領域に入って語られる。だが、スペクタクルとは、実際は、一つの社会-経済的編成体の全面的実践のもつ意味であり、その時間の使い方にほかならない。われわれを捕らえているのは、歴史的時間なのである。"(ギー・ドゥボール著『スペクタクルの社会』木下誠訳、pp.14-19)

"35 スペクタクルの本質的運動は、人間の人間の活動のなかに流動的な状態で存在していたすべてのものを自らのうちに取り込み、それらを凝固した状態で、すなわち、生ける価値を否定的に様式化することによって価値を独占的に体現するモノとして、所有することにある。この運動のなかに、われわれの旧来の敵の姿が認められる。その敵とは、見た目には、何か取るに足らぬあたりまえの事物のように見えるが、実は、逆に非常に複雑で、数多くの微妙な形而上学的問題を含むもの、すなわち商品である。36 スペクタクルのなかにおいて絶対的に完遂されるものは、商品の物神化(フェティシズム)の原理であり、「感覚しうるけれども感覚を超えたさまざまなモノ」による社会の支配である。そこでは、感覚しうる世界は、感覚を超えたところに存在すると同時にすぐれて感覚可能なものとして承認されるよう選択されたイメージに置き換えられている。37 スペクタクルが見えるようにする世界は存在すると同時に不在であるが、その世界は、生きられたものすべてを支配する商品の世界である。商品の世界は、そのようにして、あるがままの状態で示される。というのも、商品の運動もまた、人間を他の人間から、そしてまた自分の生産物全体から遠ざける運動と同じものであるからだ。"(同pp.36-37)

 では、なぜそうした認識で創作をおこなうことができるのか。それは《孤独》による。以下の引用をもって結語に代えたい。

"ここで孤独なものと映るのは、もはや「人間」などではない。実際、悲しみという感情は、遥か以前から人類の資質であることをやめてしまっている。だから、疾走する二匹の犬のいささか唐突なイメージが、ベルリンの壁の崩壊によって二つの国であることをやめてしまった東西ドイツの混乱と、その土地をおおっている孤独や悲しみの映画的な表現などと勘違いすることは許されない。ここで痛ましいまでの孤独な悲しみとして露呈されているのは、間違っても人類の不幸などといった事態ではなく、まさしく切り刻まれたポジのちっぽけな画面そのものとして生き続けるしかないフィルムのたとえようのない孤独、癒すことのできない悲しみにほからない。それは、はからずも生き残ってしまった映画が耐えねばならぬ悲しみであり、映画が芸術として永遠の生命を享受しつつあると信じたりすることとはいっさい無縁の純粋状態の悲しみなのである。いまや、映画は死んだなどという根も葉もない世迷いごとに騙される者はよもやいまいと思う。二匹の犬がそうであるように、映画からは、自死の特権さえも奪われているからである。あたかも社会主義が崩壊したり、西欧が没落したり、歴史が終焉したりすると信じているかのように、映画が崩壊し、没落し、終焉するなどと涼しい顔で公言する者たちこそ、そう口にすることで、あらかじめ世界から姿を消そうとしているかに振る舞うシニカルな連中にすぎない。映画の不幸は、それ本来のオプチミズムゆえに、そうしたシニシズムをフィルムにおさめることができないことにある。密偵レミー・コーションがすれ違う人影が何とも希薄なのも、そうした理由による。あたかも、そして、誰もいなくなってしまったかのように、たしかに人影がいくつも映っていながら、『新ドイツ零年』の画面からはその生死が漂ってこないのである。いま、映画が途方もなく悲しいのは、だから、その終焉の瞬間が近づいているからではなく、世界にキャメラを向けようとすると、世界そのものが、あたかもおのれの輪郭を曖昧に揺るがせるかのようにして被写体たることをこばみ、ファインダーの向こうに浮上するものは、ただ、愚鈍さばかりだからである。愚鈍さとともに、またしても生き残ってしまった映画。そんな苛酷さに耐えられる映画作家は、もちろん、この地上にたったひとりしか存在しない。"(蓮實重彦著『ゴダール革命』p.104-105)

『あの教室』MV - 教室で『箱男』になるということ -

 寡聞にして乃木坂46のMVをあまりみたことがなく、しかし『あの教室』につよい印象をうけた。以下、そのプロットを読解し、その仮説から映像表現の意味を探る。さらにそののち、じっさいのコードと歌詞、映像と対照する。
 プロットは次のようなものだ。齋藤飛鳥演じる少女(以下「齊藤」)が教室で紙袋をかぶっており、教師がそのことを詰問しているが、齊藤はなにも説明せず、教室を去る。生徒たちは遠巻きにしているが、堀未央奈演じる少女(以下「堀」)はひとり、席を立たずに齊藤をみている。のちに、堀と思われる少女が紙袋をかぶっており、教師が質そうとするが、それが堀が判別できない。
 紙袋をかぶるという行為は安部公房の『箱男』における、ダンボール箱をかぶる人びとを思わせる。作中において、ダンボール箱をかぶるという行為は匿名になることを意味する。

 "Aにもし何か落度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑う事は出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市――扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街――のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。"(安部公房著『箱男』p.23)

 みずからの外形を隠すものの製作とその装着というシノプシスにおいて、『箱男』と類比的な同著者の『他人の顔』について解説で大江健三郎が指摘するように、匿名になることは政治的だ。ここに存在するのは仮題が『僕らの革命』だった『サイレントマジョリティー』と同じ〈反抗的人間〉だ。

 "……なるほど、顔のない人間には、朝鮮人のために署名をする資格もないというわけか。むろん、助手に、悪意はなく、おそらく直観的に、ぼくを刺激しかねない要素があることに気づいて、むしろ憐みの気持から敬遠してくれたのだろう。たしかに、最初から人間に顔がなかったとしたら、日本人だとか、朝鮮人だとか、ロシア人だとか、イタリア人だとか、ポリネシア人だとか、そんな人種差別による問題など、起りえたかどうかも疑わしい。それにしても、ちがった顔をもっている朝鮮人に、それほど寛容なこの青年が、顔のないぼくには、なぜこうも分け隔てをするのだろう? 人間は、進化の過程で猿から独立するとき、ふつう言われているように、手や道具などによってではなく、顔で自分を区別してきたとでもいうのだろうか?"(安部公房著『他人の顔』p.243)

 またドゥルーズ=ガタリも『千のプラトー』で、シニフィアンと記号系が機能するのは、専制的アレンジメントによる意味性と権威的アレンジメントによる主体化があってはじめて可能になり、それは身体の脱コード化と顔の超コード化をも要請し、そのため、顔は政治的なものだとしている。

 "仮面さえもここでは以前と正反対の新しい機能を持つ。というのも、仮面の統一的機能とは、否定的な機能でしかないからだ(どんな場合でも、仮面が偽り隠すために使われることはない。たとえ顕示したり開示したりする場合も)。一方に、原始社会の記号系におけるように、身体を頭部に所属させ〈動物になること〉を可能にするものとして仮面がある。逆にもう一方で、今日のように、顔の屹立と高揚、頭部と身体の顔貌化を可能にする仮面がある。仮面はここで、顔そのものであり、顔の抽象あるいは操作となっている。顔の非人間性。顔がシニフィアンと主体をあらかじめ前提することは決してない。順序はまったく違う。専制的かつ権威的な権力の具体的なアレンジメント→ホワイト・ウォール-ブラック・ホール、顔貌性抽象機械の始動→穴のあいたこの表面上への、意味性と主体化からなる新しい記号系の設置。そのためわれわれの考察はずっともっぱら二つの問題を対象にしてきた。顔とそれを生産する抽象機械との関係、顔と、顔の社会的生産を必要とする権力のアレンジメントとの関係。顔とは一つの政治なのだ。"(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著『千のプラトー宇野邦一他訳、p.207)

 では、なぜ齊藤は紙袋をかぶったのか。MVの始まりで齊藤はすでに紙袋をかぶっており、説話論的な因果関係は呈示されない。明確なプロットをもつ『無口なライオン』のMVと対照的だ。齊藤は教室そのものを拒絶している。それは、教師の叱責が"「みんなびっくりするだろう」"、"「先生な、無視はだめだと思うぞ」"など紋切り型で、意味内容をもたないことからもいえる。村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』では、教室のスクールカーストの下位に位置する少女の透明になりたいという欲望が記述される。最下位ではない下位は、外縁ではなく周辺として、中心と示差的にシステムに包摂される。その意味で、離脱できないシステムであるスクールカーストは世界のすべてとなる。スクールカーストと教室はほぼ同義だ。

 透明になるということは、プラトンの『国家』のギュゲスの指輪の例話にしめされているように、万能になることをも意味する(プラトン著、藤沢令夫訳『国家』上巻、pp.118-121)。それは世界そのものの拒絶だ。ジャン・ストロバンスキーは『透明と障害』において、ジャン=ジャック・ルソーが透明を志向したことを著作から分析し、それが実践においては孤独を選択させたとする。

 "ジャン=ジャックは狂おしいほどにかれ自身の透明を宣言しているのであるが、他方では、ヴェールは暗黒のなかで重くのしかかり、いっさいの眼に見える空間を覆う。すでに見てきたように、『ヌーヴェル・エロイーズ』の結末では、同じように透明とヴェールが同時に勝利をおさめたのであった。……究極においては、透明は完全に眼に見えないものである。人間はわたしをありのままとは別のものに見ている。したがって、かれらはわたしを見ていないのであり、わたしはかれらにとって眼に見えず、かれらはわたしにとって無縁な不透明をわたしに押しつけ、わたしの顔にわたしに似ないさまざまな仮面をはりつけている。わたしはかれらからいっさいのわたしの現存を隠し、かれらがわたしに外観を与えることを妨げることができればとひたすら願っている。夢想は魔術的な神話に向けられるのだ。《もしもわたしが神のごとく眼に見えず、全能であったなら、わたしは神のごとく慈悲深く、善良であったろう…… もしわたしがジジェスの指輪をもらったなら、人間の隷属から脱して、かれらをわたしの隷属下に置いたことだろう。わたしならこの指輪をどう使うだろうかと、わたしはよくいろいろ夢を描いては考えてみることがあった。(『夢想』)》眼に見えないものになること、それは存在の極端な空虚さがある無限の力に転換される地点である。ジジェスの指輪をそなえるならば、ルソーはかれの無為から脱し、行為に移り、善をなし、女たちを手に入れるであろう。さらに外観から解放されるならば、かれを不随にしている障害から解放されるであろう。そしてこの『第六の散歩』を読んでみるならば、もっとも恐るべき、もっとも不動の障害とは、他人の意識のなかに形成され、かれの透明を否定しているジャン=ジャックのいつわりのイメージにほかならないことが見出される。眼に見えないものとなることは、もはや(一時的に)薄黒い隈で取囲まれた透明となることではなく、禁じられることを知らない視線となることである。それこそまさしく「生きた眼」となることであり、閉ざされていた空間を取戻すことである。"(ジャン・スタロバンスキー著、山路昭訳『透明と障害』、pp.411-412)

 匿名になることは透明になることと同義だ。

 "ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」よいう行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。"(『箱男』pp.117-118)

 透明=匿名になることは実存の超克だ。
 MVで、齊藤と堀は教室から机とイスの折りかさなる舞台にモンタージュ理論に則し、連続的に移行し、ダンスを演じる。ここでのダンスはコンテンポラリー・ダンスだ。なぜ、コンテンポラリー・ダンスなのか。コンテンポラリー・ダンス塚本晋也監督『ヴィタール』で用いられている。『ヴィタール』のシノプシスは、浅野忠信演じる記憶をなくした医学生が、柄本奈美演じる恋人の遺体を解剖実習で解体してゆくうちに、べつの世界で恋人に会う夢をみるようになるというものだ。その世界の柄本は寡黙で、代わりに、浅野にコンテンポラリー・ダンスをみせる。『あの教室』のMVで齊藤と堀がコンテンポラリー・ダンスを演じるのは、そこが夢の世界だからだ。また、舞台の美術もシュルレアリスティックなものとなる。ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』でルソーの透明への志向をエクリチュールを媒介しないパロールへの志向としてとらえる。

 "すでに言ったように、ルソーはこの力――これは音声言語(パロール)を開始し、自身が構成する主体を解体し、主体が自身の記号に現前することを妨げ、主体の言語活動(ランガージュ)を或る文字言語(エクリチュール)の全体によって苦しめるのであるが――を或る仕方で認識していたが、にもかかわらず、その必然性を引受けるよりはそれを払いのけるのに急である。それゆえ彼は、現前の再構成を目ざして、文字言語(エクリチュール)を評価すると同時にその資格を奪う。同時にというのは、分裂してはいるが首尾一貫したものの中において、ということだ。この運動の奇妙な統一性を見失わぬようにせねばなるまい。ルソーは現前の破壊、音声言語(パロール)の病いとして文字言語(エクリチュール)を弾劾する。彼は、それが音声言語(パロール)から奪われていたものの再所有化を可能にするかぎりにおいて、それを復権させる。だが音声言語(パロール)から奪取したのは、それよりも古く、すでに場所を割り当てられていた一つの書差(エクリチュール)でなくして何であろうか。この欲望の最初の運動は、言語理論として表現される。別の運動がこの著作家の経験を支配する。『告白』でジャン=ジャックが自分はいかにして著作家になったかを説明しようとする際に、彼は文章表現(エクリチュール)への移行を、音声言語(パロール)における裏切られた自身の現前の、或る種の不在と或るタイプの計算ずくの消失とによる復興として記述している。その場合、書くことは音声言語(パロール)を保持し、あるいはそれを取り戻すための唯一の方法であるが、それは音声言語(パロール)が与えられるのと同時に拒否されるからである。そのとき記号の経済が形成される。だがこれはまた欺瞞的なものであり、さらに欺瞞の本質と必然性にいっそう近いものである。不在を抑圧したいという気持は避け難いものであるが、われわれはつねにそれを放棄せねばならない。スタロバンスキは、ルソーがそんな具合に位置せざるを得ないところの空間を支配している一つの根本的な法則を記述している。「彼をその真価に従って表現することを妨げているこの誤解を、彼はどのように克服するであろうか。話された音声言語(パロール)の危機をいかにして逃れるであろうか。別のどんな伝達様式に訴えるのか。別のどんな手段によって自己を表現するのだろうか。ジャン=ジャックは不在であることと書くこととを選ぶ。逆説的に言えば、彼はより良く現れるために身を隠すのであって、書かれた音声言語(パロール)に身をゆだねるであろう。『必ず自分に不利なように見られるばかりでなく自分と全く似てもいない別人に見られるという心配さえなければ、私も人なみに社交はすきである。私が選んだ書くことと身を隠すという立場は、誠に私には適わしかった。人々の前に顔を出していたら、世間は私の真価〔私がそれに価するところのもの〕を知ってはくれなかっただろう。』(『告白』)この打明け話は独特であり、強調に価するものだ。ジャン=ジャックは他人たちと手を切るが、それは自分を書かれた言葉(パロール)の中で示す〔現前させる〕ためである。彼は暇に任せ、孤独に護られて、自分の文章に幾度となく推敲を重ね続けるであろう。」"(ジャック・デリダ著、足立和浩訳『グラマトロジーについて』下巻、pp.2-3)

 そのパロールエクリチュールの二項対立をこえるもののひとつが夢だ。

"ソシュールによれば、個的発話(パロール)の受動性はまずその言語体系(ラング)への関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識(言語体系(ラング)における根基としての)と意味作用の根源を構成する間=化(espacement)(休止、余白、句読法、間一般、等々)との関係から区別されない。「言語体系(ラング)は形式であって実体ではない」(p.169)がゆえに、逆説的ではあるが、個的発話(パロール)の能動性はつねにそこから引き出すことができるし、またそうせざるを得ない。だが、それが一つの形式であるのは、まさに「言語体系においては諸々の差異しか存在しない」(p.166)からである。間=化(この語は時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するということがそのうちお分りいただけると思う)は、つねに知覚されないものであり、非=現在であり、無意識的なものである。そういったもので有り得るのは、これらの表現を非=現象学的な仕方で用いる場合にだけである。というのも、ここでわれわれはまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられることは有り得ない。それは、生きた現在の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む。死せる時間は活動しつつある。それだから、痕跡についての思惟は、自身が現象学から借り受けているあらゆる論弁的方策にもかかわらず、なおけっして文字言語(エクリチュール)の現象学と混同されることはないであろう。記号一般の現象学と同様、文字言語(エクリチュール)の現象学は不可能である。いかなる直観も、「『余白』が実際に重要性を引き受けている」(『骰子一擲』〔マラルメ〕への序文)のような場所では実現され得ないのである。フロイトが夢の仕事について、それが話声言語よ(ランガージュ)よりも文字言語(エクリチュール)に、また表音文字エクリチュール)よりもむしろ象形文字エクリチュール)に比較し得るものだと語っているのはなぜか、ということが多分はっきりと理解されるであろう。またソシュールが言語体系(ラング)について、それは「話す主体の一部ではない」(p.30)と語っている理由についても。また同様に、命題の作者と共犯しつつあるいは共犯せずに、現前や意識する主観性の形而上学のたんなる顛倒を越えて理解せねばならぬような諸命題についても。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.139-140)

 齊藤と堀は夢の世界では素顔でいる。実存の超克としての孤独を選択する齊藤、あるいは堀が、なぜ相互に交感を果たすのか。

 "教会に避難する人々は沈黙をまもることができるのであるが(なぜならば教会はその場合にかれらの沈黙を正しいものとするために、かれらの名のもとに聖人、学者などの口を通して語るのである)、しかし自己以外には正当であることの根拠をもたないルソーはけっして沈黙の世界に入ることはできないであろう。かれの孤独の真実の意味をけっして説明しおわることはないが故に、かれは語り続けることをけっしてやめないであろう。事実、かれは孤独が悪人の、そして傲慢な人間の孤独として解釈されうることを知っている。「ひとりでいるのは悪人だけだ」とディドロは言っている。この言葉が自分を目標にしていることを感じとったルソーは、残された全生涯を通してかれに答えることになる。ルソーにとっては、曖昧なことはたえられないからである。ルソーにとって自分を奇矯な存在に見せ、かれの相違を示すことだけが問題であったならば、戦いはかくも悲劇的ではなかったはずである。かれはたんに別人の役割(アルメニア人の服装をして)を演じなければならないだけではなく、悪しき社会に向い合って、根源的に悪とは別のものであるものを示さなければならない。つまり人々の眼前にかれらが見おとしている善を出現させなければならない。ルソーにおける悲劇的緊張は、分離と相剋そのものに由来するものではない。それはかれの孤独をつねに本質的な善と真理に一致させる必要、しかもかれがそれらを深い内面において認めているにもかかわらず、すべての人々によって承認されるような本質的な善と真理に一致させる必要に由来している。したがってわれわれは、対立者として置かれることを主張する意識の非理性的な要求に向い合っているわけではなく、ルソーの主観性が特権を求めているのであり、しかもそれはたんに他者によって完全に承認されるためだけではなく、(そのことは、錯乱気味のジュネーヴの職人の息子がフランスの元帥や徴税請負人たちのなかに迷いこんでいるということですでに十分である)、さらにどうすることもできないような奇矯さを世間の人々にわざわざ見せびらかすためだけではなく、他の人々が忘れさっていた真理の正当な解説者として受容されるためなのである。ルソーはかれの孤独な言葉に否定的な挑戦と予言の意味を与えようとしている。他者に対立することによって、ルソーはたんに奇矯なかれの自我を押しつけようとしているのではなく、自由、徳、真理、自然などの普遍的な価値に一致しようとする英雄的な努力を行っているのである。ルソーは普遍の名のもとに正当性をもって語ることができるために孤独のなかに自己を置いている。かれは都会を離れ、「自称の友人たち」と絶交する。かれは「神秘」もしくは主観的な存在の「精神の深奥」に逃避しようとするのだろうか。絶対にそうではない。ルソーにかれがはるかに遠くから先取りしているにすぎないロマンチシズムを付与してはならない。ルソーにおける主観的な直観は、たとえデカルトやマルブランシュにおいてそれがもっていた知的特質をもたないにせよ、普遍に通じようとするものであり、そしてさらにこのような普遍は本質的に非理性的なものでも超理性的なものでもないという点で、かれらと相通じている。自己自身にかえること、それは確実によりいっそう高い理性的明晰さと直接的な感覚的明証に、社会を支配している無意味に対立することによって近づくことなのである。"(『透明と障害』pp.65-67)

 紙袋をかぶるという行為は政治的な演技(パフォーマンス)だ。そこには実存論的に他者が存在する。そして、それは存在論としてではない、世界が存在することの承認だ。齋藤と堀は屋上と階段で、それぞれ近くに座りつつ、同じ方向をみていて視線は交わらない。夢の世界になり、それまでと対照的に正対すると、手をとりあって走りだす。

 "他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。"(マルティン・ハイデガー著、原佑訳『存在と時間』p.228(所収『世界の名著』第62巻))

"このように「存在の声」を呼び起した後で、ハイデッガーは、それが沈黙しており、声なく響きなく語ももたず、根源的に無音声的である(「隠された源泉の声なき声の保証」(die Gewahr der lautlosen Stimme verborgener Quellen))ことに注意を促す。源泉からの声は聞かれないのだ。存在の根源的意味と語、意味と声、「存在の声」と「フォーネー」、「存在の呼び声」と分節された音、との間の断絶。根本的隠喩を確言すると同時に、隠喩の落差を告発することでそれを疑ってもいるこのような断絶は、現前とロゴス中心主義形而上学にたいするハイデッガーの立場の曖昧さをひじょうによく物語っている。この立場は、それ〔現前とロゴス中心主義形而上学〕に含み込まれていると同時に、それに背を向けてもいる。だが、それを共有することは不可能である。背を向ける運動そのものが、しばしばそれを限界の手前にとどめておく。先に示唆したのとは反対に、存在の意味はハイデッガーにとっては、たんにまた厳密には、一つの〈意味されるもの〉ではないということに注目せねばなるまい。この用語がつかわれていないのも偶然ではない。ということは、存在は記号の運動を逃れているということである。この命題は、古典的伝統の繰返しだと解されてもよいし、また意味作用についての形而上学的な、あるいは技術的な理論にたいする不信だと解されてもよい。他方、存在の意味は文字通り「最初のもの」でも「基礎的なもの」でもなく、またスコラ的意味に解されようと、カント的あるいはフッサール的意味に解されようと、transcendantal〔超越的、先験的、超越論的〕なものでもない。存在者の諸範疇を「超越する」ものとしての存在の解放、基礎的存在論の開示性は、まさに必然的な諸契機ではあるけれども、暫定的なものであるにすぎない。『形而上学入門』以来、ハイデッガー存在論の企てと存在論という語を放棄する。存在の意味の必然的根源的で還元不可能な隠蔽、現前の出現そのものの中における存在の意味の掩蔽。隅から隅まで歴史であり、存在の歴史であった存在史をまさしく成立させるであろうような後退。存在はロゴスによってしか歴史として生みだされず、その外にあっては何ものでもないということにたいするハイデッガーの力説。存在と存在者の差異〔区別〕。こういったものみな、根本的には何ものも〈意味するもの〉の運動を免れてはいないということを、そしてけっきょくのところ〈意味されるもの〉と〈意味するもの〉との差異は何ものでもないということを良く示している。この背反の命題は、〔ロゴス中心主義の時代の哲学に〕先んじる言説の中に取り込まれていないので、退歩それ自体を定式化する危険性がある。それゆえ、この奇妙な無差異についての厳密な思惟に接近し、それを正確に規定するためには、ハイデッガーによってまた彼だけによって、存在論=神学の中でかつそれを越えて定立されているような存在の問いを通過せねばならない。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.52-53)

 さて、以下ではじっさいのコードと歌詞、映像をみたい。主旋律のコードを確認し、要部の映像がどこに配置されているかをみる。


CGAmF×3
CGFG
 導入部はT-Dの完全4度上行の強進行で、短調平行調に下りたあと長調のSDに回帰する。最後に平行調に下りず、D-SD-Dという2度の順次進行ののちにコーラスにはいる。

 

CGAmF
あれから/初めて来た/ね/
何年ぶりに/チャイム聞い/ただろ/う
懐かし/い校庭/は
思ってた/よりも狭/く思え/た
 はじめの章では第1主題を反復する。

 

DmGEmAm
自転/車/二人乗/り
FEmDmEM7♭
ぐるぐ/る/走りな/がら…
 Fで平行短調のDmに転調する。一時的に長調にもどりつつ、SD-D-SD-<T>でサブドミナント終止する。このとき使われるEM7♭はAm7の代理コードで、平行長調に結びつきやすいコードだ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
本当/は知っ/てたよ/と
AmCFE♭
大声/で叫/んでい/た
DmE♭N.C.
あの教室を/を/見上げて…
 Am-Cで一時的に平行長調に転調し、かつ、ここでT-Dの完全4度上行の強進行がおこなわれる。T-T-SD-<T>でふたたびサブドミナント終止をするが、ここではAm7の代理コードでもE♭が用いられ、短調のまま<T>-SD-<T>という結尾への進行を容易にしている。

 

CGAmF×3
CGFG

 

CGAmF
地元の/商店街/で
バッタリ出逢っ/て通学/路たどっ/た
あの頃/は毎日/が
楽しい/なんて気付か/なかっ/た
DmGEmAm
ペダル/を/漕ぎなが/ら
FEmDmEM7♭
時間/を/巻き戻/した
AmCGAm
お互/いに好/きだっ/た
AmCFE♭
過ぎた日/々が/切ない/ね
 ここで齋藤と堀は、現実では屋上のへりに同方向をみて腰かけている。また、夢の世界のカットをはさみ、屋上への階段にふたたび同方向をみて腰かけている。夢の世界では、堀は右方、斎藤は左方に向けて走っている。そして、ふたりは正対する。

 

AmCGAm
胸の/奥し/まいこん/だ
AmCFE♭
ときめき/を思/い出し/た
DmE♭N.C.
あの教室/が/眩しい

 

FGAmG
FGC
FGAmG
FEsus4E♭

 

AmGC
"もしも"なんて/考え/て
AmFE♭
甘酸っぱい/風が吹/く
 長調への転調をまじえたT-D-Tのドミナント終止だが、反復するときはAm7の代理コードが使われ哀切さをともなう。
 ここで斎藤は屋上でひとりで踊っており、堀は遠くからそれを隠れてみている。齋藤の踊りはモンタージュ理論にそって、夢の世界に舞台を移すが、そのさいの齋藤の衣装はそれまでのものとは異なる。それまでは堀とおなじ、現実での丸襟の制服と同様にかわいらしさの目立つ、ジャンパースカートに似た衣装だったが、ここでは赤のシャツにエナメル靴、黒のタイトスカートという気品のあるものであり、堀との距離を思わせる。このとき、夢の世界だが堀は制服のままで齋藤を遠目にみるだけだ。しかし、その後、夢の世界で壇上という舞台により堀と齋藤は同方向をみて立っている。そして、ふたりは顔を見合わせてわらう。

 

AmGC
自転車の二/人乗り/も
AmAmFE♭
少し/だけきゅん/として/る
EM7♭N.C.
 Am-C-F-E♭の主題がふたたび使われるが、ここではAm-Amの2連音になり、緊張をたもつ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
三階/の校/舎の/端
AmCFE♭
ガラス/窓が/反射す/る
 そして、堀と齋藤は夢の世界で踊る。このとき、セットの背景の色調はあかるい。その意味は上述のとおりだ。

 

DmE♭N.C.
DmE♭
CGAmF×3
CGFG

 アコースティック・ギターを思わせる、大部分が和音で構成されたコードが懐かしさを感じさせる。

 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、ルソーの人間観は生まれたままの感情である純粋感覚と、純粋であるために受動的な純粋感覚にたいし、能動的な半面である自我の両面から構成されていると述べている。よって、自分じしんとの一致が、相対的なものではない唯一で絶対の幸福であるとき、その方法のひとつは現在の瞬間という永遠のなかで、純粋感覚と、共同の存在の感情と矛盾するものとしてある、個人の存在の感情が一体化することになる。それは自然との一致をも意味する。もうひとつは、激しい情念を排し、つねに真実のものである、感情の記憶を追想することだ。
 本曲の懐古的な歌詞は、この後者の方法論を実現する。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』あるいは『みすてぃっく・あい』

 "「この手紙を発見する前は、一冊の本がどうして無限であり得るのか、疑問に思っていました。循環する、円環的な本いがいのあり方を思いつかなかったのです。最後のページが最初のページと同一で、限りなく接続する可能性を持った本です。わたしはまた、『千夜一夜物語』のちょうど真ん中にある、あの夜のことを思いだしました。シェヘラザード姫は(筆写係の奇妙な間違いで)『千夜一夜物語』の話を文字どおりくり返し、その話をした夜にふたたび戻るという、そしてこれが無限に続くという危険なはめに落ちいったのです。わたしはまた、親から子へと受け継がれる、世襲的な、プラトン的な作品を想像しました。そのなかでは、新しい人間がそれぞれ一章を書き加えるか、先祖の書いたページを孝心から訂正するのです。これらの推測はわたしを楽しませてくれました。しかし、そのどれかが崔奔の矛盾した章にあてはまるとは、とても思えませんでした。こうして途方に暮れていたとき、すでにあなたもお調べになった草稿が、オックスフォードから送られてきたのです。当然のことですが、以下の文章に気を引かれました。余はさまざまな未来――すべての未来にあらず――にたいし、余の八岐の園をゆだねる。ほとんど即座に、わたしは理解しました。『八岐の園』とは、あの混沌とした小説だったのです。さまざまな未来――すべての未来にあらず――ということばは、空間ではなくて、時間のなかの分岐のイメージを示唆しました。作品ぜんたいを読みなおすことによって、この理論はたしかめられたのです。あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は――同時に――すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。ここから例の小説の矛盾は生まれているのです。……」"
 ――ホルヘ・ルイス・ボルヘス著『八岐の園』(所収『伝奇集』)鼓直

 『みすてぃっく・あい』(一柳凪著、小学館、2007年)は再帰的構造の小説だ。末尾の文は"薄白い霧のようなものが私を包んだ。霧のなかにボンヤリとした影が浮かぶ。こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では。これは、どこかで見た光景だと。そう思いながら私はゆるやかにまどろみのなかにおちていった――"(『みすてぃっく・あい』、pp.224-225)で、冒頭の"一面に積もった雪のうえを、一対の足跡がのびている。"(同p.10)、"こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では、道標がなければあっという間に迷ってしまうだろう。"(同pp.11-12)に結合しており、半透明で"endless"の文字が添えられている。"さえぎるものの何もない平原というのは、迷路とどう違うだろうか。目印ひとつない平原にポツンと置かれたとして、どうやってゴールを目指せばいいのか。始点と終点の見分けすらつかないというのに、何を基準にして順路を決めたらいいんだろう、いや、そもそも終着点などありはしないのだとしたら? 自分が迷っていると気づくことさえなしに、いつまでも迷いつづけることになるだろう。それこそが最悪の(あるいは最良の?)迷路というものだ。白無地のミルクパズルが最も難解なジグソーパズルであるのと同じように。"(同p.11)。そして、主人公の蝶子は自らを"迷い人"(同p.14)と称す。
 全体は「etude」「ⅰ imaginary」「ⅱ garden」「etude」の4章で構成されており、同名の「etude」と題されたプロローグとエピローグは先述のとおり一体化しており、「ⅰ imaginary」で展開された12月27日から29日の3日間が「ⅱ garden」でループしていることが解明される。しかし、その解明そのものが全体を包摂するループ構造の要素であることが明かされ、エピローグに至る。では、なぜループ構造の解明はそれ自体を保存したのか。以下、『ゲーデルエッシャー、バッハ』(ダグラス・リチャード・ホフスタッター著、野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳、白揚社、1985年)を基に読解したい。"湖の畔に到着すると、湖水全体を俯瞰できる恰度よい場所に敷物を敷き、めいめいスケッチブックを取り出して座りこんだ。部長の持ってきた敷物には奇妙な模様が描かれており、鳥の形らしき幾何学模様が少しずつ形を変えながら反復する構成は、エッシャーの騙し絵を連想させた。"(同p.58)。
 ループ構造を実行するプログラムは作中では〈『虚数の庭』〉という題名の小説となっている。"『虚数の庭』……実際、それはなかなかに奇妙な本だった。全体の恰度中央にあたる二頁に書名と同じ《虚数の庭》と題された一篇の詩が配されており、本の前半はその詩に対する長いながい序文、後半は長いながい解題が連なっているという、やたら勿体をつけた構成になっている。言ってみれば、たった二頁の詩こそがこの本の実体で、あとはその中心点のまわりを付随的な言説が浮遊しているようなものだった。"(同pp.102-103)。作者はあとがきで"この作品は第一回小学館ライトノベル大賞ガガガ文庫部門で期待賞を受賞した『虚数の庭』を大幅に改稿のうえ改題したものです。"(同p.229)と原題を明記している。つまり、本書は自己言及の構造をとっている。
 ループの契機となる『虚数の庭』の音読のさいに蝶子は独白する。"のどやかな時間は逆に不安を与える。後ろ向きな私は、安心に浸りきることができない。何かと理由を探してはむやみに憂いを抱いてしまう。大事なことを忘れているんじゃないかと懸念する。憂慮の無限後退。ここに足りないものといえば、そう……。"(同p.101)。それはプロローグで仮想される〈迷路〉を連想させる。"――一本の直線でできた迷路、という話をどこかで聞いたことがある(直線もまた私を苛立たせる)。このうえもなく恐ろしい想像ではないか。直線のうえですら人は迷いうるのだとすれば……そんな迷路から人はどうやって逃れうるというのか。そこではもはや、迷うという概念そのものが全く異なるものになってしまうのではないか。"(同p.13)
 『ゲーデルエッシャー、バッハ』において、TNT(字形的数論)においてG(自己言及文)を適用したときに、「GはTNTの定理ではない」という矛盾が生じることを例に(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.443-445)、形式システムの不完全性を証明する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.464-465)。"これら三つの条件を満足すれば、ゲーデルの構成法が適用できるので、無矛盾なシステムは必ず不完全である。面白いことに、そのようなシステムはどれも固有の穴を掘っている。そのシステムの豊かさがそれ自身の破滅をもたらすのである。破滅は、本質的にそのシステムが自己言及文をもてるほど強力であることから起る。物理学では、ウラニウムのような核分裂性物質の「臨界質量」という概念が存在する。その物質の固体のかたまりは、臨界質量以下ならじっとしていられる。しかし臨界質量を越えると、そのようなかたまりは連鎖反応を起し、爆発してしまう。形式システムにも同じような臨界点があるように思われる。臨界点以下では、システムは「無害」で、算術的真実を形式的に定義することさえはじめられない。それが臨界点を越えると、システムは突如として自己言及の能力を獲得し、そのことによって自分を不完全と運命づける。その発端は大ざっぱにいって、システムが上に挙げた三つの性質を獲得したときである。この自己言及能力がひとたび獲得されると、システムはそれ自身にあわせて作られた「穴」をもつことになる。穴はそのシステムの特性を十分考慮に入れて、そのシステムに逆らうように利用している。"(同p.465)。さらにそこから、チューリングの停止性検定プログラムの不可能性の証明(同pp.424-425)、チャーチの定理(同pp.569-570)、タルスキの定理(pp.570-571)を演繹する。チューリングの証明は"しかしアラン・チューリングの独創的な論考によると、どんなブー・プログラムもこの判別をけっして誤りなく行うことはできない。その技巧は実はゲーデルの技巧とほとんど同じで、当然カントール対角線論法と密接に関連している。ここで詳しくは述べないが、停止性検定プログラムにそれ自身のゲーデル数を入力するという着想による、といえば十分であろう。それはある文全体をその中で引用しようとするのと似たところがあるので、そう簡単ではない。引用を引用する、等々のことが必要で、無限退行に導かれるように見える。しかしチューリングは、あるプログラムにそれ自身のゲーデル数を入力する技巧を案出した。"(同p.425)と要約している。
 『みすてぃっく・あい』において、ループ構造の実現される場は虚数に例えられる。"虚数とは、では何だろう。実数のいかなる領域にも属さぬ仮想上の数でしかない虚数単位iは、ひどく孤独なものに思える。存在しない、だが想定することはできる。そんな存在の曖昧さと不透明さとデタラメさに、私は不安を抱くと同時に惹きつけられるものも感じるのだった。タッタひとつの、けれども決定的な非合理をこの世界が孕み持っているという事実には、幾分心慰められるものがある。虚数とは数の世界において、ゼロとはまた違った意味での奇妙な特異点であり鍵でもあるのではないか。"(『みすてぃっく・あい』p.159)。そして、〈庭〉が入子構造を意味する(同pp.155-156)。TNT(字形的数論)にG(自己言及文)を矛盾なく適用するためには、~G(Gの否定)を公理に足せばよい。それは、自然数を超自然数に拡張することを意味する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.448-451)。つまり、自然数有理数、負数、無理数、そして虚数に拡張する。
 ループ構造の物理的な説明には、エヴェレットの多世界解釈が当てられている。"「ともかくだ。これらのいずれかが起こるんじゃなくて、すべて起きているってことだよ。無限に分岐した並行世界のなかで。それらの世界はどれも同じように存在していて、純粋に確率の問題でしかない。あるのは《私》という主体ないし主観がどこに存在するかの違いだけだ。それぞれの《私》は自分が属している世界しか見ることができないからね」よどみなく説明する先輩の話はあまりに現実離れし過ぎていて(そう、昔そんな内容の小説を読んだことがあったから、いっそう作り話っぽく聞こえた)、正直、私は面食らっていた。「分岐」と聞いて、ある段階までは枝分かれのイメージを浮かべることができたが、「無限」という概念は想像できなかった。"(同pp.140-141)。そして、それを蝶子の選択の回避が具現化する。"昔から、何事につけ選ぶのが苦手だった。(中略)いずれを選んでも大して変わらないような気がするのに……そのくせ、いったんどれかに決めると、後で何故、他の方にしなかったのかと考えて絶望的な悔恨に陥ってしまう。そしておそらくは、仮に別の選択肢を選んでいたとしても全く同じことが起こっているのだろう。最善の選択など、何処にもありはしない。どれかひとつを選択するということは、必然的に残りの可能性を棄てるということで、だから、実現しなかった可能性に思いをめぐらせて煩悶するというのは、結局のところ避けようがないのだ。あらゆる不確定要素を加味して、すべての可能性を想定したうえで先の先のそのまた先まで見通して最良の選択を行うなど、どだい無理な話なのだから。人は皆、そうした感情と折り合いをつけて生きているのだろうけれど、私にはそれがうまくできない。選択するという行為に必然的につきまとうリスクが耐え難かった。それならいっそ、他人に任せた方が良い。そうすれば自分が『選んだ』という事実からは逃れられる。責任を肩代わりしてもらえる。なので、できうる限り周囲の流れに身を委ねてやり過ごしてきた。そこには『私が』という主語はない。主体が、ない。"(同pp.45-47)。そして、その例外がループ構造の起点だ。"いや――ただの一度だけ、後悔したことがあったような気もするのだけれど……。"(同p.47)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは数論における超自然数幾何学におけるアナロジーが量子力学だとしている(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.452-453)。"さらに、そしておそらくこれがずっと大事なことであるが、物理学者はわれわれが住んでいる3次元空間だけを研究しているのではない。物理的計算が行われる「抽象空間」は山ほどあって、それらはわれわれが住んでいる物理的空間からは全くかけ離れた幾何学的性質をもっている。だとすれば、「正しい幾何学」というのは天王星海王星が太陽のまわりで軌道をえがいている空間であると定義したらよい、などとどうしていえようか? 量子力学的な波動関数が波うっている「ヒルベルト空間」がある。フーリエ成分が住んでいる「運動量空間」がある。波動ベクトルがはね回っている「相反空間」がある。素粒子の多体配位が音をたててひしめいている「位相空間」がある、等々。これらすべての空間の幾何学が、同じでなければならないという理由は全くない。事実、これらは同じではありえない! だから物理学者にとっては、異なる「競争相手の」幾何学が存在することは本質的かつ不可欠なことである。"(同p.453)。
 『みすてぃっく・あい』の根幹は符号がなす(『みすてぃっく・あい』pp.169-170)。それは現実を文字に置換することだ。"「並行世界を移動する、か。……んんん、ん……ねえ、ちょっと聞いてくれるかい。カバラの教義を記した『創造の書』のなかに、こんな一節がある――《二十二の基礎となる文字。彼はそれらを刻み、それらを入れ換え、それによってすべての創造と、そしてそれに続いて創造されなければならないすべてを形成した》文字に関するカバラゲマトリアとは、単語に含まれた文字が表わす数字とその組み合わせから、世界の象徴的な意味を読みとる行為だ。単語は各アルファベットに解体されたうえで、数字としての総計が算出される。数字こそが最も重要な要素なんだ」"(同pp.208-209)。"「そのうえで、世界とは起きている事象の総和であるとみなすなら、文字列の集合、記述の仕方こそが世界そのものだと言える。無論、それには果てしなく長い文字列が必要だがね。そう考えると、無数に存在する並行世界のそれぞれに写像のように対応した文字列が存在するはずだ。その文字列を書き換えることさえできれば、別の並行世界に転移することが可能になるのではないか。と――そんなことを、私は夢みていたんだ」(中略)「でも……、無限に続く文字列なんて存在しないでしょう?」「うん、たしかにその通り」噛み締めるような口調で先輩は答える。「現実問題として無限の長さを持つ文字列は作成しえないし、よしんば存在したとしてもそれを読むことじたい不可能だ。無限に長い文字列を読むには、原理的に言って無限の時間が必要なはずだからね」(中略)「そうだね、文字通り果てしなく気の長い話だ。生身の人間になしうる業じゃない。……《虚数》ということでちょっと思い出したんだが、量子論でも虚数が登場するんだ。現実の状態を説明するための量子論に、実際には存在しないはずの虚数が現われるなんて随分と矛盾した話に聞こえるかもしれないけれどね。電子やなんかの状態を記述する波動関数のなかに、粒子に波動性を与える……揺らぎを導入するものとして虚数が組みこまれているんだ。この、揺らぎというのは、ここにあるかもしれないと同時にあちらにもあるかもしれない、という存在の不確定性のことだ。まさしく並行世界の基礎となる概念だよ。ふふん、こんなところで思いがけず虚数が関わってくるなんて、ちょいとゾクゾクするじゃないか」"(同pp.210-212)。そして、それを具現化するのは脳の機能だ。"「ところで久我崎は問題の詩を読んでいて急に眠りに陥ったのだったね。眠り……脳生理学の分野でこんな仮説がある。夢がどのように生起するかについてだが、神経細胞のデタラメな発火によって生じるイメージに対して、脳がさまざまな意味を見出し夢を組み立てるのだと。意味を見出す、それはまさに解釈の問題と言える。夢もまた、書物を読むことと同様の営為とみなすことができるんだ。逆に言えば、書物が夢に似ているということでもある」夢……幾度となく私の頭のなかで再生された、あの記憶。思えばあの夢に、自分はずっと操られていたのではないか。「……話を戻すが。無限に続く文字列を作ることは不可能、ってことだったね。ならば、夢の生成に作用するような文字列を作り上げればどうだろう? 古来から夢をもうひとつの現実として捉える伝承なり創作はそれこそ山のように存在するわけだが、無数の現実――並行世界へ移行するための過渡状態として捉えられないだろうか。そうしてその構造を自在に操ることさえできれば、無限に存在する並行世界のどこへでも思うがままに転移することができるのではないか……」"(同pp.212-213)。そして、そのためのプログラムが『虚数の庭』だ(同p.214)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは自己言及のパラドックスを解消するための仮説として脳の機能を挙げている。"私の感じでは、エピメニデスのパラドクスのタルスキによる変換は、英語版の中に基質を探すことを教えてくれる。算術版では、意味の上位レベルは下位の算術的レベルによって支えられている。おそらく同じように、われわれが読みとる自己言及文(「この文は偽である」)は二重レベルの実体の最上位レベルにすぎない。それなら、下位のレベルは何なのだろうか? 頭脳の上である。したがって、エピメニデスのパラドクスに対する神経基質――たがいにぶつかりあう物理的事象の下位レベルを探すべきである。「ぶつかりあう」とは、二つの事象が、それらの本性から、同時には起りえないことである。もしこの物理的性質が存在するとしたら、われわれがエピメニデスのパラドクスを理解できない理由は、われわれの脳が不可能な仕事をしようとするためである。では、衝突する物理的事象の本性は何なのだろうか? エピメニデスのパラドクスを聞いたときにはおそらく、脳はその文のある「符号化」――相互作用をする諸記号の内部的配置を設定する。そして、その文を「真」か「偽」かに分類しようとする。この分類行為は、いくるかの記号をある特定のしかたで相互作用させるような試みを必要とするはずである。(たぶんこのことは、どんな文を処理するときにも起る。)ところで、もし分類行為が文の符号化を物理的に破壊するようなこと(ふつうはけっして起らないことだが)が起ったときは、プレーヤーにそれ自身を破壊するレコードをかけようとするのと同じ災難がひき起される。われわれは衝突を物理的な用語で説明したが、神経系の用語ではなかった。もしこの分析がこれまでのところ正しいとすると、おそらくあとの議論は、脳の中でのニューロンとその発火による「記号」の構成について何かわかったときに続行できるであろう。また、文が「符号」に変換されるしかたについての知識も必要である。"(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.574)。
 蝶子が選択の回避による無限後退をつづけるためには自己言及のかたちをとるしかなく、それが『虚数の庭』の原題をもつ『みすてぃっく・あい』なのだ。