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『あの教室』MV - 教室で『箱男』になるということ -

百合

 寡聞にして乃木坂46のMVをあまりみたことがなく、しかし『あの教室』につよい印象をうけた。以下、そのプロットを読解し、その仮説から映像表現の意味を探りたい。
 プロットは次のようなものだ。齋藤飛鳥演じる少女(以下「齊藤」)が教室で紙袋をかぶっており、教師がそのことを詰問しているが、齊藤はなにも説明せず、教室を去る。生徒たちは遠巻きにしているが、堀未央奈演じる少女(以下「堀」)はひとり、席を立たずに齊藤をみている。のちに、堀と思われる少女が紙袋をかぶっており、教師が質そうとするが、それが堀が判別できない。
 紙袋をかぶるという行為は安部公房の『箱男』における、ダンボール箱をかぶる人びとを思わせる。作中において、ダンボール箱をかぶるという行為は匿名になることを意味する。

 "Aにもし何か落度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑う事は出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市――扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街――のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。"(安部公房著『箱男』p.23)

 みずからの外形を隠すものの製作とその装着というシノプシスにおいて、『箱男』と類比的な同著者の『他人の顔』について解説で大江健三郎が指摘するように、匿名になることは政治的だ。ここに存在するのは仮題が『僕らの革命』だった『サイレントマジョリティー』と同じ〈反抗的人間〉だ。

 "……なるほど、顔のない人間には、朝鮮人のために署名をする資格もないというわけか。むろん、助手に、悪意はなく、おそらく直観的に、ぼくを刺激しかねない要素があることに気づいて、むしろ憐みの気持から敬遠してくれたのだろう。たしかに、最初から人間に顔がなかったとしたら、日本人だとか、朝鮮人だとか、ロシア人だとか、イタリア人だとか、ポリネシア人だとか、そんな人種差別による問題など、起りえたかどうかも疑わしい。それにしても、ちがった顔をもっている朝鮮人に、それほど寛容なこの青年が、顔のないぼくには、なぜこうも分け隔てをするのだろう? 人間は、進化の過程で猿から独立するとき、ふつう言われているように、手や道具などによってではなく、顔で自分を区別してきたとでもいうのだろうか?"(安部公房著『他人の顔』p.243)

 またドゥルーズ=ガタリも『千のプラトー』で、シニフィアンと記号系が機能するのは、専制的アレンジメントによる意味性と権威的アレンジメントによる主体化があってはじめて可能になり、それは身体の脱コード化と顔の超コード化をも要請し、そのため、顔は政治的なものだとしている。

 "仮面さえもここでは以前と正反対の新しい機能を持つ。というのも、仮面の統一的機能とは、否定的な機能でしかないからだ(どんな場合でも、仮面が偽り隠すために使われることはない。たとえ顕示したり開示したりする場合も)。一方に、原始社会の記号系におけるように、身体を頭部に所属させ〈動物になること〉を可能にするものとして仮面がある。逆にもう一方で、今日のように、顔の屹立と高揚、頭部と身体の顔貌化を可能にする仮面がある。仮面はここで、顔そのものであり、顔の抽象あるいは操作となっている。顔の非人間性。顔がシニフィアンと主体をあらかじめ前提することは決してない。順序はまったく違う。専制的かつ権威的な権力の具体的なアレンジメント→ホワイト・ウォール-ブラック・ホール、顔貌性抽象機械の始動→穴のあいたこの表面上への、意味性と主体化からなる新しい記号系の設置。そのためわれわれの考察はずっともっぱら二つの問題を対象にしてきた。顔とそれを生産する抽象機械との関係、顔と、顔の社会的生産を必要とする権力のアレンジメントとの関係。顔とは一つの政治なのだ。"(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著『千のプラトー宇野邦一他訳、p.207)

 では、なぜ齊藤は紙袋をかぶったのか。MVの始まりで齊藤はすでに紙袋をかぶっており、説話論的な因果関係は呈示されない。明確なプロットをもつ『無口なライオン』のMVと対照的だ。齊藤は教室そのものを拒絶している。それは、教師の叱責が"「みんなびっくりするだろう」"、"「先生な、無視はだめだと思うぞ」"など紋切り型で、意味内容をもたないことからもいえる。村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』では、教室のスクールカーストの下位に位置する少女の透明になりたいという欲望が記述される。最下位ではない下位は、外縁ではなく周辺として、中心と示差的にシステムに包摂される。その意味で、離脱できないシステムであるスクールカーストは世界のすべてとなる。スクールカーストと教室はほぼ同義だ。

 透明になるということは、プラトンの『国家』のギュゲスの指輪の例話にしめされているように、万能になることをも意味する(プラトン著、藤沢令夫訳『国家』上巻、pp.118-121)。それは世界そのものの拒絶だ。ジャン・ストロバンスキーは『透明と障害』において、ジャン=ジャック・ルソーが透明を志向したことを著作から分析し、それが実践においては孤独を選択させたとする。

 "ジャン=ジャックは狂おしいほどにかれ自身の透明を宣言しているのであるが、他方では、ヴェールは暗黒のなかで重くのしかかり、いっさいの眼に見える空間を覆う。すでに見てきたように、『ヌーヴェル・エロイーズ』の結末では、同じように透明とヴェールが同時に勝利をおさめたのであった。……究極においては、透明は完全に眼に見えないものである。人間はわたしをありのままとは別のものに見ている。したがって、かれらはわたしを見ていないのであり、わたしはかれらにとって眼に見えず、かれらはわたしにとって無縁な不透明をわたしに押しつけ、わたしの顔にわたしに似ないさまざまな仮面をはりつけている。わたしはかれらからいっさいのわたしの現存を隠し、かれらがわたしに外観を与えることを妨げることができればとひたすら願っている。夢想は魔術的な神話に向けられるのだ。《もしもわたしが神のごとく眼に見えず、全能であったなら、わたしは神のごとく慈悲深く、善良であったろう…… もしわたしがジジェスの指輪をもらったなら、人間の隷属から脱して、かれらをわたしの隷属下に置いたことだろう。わたしならこの指輪をどう使うだろうかと、わたしはよくいろいろ夢を描いては考えてみることがあった。(『夢想』)》眼に見えないものになること、それは存在の極端な空虚さがある無限の力に転換される地点である。ジジェスの指輪をそなえるならば、ルソーはかれの無為から脱し、行為に移り、善をなし、女たちを手に入れるであろう。さらに外観から解放されるならば、かれを不随にしている障害から解放されるであろう。そしてこの『第六の散歩』を読んでみるならば、もっとも恐るべき、もっとも不動の障害とは、他人の意識のなかに形成され、かれの透明を否定しているジャン=ジャックのいつわりのイメージにほかならないことが見出される。眼に見えないものとなることは、もはや(一時的に)薄黒い隈で取囲まれた透明となることではなく、禁じられることを知らない視線となることである。それこそまさしく「生きた眼」となることであり、閉ざされていた空間を取戻すことである。"(ジャン・スタロバンスキー著、山路昭訳『透明と障害』、pp.411-412)

 匿名になることは透明になることと同義だ。

 "ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」よいう行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。"(『箱男』pp.117-118)

 透明=匿名になることは実存の超克だ。
 MVで、齊藤と堀は教室から机とイスの折りかさなる舞台にモンタージュ理論に則し、連続的に移行し、ダンスを演じる。ここでのダンスはコンテンポラリー・ダンスだ。なぜ、コンテンポラリー・ダンスなのか。コンテンポラリー・ダンス塚本晋也監督『ヴィタール』で用いられている。『ヴィタール』のシノプシスは、浅野忠信演じる記憶をなくした医学生が、柄本奈美演じる恋人の遺体を解剖実習で解体してゆくうちに、べつの世界で恋人に会う夢をみるようになるというものだ。その世界の柄本は寡黙で、代わりに、浅野にコンテンポラリー・ダンスをみせる。『あの教室』のMVで齊藤と堀がコンテンポラリー・ダンスを演じるのは、そこが夢の世界だからだ。また、舞台の美術もシュルレアリスティックなものとなる。ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』でルソーの透明への志向をエクリチュールを媒介しないパロールへの志向としてとらえる。

 "すでに言ったように、ルソーはこの力――これは音声言語(パロール)を開始し、自身が構成する主体を解体し、主体が自身の記号に現前することを妨げ、主体の言語活動(ランガージュ)を或る文字言語(エクリチュール)の全体によって苦しめるのであるが――を或る仕方で認識していたが、にもかかわらず、その必然性を引受けるよりはそれを払いのけるのに急である。それゆえ彼は、現前の再構成を目ざして、文字言語(エクリチュール)を評価すると同時にその資格を奪う。同時にというのは、分裂してはいるが首尾一貫したものの中において、ということだ。この運動の奇妙な統一性を見失わぬようにせねばなるまい。ルソーは現前の破壊、音声言語(パロール)の病いとして文字言語(エクリチュール)を弾劾する。彼は、それが音声言語(パロール)から奪われていたものの再所有化を可能にするかぎりにおいて、それを復権させる。だが音声言語(パロール)から奪取したのは、それよりも古く、すでに場所を割り当てられていた一つの書差(エクリチュール)でなくして何であろうか。この欲望の最初の運動は、言語理論として表現される。別の運動がこの著作家の経験を支配する。『告白』でジャン=ジャックが自分はいかにして著作家になったかを説明しようとする際に、彼は文章表現(エクリチュール)への移行を、音声言語(パロール)における裏切られた自身の現前の、或る種の不在と或るタイプの計算ずくの消失とによる復興として記述している。その場合、書くことは音声言語(パロール)を保持し、あるいはそれを取り戻すための唯一の方法であるが、それは音声言語(パロール)が与えられるのと同時に拒否されるからである。そのとき記号の経済が形成される。だがこれはまた欺瞞的なものであり、さらに欺瞞の本質と必然性にいっそう近いものである。不在を抑圧したいという気持は避け難いものであるが、われわれはつねにそれを放棄せねばならない。スタロバンスキは、ルソーがそんな具合に位置せざるを得ないところの空間を支配している一つの根本的な法則を記述している。「彼をその真価に従って表現することを妨げているこの誤解を、彼はどのように克服するであろうか。話された音声言語(パロール)の危機をいかにして逃れるであろうか。別のどんな伝達様式に訴えるのか。別のどんな手段によって自己を表現するのだろうか。ジャン=ジャックは不在であることと書くこととを選ぶ。逆説的に言えば、彼はより良く現れるために身を隠すのであって、書かれた音声言語(パロール)に身をゆだねるであろう。『必ず自分に不利なように見られるばかりでなく自分と全く似てもいない別人に見られるという心配さえなければ、私も人なみに社交はすきである。私が選んだ書くことと身を隠すという立場は、誠に私には適わしかった。人々の前に顔を出していたら、世間は私の真価〔私がそれに価するところのもの〕を知ってはくれなかっただろう。』(『告白』)この打明け話は独特であり、強調に価するものだ。ジャン=ジャックは他人たちと手を切るが、それは自分を書かれた言葉(パロール)の中で示す〔現前させる〕ためである。彼は暇に任せ、孤独に護られて、自分の文章に幾度となく推敲を重ね続けるであろう。」"(ジャック・デリダ著、足立和浩訳『グラマトロジーについて』下巻、pp.2-3)

 そのパロールエクリチュールの二項対立をこえるもののひとつが夢だ。

"ソシュールによれば、個的発話(パロール)の受動性はまずその言語体系(ラング)への関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識(言語体系(ラング)における根基としての)と意味作用の根源を構成する間=化(espacement)(休止、余白、句読法、間一般、等々)との関係から区別されない。「言語体系(ラング)は形式であって実体ではない」(p.169)がゆえに、逆説的ではあるが、個的発話(パロール)の能動性はつねにそこから引き出すことができるし、またそうせざるを得ない。だが、それが一つの形式であるのは、まさに「言語体系においては諸々の差異しか存在しない」(p.166)からである。間=化(この語は時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するということがそのうちお分りいただけると思う)は、つねに知覚されないものであり、非=現在であり、無意識的なものである。そういったもので有り得るのは、これらの表現を非=現象学的な仕方で用いる場合にだけである。というのも、ここでわれわれはまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられることは有り得ない。それは、生きた現在の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む。死せる時間は活動しつつある。それだから、痕跡についての思惟は、自身が現象学から借り受けているあらゆる論弁的方策にもかかわらず、なおけっして文字言語(エクリチュール)の現象学と混同されることはないであろう。記号一般の現象学と同様、文字言語(エクリチュール)の現象学は不可能である。いかなる直観も、「『余白』が実際に重要性を引き受けている」(『骰子一擲』〔マラルメ〕への序文)のような場所では実現され得ないのである。フロイトが夢の仕事について、それが話声言語よ(ランガージュ)よりも文字言語(エクリチュール)に、また表音文字エクリチュール)よりもむしろ象形文字エクリチュール)に比較し得るものだと語っているのはなぜか、ということが多分はっきりと理解されるであろう。またソシュールが言語体系(ラング)について、それは「話す主体の一部ではない」(p.30)と語っている理由についても。また同様に、命題の作者と共犯しつつあるいは共犯せずに、現前や意識する主観性の形而上学のたんなる顛倒を越えて理解せねばならぬような諸命題についても。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.139-140)

 齊藤と堀は夢の世界では素顔でいる。実存の超克としての孤独を選択する齊藤、あるいは堀が、なぜ相互に交感を果たすのか。

 "教会に避難する人々は沈黙をまもることができるのであるが(なぜならば教会はその場合にかれらの沈黙を正しいものとするために、かれらの名のもとに聖人、学者などの口を通して語るのである)、しかし自己以外には正当であることの根拠をもたないルソーはけっして沈黙の世界に入ることはできないであろう。かれの孤独の真実の意味をけっして説明しおわることはないが故に、かれは語り続けることをけっしてやめないであろう。事実、かれは孤独が悪人の、そして傲慢な人間の孤独として解釈されうることを知っている。「ひとりでいるのは悪人だけだ」とディドロは言っている。この言葉が自分を目標にしていることを感じとったルソーは、残された全生涯を通してかれに答えることになる。ルソーにとっては、曖昧なことはたえられないからである。ルソーにとって自分を奇矯な存在に見せ、かれの相違を示すことだけが問題であったならば、戦いはかくも悲劇的ではなかったはずである。かれはたんに別人の役割(アルメニア人の服装をして)を演じなければならないだけではなく、悪しき社会に向い合って、根源的に悪とは別のものであるものを示さなければならない。つまり人々の眼前にかれらが見おとしている善を出現させなければならない。ルソーにおける悲劇的緊張は、分離と相剋そのものに由来するものではない。それはかれの孤独をつねに本質的な善と真理に一致させる必要、しかもかれがそれらを深い内面において認めているにもかかわらず、すべての人々によって承認されるような本質的な善と真理に一致させる必要に由来している。したがってわれわれは、対立者として置かれることを主張する意識の非理性的な要求に向い合っているわけではなく、ルソーの主観性が特権を求めているのであり、しかもそれはたんに他者によって完全に承認されるためだけではなく、(そのことは、錯乱気味のジュネーヴの職人の息子がフランスの元帥や徴税請負人たちのなかに迷いこんでいるということですでに十分である)、さらにどうすることもできないような奇矯さを世間の人々にわざわざ見せびらかすためだけではなく、他の人々が忘れさっていた真理の正当な解説者として受容されるためなのである。ルソーはかれの孤独な言葉に否定的な挑戦と予言の意味を与えようとしている。他者に対立することによって、ルソーはたんに奇矯なかれの自我を押しつけようとしているのではなく、自由、徳、真理、自然などの普遍的な価値に一致しようとする英雄的な努力を行っているのである。ルソーは普遍の名のもとに正当性をもって語ることができるために孤独のなかに自己を置いている。かれは都会を離れ、「自称の友人たち」と絶交する。かれは「神秘」もしくは主観的な存在の「精神の深奥」に逃避しようとするのだろうか。絶対にそうではない。ルソーにかれがはるかに遠くから先取りしているにすぎないロマンチシズムを付与してはならない。ルソーにおける主観的な直観は、たとえデカルトやマルブランシュにおいてそれがもっていた知的特質をもたないにせよ、普遍に通じようとするものであり、そしてさらにこのような普遍は本質的に非理性的なものでも超理性的なものでもないという点で、かれらと相通じている。自己自身にかえること、それは確実によりいっそう高い理性的明晰さと直接的な感覚的明証に、社会を支配している無意味に対立することによって近づくことなのである。"(『透明と障害』pp.65-67)

 紙袋をかぶるという行為は政治的な演技(パフォーマンス)だ。そこには実存論的に他者が存在する。そして、それは存在論としてではない、世界が存在することの承認だ。齋藤と堀は屋上と階段で、それぞれ近くに座りつつ、同じ方向をみていて視線は交わらない。夢の世界になり、それまでと対照的に正対すると、手をとりあって走りだす。

 "他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。"(マルティン・ハイデガー著、原佑訳『存在と時間』p.228(所収『世界の名著』第62巻))

"このように「存在の声」を呼び起した後で、ハイデッガーは、それが沈黙しており、声なく響きなく語ももたず、根源的に無音声的である(「隠された源泉の声なき声の保証」(die Gewahr der lautlosen Stimme verborgener Quellen))ことに注意を促す。源泉からの声は聞かれないのだ。存在の根源的意味と語、意味と声、「存在の声」と「フォーネー」、「存在の呼び声」と分節された音、との間の断絶。根本的隠喩を確言すると同時に、隠喩の落差を告発することでそれを疑ってもいるこのような断絶は、現前とロゴス中心主義形而上学にたいするハイデッガーの立場の曖昧さをひじょうによく物語っている。この立場は、それ〔現前とロゴス中心主義形而上学〕に含み込まれていると同時に、それに背を向けてもいる。だが、それを共有することは不可能である。背を向ける運動そのものが、しばしばそれを限界の手前にとどめておく。先に示唆したのとは反対に、存在の意味はハイデッガーにとっては、たんにまた厳密には、一つの〈意味されるもの〉ではないということに注目せねばなるまい。この用語がつかわれていないのも偶然ではない。ということは、存在は記号の運動を逃れているということである。この命題は、古典的伝統の繰返しだと解されてもよいし、また意味作用についての形而上学的な、あるいは技術的な理論にたいする不信だと解されてもよい。他方、存在の意味は文字通り「最初のもの」でも「基礎的なもの」でもなく、またスコラ的意味に解されようと、カント的あるいはフッサール的意味に解されようと、transcendantal〔超越的、先験的、超越論的〕なものでもない。存在者の諸範疇を「超越する」ものとしての存在の解放、基礎的存在論の開示性は、まさに必然的な諸契機ではあるけれども、暫定的なものであるにすぎない。『形而上学入門』以来、ハイデッガーは存在論の企てと存在論という語を放棄する。存在の意味の必然的根源的で還元不可能な隠蔽、現前の出現そのものの中における存在の意味の掩蔽。隅から隅まで歴史であり、存在の歴史であった存在史をまさしく成立させるであろうような後退。存在はロゴスによってしか歴史として生みだされず、その外にあっては何ものでもないということにたいするハイデッガーの力説。存在と存在者の差異〔区別〕。こういったものみな、根本的には何ものも〈意味するもの〉の運動を免れてはいないということを、そしてけっきょくのところ〈意味されるもの〉と〈意味するもの〉との差異は何ものでもないということを良く示している。この背反の命題は、〔ロゴス中心主義の時代の哲学に〕先んじる言説の中に取り込まれていないので、退歩それ自体を定式化する危険性がある。それゆえ、この奇妙な無差異についての厳密な思惟に接近し、それを正確に規定するためには、ハイデッガーによってまた彼だけによって、存在論=神学の中でかつそれを越えて定立されているような存在の問いを通過せねばならない。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.52-53)

 "おたがいに好きだった 過ぎた日々が切ないね 胸の奥しまいこんだ ときめきを思いだした あの教室がまぶしい"。だからこそ昭和歌謡曲をも連想させるマイナー・キーにはじまる叙情的かつ安定したダイアトニック・コードと懐古的な歌詞が胸をうつ。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』あるいは『みすてぃっく・あい』

SF 百合

 "「この手紙を発見する前は、一冊の本がどうして無限であり得るのか、疑問に思っていました。循環する、円環的な本いがいのあり方を思いつかなかったのです。最後のページが最初のページと同一で、限りなく接続する可能性を持った本です。わたしはまた、『千夜一夜物語』のちょうど真ん中にある、あの夜のことを思いだしました。シェヘラザード姫は(筆写係の奇妙な間違いで)『千夜一夜物語』の話を文字どおりくり返し、その話をした夜にふたたび戻るという、そしてこれが無限に続くという危険なはめに落ちいったのです。わたしはまた、親から子へと受け継がれる、世襲的な、プラトン的な作品を想像しました。そのなかでは、新しい人間がそれぞれ一章を書き加えるか、先祖の書いたページを孝心から訂正するのです。これらの推測はわたしを楽しませてくれました。しかし、そのどれかが崔奔の矛盾した章にあてはまるとは、とても思えませんでした。こうして途方に暮れていたとき、すでにあなたもお調べになった草稿が、オックスフォードから送られてきたのです。当然のことですが、以下の文章に気を引かれました。余はさまざまな未来――すべての未来にあらず――にたいし、余の八岐の園をゆだねる。ほとんど即座に、わたしは理解しました。『八岐の園』とは、あの混沌とした小説だったのです。さまざまな未来――すべての未来にあらず――ということばは、空間ではなくて、時間のなかの分岐のイメージを示唆しました。作品ぜんたいを読みなおすことによって、この理論はたしかめられたのです。あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は――同時に――すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。ここから例の小説の矛盾は生まれているのです。……」"
 ――ホルヘ・ルイス・ボルヘス著『八岐の園』(所収『伝奇集』)鼓直

 『みすてぃっく・あい』(一柳凪著、小学館、2007年)は再帰的構造の小説だ。末尾の文は"薄白い霧のようなものが私を包んだ。霧のなかにボンヤリとした影が浮かぶ。こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では。これは、どこかで見た光景だと。そう思いながら私はゆるやかにまどろみのなかにおちていった――"(『みすてぃっく・あい』、pp.224-225)で、冒頭の"一面に積もった雪のうえを、一対の足跡がのびている。"(同p.10)、"こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では、道標がなければあっという間に迷ってしまうだろう。"(同pp.11-12)に結合しており、半透明で"endless"の文字が添えられている。"さえぎるものの何もない平原というのは、迷路とどう違うだろうか。目印ひとつない平原にポツンと置かれたとして、どうやってゴールを目指せばいいのか。始点と終点の見分けすらつかないというのに、何を基準にして順路を決めたらいいんだろう、いや、そもそも終着点などありはしないのだとしたら? 自分が迷っていると気づくことさえなしに、いつまでも迷いつづけることになるだろう。それこそが最悪の(あるいは最良の?)迷路というものだ。白無地のミルクパズルが最も難解なジグソーパズルであるのと同じように。"(同p.11)。そして、主人公の蝶子は自らを"迷い人"(同p.14)と称す。
 全体は「etude」「ⅰ imaginary」「ⅱ garden」「etude」の4章で構成されており、同名の「etude」と題されたプロローグとエピローグは先述のとおり一体化しており、「ⅰ imaginary」で展開された12月27日から29日の3日間が「ⅱ garden」でループしていることが解明される。しかし、その解明そのものが全体を包摂するループ構造の要素であることが明かされ、エピローグに至る。では、なぜループ構造の解明はそれ自体を保存したのか。以下、『ゲーデルエッシャー、バッハ』(ダグラス・リチャード・ホフスタッター著、野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳、白揚社、1985年)を基に読解したい。"湖の畔に到着すると、湖水全体を俯瞰できる恰度よい場所に敷物を敷き、めいめいスケッチブックを取り出して座りこんだ。部長の持ってきた敷物には奇妙な模様が描かれており、鳥の形らしき幾何学模様が少しずつ形を変えながら反復する構成は、エッシャーの騙し絵を連想させた。"(同p.58)。
 ループ構造を実行するプログラムは作中では〈『虚数の庭』〉という題名の小説となっている。"『虚数の庭』……実際、それはなかなかに奇妙な本だった。全体の恰度中央にあたる二頁に書名と同じ《虚数の庭》と題された一篇の詩が配されており、本の前半はその詩に対する長いながい序文、後半は長いながい解題が連なっているという、やたら勿体をつけた構成になっている。言ってみれば、たった二頁の詩こそがこの本の実体で、あとはその中心点のまわりを付随的な言説が浮遊しているようなものだった。"(同pp.102-103)。作者はあとがきで"この作品は第一回小学館ライトノベル大賞ガガガ文庫部門で期待賞を受賞した『虚数の庭』を大幅に改稿のうえ改題したものです。"(同p.229)と原題を明記している。つまり、本書は自己言及の構造をとっている。
 ループの契機となる『虚数の庭』の音読のさいに蝶子は独白する。"のどやかな時間は逆に不安を与える。後ろ向きな私は、安心に浸りきることができない。何かと理由を探してはむやみに憂いを抱いてしまう。大事なことを忘れているんじゃないかと懸念する。憂慮の無限後退。ここに足りないものといえば、そう……。"(同p.101)。それはプロローグで仮想される〈迷路〉を連想させる。"――一本の直線でできた迷路、という話をどこかで聞いたことがある(直線もまた私を苛立たせる)。このうえもなく恐ろしい想像ではないか。直線のうえですら人は迷いうるのだとすれば……そんな迷路から人はどうやって逃れうるというのか。そこではもはや、迷うという概念そのものが全く異なるものになってしまうのではないか。"(同p.13)
 『ゲーデルエッシャー、バッハ』において、TNT(字形的数論)においてG(自己言及文)を適用したときに、「GはTNTの定理ではない」という矛盾が生じることを例に(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.443-445)、形式システムの不完全性を証明する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.464-465)。"これら三つの条件を満足すれば、ゲーデルの構成法が適用できるので、無矛盾なシステムは必ず不完全である。面白いことに、そのようなシステムはどれも固有の穴を掘っている。そのシステムの豊かさがそれ自身の破滅をもたらすのである。破滅は、本質的にそのシステムが自己言及文をもてるほど強力であることから起る。物理学では、ウラニウムのような核分裂性物質の「臨界質量」という概念が存在する。その物質の固体のかたまりは、臨界質量以下ならじっとしていられる。しかし臨界質量を越えると、そのようなかたまりは連鎖反応を起し、爆発してしまう。形式システムにも同じような臨界点があるように思われる。臨界点以下では、システムは「無害」で、算術的真実を形式的に定義することさえはじめられない。それが臨界点を越えると、システムは突如として自己言及の能力を獲得し、そのことによって自分を不完全と運命づける。その発端は大ざっぱにいって、システムが上に挙げた三つの性質を獲得したときである。この自己言及能力がひとたび獲得されると、システムはそれ自身にあわせて作られた「穴」をもつことになる。穴はそのシステムの特性を十分考慮に入れて、そのシステムに逆らうように利用している。"(同p.465)。さらにそこから、チューリングの停止性検定プログラムの不可能性の証明(同pp.424-425)、チャーチの定理(同pp.569-570)、タルスキの定理(pp.570-571)を演繹する。チューリングの証明は"しかしアラン・チューリングの独創的な論考によると、どんなブー・プログラムもこの判別をけっして誤りなく行うことはできない。その技巧は実はゲーデルの技巧とほとんど同じで、当然カントール対角線論法と密接に関連している。ここで詳しくは述べないが、停止性検定プログラムにそれ自身のゲーデル数を入力するという着想による、といえば十分であろう。それはある文全体をその中で引用しようとするのと似たところがあるので、そう簡単ではない。引用を引用する、等々のことが必要で、無限退行に導かれるように見える。しかしチューリングは、あるプログラムにそれ自身のゲーデル数を入力する技巧を案出した。"(同p.425)と要約している。
 『みすてぃっく・あい』において、ループ構造の実現される場は虚数に例えられる。"虚数とは、では何だろう。実数のいかなる領域にも属さぬ仮想上の数でしかない虚数単位iは、ひどく孤独なものに思える。存在しない、だが想定することはできる。そんな存在の曖昧さと不透明さとデタラメさに、私は不安を抱くと同時に惹きつけられるものも感じるのだった。タッタひとつの、けれども決定的な非合理をこの世界が孕み持っているという事実には、幾分心慰められるものがある。虚数とは数の世界において、ゼロとはまた違った意味での奇妙な特異点であり鍵でもあるのではないか。"(『みすてぃっく・あい』p.159)。そして、〈庭〉が入子構造を意味する(同pp.155-156)。TNT(字形的数論)にG(自己言及文)を矛盾なく適用するためには、~G(Gの否定)を公理に足せばよい。それは、自然数を超自然数に拡張することを意味する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.448-451)。つまり、自然数有理数、負数、無理数、そして虚数に拡張する。
 ループ構造の物理的な説明には、エヴェレットの多世界解釈が当てられている。"「ともかくだ。これらのいずれかが起こるんじゃなくて、すべて起きているってことだよ。無限に分岐した並行世界のなかで。それらの世界はどれも同じように存在していて、純粋に確率の問題でしかない。あるのは《私》という主体ないし主観がどこに存在するかの違いだけだ。それぞれの《私》は自分が属している世界しか見ることができないからね」よどみなく説明する先輩の話はあまりに現実離れし過ぎていて(そう、昔そんな内容の小説を読んだことがあったから、いっそう作り話っぽく聞こえた)、正直、私は面食らっていた。「分岐」と聞いて、ある段階までは枝分かれのイメージを浮かべることができたが、「無限」という概念は想像できなかった。"(同pp.140-141)。そして、それを蝶子の選択の回避が具現化する。"昔から、何事につけ選ぶのが苦手だった。(中略)いずれを選んでも大して変わらないような気がするのに……そのくせ、いったんどれかに決めると、後で何故、他の方にしなかったのかと考えて絶望的な悔恨に陥ってしまう。そしておそらくは、仮に別の選択肢を選んでいたとしても全く同じことが起こっているのだろう。最善の選択など、何処にもありはしない。どれかひとつを選択するということは、必然的に残りの可能性を棄てるということで、だから、実現しなかった可能性に思いをめぐらせて煩悶するというのは、結局のところ避けようがないのだ。あらゆる不確定要素を加味して、すべての可能性を想定したうえで先の先のそのまた先まで見通して最良の選択を行うなど、どだい無理な話なのだから。人は皆、そうした感情と折り合いをつけて生きているのだろうけれど、私にはそれがうまくできない。選択するという行為に必然的につきまとうリスクが耐え難かった。それならいっそ、他人に任せた方が良い。そうすれば自分が『選んだ』という事実からは逃れられる。責任を肩代わりしてもらえる。なので、できうる限り周囲の流れに身を委ねてやり過ごしてきた。そこには『私が』という主語はない。主体が、ない。"(同pp.45-47)。そして、その例外がループ構造の起点だ。"いや――ただの一度だけ、後悔したことがあったような気もするのだけれど……。"(同p.47)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは数論における超自然数幾何学におけるアナロジーが量子力学だとしている(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.452-453)。"さらに、そしておそらくこれがずっと大事なことであるが、物理学者はわれわれが住んでいる3次元空間だけを研究しているのではない。物理的計算が行われる「抽象空間」は山ほどあって、それらはわれわれが住んでいる物理的空間からは全くかけ離れた幾何学的性質をもっている。だとすれば、「正しい幾何学」というのは天王星海王星が太陽のまわりで軌道をえがいている空間であると定義したらよい、などとどうしていえようか? 量子力学的な波動関数が波うっている「ヒルベルト空間」がある。フーリエ成分が住んでいる「運動量空間」がある。波動ベクトルがはね回っている「相反空間」がある。素粒子の多体配位が音をたててひしめいている「位相空間」がある、等々。これらすべての空間の幾何学が、同じでなければならないという理由は全くない。事実、これらは同じではありえない! だから物理学者にとっては、異なる「競争相手の」幾何学が存在することは本質的かつ不可欠なことである。"(同p.453)。
 『みすてぃっく・あい』の根幹は符号がなす(『みすてぃっく・あい』pp.169-170)。それは現実を文字に置換することだ。"「並行世界を移動する、か。……んんん、ん……ねえ、ちょっと聞いてくれるかい。カバラの教義を記した『創造の書』のなかに、こんな一節がある――《二十二の基礎となる文字。彼はそれらを刻み、それらを入れ換え、それによってすべての創造と、そしてそれに続いて創造されなければならないすべてを形成した》文字に関するカバラゲマトリアとは、単語に含まれた文字が表わす数字とその組み合わせから、世界の象徴的な意味を読みとる行為だ。単語は各アルファベットに解体されたうえで、数字としての総計が算出される。数字こそが最も重要な要素なんだ」"(同pp.208-209)。"「そのうえで、世界とは起きている事象の総和であるとみなすなら、文字列の集合、記述の仕方こそが世界そのものだと言える。無論、それには果てしなく長い文字列が必要だがね。そう考えると、無数に存在する並行世界のそれぞれに写像のように対応した文字列が存在するはずだ。その文字列を書き換えることさえできれば、別の並行世界に転移することが可能になるのではないか。と――そんなことを、私は夢みていたんだ」(中略)「でも……、無限に続く文字列なんて存在しないでしょう?」「うん、たしかにその通り」噛み締めるような口調で先輩は答える。「現実問題として無限の長さを持つ文字列は作成しえないし、よしんば存在したとしてもそれを読むことじたい不可能だ。無限に長い文字列を読むには、原理的に言って無限の時間が必要なはずだからね」(中略)「そうだね、文字通り果てしなく気の長い話だ。生身の人間になしうる業じゃない。……《虚数》ということでちょっと思い出したんだが、量子論でも虚数が登場するんだ。現実の状態を説明するための量子論に、実際には存在しないはずの虚数が現われるなんて随分と矛盾した話に聞こえるかもしれないけれどね。電子やなんかの状態を記述する波動関数のなかに、粒子に波動性を与える……揺らぎを導入するものとして虚数が組みこまれているんだ。この、揺らぎというのは、ここにあるかもしれないと同時にあちらにもあるかもしれない、という存在の不確定性のことだ。まさしく並行世界の基礎となる概念だよ。ふふん、こんなところで思いがけず虚数が関わってくるなんて、ちょいとゾクゾクするじゃないか」"(同pp.210-212)。そして、それを具現化するのは脳の機能だ。"「ところで久我崎は問題の詩を読んでいて急に眠りに陥ったのだったね。眠り……脳生理学の分野でこんな仮説がある。夢がどのように生起するかについてだが、神経細胞のデタラメな発火によって生じるイメージに対して、脳がさまざまな意味を見出し夢を組み立てるのだと。意味を見出す、それはまさに解釈の問題と言える。夢もまた、書物を読むことと同様の営為とみなすことができるんだ。逆に言えば、書物が夢に似ているということでもある」夢……幾度となく私の頭のなかで再生された、あの記憶。思えばあの夢に、自分はずっと操られていたのではないか。「……話を戻すが。無限に続く文字列を作ることは不可能、ってことだったね。ならば、夢の生成に作用するような文字列を作り上げればどうだろう? 古来から夢をもうひとつの現実として捉える伝承なり創作はそれこそ山のように存在するわけだが、無数の現実――並行世界へ移行するための過渡状態として捉えられないだろうか。そうしてその構造を自在に操ることさえできれば、無限に存在する並行世界のどこへでも思うがままに転移することができるのではないか……」"(同pp.212-213)。そして、そのためのプログラムが『虚数の庭』だ(同p.214)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは自己言及のパラドックスを解消するための仮説として脳の機能を挙げている。"私の感じでは、エピメニデスのパラドクスのタルスキによる変換は、英語版の中に基質を探すことを教えてくれる。算術版では、意味の上位レベルは下位の算術的レベルによって支えられている。おそらく同じように、われわれが読みとる自己言及文(「この文は偽である」)は二重レベルの実体の最上位レベルにすぎない。それなら、下位のレベルは何なのだろうか? 頭脳の上である。したがって、エピメニデスのパラドクスに対する神経基質――たがいにぶつかりあう物理的事象の下位レベルを探すべきである。「ぶつかりあう」とは、二つの事象が、それらの本性から、同時には起りえないことである。もしこの物理的性質が存在するとしたら、われわれがエピメニデスのパラドクスを理解できない理由は、われわれの脳が不可能な仕事をしようとするためである。では、衝突する物理的事象の本性は何なのだろうか? エピメニデスのパラドクスを聞いたときにはおそらく、脳はその文のある「符号化」――相互作用をする諸記号の内部的配置を設定する。そして、その文を「真」か「偽」かに分類しようとする。この分類行為は、いくるかの記号をある特定のしかたで相互作用させるような試みを必要とするはずである。(たぶんこのことは、どんな文を処理するときにも起る。)ところで、もし分類行為が文の符号化を物理的に破壊するようなこと(ふつうはけっして起らないことだが)が起ったときは、プレーヤーにそれ自身を破壊するレコードをかけようとするのと同じ災難がひき起される。われわれは衝突を物理的な用語で説明したが、神経系の用語ではなかった。もしこの分析がこれまでのところ正しいとすると、おそらくあとの議論は、脳の中でのニューロンとその発火による「記号」の構成について何かわかったときに続行できるであろう。また、文が「符号」に変換されるしかたについての知識も必要である。"(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.574)。
 蝶子が選択の回避による無限後退をつづけるためには自己言及のかたちをとるしかなく、それが『虚数の庭』の原題をもつ『みすてぃっく・あい』なのだ。

『青い花』の表現技法とその意味

百合 文学

 "『青みをおびた』(Bleute):ほかのどんな色も、優しさの、このような言語的形態を知らない。ノヴァーリス風の言葉。「非存在のように優しく青みをおびた死」(『笑いと忘却の書』)。"(ミラン・クンデラ著『小説の精神』所収『七十三語』浅野敏夫訳)

 『青い花』(志村貴子著、太田出版、2005-2013年)の表現技法の特徴とその効果について、題名である〈青い花〉の解釈を中心に検討する。
 本作は各話の副題を小説および劇、映画の題名からとっており、よって、最終話の副題でもある「青い花」は一次的にはノヴァーリスの同名の小説を指していると考えてよい。ただ、注意すべきことは、作中で「青い花」という文言が登場したことはない。しかし、1巻の末尾において〈小さい花〉が象徴的にえがかれている(『青い花』1巻、p.188)。
 "あまりにも小さなその花は あまりにも小さすぎて すぐそばにあるのにわからない 持て余してしまうかもしれない そんな花……"(同、p.187)
 本稿は巻数と一致するここまでを一編として、検討の対象とする。
 ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』は、ドイツ・ロマン派の特徴を以下のように分析し、小説『青い花』をそのなかに位置づける。
 "だが、その孤立性を意識するということは、ある新たな神秘のまえに立つことである。もし、外的自然がわれわれと異質なものになるにつれて、われわれの目に謎めいたものになるとすれば、逆にまさにそれと同じ度合で、われわれはわれわれの自我がやはり神秘に満ちたものであるという自覚をいちはやくもつのである。われわれはもはや自我をいかなる既知なるものにも関連づけることができない以上、どのようにしてそれを認めるのだろうか。みつめればみつめるほど理解できなくなってゆく。その本質的な差異性による以外には、けっしてそれを把握することができない。それは何ものとも合致することがない。どんなものとも類似していない。光の神秘があるのと同じように、ここには中心の神秘がある。あまりに吟味しすぎると消えてしまう。それ自体、目のまえで霧散しはじめるのだ。しかし、それはいわばその場でおこなわれる。探究がなされなければならないのは、もはや自我から遠く離れた、自我の外側ではない。周辺的世界という遠い遥かな深淵に対して、もうひとつの深淵すなわち中心という身近な深淵が対立する。内観が拡張ではない。それはむしろ凝視である。思考が空間のなかに急いで流出することがなくて、生起したその場所に沈思不動のままとどまっているような凝視である。ロマン主義というもの、とはいわないにしても、少なくともそのもっとも重要な一面は、精神の根源的に主体的な特質を自覚することであるとする以上にうまく定義することは多分できないのではないか。ロマン主義者とは中心を発見するもののことである。"(『円環の変貌』、国文社、1973年、上巻、pp.189-190)
 "そのうえ、当時、フランスでもドイツでもイギリスでも、ほとんど時を同じくしてロマン派の作家たちが人間の中心性のもつ本質的に宗教的な特質を発見ないし再発見していた。《私が中心点であり、聖なる源泉なのだ》と、ノヴァーリスの小説のなかでアストラリスが叫んでいる。人間が源泉であり、しかも神聖なる源泉なのだ。人間の中心性のもつ深淵において、人間固有の本質の神秘とそれにかかわりをもとうとする神の神秘とが、どちらのものとも分からぬような仕方で混じりあっているのだ。中心に引きこもるということは、したがって充実した存在を放棄し、やむを得ず衰退した生を送ることではなく、すでにモーリス・セーヴやその他のルネサンス期のプラトン主義的詩人たちがそうしたように、根源的なちからに立ち帰り、源泉から汲みとることである。しかも、その理由をあえて説明するまでもないほど明らかなひとつの現象によって、外的自然から離れて精神が自己自身のうちに引きこもることが、自然への新たな回帰の、したがって精神が再びそこで活気づけられるような中心の外側で新たに開花するということの、原理そのものになるのだ。"(同、p.193)
 ノヴァーリスは小説『青い花』において主観性の優越を説き、そこにおいて〈青い花〉は神秘との通路の象徴としてえがかれる。ミシェル・フーコーはルートヴィヒ・ビンスワンガー著『夢と実存』の序文において、それを以下のように述べている。
 "このヘラクレイトス的主題は、すべての文学とすべての哲学を貫いてきた。これまで引用してきた、一見したところ精神分析にきわめて近いものに見える多彩なテクストにも、この主題が繰りかえし現われてはいた。だが、実のところ、夢へのその出現が話題にされてきたこの精神の深み、この「魂の深淵」によって指示されているのは、リビドー的本能のような生物学的装置ではない、――それは、自由の原初的な運動であり、実存の運動そのもののうちでの世界の誕生なのである。ほかの誰よりもこの主題に接近し、倦むことなくこれを神話的表現におさめようとしたのがノヴァーリスである。彼は夢の世界のうちに、夢を担っている実存の指示作用を認めた。「われわれは世界中をめぐる旅の夢をみる――とすれば、この世界全体の方が、われわれのうちにあるのではなかろうか。……永遠なるものがその世界、過去、記憶をともなって住みついているのは、自己のうちにであって、他のいずこにでもない。外界とは影の世界であり、この世界がその影を〔内面の〕光の王国に投げかけているのだ。」だが、だからといって夢の時間が、主観性へのアイロニー的な還元の遂行される曖昧な瞬間にすぎないというわけではない。ノヴァーリスは、夢が発生の原初的瞬間だというヘルダーの考えを採りあげなおす。夢こそ詩の最初の心像であり、そして詩は言語活動の原始的形式、「人類の母語」なのである。こうして夢は、生成と客観性との原理そのものに通じている。そして、ノヴァーリスは、「自然とは無限の動物、無限の植物、無限の鉱物なのであり、また自然のこれら三領域は、自然のみる夢の心像なのだ」と付けくわえている。"((『夢と実存』《序論》中村昇、小須田健訳、pp.54-55)『夢と実存』所収、みすず書房、1992年))
 本作における〈青い花〉も、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"(『青い花』1巻、p.44)とあるように時間性を超越している。
 "したがって神聖な源泉と個体的な諸源泉とのあいだには、起源上の同一性と成長発展上の同一性とがある。神的存在者と同様に人間的存在者も、《自分自身の内側から数限りなく無尽蔵に多量の光を放つような》発生者的な原理に従って発展してゆくのだ。生存のそれぞれの時間、どれほど微妙であろうともごく微小なものによって占められているそれぞれの場所が放射的エネルギーの中心となり、それがサン=マルタンが述べているように、《同時にかつあらゆる意味で拡大し、その円周におけるあらゆる部分を占有し充満させるのだ》。この種の《中心の爆発》については、ウィリアム・ブレイクの詩のなかに数多くの実例がみられる。……ルネサンスの詩人たちにおけるように、とりわけベーメにおける場合と同様に、創造のひとつひとつの点、持続の特定の瞬間瞬間がここでも真に無際限の拡大能力を表している。しかし、もっとも顕著なことは、この詩人の想像力がそれと等しいほどのちからを賦与されている点である。一個の世界となるような一粒の砂、その香りでみたす薔薇となる人間の精神は、神が創造した世界の事物にあたえるのと同じ拡張力をもつ。そこには事物の開花があるのと同じように、精神の拡大がある。誰もが自分自身から真に内的な永遠性と広大さを引き出せるのだ。あらかじめひろがりも持続もない心理的現実に対して感情によってあたえられる空間的ならびに時間的なこうした桁外れの拡張の完璧な実例は恋愛である。それはコンスタンの『アドルフ』の次の有名な一節に見られる。……したがって恋する人には、自分の周辺に空間と時間の持続が拡大するのが見えるものである。というよりむしろ、まさにその内面において存在の二重の拡大が感じられるのだ。恋とは、思惟領域の拡張であり、自分の存在があらゆる面で現実がそこに自分を固定させようとしている時間的空間的な一点をはみ出ようとしているのを感じるひとつの方式である。"(『円環の変貌』上巻、pp.194-195)
 しかし、本作は作品として、主観性を客観性に優越させてはいない。そもそも、ふみが物語の当初において愛していたのはあきらではなく千津だ。この愛は、のちに言明されるように否定的なものではなく、またあきらへの愛情と対立的な関係にあるものでもない(『青い花』5巻、p.136)。高校に進学したふみが千津に再会した様子は、ふたりが同一のコマのうちで、距離が近く、親密なものとしてえがかれている。しかし、その愛情はページが変わると同時に〈結婚祝いの手作りのケーキ〉というきわめて即物的な存在により否定される(『青い花』1巻、pp.38-40)。それはまた、結婚という社会的な行事をもしめしている。そもそも、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"という傍白が感動的なのは、それが時間性のなかに位置しているからだ。では、本作はそのような客観性において、どのように主観性を表現しているのか。
 ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』において、《近代リアリズム》(エーリッヒ・アウエルバッハ著『ミメーシス』)の小説の特徴を単純過去と三人称ととらえる。
 "小説と歴史とは、それらがもっとも華やかに開花したまさにその世紀に緊密な関係をもった。それらの深いむすびつきによってバルザックミシュレをわたしたちは同時に理解することもできるはずだが、そのむすびつきは、これら両者における自給自足的な宇宙の構築である。その宇宙は自らの拡がりと限界を自力でつくり出し、そこに自らの時間や空間や住民や品物のコレクションや神話を配置している。十九世紀の大作品のこうした球状性は、彎曲して連結している世界の平面投射とでも呼べる、小説と歴史との長い叙唱調(レシタチーフ)によって表現された。当時誕生した新聞小説は、渦巻形に錯綜したかたちで、格下げされたイメージをさし出している。しかし、ナレーションはかならずしもそのジャンルの法則ではない。たとえば、ある時代は書簡体小説を構想することができたし、また別のある時代は分析風の歴史をつくることも可能であろう。したがって、小説と同時に歴史にも拡張できる形式としての物語(レシ)〔Recit〕は、がいして、たしかに歴史上の一時期の選択あるいは表現である。単純過去(パセ・サンプル)は、話されるフランス語からは姿を消したが、物語を支える隅石であり、相変わらずひとつの芸術(アール)をさし示している。それは、芸文(ベル・レットル)の儀礼の一部をなしている。その任務はもはやある時を表現することではない。その役割は現実をある一点につれ戻すことであり、たくさんの、体験され、積重ねられた時間から、ある純粋な動詞的行為を抽出することである。その行為は、経験の実存的な根をとり払われ、他の行動、他の経過との論理的な連結、世界の全般的な動きに方向づけられている。つまり、その役割は、事実の帝国のなかにヒエラルキイを維持することをめがけている。動詞は、単純過去によって、暗々裡に因果の連鎖の一部をなし、方向づけられた連帯的行動の相対に関与し、ある意図の代数的記号のように機能する。動詞は一時性と因果性の間のあいまいさを支えつつ、ある展開、すなわち物語のわかりよさといったものを招じ入れる。動詞が、あらゆる宇宙構築の理想的な道具であるのはそのためだ、それは、宇宙発生説や神話や歴史や小説の人工的な時制である。構築され、練上げられ、意味のある線に帰せられる世界を想定していて、投げ出され、陳列され、さし出される世界をではない。単純過去のうしろにはいつも造物主か神か語り手(レシタン)がかくれており、世界は物語られながら説き明かされ、事件のひとつひとつはその場かぎりのものにすぎない。単純過去はまさしく、ナレーターが現実の爆発を、密度もなければボリュームも拡がりもない、痩せて純粋な動詞につれ戻すためにつかう記号である。そして、その動詞はできるかぎり早く原因と結末とをむすびつけることを唯一の機能としている。歴史家が、ギーズ公は一五八八年十二月二十三日に死んだと確認したり、小説家が公爵夫人は五時に外出したと物語るとき、これらの行動は厚味のない往事からたちあらわれる。それらは実存のふるえから解き放たれて、代数の安定性と構図とをもつ。それらは記憶だが、利害関係の方が持続よりもはつかにたくさん勘定に入る有益な記憶なのである。"(『零度のエクリチュール渡辺淳訳、みすず書房、1971年、pp.30-32)
 "単純過去のこうしたあいまいな機能は、また別のエクリチュールの事実のなかにも見出される。それは小説の三人称のことである。殺人者を物語の一人称のもとにかくすことに創意のすべてが賭けられていたある小説のことを多分おぼえているだろう。読者は殺人犯を筋のなかのすべての《かれ》の背後にさがしていた。ところが、殺人犯は《わたし》のもとにいた。作者は、小説では通常《わたし》は証人で、行為者は《かれ》であるということを重々承知していたのである。なぜそうなのか。《かれ》は小説の典型的約束であり、叙述的時称と同じく小説的事実を表示し、完成する。三人称がないと小説に到達できなかったり、小説を破壊するおそれがある。《かれ》は形式的に神話を表している。少なくとも西欧においては、先ほども見たように、自分のマスクを指さない芸術はない。したがって三人称は、単純過去と同様、小説芸術においてそのつとめをはたし、その消費者たちに、信頼できるがたえず偽りだと公表されている仕組の安全性を提供している。《わたし》はそれほどあいまいではないが、まさにそのためにそれほど小説的ではない。だから、《わたし》は、物語が慣習のこちら側にとどまるときにはもっとも直接的な解決となり(たとえばプルーストの作品の意図は、文学への序になることにほからならない)、《わたし》が慣習のかなたに置かれ、物語をいかにも自然を装った打ち明け話にして慣習を破壊しようとするときには、もっとも練りあげられた解決となる(ある種のジッド的物語の狡猾な眺望がこれである)。同様に、小説的な《かれ》の使用は、二つの対立した倫理とかかわりあう。というのは、小説の三人称は異論の余地のない慣習を示し、もっともアカデミックな人々ともっとも文章に凝らない人々を誘惑するが、同時にまた自分たちの作品の新鮮さに慣習を結局のところ不可欠のものと判断している人っちをも魅了するからである。ともかく、三人称は社会と作者との間の明瞭な契約のしるしである。しかし、それはまた作者にとって、自分が欲する流儀で世界を立たせる第一の手段なのだ。したがって、三人称は想像を歴史や実存にむすびつける人間的行為にほかならぬ、文学的経験以上のものである。"(同、pp.35-36)
 こうした透視図法によるような時間的、空間的に均質で等方向的な時空において主観性はどのように表現されるのか。ふみがあきらに同性愛者であることを告白するまでの場面(『青い花』1巻、pp.136-141)を例に検討する。
 この一連の場面において視点は継起的に移行している。はじめ、視点は京子にあり、京子が立ちばなしするふみとあきらを眺め、各務との会話を回想する。そして、回想が終わったとき、セットは移動しており、そこに登場するふみとあきらに視点は移行している(pp.136-137)。そして、ふたりの会話において、180度システムの視界にとどまる切返しショットは、エスタブリッシング・ショットにつづく5コマのみで、以降、はじめにふみを正面ショットでとらえ、あきらを90度の角度でえがき、つぎにあきらを正面ショットでとらえるとき、ふみは90度の角度でえがいている(pp.138-139)。
 これにより、ふみの熱っぽい様子から、あきらのおどろきまで、視点の移行が円転滑脱としておこなわれ、それぞれの感情が同時的にえがかれている。
 こうした視点の移行の自然さへの工夫は他所でもおこなわれている。恭己と交際をはじめたふみは、恭己に主導権をとられる。したがって、恭己の行動は意外性をもってえがかれる。最初のデートで"またどこか行こうね"(p.106)という約束はそれまでの文脈を無視しておこなわれ、いっしょに登校できないというふみへの"帰りは私のためにとっといて"(p.128)という妥協は、それまでの皮肉な調子に反している。しかし、これらの意外性は停止(ポーズ)ではなく、恭己がコマの枠外にフレーム・アウトしていくなか、内容が描写に反することで演出される。
 そして、このような視点の移行の自然さは、画面における繊弱な輪郭線と淡い塗りが寄与している。
 プーレは『円環の変貌』で《近代リアリズム》の代名詞であるギュスターヴ・フローベールの描写について以下のように述べている。
 "『ミメーシス』すなわち文学における現実描写に関してのあのすぐれた批評書においてエーリッヒ・アウエルバッハは、『ボヴァリー夫人』から次の一節を引用し、注釈をつけ加えている。……さて、ここでアウエルバッハの指摘の要約をかかげておこう。――フローベールはトストにおけるエンマの生活を長々と述べたあと、この一節で、あるひとつの明確なタブローすなわち食事の時間の妻と夫のタブローを提示している。しかし、このタブローはそれ自身のために、それ自体では存在しない。それはエンマの絶望という中心主題に従属している。われわれはまず彼女を見て、それから彼女を通して状況を見る。他方、ここではエンマの思考のたんなる再現つまり彼女が思考してゆく通りの彼女の考えは問題にはならない。たしかにこのタブローを照らす光は彼女から出ているが、彼女みずからはこのタブローの一部分になっていて、その内側に位置づけられている。こうした指摘の意味をよく考えてみることは有益なことである。つまりフローベール的方法とは、凝視の対象としてひとつの存在者を提示し、今度はその存在者が周辺的な現実を凝視の対象とすることにある。《エンマは見る人である。さらに彼女は、彼女がみるのをわれわれがみつめている人でもある。》もし彼女がたんに外面から描かれていたなら、彼女は多くの事物のなかのひとつにすぎなかったであろう。暖炉や壁や夫や皿とともに客体的な雑多なものの一部になっていただろう。逆にもし『ユリシーズ』のブルームか、あるいはダロウェイ夫人のように、彼女がわれわれに内面的独白のなかで提示されていたなら、もはや皿も夫も壁も暖炉も存在しなかっただろう。存在するのはただ、そうした事物によってエンマのなかに喚起される感覚ないし情緒だけであろう。そしてエンマすらもはや存在していないだろう。なぜなら、彼女の身体が事物の基底にみずからの影をおとしながらわれわれにあたえている客観的な統一感は、感情と思考の純粋な流れによってとって代わられるからである。そのいずれの場合にも何かが失われるだろう。つまり一方では客観的世界が、他方では主観的存在が失われ、しかもその両方の場合に、この小説の本質そのものを構成している客体と主観との微妙な関係が失われる。意識と皿のようにまったく相異なる本質をもつものを互いに結びつけるのが明らかにこの関係である。はっきりと区別されている二つの現実が、それなりに、それぞれの構成要素を多様化させることによって自己分解してしまうのを妨げているのがこの関係である。したがって『ボヴァリー夫人』のなかには、ある全般的な一貫性というものがある。それは、事物が、同時的なものであれ、連続的なものであれ、つねに知覚的な思考のもつ統一性によって結びつけられていて、しかもこうした思考自体が絶えず接触をもちつづけているひとつの世界の客観性によって、その連続的な状態のなかでつねに分解から免れているという事実にもとづいている。"(『円環の変貌』下巻、pp.114-116)
 "しかしフローベールは、円周的な原因から点のような意識に至るこのような動きをわれわれに目に見えるようにしてくれたかと思うと、次の瞬間には、たちまちその魂が離心的に作用し、こんどはひとつのものとして自分の感情を空間に投影してゆくという逆の動きをわれわれに描き出してくれる。すなわちまた蒸し肉の湯気とともに彼女の魂の奥底からさらに別のむかつくような息吹きが立ちのぼってくるのだった。要するに求心的と拡張的との相つぐ運動によって、まったく異なる二つの方向に横切られるために、フローベール的環境は円周から中心へと中心から円周へとひろがるひとつの状況的空間のように見えてくる。フローベールにおける現実描写のこのような円環的な特徴は、すこしも隠喩的なものではない。あるいはたとえそれが隠喩だとしても、批評家によって議論の必要上思いつかれたものでないことは確かである。じじつ、こうした隠喩はフローベールの作品のなかにはたえず見出され、しかもそれらがきわめて一貫したものであり、きわめて必然的であり、きわめて意味深いものである以上、われわれはそれをフローベール的想像力における世界と存在の諸関係が表現される本質的イメージとして理解しなければならない。"(同、pp.118-119)
 "以上引用したテクストによって、フローベールがよく知りつくしかつ実現したものは、存在とその対象とのあいだの関係を提示する新しい方法であり、しかも彼の先行者たちのものよりももっと真実で、あらゆる場合に、もっと具体的で、もっと感覚的な方法であることが明らかになるだろう。彼の先行者たちやスタンダールでさえも作中の主人公を時間の流れに沿っていちいちその行動によって追いかけてゆくことに満足していたし、また他方バルザックは主人公の行動をある発端から放射されている諸力の中心として投げかけていたが、フローベールこそは、こうした直線的ないし単一中心的概念を放擲して、自分の小説を一連の中心点において構成し、そこからは数々の対象が前方にも工法にもあらゆる方面に拡散し、さらにそこには時間的であると同時に空間的な放射もあるようにした最初の小説家なのだ。小説の領域においてはじめて人間の意識が、感覚と回想の集中的ないし拡散的な飛翔が限りなくそれをめぐって行なわれ、つねに再構成されている一個の中心として、あるがままの姿を表わすものである。また小説はそれ自体が円環と中心になることによって初めて、人間的実体のもつ密度ないし濃度とでもいえるようなものを表現できるようになる。そうした濃度は、あらゆる方向に拡散してゆく意識の中心から、あるいはまた意識にむかってのひとつの集中運動となって数々の感動や回想の描く円周から形成されるようなものによって可能となる。こうした二つの運動は、すでに考察したように『ボヴァリー夫人』において、それぞれ交互に行なわれている。"(同、pp.137-138)そして、プーレはシャルル・デュ・ボスの批評を例に、『感情教育』への"人々はしばしばこの小説を形の整わない作品、つまり存在のまとまりのなさを主題としている小説と考えている。"(p.138)という定見に次のように反論している。"だが、こうした絶え間ない循環運動は、もし中心にひとつの要素が、つまり創造者でなくて秩序づけをする者のことを言っているのだが、そうした要素が存在しない場合には何の意味ももたないだろうし、また小説は形をなさないだろう。数多くの人物や経験や思い出を休むことなくあるひとつの中心に関連づけているその要素とは、主人公の愛である。仮りにフレデリック・モローがアルヌー夫人を愛さないとすれば、この小説には何の意義も構造も存在しなくなるだろう。だが、この場合はそうではない。ジャン=ピエール・リシャールが『フローベールにおける形式の創造』に関する研究のなかで言っているように、『教育』は《すべてのものが方向づけられた一個の軸のまわりに配置されている》ような小説である。この物語の発端からアルヌー夫人が現われてきてフレデリックに愛してもらったり、外面的には流動的で無定形な生き方をしているすべてのものが、このイメージのまわりに廻わりはじめ、そこから光を浴びるようになるのは、まさにこのためである。もっとも重要な文章を次に引用しておこう。……こうしてこのフローベールの小説は、いまやひとつの構成体として、一個の秩序あるものとして現われてくる。この秩序は形式上のものである。感情的諸要素は、それ自体は無定形な感覚的なものであるが、円環状の流れとなって、フローベールのもっとも美しい表現を借りれば《事物の総体が集中してくるまばゆいばかりの中心》が存在している中央部のある一点にむかって配置されるのだ。中心から円周へ、そして円周から中心へと運動するものがそこにはあり、しかもなお恒常的な関係がある。それが意識が生まれてくるひとつひとつの瞬間、意識が位置づけられているひとつひとつの場所的な地点と、他方、内面的であると同時に外面的でもあるその環境とのあいだに意識が確立しているような関係そのものである。フローベールのこの小説はしたがって状況(アンビアンス)の小説なのだ。"(同、pp.140-141)
 本作において〈青い花〉は作品の底部にライトモチーフとして一貫して存在し、それは、二者の主人公という非人称的な空間により可能になっている。

『荊の城』と『オリバー・ツイスト』

百合 文学 映画

 独白をのぞき、『荊の城』は『オリバー・ツイスト』の観劇の場面ではじまる。本作はロンドンの下町を舞台にしており、主人公のスウは"Fingersimith"=スリであり、『オリバー・ツイスト』でオリバーが仲間にいれられる窃盗団の少年たちとおなじだ。付言すれば、ジョンとデインティのふたりは『オリバー・ツイスト』のノアとシャーロットを想起させる。
 "いまも覚えている――あの日、生まれて初めて見た――世間というものの図を。この世にはビル・サイクスのような悪い人もいれば、イッブズ親方のようないい人もいて、どっちに転ぶかわからないナンシーのような人もいる。よかった、とあたしは思った。ナンシーがようやくたどり着いた側に、あたしは最初からいるのだから――いい人たちの側に。砂糖菓子のある側に。"(『荊の城』上巻、サラ・ウォーターズ著、中村有希訳、東京創元社、2004年、pp.14-15)
 スリであるスウは潔白なオリバーではなく、娼婦のナンシーだ。("「話の中身はたいへん結構だけどね。言葉づかいに問題がある。サクスビーさんはそのへん、ちゃんとしつけてくれたはずだろ。きみは街角ですみれを売るわけじゃないんだ。もう一度、言って」"(同pp.61-62))
 『オリバー・ツイスト』で、有名なロンドン橋での密会や、サイクスの逃亡などの場面につながる前章として、娼婦のナンシーは令嬢のローズと会見する。
 "「いまのあなたのお暮しと、それから逃れ出る機会があることを、もう一度考えて下さいな。あなたは、わたくしにそれを請求する権利をお持ちですわ。自分からすすんで今のようなことを報せて下すったというばかりでなく、ほとんど救いの道を失った女性として、たった一言で救われるというのに、そんな盗賊の群や、そんな男のところへ、お帰りになるのですか。あなたを引戻し、そんな悪業や不幸へ縋りつかせるとは、どんな魅力なのでしょう。ああ、わたくしが触れることのできる琴線が、あなたの心にはないのでしょうか。そうしたおそろしい魅力を相手にして、わたしの力でうったえることのできるものは残っていないのでしょうか」
「お嬢さまのように、若くて、悪をしらない、美しい方が、恋をなさっても、恋というものは、どこまででもあなたを引っぱってゆくものですわ――お嬢さまのように、家庭や、お友だちや、ほかに心を寄せる人や、そのほかあらゆるものがお心を満たしているというのに。きまった屋根といっては棺の蓋しかない、病気になったり死ぬ時の友だちといっては、慈善病院の看護婦しかないわたしのような女が、どんな男にでも望みをかけ、みじめな暮しをしている間じゅう、ぽっかり心の中にあいている空所を、その男でうずめるとなっては、わたしたちにどんな希望がありましょう。わたしたちを憐れんで下さい、お嬢さま――女に残されたたった一つの情(こころ)を持っていることを、そして、神さまの厳かなお裁きで、慰めと誇りに別れ、かえって虐待と苦しみへと向ったわたしたちを、憐れと思って下さいまし」
「わたくしから」とローズはちょっとためらってから云った。「お金を受取って下さいな。お金があれば、悪いことをなさらずに暮らせるでしょう――なにはともあれ、この次おめにかかるまでは」
「いただきませんわ」とナンシーは手を振りながら答えた。
「わたくしがお手助けしようとしているのに、お心をおとじにならないで下さいな」とローズはやさしく歩み寄りながら云った。「ほんとに、わたくし、あんたのお力になりたいと思っているんですから」
「お力になって下さる気なら」とナンシーは両手を砕けるほど握りしめながら答えた。「ここですぐ命をとって下さることがいちばんですわ。だって、今夜ほど自分の身の上を考えて悲しかったことはないんですもの。それに、これまで暮して来たような地獄の中で死ななかったのが、せめてものことですわ。ではさよなら、わたしが自分でうけた恥だけの幸せを、神さまがあなたにお恵みくださいますように」"(『オリバー・ツイスト』下巻、チャールズ・ディケンズ著、中村能三訳、新潮社、1955年、pp.177-179)
 ディケンズの二作目である『オリバー・ツイスト』は、その初期作品の特徴として楽観主義的であり、登場人物は善悪に分かれている。ナンシーはその例外として、オリバーの誘拐に参加しつつ、その救出を手助けし、作品の半ばで死ぬ。ディケンズの作品はヴィクトリア朝にあって社会諷刺に貫かれており、ニューゲート監獄に多くの紙幅を割く『大いなる遺産』は、『荒涼館』『リトル・ドリット』など、後期作品らしく陰鬱で、ジェントリとしての振舞いを重視する価値観そのものを批判する。
 『大いなる遺産』で流刑囚のマグウィッチがピップをジェントリにしようとしたように、『荊の城』ではサクスビー夫人はモードを貴婦人にしようとした(『荊の城』下巻、p.82)。
 おなじヴィクトリア朝を舞台として、『半身』で監獄を、『荊の城』でポルノを主題にした両作は当時の価値観を相対化している。そして、モードは生粋の令嬢ではなく、ポルノの朗読者で、スウもまた公爵の血筋でスリだ。
 "「そうすりゃ、ここに来てあたしになれるってわけかい!」モードは答えない。ああしは言った。「あたしたち、一緒に、あいつを裏切ることだってできたんだ。あんたが言ってくれさえすりゃ。あたしたちで――」
「えっ?」
「なんとかできたのに。あたしがきっとなんとかした。どうにかして……」
 モードは首を横に振り、静かに言った。「あなたはどれだけのものを捨てられたかしら?」
 その視線は闇のように、揺れもせずまっすぐに伸びてきた。突然、あたしは母ちゃんが――そしてジョンもデインティもイッブズ親方も――固唾をのんでこっちを見ていることに気づいた。そしてあたしは、自分の臆病な心を覗きこんで思い知った。あたしにはモードのために何ひとつ、本当に何ひとつ捨てることができなかったのだと。これ以上、モードに恥をかかされるくらいなら死んだほうがましだった。"(『荊の城』下巻、p.336)
 『荊の城』が『オリバー・ツイスト』を引いているとすれば、そこにはディケンズの初期作品では叶えられなかったナンシーとローズの友情にたいする目配せがあるだろう。

 

「ユートピアの臨界点」としての『ハーモニー』

SF

 伊藤計劃著『虐殺器官』に"戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。"(伊藤計劃著『虐殺器官』、p.19)と引用されるジョージ・オーウェル著『1984』には"自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。"という文句が一再ならず登場する。この原則が崩壊することで本書はディストピア小説として完成するが、これより以前にニコライ・チェルヌイシェフスキーの空想的社会主義小説『何をなすべきか』を引きつつ、"二二が四がすばらしいものだということには、ぼくも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないだろうか。"と述べている小説がある。フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。

 この表現には『悪霊』にも"私はそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、私は信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。"(『悪霊』下巻、米川正夫訳、p.309)と反復して(『悪霊』上巻、p.538)登場するが、ユートピア思想は本書でもまた語られる。

"「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにまたあまり謙譲に過ぎるのです。僕は同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶望を服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだと言うのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかも知れませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。(後略)」"(同、下巻、pp.114-115)

"「私は諸君に宣告します、――私に必要なのは直截な返答です。むろん、私もここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、私は、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべり続けるような愚を、二度と再び繰り返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべり続けていたのです)、――私は単刀直入にお訊ねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断りしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? この方は、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』と言ってやかましいことですが、それはまあ、一種の譬喩に過ぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはりなおりっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りがまわって、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんなだめにされてしまって、われわれは結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それは私もぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少し億劫なんでしょう、――いや、しかし私はうまく言いまわすことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行く方か、それとも、全速力でその上をとび越える方か?」"(同、下巻、pp.121-123)

 『1984』との関係では、"「ねえ、スタヴローキン、山をならして平地にする、これはいい思いつきですよ、こっけいじゃありません。僕は、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学ももうたくさんだ! 科学なんかなくったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世はただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、僕らはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない。』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一度くらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、誰も彼も突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦痛はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります。」"(同、下巻、pp.141-142)という補説もみる必要があるだろう。

 『地下室の手記』では以下のとおりだ。

 

"しかし、にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときにがきて、そうなれば古い悪癖のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる。諸君はまた、そのときには人間がわざわざ好きこのんで誤りを犯すようなこともなくなり、自分の正常な利益に反した意志をもつ気になど、なろうたってなれはしない、だいいち、その自由がなくなる、と確信しておられる。そればかりか、諸君に言わせれば、そのときは人間が科学に教えられて(ぼくの考えでは、すこし贅沢すぎる話だが)、人間にはもともと意志も気まぐれもありはしない、いや、これまでにもあったためしがなかった、そもそも人間なんて、せいぜいピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまりの存在なのだと悟るようになる、というわけだ。いや、それ以上に、この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それはけっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。そのときには、人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、まるで対数表か何かのように、その数も十万八千ほどになり、カレンダーなんぞに書きこまれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。そのときこそ――いや、これも諸君の説なのだが――やはり数学的な正確さで計算され、完璧に整備された新しい経済関係がはじまり、およそ問題などというものは、一瞬のうちに消滅してしまう。というのも、いっさいの問題について、ちゃんとその回答が用意されているからである。そのときにこそ、例の水晶宮*が建つわけだ。そのときにこそ……いや、一言でいえば、そのときにこそ鳳凰が舞いおりるわけなのだ。"(『新潮世界文学』10巻 『地下室の手記江川卓訳、pp.170-171)

(*『何をなすべきか』に登場する未来の社会主義社会)

"〈は、は、は! それにしても、その恣欲とやらが、へたをしたら、そもそも存在しないのかもしれないじゃないですか!〉諸君は笑いながらこうさえぎるだろう。〈科学はすでに今日でさえ、人間を立派に解剖してくれていますからね、もう万人周知の事実なんですよ、恣欲とか、いわゆる自由意志とかいうものが、ほかでもない、たんなる……〉いや、待ちたまえ、諸君、ぼく自身、そんなふうに切りだそうと思っていたところなのだ。だから、白状すると、ぎくりとしたくらいだ。たったいま、ぼくは、恣欲なんてわけのわからない代物で、何に左右されるか知れたものじゃないし、そこがまた、おそらく、めっけものなんだろう、と叫びかけたのだが、そこではたと科学のことを思いだして、それで……絶句してしまった。と、そこへさっそく、諸君が半畳を入れたわけなのだ。だって、実際問題として、たとえば、いつの日か、ぼくらの恣欲やら気まぐれやらの方程式がほんとうに発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのようにして拡大していくか、これこれの場合にはどこへ向かって進んでいくか、といったようなことがわかってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、おそらく即座に欲求することをやめてしまうだろう、いや、確実にやめてしまうに相違ない。だいたい、一覧表に従って欲求するだなんて、糞おもしろくもないだろう? それどころか、そうなったら人間は、たちまち人間であることをやめて、オルゴールのピンみたいなものになってしむだろう。なぜって、欲望も意志も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか? 諸君の考えはどうだろう? そういうことがありうるものかどうか、ひとつその可能性をかぞえあげてみようじゃないか? 〈ふむ……〉と諸君は解答を出すだろう。〈ぼくらの恣欲は、ぼらくらの利益に対する見方が誤っているために、あらかたはまちがっているんですよ。ぼくらがときたまとてつもないナンセンスをしたくなるのも、ぼくらのあさはかさから、このナンセンスこそが、あらかじめ予定された何かの利益に到達するいちばんの近道だと思いこむからなんです。だから、もしこうしたことが全部解きあかされて、紙の上で計算されてしまったら(いや、それも大いにありうることですがね。人間がある種の自然法則を認識できないなどと頭からきめこんでしまうのは、みにくい、たわけたことですから)、――そのときには、むろん、いわゆる欲望などというものはなくなってしまうでしょうよ。だって、もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ。だって、たとえば、ぼくが親指をどこかの指の間から突きだして、赤んべえとばかりだれかを侮辱してやったとしても、それはこれこれの理由でそうせざるをえなかったのだ、しかも、ぜひともこれこれこの指を使わざるをえなかったのだ、といったことが計算によって証明されるようなときがくるとしたら、いったいどんな自由がぼくのうちに残されることになります? ましてやぼくが学者で、どこかの大学を卒業でもしていたら。そうなったらぼくは、三十年もの先まで、自分の全人生を計算できることになる。つまり、一言でいえば、もしそんなことになったら、ぼくらはもう何をすることもなくなってしまう、何でもかでも受け入れるしか手はないのですよ。いや、それよりぼくらは、一般的にいって、たえず倦むことなく、自分に言いきかせておくべきですな。これこれの瞬間、またこれこれの状況のもとでは、自然がぼくらの意向をたずねてくれる気づかいはないわけだから、自然のそのあるがままに受け入れるべきで、けっしてぼくらが空想するように受け入れてはいけない。で、もしぼくらがほんとうに例の一覧表やカレンダーをめざして進んでいるということだったら、いや、それと……たとえば例のレトルトさえもめざしているということだったら、仕方がないから。そのレトルトも受け入れなければならない! さもないと、そのレトルトのほうから、きみの意向などかまわず、割りこんでくることになる……〉"(同pp.172-174)

"ぼくが味方するのは……自分の気まぐれ、いや、それから、必要な場合には、この気まぐれがぼくに保証されること。それだけである。苦悩というやつは、たとえば、笑劇などには登場させてもらえない、これは承知している。水晶宮では、これはもう考えられもしないことだ。苦悩とは疑惑であり、否定であるが、水晶宮で暮らしてなおかつ疑惑に悩むくらいなら、これはもう水晶宮でも何でもありはしない。ところで、ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見替えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚噛んでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにしても、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だが、それでも、何もないよりはましというわけだ。"(同pp.180-181)

"「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」「わたしは笑わなかったよ」パシン、とミァハはステップを止めて両手を叩き合せる。バンカーの暗闇の奥に、木霊が逃げていった。「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万という男の子女の子が自殺してる。大人もね。野蛮を、自然を、徹底して自分の内側から排除することはできないんだよ。生府が体現する小さな共同体とか、そういうシステムや関係性を扱う以前に、わたいたちはまずどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めに過ぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」「あなたは思ったのね。この世界に人々がなじめず死んでいくのなら――」「そ、人間であることをやめたほうがいい」タタッ、タタッ、タタッ。再びミァハはステップを軽やかに踏みはじめた。「というより、意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる」タタタタタタッタタッタタッ。「昔、兵隊は靴を身体に合わせるんじゃなくて、身体を靴に合わせろって言われたそうだよ。わたしたちには、それが簡単にできるんだ」「老人たちが認めればね」再び、ミァハのステップが止まった。肩を落としてため息をつくと、「そう。老人たちは『意識の停止』を死と同義に受け取った。それで何千年ってやってきた少数民族が、コーカサスの山のなかにいたっていうのにね。システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ」"(伊藤計劃著『ハーモニー』pp.342-344)

 『1984』と『地下室の手記』のユートピアディストピアの両義性を統一した『ハーモニー』は、まさに"ユートピアの臨界点"をしめしたといえるだろう。

 余談だが、『反抗的人間』で頻々にドストエフスキーの小説の登場人物を〈反抗的人間〉としてあげるアルベール・カミュは、『ペスト』において"二足す二は四"の表現を用いている。

 また、ジョン・マクスウェル・クッツェーも、ユートピアでありディストピアである都市をえがいた『イエスの幼子時代』でこの表現を用いている。

"保健隊に献身的に働いた人々も、事実そうたいして奇特なことをしたわけではなく、つまり彼らはこれこそなすべき唯一のことであるのを知っていたのであって、それを決意しないということのほうが、当時としてはむしろ信じられぬことだったかもしれないのである。こういう隊が作られたことは、市民たちが一層深くペストのなかにはいりこむことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、一部分、彼らに納得させたのである。こうしてペストがある人々の当然なすべき仕事となったため、ペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、眼に映ずるに至った。これはいいことである。しかし、教師が二たす二は四になることを教えたからといって、別にお祝いをいわれはしない。お祝いをいわれることがあれば、それはおそらくそういうりっぱな職業を選んだということであろう。だから、タルーやその他の人々が、どちらかといえばその逆よりも、二たす二は四になることを証明するほうを選んだのは、ほめるべきことであったといっておくとして、しかしまたこの善き意志は、彼らとともに教師および教師と同じ心をもつすべての人々に共通のものであることをいっておきたいのであって、こういう人々は、人類の名誉にかけても、普通考えられている以上に多いのであり、少なくともそれが筆者の確信なのである。もっとも筆者としても、これに対する反駁がありうることは十分意識しており、それはつまり、これらの人々は生命の危険を冒していたということである。しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるというときが、必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。そして問題は、いかなる褒賞あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちがはたしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。"(アルベール・カミュ著『ペスト』宮崎嶺雄訳、pp.156-157)

"「ブント・アレーナスに特殊学校を建てたからさ。フアンとマリアのお話だの、海辺の活動だのに退屈してしまう子たちのための。退屈しているうえに、退屈しているのを隠しもしない子たちの学校だ。担任教師の押しつける足し算引き算の規則に従わない子どもたち。規則ったって、人為的な規則だよ。二足す二は四です、みたいな」「大変っすね。けど、どうして坊やは先生の言うやり方で足し算をしようとしないんだろう?」「先生の言うやり方は正しくないと、内なる声が語りかけているのに、どうしてそんなものに従わなくてはいけない?」「わからないな。その規則がシモンさんやおれや、ほかのみんなにも正しいものなら、どうしてダビードにだけは当てはまらないんですか? それに、どうして人為的な規則なんて呼ぶんです?」「なぜなら、二足す二は、われわれの決め方次第で、イコール三にも五にも十九にもなり得るからだ」「でも、二足す二って四じゃないですか。"イコール"に特別変わった意味でも持たせないかぎり、自分で、指で数えてみたらいいですよ。一、二でしょ、三、四。まじで二足す二、イコール三だったら、なにもかもが滅茶苦茶になりますよ。こことは違う物理法則をもつ、別の宇宙にいるってことになる。現存するこの宇宙では、二足す二、イコール四。これはおれらの意思から独立した普遍的法則で、ぜんぜん人為的とかじゃないです。たとえ、シモンさんとおれが存在しなくなっても、二足す二は四であり続ける」「そうだろうな、しかしどの二とどの二を足すと四になるんだ? ……」"(ジョン・マクスウェル・クッツェー著『イエスの幼子時代』鴻巣友季子訳、pp.327-328)

なぜトァンはミァハを撃ったのか ‐ 『ハーモニー』試論 ‐

SF 文学 百合

 『ハーモニー』で全人類のハーモニクスが達成される直前に、なぜトァンはミァハを殺害したのだろうか。ハーモニクスを間近にひかえた状況で行動の意味は乏しく、また、ハーモニクスが達成されれば個人そのものが無化される。本稿では、『ハーモニー』全体を概観するとともに、その疑問に回答したい。
 まず、作中で言明されている動機を確認する。

"「ヴァシロフは――残念だった。トァンのお父さんも」不思議と、ミァハにそう言われても頭に血が上りはしなかった。零下堂キアンの思い出と共に、ねっとりとした怒りが臓腑の奥に淀んでいるのは実感できるけれど。"(伊藤計劃著『ハーモニー』早川書房、2010年、p.330)

"ねえ、御冷ミァハさん、あのお昼、零下堂キアンがカプレーゼに頭を突っこんでから、このチェチェンのバンカーに苦労してやってくるまで、何度わたしがあなたのことを殺そうと思ったか考えたことはなかったの。"(同p.349)

 トァンがキアンとヌァザの二人分として、二発の銃弾を使った(同p.351)ことから、この独白が本心であることがわかる。
 ここで気になるのはミァハがトァンの殺意にたいし、とくに抵抗をみせないことだ。ミァハはトァンに依頼してコーカサスの風景がみえる場所に移動し、死を迎える。それはトァンが迎えるハーモニクスとほぼ同時で、また、明確な区別はされていない。

"身体が、脳が熱を失い、意識が、わたしはわたしであるという意識が、死という、昔ながらの単純で複雑な仕組みによって消え去ってゆく。たとえそれが大脳辺縁系のエミュレーションだったとしても、中脳が生み出すわれわれの意識とそれのあいだに、大した違いはない。"(『ハーモニー』p.352)

 ならば、ミァハが肉体的な死を拒まなかったのは、それがハーモニクスという意識の死と同質だからでないだろうか。
 では、ミァハが全人類のハーモニクスを試みたのはなぜだったのか。

"「幸福を目指すか、真理を目指すか。人類は〈大災禍〉のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないな動物であることの否定を選んだ。自然を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが生きるこの世界のすべてを人工に置換すれば、それが得られる。人類はもう、戻ることのできない一線を越えてしまっていたんだよ」(中略)それを憎んでいたのは、誰よりも否定していたのは、御冷ミァハ、あなたじゃなかったの。"(『ハーモニー』pp.337-338)

 この技術による社会とはどのようなものか。

"「権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」「誰かの言葉、それ」「ミシェル・フーコー」(中略)死っていうのはその権力の限界で、そこから逃れることができる瞬間――。「ここから出て行くには、やっぱり、それしかないのかな」わたしはそうつぶやいてみた。ミァハはじっと目の前の風景を見つめるというよりはそれと対峙しながら、「わたしは前、こことは別の権力に従わされてた。地獄だった」ミァハは振り返らずに背中で語り、「だから逃げてきた、ここに。でも、ここも充分狂っていた。向こう側と同じくらいには、人間が生きるための場所じゃなかった」「向こうって、どんな場所だったの」「こことは真逆な場所。向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」"(同pp.291-292)

 この引用は『知への意志』からだ。

"死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。一つの世界からもう一つの世界へと移ることで、死とは、地上的主権にもう一つの、奇妙にもより強大な主権が取ってかわることだった。死を取りまく豪奢は、政治的典礼に属していた。今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」点である。自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『知への意志』新潮社、1986年、pp.175-176)

"「生府。正確に言うところの医療合意体(メディカル・コンセンサス)。提供される医療システムについて一定の合意に至った人々の集まり。調和者(ハーモニクス)たち。そりゃ、生府にも評議員はいるけど、昔の政府の議員とはぜんぜん違う。評議員連中やコミッショナーあたりに、王様や政府ほどの権力は集中してない。なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなってしまったから。生府を攻撃しよう、って言ったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」"(『ハーモニー』p.46)

"権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配圏において実体化されるような戦略である。権力が可能になる条件、というか少なくとも権力の行使をその最も「周縁的な」作用に至るまで理解し得るものとする視座であり、それはまた、〈社会的な場〉を理解可能にする読解格子として権力のメカニズムを用いることを許す視座だが、このような条件あるいは視座は、最初に存在するものとしての中心点に、つまり派生して下へと降りる諸形態がそこから拡がるはずの主権の唯一の中枢に求められるべきではない。それは、己が不平等によって絶えず権力の状態を、但し常に局地的で不安定なものとして誘導する力関係というものの、揺れ動く台座なのである。権力の偏在だが、しかしそれは権力が己が無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。"(『知への意志』pp.119-120)

 本作にたいするフーコーの関係は、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングらにたいするドゥルーズ=ガタリの関係に類比される。

"テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さをスターリングは教えてくれました。「ネットの中の島々」にはとりわけインパクトを受けたと思います。「スキズ~」でも「巣」でもなく。いわゆるレッテルとしてのサイバーパンク的な「頽廃した近未来」でなく、我々の社会と極端に異なる遠未来でもなく、今のわれわれとあまり変わらない「ちょっとだけ未来」を描いていて、それがすごく新鮮でした。"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

"「トゥアレグ、というのがアラブ語でどんな意味か、知っているかね」「あいにく」「『神に見捨てられし民』だよ、お嬢さん。余所者が勝手につけた名前だ」"(『ハーモニー』p.38)

"「(前略)マリやニジェールアルジェリアの独裁者とも闘った。どれも同じ、帝国主義という名のハードウェアだよ。あなた方のいう〈生命主義〉とて、それらのソフトが入れ替わったに過ぎない代物だ」"(同p.40)

"「トゥアレグ族は知っているかい? サハラの部族だ。知らない?」(中略)「まあ、いい。彼らは自分たちを"ケル・タマシェク"と呼んでいる。"トゥアレグ"というのはアラブ人の呼び名だ――"神に見捨てられたもの"という意味だ」"(ブルース・スターリング著、小川隆訳『ネットの中の島々』下巻、早川書房、1990年、p.248)

"「(前略)ウィーン、マリ、アザニア――みんな帝国主義のハードウェアだ、ブランドネームのちがいにすぎない」"(同p.341)

 さて、では、十三年前に自殺を試みた動機はなにか。

"だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。命が大事にされすぎているから。互いに互いにを思いやりすぎているから。とはいえ、ただ死ぬだけでは駄目だ、なにがしかの方法で健康そのものを嘲笑うようなやり方じゃなくちゃ。あの頃のわたしたちはそんな考えにとりつかれていた。"(『ハーモニー』p.45)

 社会と個人のあいだの齟齬の片面的な解消で、ミァハのことばでいえば幸福の否定であり(p.337)、十三年後に全人類のハーモニクスという完全なものになる。それは幸福と真理の一致ともいえる。

"老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。"(同p.362)

 すなわち、全人類のハーモニクスは十三年前の自殺の完成された形でもある。十三年前の自殺は社会にたいするテロリズムであると同時に、自己本位な目的の自殺でもある。

"わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。"(同p.336)

 『ハーモニー』は人類の意識が消滅したあとの世界に書かれたテクストという体裁だ。

"これが人類の意識最後の日。これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。"(『ハーモニー』p.359)

 同様の形式では、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』が先行する。

"この物語を横切っていった人々の人生、外見、性格に関して、われわれは多くの事柄を知っている。とはいえこの本は、証明可能な唯一の真実を映したものというより、一個のフィクション、部分的な思い出にもとづく信用に足る再構成とみなされるべきである。ミシェル・ジェルジンスキが二〇〇〇年から二〇〇九年のあいだ、その偉大な理論を構築するかたわら綴った回想や個人的印象、そして理論的考察の錯綜する複合体である『クリフデン・ノート』の刊行によって、彼の人生上の出来事、特異な人生観を形成するに至った分岐点や試練、ドラマについてはより多くが判明したとはいえ、なお彼の人生に関しても人柄に関しても多くの謎が残されている。逆に以下の記述は歴史に属するものであり、またジェルジンスキの業績が刊行されて以降の出来事についてはこれまで幾度も記述され、論評され、分析されてきたのであるから、簡単なレジュメで十分であろう。"(ミシェル・ウェルベック著、野崎歓訳『素粒子』筑摩書房、2006年、p.339)

"この段階に到達して、人間に動物である部分が残されていた時代に書かれた社会学も経済学も、一夜で破産を迎えた。社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。"(『ハーモニー』p.361)

"意識が人間の機能として重要視されていた時代も、もう遠く昔に過ぎ去った。今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意志」が選択において重要な役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。システムに完全に従属した現在の人類にとって、旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが、それを知っておくことも無駄ではない。かつて、御冷ミァハと霧慧トァンという女性がいた。彼女たちこそ、我々の「わたし」の最後の弔い手。"(同pp.362-363)

"それはまた、大衆の精神にとって、哲学的問題が明確な指標としての意義をどれほど失っていたかということでもある。数十年に及びとんでもなく過大評価されてきたフーコーラカンデリダドゥルーズの仕事が、突如笑止千万とみなされ省みられなくなって以後、かわりとなる新たな哲学的思考が出現するどころか、「人文科学」を標榜する知識人全体が不信に晒されたのだった。"(『素粒子』pp.345-346)

"歴史は存在する。それは厳として動かしがたく、その支配を免れることはできない。しかし厳密に歴史学的なレベルを超えて、本書の究極の野心は、われわれを造り出した幸薄い、しかし勇気ある種族に敬意を表することである。痛ましくも下劣な、猿とほとんど差のない存在でありながら、この種族は心の内に数々の高貴な願いを抱いてもいた。責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。そしてまたこの種族は世界史上初めて、自らを超克する可能性を検討することができたのだし、数年間を経てそれを実行に移すことができたのだ。彼らの最後の生き残りが消えていこうとする今、われわれは人類に最後のオマージュを捧げてしかるべきだろうと考える。そのオマージュもまたいつしか忘れられ、時間の砂漠のうちに失われるだろう。しかし少なくとも一度はしっかりと敬意を表しておく必要がある。本書は人間に捧げられる。"(同p.348)

 ハーモニクスに達した人類が旧人類とはまったく異なる存在ならば、『素粒子』において人類があたらしい生命に希望を託してみずから絶滅したのと同様に、全人類のハーモニクスは人類の集団自殺だったということができる。本書は自殺のモチーフが散在する。十三年前の集団自殺が物語の端緒であり、トァンが捜査する事件は世界における自殺の同時多発であり、全人類のハーモニクスを正当化するのは世界で毎年数万件おきているという自殺だ。(『ハーモニー』p.343)さらに、ミァハは『若きウェルテルの悩み』に言及する。(同p.223)

 エミール・デュルケムは『自殺論』で自殺の社会的要因に社会的規制のゆるみであるアノミーを挙げる。

"だから、そうならないためには、なによりもまずこれらの情念(パッシオン)に限界が画されなければならない。その場合にはじめて情念は能力と調和することができるであろうし、したがって充足されることのできるものは個人のなかには存在しないから、個人の外部にあるなんらかの力が必然的にここに介入してこなければならない。肉体の欲求にたいして有機体の演ずる役割と同じような役割を、精神的欲求にたいしても演ずる、一つの規制力が必要となるのである。それは、この力がもっぱら精神的なものでなければならないという意味である。まどろみつづけていた動物の均衡状態を打ち破ったのは、ほかならなぬ意識の覚醒であり、したがって、この意識のみが、均衡を回復させるすべを与えることができる。物質的強制は、ここでは効果がうすい。物理・化学的な力によっては、人々の心を変えることはできない。欲望が生理的メカニズムによって自動的に規制されない場合には、その欲望は、みずから正当とみとめる限界を前にしてしかふみとどまることができない。人々は、決められた限界をふみこえるだけの正当な理由があると信じているときには、その欲望が制限されることに承服しないだろう。ただ、この正義の法(人々が正当とみとめた限界)も、前述のような理由から、彼らみずからが自分自身に課すというわけにはいくまい。だから、人々は、尊敬し、自発的に服従しているある権威から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、あるときは直接的、全体的に、またあるときにはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。なぜなら、社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性をみとめているからである。社会は、法律を布告し情熱(パッシオン)をこえてはならない限界をしめすうえで、必要にして唯一の権威である。"(『世界の名著47』収録 エミール・デュルケーム著、宮島喬訳『自殺論』中央公論新社、1968年、pp.205-206)

 豊かさはアノミー的自殺のひとつの原因だ。

"なにを行なう場合にも、欲望は、つねに多少は手段について考慮をめぐらさなければならないが、その手段とは、人がなにかを手に入れようと決めるとき、ある程度手がかりとして依拠したものである。したがって、けっきょく所有しているものが貧しければ貧しいほど、それだけ人は、自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。無力さは、人々に節度を守るようにさせ、また節度を守ることに慣れさせるし、そのうえ、中庸が支配的なところでは羨望をそそるものとてない。ところが反対に、豊かさは、それが与える力から、自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる。それは、物(ショーズ)がわれわれに及ぼしていた手ごたえを減じさせるので、そのため、われわれは、物をいくらでも手に入れることができると思いこんでしまう。ところで、人は、自分に限界が課せられていないと感じると、あらゆる制限をますます耐えがたいと思うようになるものである。(中略)もちろん、このことは、人がその物質的条件を改善していくことに異をとなえる理由にはならない。しかし、あらゆる豊かさの増大から生じる道徳的な危険は、たとえそれを救うすべがあるとしても、見のがされてよいものではない。"(同pp.212-213)

 自殺こそ、上述のフーコーが『知への意志』で権力にたいする生と死の転換で論点にしたことであり、その論法は伊藤計劃がミァハを擬したタイラー・ダーデンの語ったことだ。

"自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(『知への意志』p.176)

"テーマは百合です。女版タイラー・ダーデンといちゃいちゃする主人公が見物です。"(

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20081214

)"

"素晴らしい体力と知力に恵まれた君たち、伸びるべき可能性が潰されている。職場と言えば、ガソスタかレストラン、しがないサラリーマン。宣伝文句に煽られて、要りもしない車や服を買わされている。歴史のはざまで生きる目標が何もない。世界大戦もなく、大恐慌もない。俺たちの戦いは魂の戦い。毎日の生活が大恐慌だ。TVは言う「君は明日の億万長者かスーパースター」、大嘘だ。その現実を知って俺たちはムカついている。"(デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』1999年)

"知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースを混ぜると、ナパーム弾が作れる。家庭にあるもので、どんな種類の爆弾だって作れるんだぜ"(『ファイト・クラブ』)

"「メディケアの、タンク半分のメディモルさえあれば、大体のことができる。毒ガスを風呂場で造るなんてお茶の子さいさい、だよ」"(『ハーモニー』pp.15-16)

"わたしはといえば、戦場という名の喫煙所から喫煙所へ。空港から空港へ。葉巻から葉巻へ。酒瓶から酒瓶へ。"(同p.96)

 ミァハを失ったあとのトァンは『ファイト・クラブ』の自己破壊のように拒食や過食を試している。

 全人類のハーモニクスが十三年前の自殺の再試行ならば、なぜミァハとトァンはそこに全人類を巻きこんだのだろうか。

"「わたしたちは、未来に生きてるんだよ」ミァハはその一見ポジティヴに聴こえる言葉とは裏腹に、憂鬱そうな口調でため息をつき、「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」"(『ハーモニー』p.33)

 ここで思いだすのが、バラードの『結晶世界』だ。本作は結晶化していく世界で、登場人物の争いののちに、主人公がみずから結晶化に身投げすることで終幕する。いわば自殺だ。

"バントレスはこのことばを無視した。「われわれはみんな前にここに来たことがあるのさ、ドクター。誰もが間もなく気がつくようにね――もし"時間"がありさえすればだが」彼はその"時間"ということばを、鳴り響く鐘の音のように引っぱって、特有の奇妙な抑揚をつけて発音した。彼はそのことばの最後の反響が、消えゆく鎮魂曲のように、無数の水晶の壁の中にこだまして薄れてゆくのに聞き入った。「しかし、それはわれわれみんなそこから逃げ出して行っている何かだって気がするのさ、ドクター。――そうは思わないかね?」(中略)「時間から逃げ出して行ってるって?」彼はおうむ返しに尋いた。「そんなこと、まだ考えたことがなかったね。君の解釈はどういうんだい?」「それははっきりしてるんじゃないか、ドクター? 君自身の"専門"、われわれがここで周りに見ている太陽の暗い側、それが手がかりを与えているんじゃないか? 間違いなく癩病は、ガンのように、何よりまず時間の病気であり、その時間という特別な媒介を通して自分自身を拡大しすぎたことの結果じゃないのか?」サンダース博士はバントレスのことばにうなずきながら、相手が少なくとも顔付きでは軽蔑しているように見えるその時間という要素について論ずる時、その骸骨のような顔が生き生きしてくるのを眺めた。「それは一説ではあるね」彼はバントレスが話を終えた時に同意した。「あまり――」「あまり科学的じゃないが、かね?」バントレスは頭を後ろに引いた。前より大きな声を出して彼は弁じ立てた。「ウイルスを見てみ給え、ドクター。生きてもおらず、生命がないのでもない、その結晶状の構造を。それからその時間に対する免疫を!」彼は片手で窓じきいをひとなでして、ガラスのような粒子を一塊すくい上げ、それからそれを粉々になった大理石のように床の上にぶちまけた。「君もぼくも間もなくこんなようになるのさ、サンダース。そして世界の残りも全部だ。生きてもおらず、死んでもいないような状態にね!」"(『世界SF全集26』収録 J・G・バラード著、峯岸久訳『結晶世界』早川書房、1969年、pp.349-350)

"階下のバーテン――嬉しいことに少なくとも彼はまだ自分の持ち場を離れないでいます(他の者はほとんどすべて行ってしまいました)――のいうところによれば、森はいまや毎日四百ヤードほどの速さで前進しているそうです。やってきてルイーズと話したジャーナリストの一人は、この前進速度でゆくと、次の十年の終わりには、少なくとも地球の表面の三分の一が影響を受け、何十という世界の首都が、すでにマイアミがそうなっているように、虹のような結晶の層の下で石化してしまうだろうと主張しています――もちろん、あなたはあの放棄された保養地が、無数の大寺院の尖塔の立ち並ぶ都市(まち)、ヨハネ書から実体化した状況となっている報道記事をご覧になったことと思います。しかし、実をいえば、こうした先の見通しは、ほとんどわたしの心を悩ましてはいません。前にもいったように、ポール、この原因が物理学以上のものだということが、いまはわたしにははっきりしています。わたしが、かつてバントレスであった救いようもない幻を見てから二日後に、金の十字架を両手にしっかり持って森からよろめき出てきて、モン・ロワイアルから五マイルの軍隊の哨兵線に引っかかった時、わたしはもう二度と森へは行かないと固く決心していました。(中略)しかし、その時の気持ちがどうであったにせよ、いまはわたしは、自分がいつかモン・ロワイアルの森に帰って行くだろうことを知っています。毎晩、エコー衛星の砕けた円盤が頭上を通過し、銀のシャンデリアのように真夜中の空を照らし出しています。そしてポール、わたしは太陽自体が晶化し始めているのを確信しています。日没に、その円盤が深紅色の塵でベールをかけられる時、それは独特の格子模様、巨大な落とし格子で区切られているように思われます。そうした格子模様はいつか外方に拡がって、惑星や恒星に達し、それぞれの軌道上でそれを止めるでしょう。十字架をわたしにくれたあの勇敢な異端の神父の例が示しているように、あの凍った森には無限の報酬が見いだされます。そこでは、あらゆる生き物や生命のない物の変貌が目の前に起こりますし、われわれ自身の肉体的結果として、不死の贈り物が授けられます。この世界でわれわれがどんなに異端であろうとも、そこではわれわれは必然的に虹のような太陽の使徒になるのです。ですから、身体の回復が完全なものになったら、わたしはここを通過する科学探検隊の一つに合流して、モン・ロワイアルへ帰ります。何とかその隊から抜け出すよう工夫するのは、そうむずかしくないはずですから、そうしたらわたしは魔法をかけられた世界の寂しい教会に戻ります。その世界では、昼は夢幻的な鳥が石化した森の中を飛び、宝石化したワニが結晶性の川の土手に紋章上の火とかげのようにきらめき、そして夜は金の車輪のような腕をし、スペクトルの王冠のような頭をした彩飾された人間が、木々の間を走っているのです。"(同pp.424-426)

"いや~、「ホーリー・ファイヤー」とか読むと、スターリングってやっぱどこまでもオプティミストなんだな~って。もう元気いっぱい。イーガンもぼくはある種のオプティミストだと思いますし。わたしの場合は、バラードの心でスターリングのように書きたい、と(笑)"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

 全人類のハーモニクスは『結晶世界』における結晶化のような、自殺を安楽にする美しい幻想ではないだろうか。

 また、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で、人生の苦難の解決手段としての自殺を部分的に認め、しかし、それは世界そのものが存続する以上、部分的な解決にしかなっていないとして意志の否定を訴えている。これは、トァンがはじめに自殺を試み、それに失敗し、意識の消滅を選択したことを思わせる。さらに、ショーペンハウアーは同書で技術の進歩による福祉国家の完成と、それが人類の苦悩の解決になることはないという終末論を述べており、『ハーモニー』の世界観と一致する。

"人生というものは岩礁と渦巻にみちみちている海にほかなるまい。人間はこれらを避けようとしてこのうえなく慎重に気をくばっている。が、それでいて彼は知っているのだ。たとえ彼が努力と手だての限りをつくし岩礁や渦巻をくぐり抜けることに成功したとしても、まさにそのことによって、彼はひと船足ごとに、最大の、全面的難破――避けることもできずに救いようもない難破に近づきつつあるのだということを。いな、彼はもともとこのような難破をめざして――すなわち死をめざして舵を取っていたのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのであり、死こそ人間がこれまで避けてきたあらゆる岩礁よりもはるかにひどいものなのである。さて、しかし、ここでただちに注目すべきことは、人生の苦悩と苦患とがふえていくことはこれほどたやすいことであり得るし、全人生はいわば死からの逃亡において成り立っているといってもよいほどなのに、そのような死でさえ、一面では望ましいように思う人、自ら進んで死に急ぐ人が出てくるということである。ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、今度はたちまち退屈がまぢかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。"(アルトゥル・ショーペンハウアー著、西尾幹二訳『意志と表象としての世界』(『世界の名著 続10』中央公論新社、1980年)p.561)

"国家がその目的に完全に達したならば、国家は人間の諸力をそのなかに統合することで、人間以外の自然を自分にますます役立てることができるわけだから、最終的には、あらゆる種類の悪禍がとり除かれて、やがてある程度まで「怠惰安逸の歓楽境」に近いような状態が出現することにならないともかぎらない。しかし、現実の国家はまだいぜんとして、この目標からはるかにへだたった所にあるということがひとつ言えるし、さらにもうひとつ、かりに目標に達したとして、人生にとってまったく本質的な悪禍というものはあいかわらず無数に生じてこようし、よしそれらをことごとく除去したとしても、悪禍の立ち去った跡は、たちまち退屈によって占められ、今までと同じように人生を苦しいものにするであろう。さらにもうひとつ、個人同士の争いというような小事でさえ、国家はこれをすっかり解消する力をもっていない。国家は大事であれば罰則をもって禁圧するが、小事はいい加減にあしらってしまうからである。そして最後に、国内から不和の女神エリスを運よく放逐すると、これは結局国外に向かっていくことになる。すなわち不和の女神が個人間の争いとして国家組織の手で追放されると、それは今度は諸国民同士の戦争として、いま一度外からやってくるのであって、個人間の争いのときにはいちいち賢明な予防手段を講じて流血の犠牲だけは免れてきたというのに、戦争になると、今度は累積した負債として、大規模なかたちで、一挙に、流血の犠牲が要求される。いやそれだけにとどまらない。以上のことがことごとく、幾千年もの経験に培われた人間の賢さによって、よしんば最終的に克服され、除去されたとしてみよう。そうなったあかつきには、今度はこの地球全体がしまいには現実に人口過剰に陥る結果になるであろう。その結果の怖るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持主にしか思い浮かべることはできない。"(同p.617)

"それにしても自殺はまたマーヤーの傑作だともいえる。それは生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着する号泣の表現なのだ。われわれはこの矛盾撞着を意志の低次元の諸現象において、自然の諸力のあらゆる発動の間の不断の闘争のうちに、物質と時間と空間とを有機的なあらゆる個体が奪い合う不断の闘争のうちにすでに認めておいた。この闘争は意志の客観化の段階が少しずつ高まっていくにつれて、しだいに恐ろしいほど明瞭にきわ立ってくる闘争であったが、とどのつまり意志の客観化の最高の段階――人間のイデア――に到達すると、この闘争はただ単に同一イデアを表わす個体同士が相互に滅ぼし合うということだけではなしに、同じ個体が自分自身に対して宣戦を布告するということさえもする、そういう程度にまでも達するものなのである。個体が生を意欲するときの激しさ、個体が生を阻むものに歯向かう、つまり苦悩に歯向かうときの激しさが、逆に個体をして自分自身を破壊するにいたらしめる激しさにつながっているのである。その結果、この個体的な意志は、苦悩に打ち挫かれてしまうくらいなら、自分の身体――これは意志自身が可視的になったものにすぎない――を個体自身の意志的な行為によってなきものにしてしまう方をむしろ選ぶ。自殺者は意欲することを中止するわけにはいかないという、まさにその理由のために、生きることを中止する。このとき意志は、意志の現象をまさに廃棄することを通じて、かえって自分自身を肯定していることになるのであり、意志はもはやそういう仕方以外においては自分を肯定することができなくなっているからなのである。"(同p.691)

"こうして「個体化の原理」がますます明らかに看做されていくにつれて、われわれはそこからまず第一に自由なる正義を、第二にエゴイズムの完全な廃棄にいたるまでの愛を、そして最後に諦念もしくは意志の否定を発生させるにいたったのであった。キリスト教教義論の諸教義は、そのものとしては哲学とは無関係なのであるが、わざわざわたしがこれらの諸教義をここに引合いに出しておいたのは、ただ次のようなことをここに示しておきたかったがためにほかならない。本書の考察全体から生まれてきた倫理、本書の考察のあらゆる部分とぴったり符合し連関するこの倫理は、表現のうえからは目新しく、前例のないものかもしれないが、本質的にみればけっしてそんなことはなく、キリスト教本来の教義と完全なまでに一致し、しかも要点は、キリスト教本来の教義そもののの中にすでに含まれ、存在していたといえるのである。本書の考察全体から生まれてきたこの倫理は、じつにまた、インドの聖典というまったく別の形式で述べられたもろもろの考えや道徳訓とも厳密に一致しているのである。以上のことと合わせて、キリスト教教会の諸教義に読者の注意をうながしたことは、次のような見掛けのうえでの矛盾――すなわち一方においては動機が突きつけられると性格のいかなる現われも必然的であること、他方において、意志が自分自身を否定し、性格と、性格にもとづく動機の必然性とをともに廃棄してしまう意志自体の自由、この二つの間の見掛けのうえでの矛盾を、説明し、解明することに役立ったのであった。"(同p.705)

 ここで、はじめの問いにこたえよう。ミァハは十三年前の自殺で、現世への未練になる書物を焼滅させている。

"燃やすの、全部。その言葉が本当ならば、ここにあるのはミァハがお小遣いのほとんどを注ぎ込んで製本してもらった、ミァハの持っている小説全部のはず。そのときのわたしはミァハの家に行ったことがなかったから、本当にそこにあるのがミァハの持っていた本のすべてかどうかはわからない。でも、ミァハが嘘をついているようにもまた、見えなかった。ミァハが言う。「多分これを持っていたら、行けないと思うから」わたしは訊いた。「行けないって……」ミァハは片手で周辺を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。「ここの、向こう側に。皆が天国とか地獄とかあの世とか言ってる世界に。無に。逝けないかもしれない、この子たちがわたしを地上に縛りつけて。もう少し経つまでほっといたら、からだ、弱っちゃって、本をここに運ぶことだってできなかったと思う」"(『ハーモニー』pp.332-333)

 『ハーモニー』がトァンの主観における物語で、全人類のハーモニクスを自分の意思で実行したならば、なぜトァンがミァハを殺害したかわかるだろう。トァンはハーモニクスという完全なかたちの自殺を迎えるまえに、この世界の未練であるミァハを消したかったのだ。それは火葬だ。

"火葬、っていうの。そのときは、棺のなかに死んだ人が好きだったものを入れたんだ。死体の処理が蛋白分解液になってから、そういう習慣はなくなってしまったんだけどね。これはミァハの火葬なの、とわたしは訊いた。うん、とミァハは答える。わたしの棺に、本は入れられないからね。わたしに力をくれたものは、わたしが連れて行く。"(『ハーモニー』p.336)

 

劇場版『ハーモニー』レビュー

映画 SF 百合

(本稿は劇場版『ハーモニー』を鑑賞した筆者が、映画としては最悪、百合としては最高という二心に分裂した苦悩を反映してふたりの女子高生が対話する形式で書かれています。何卒ご了承ください)

 ふたりの女子高生が映画館で集合した。劇場版『ハーモニー』をみるためだ。ひとりはクローム色の革製のジャケットに、ぴったりとしたジーンズを履いている。肩口で切った髪は自分で染髪しており、手入れを怠り、一部が枝毛になっていた。もうひとりはブラウスに緑の薄手のカーディガンを羽織り、細身のスカートを履いている。黒髪をまっすぐに伸ばしていた。
 革ジャンの少女、未来はSFファンで、もうひとりの小百合は百合マンガの愛好家だった。ふたりは女児向けゲーム『プリパラ』、そしてそのアニメにSFと百合の両面があることから意気投合し、親友となっていた。SFとして多数の賞を受賞し、百合としても名高い『ハーモニー』の劇場版をふたりは楽しみにしていた。
「劇場版『ハーモニー』楽しみだね、未来ちゃん」
「うん。監督が『鉄コン筋クリート』のマイケル・アリアスだもん。きっとすばらしい映画だよ」
 場内に入ると、すでに大半の観客が入場していた。ただ奇妙なことに、観客のほぼ全員が大学生とおぼしき十代から二十代の若者で、高田馬場の居酒屋のような雰囲気を呈していた。
「おれ『ハーモニー』もってきたよ」
 ひとりの若者がふたりの友人に白色の文庫版『ハーモニー』を示す。ふたりはほほえみ、同様に文庫版『ハーモニー』を取りだした。
 三人は片手に文庫版『ハーモニー』をもち、両腕を交差させて円陣を組んだ。声を合わせる。
「『いこう、ハーモニーの世界へ』!」
 未来と小百合はそれを嫌悪の眼差しでながめた。
「厄介なオタクだ。ああいうオタクが映画をみたあとにツイッターで悪口とかをいうんだよ」
「やだね」
 未来が小百合にほほえんだ。
「わたしたちはああいうオタクとはちがうからね。劇場版『ハーモニー』を心から楽しもうね!」

 上映終了後、未来は死んでいた。
 一方、小百合は晴れやかだった。場外に出る足取りも軽い。
「ねえ、いっせーのせ、で感想をいおう? せーの」
「最悪だった!」
「最高だった!」
 ふたりは愕然とたがいを見つめた。ふたりは喫茶店にはいった。未来がとつとつとはなしだした。
小野俊太郎の『フランケンシュタインの精神史』によると、『屍者の帝国』は人造人間であるフランケンシュタインの怪物が、メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を発想する源をつくったエラズマス・ダーウィンの孫であるチャールズ・ダーウィンとなる転倒がおこることで、作者の手によるテクストが主体となってあたらしいテクストを生みだすことを象徴しているらしい。遺稿を継いだ『屍者の帝国』自身がそれを現前している。だから、円城塔が原作から大幅に改作された劇場版『屍者の帝国』に、『あなたがそこにいてくれてよかった。』というコメントを寄せたのもそういう意味だったんだと思う。…ってそれで納得できるか!」
 未来はキレた。
「1800円払って十代の腐女子の好きそうなBLみせられてたまるか! 『ゆるゆり なちゅやちゅみ』をみたほうがマシだ!」
「『ゆるゆり なちゅやちゅみ』を悪くいわないで」
「さっきみた『ハイスピード』の劇場予告もみて思ったけど、十代の腐女子の好きそうなBLはどうして登場人物がみんな情緒不安定なの? 『THX-1138』の抑制剤を飲んだほうがいいんじゃない?」
「BLは知らないけど、劇場版『ハーモニー』は百合に焦点を当てていてよかったよ。百合の要素は完全に捨象されることも覚悟していたからね」
「『マルホランド・ドライブ』みたいにちゅっちゅ、ちゅっちゅしやがって。暴力表現もだめなデヴィッド・リンチみたいだし」
「『マルホランド・ドライブ』より『ドライヴ』かもね」
「彩色がニコラス・レフンみたいにけばけばしいんだよ。『ハーモニー』は近未来だ。それなら『ガタカ』や『her』みたいな彩度を落としたやや幻想的な、現実に近い風景を予想しないか? アンドリュー・ニコルが『ガタカ』で予算の都合で未来的な車のデザインができなかったときにどうしたか知ってる? スチュードベーカー・アヴァンティを使ったの。未来的なデザインが用意できないときは、すこしクラシックなデザインを使ったほうがいいってね。劇場版『ハーモニー』の車はなんだ? まるでバトルドームだ」
「網の覆いがあるやつ?」
「町並みも最悪だ。なんでだれもビルについたピンクのガムをそうじしないんだ? 『色彩の薄い立方体が群れて集まる住宅地』がなんでああなる? どうして『マイノリティ・リポート』みたいにできなかったんだ。でも犯罪予防局が予知システムを開発していたら、劇場版『ハーモニー』は公開されなかっただろうね」
「どうして?」
「怒り狂ったファンがスタッフを殺すからだよ!」
「ヒュー!」
「キアンとトァンの会食するビルなんて、まるっきり『鉄コン筋クリート』の塔そのままじゃないか! STUDIO4℃の社員は同じものしか描けないの!? わたしのママだって、『今日は遅くなります』と『夕飯は冷蔵庫のものをチンしてください』のふたつくらい書けるよ!」
「早急に家庭内の話合いをもったほうがいいと思う」
「拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)も最悪。いまは2015年だよ。どうしてあんなに洗練されていないの? まるでピンクのスカウターだよ。戦闘力の代わりに社会評価点(ソーシャル・アセスメント)が表示されるけどね。空港のモニターに『健康』『社会』って表示されるのはなに⁉︎ わたしがみたのは『ニンジャスレイヤー』なの⁉︎」

「わたしは『ユージュアル・サスペクツ』の小林弁護士事務所の『力』『成功』『財産』って印字された磨りガラスを思いだしたよ」

「衣装もひどい。なんでスーツにピンクの襟カラーがつけられているの? それが未来のオシャレなの? おまけにキアンは縄文土器みたいなかっこうをしているし。これなら『スタートレック』の低予算全身タイツのほうがマシだよ。螺旋監察官の制服なんて対魔忍と区別つかないんだけど! なんで七十二歳のシュタウフェンベルクまで太ももを露出しているの⁉︎」

榊原良子声の三十代にしかみえない七十二歳の独身ハイレグおばさんなんて最高じゃない」

「もっとも、美術についてはオープニングでいきなりそそり立つWiiリモコンが出てきたときに覚悟していたけどね」
「わたしはiPodかと思った」
Wiiリモコンはいいさ。イントロを文章で示すなら、なんでそこでカットを割るんだ!? だれが考えてもあそこはカットを割っちゃいけないところだろ! それどころか全編に渡って、ずっとカメラがパン、ティルトしつづけているぞ! 安っぽくてまるでマイケル・ベイか大手配給の韓国映画みたいだ! 『ハーモニー』の内容を考えれば静的なカメラワークが当然だろ!?」
「『ハーモニー』はロケーションが世界各国におよぶスパイ活劇の側面もあるから、カメラワークが扇情的なことは否定できないと思うよ。バグダッドの旧市街とバンカーのシークエンスはよかったじゃない」
「ききたいんだけど、ディアン・ケヒトはなんで床までガラス張りなの? わたしがオヤジだったら一日中その下でスカートの女性が通りがかるのを待ってるよ。小泉花陽もいるしね。それに、ヴァシロフと撃ちあいをするときの『灰とダイアモンド』のオマージュはダサすぎだろ。冒頭とふたつだけのアクションシーンなのに、どうしてここだけカメラワークを利かせてないの! 逆だよ! 編集も雑だから展開がつぎはぎにしかみえない! それに劇伴が野暮ったすぎる!」
「トァレグ族が出てきたときに民族調の音楽が流れてきたのは笑えた」
 未来はため息を漏らした。
「どうせレズキスオチなら、『桜Trick』のオープニングを120分ループ再生していたほうがマシだった」
「物語が『ハーモニー』なんだからいいじゃない」
「ぜんぜん『ハーモニー』じゃねーよ! 伊藤計劃は『バラードの心でスターリングのように書きたい』っていったんだ! どこがバラードだ! 自動車でレイプするぞ!(※轢殺するの意味)だいたいミァハの父親がヌァザであることを明かすのが中盤だから、後付けにしかみえないんだよ! 『ハーモニー』は権力の分散した世界なのに、どうして一部の権力者に支配された世界になってるんだよ! メディケアは各家庭に配備されているって原作に書いてあるのに、なんでわざわざ列をなして薬の配給を待つひとびとのシーンをあらたに挿入しているんだよ! 『リベリオン』か! あたまが『メトロポリス』の時代でとまっているんじゃないか!?」
「たしか『メトロポリス』って戦前だよね」
「おまけに百田尚樹レベルの民主主義論を三回もぶちこみやがって! なにが『民主主義でわたしたちが責任を担うようになった。でも、わたしたちのなかに悪いものがあったとしたらどう?』だ! そういう意味じゃねーよ! これじゃフーコーじゃなくて『フーコーの振り子』だっつーの! 2001年9月11日の世界貿易センタービルにいなければ時代の変化もわからないのか!? わからなくてもせめて原作を読めよ! 爆弾積んだ零戦にのせてツインタワーにカミカゼアタックさせるぞ!」
 未来は夢想した。自分が二丁の拳銃をかまえ、ガン=カタでSTUDIO4°Cの社員をつぎつぎに血祭りにあげるところを…
「銀ピカあたまは『1984』のビッグ・ブラザーか!? ゼーレ(※『エヴァンゲリオン』)みたいな螺旋監察官会議や、拡現(オーグ)で通信相手をクレイアニメで再現してくれる面白サービスはがまんしても、これはひどすぎる! マイケル・アリアスが『わかるひとには「ここはマイケルがやったシーンだな」ってわかる』といったらしい。おまえを101号室にぶちこむぞ!」
 未来は目に涙を浮かべていた。
「こんなことなら千円札を燃やして遊んだほうがマシだった…」
「お札を燃やすのはかなりの快感だから、それをこえるのはなかなか難しいよ」
「混乱する世界の映像も『映像の世紀』みたいだったし… 『パリは燃えているか』を劇伴に制作委員会のメンバーを壁にならばせてひとりずつ射殺したい…」
 濡れた目で小百合を見あげる。
「あんたは文句はないの?」
「バンカーのシークエンスがふたりの再会からミァハの独白、暗転と銃声まですべてが完成されていたからかなり満足。欲をいえば、どうせふたりの関係に焦点を当てるなら、もうすこし学生時代にシーンの配分を増やすべきじゃなかったかな。ディレクターズ・カット版に期待」

「そんなに百合が好きなら『ヴァルキリードライヴ マーメイド』でもみてろよ!」

「もちろん無修正版のためにAT-Xに加入して、最高画質で毎週録画してる」
 未来は号泣した。

「『ソラリス』みたいに前作の失敗をふまえたふたつ目の劇場版が制作されるかもしれないじゃない。レムは二度目の映画化にも文句をいってるし、劇場版『ハーモニー』はどちらかというとソーダバーグ版の『ソラリス』みたいだけどね!」

 未来の泣き声がいっそうおおきくなった。

「もういやだ… 『未来世紀ブラジル』のサム・ラウリーみたいに夢の世界に逃避したい」
「それ、肉体は拷問されてるよね」
 ガバッとあたまをあげる。
「『THX-1138』の抑制剤を用意して! もうこんな悲しい思いはしたくない!」
 小百合は顎に指を当てた。
「百合SFはマンガ版がすばらしい出来で、映画化が失敗に終わるのがよくあるパターンみたいだね。『ルー=ガルー』もそうだったし」
 小百合は劇ハモで出てきた妊娠検査薬のような薬剤入れからカプセルを取りだした。
「これを飲めば、意識が消滅する」
 未来は迷わず嚥下した。
 こうして無になった女子高生は三十四歳のオタクと付きあったのだった。(了)