『青い花』の表現技法とその意味

 "『青みをおびた』(Bleute):ほかのどんな色も、優しさの、このような言語的形態を知らない。ノヴァーリス風の言葉。「非存在のように優しく青みをおびた死」(『笑いと忘却の書』)。"(ミラン・クンデラ著『小説の精神』所収『七十三語』浅野敏夫訳)

 『青い花』(志村貴子著、太田出版、2005-2013年)の表現技法の特徴とその効果について、題名である〈青い花〉の解釈を中心に検討する。
 本作は各話の副題を小説および劇、映画の題名からとっており、よって、最終話の副題でもある「青い花」は一次的にはノヴァーリスの同名の小説を指していると考えてよい。ただ、注意すべきことは、作中で「青い花」という文言が登場したことはない。しかし、第1巻の末尾において〈小さい花〉が象徴的にえがかれている(『青い花』第1巻、p.188)。
 "あまりにも小さなその花は あまりにも小さすぎて すぐそばにあるのにわからない 持て余してしまうかもしれない そんな花……"(同、p.187)
 本稿は巻数と一致するここまでを一編として、検討の対象とする。
 ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』は、ドイツ・ロマン派の特徴を以下のように分析し、小説『青い花』をそのなかに位置づける。


 "だが、その孤立性を意識するということは、ある新たな神秘のまえに立つことである。もし、外的自然がわれわれと異質なものになるにつれて、われわれの目に謎めいたものになるとすれば、逆にまさにそれと同じ度合で、われわれはわれわれの自我がやはり神秘に満ちたものであるという自覚をいちはやくもつのである。われわれはもはや自我をいかなる既知なるものにも関連づけることができない以上、どのようにしてそれを認めるのだろうか。みつめればみつめるほど理解できなくなってゆく。その本質的な差異性による以外には、けっしてそれを把握することができない。それは何ものとも合致することがない。どんなものとも類似していない。光の神秘があるのと同じように、ここには中心の神秘がある。あまりに吟味しすぎると消えてしまう。それ自体、目のまえで霧散しはじめるのだ。しかし、それはいわばその場でおこなわれる。探究がなされなければならないのは、もはや自我から遠く離れた、自我の外側ではない。周辺的世界という遠い遥かな深淵に対して、もうひとつの深淵すなわち中心という身近な深淵が対立する。内観が拡張ではない。それはむしろ凝視である。思考が空間のなかに急いで流出することがなくて、生起したその場所に沈思不動のままとどまっているような凝視である。ロマン主義というもの、とはいわないにしても、少なくともそのもっとも重要な一面は、精神の根源的に主体的な特質を自覚することであるとする以上にうまく定義することは多分できないのではないか。ロマン主義者とは中心を発見するもののことである。"(『円環の変貌』、国文社、1973年、上巻、pp.189-190)

 


 "そのうえ、当時、フランスでもドイツでもイギリスでも、ほとんど時を同じくしてロマン派の作家たちが人間の中心性のもつ本質的に宗教的な特質を発見ないし再発見していた。《私が中心点であり、聖なる源泉なのだ》と、ノヴァーリスの小説のなかでアストラリスが叫んでいる。人間が源泉であり、しかも神聖なる源泉なのだ。人間の中心性のもつ深淵において、人間固有の本質の神秘とそれにかかわりをもとうとする神の神秘とが、どちらのものとも分からぬような仕方で混じりあっているのだ。中心に引きこもるということは、したがって充実した存在を放棄し、やむを得ず衰退した生を送ることではなく、すでにモーリス・セーヴやその他のルネサンス期のプラトン主義的詩人たちがそうしたように、根源的なちからに立ち帰り、源泉から汲みとることである。しかも、その理由をあえて説明するまでもないほど明らかなひとつの現象によって、外的自然から離れて精神が自己自身のうちに引きこもることが、自然への新たな回帰の、したがって精神が再びそこで活気づけられるような中心の外側で新たに開花するということの、原理そのものになるのだ。"(同、p.193)


 ノヴァーリスは小説『青い花』において主観性の優越を説き、そこにおいて〈青い花〉は神秘との通路の象徴としてえがかれる。ミシェル・フーコーはルートヴィヒ・ビンスワンガー著『夢と実存』の序文において、それを以下のように述べている。


 "このヘラクレイトス的主題は、すべての文学とすべての哲学を貫いてきた。これまで引用してきた、一見したところ精神分析にきわめて近いものに見える多彩なテクストにも、この主題が繰りかえし現われてはいた。だが、実のところ、夢へのその出現が話題にされてきたこの精神の深み、この「魂の深淵」によって指示されているのは、リビドー的本能のような生物学的装置ではない、――それは、自由の原初的な運動であり、実存の運動そのもののうちでの世界の誕生なのである。ほかの誰よりもこの主題に接近し、倦むことなくこれを神話的表現におさめようとしたのがノヴァーリスである。彼は夢の世界のうちに、夢を担っている実存の指示作用を認めた。「われわれは世界中をめぐる旅の夢をみる――とすれば、この世界全体の方が、われわれのうちにあるのではなかろうか。……永遠なるものがその世界、過去、記憶をともなって住みついているのは、自己のうちにであって、他のいずこにでもない。外界とは影の世界であり、この世界がその影を〔内面の〕光の王国に投げかけているのだ。」だが、だからといって夢の時間が、主観性へのアイロニー的な還元の遂行される曖昧な瞬間にすぎないというわけではない。ノヴァーリスは、夢が発生の原初的瞬間だというヘルダーの考えを採りあげなおす。夢こそ詩の最初の心像であり、そして詩は言語活動の原始的形式、「人類の母語」なのである。こうして夢は、生成と客観性との原理そのものに通じている。そして、ノヴァーリスは、「自然とは無限の動物、無限の植物、無限の鉱物なのであり、また自然のこれら三領域は、自然のみる夢の心像なのだ」と付けくわえている。"((『夢と実存』《序論》中村昇、小須田健訳、pp.54-55)『夢と実存』所収、みすず書房、1992年))


 本作における〈青い花〉も、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"(『青い花』第1巻、p.44)とあるように時間性を超越している。


 "したがって神聖な源泉と個体的な諸源泉とのあいだには、起源上の同一性と成長発展上の同一性とがある。神的存在者と同様に人間的存在者も、《自分自身の内側から数限りなく無尽蔵に多量の光を放つような》発生者的な原理に従って発展してゆくのだ。生存のそれぞれの時間、どれほど微妙であろうともごく微小なものによって占められているそれぞれの場所が放射的エネルギーの中心となり、それがサン=マルタンが述べているように、《同時にかつあらゆる意味で拡大し、その円周におけるあらゆる部分を占有し充満させるのだ》。この種の《中心の爆発》については、ウィリアム・ブレイクの詩のなかに数多くの実例がみられる。……ルネサンスの詩人たちにおけるように、とりわけベーメにおける場合と同様に、創造のひとつひとつの点、持続の特定の瞬間瞬間がここでも真に無際限の拡大能力を表している。しかし、もっとも顕著なことは、この詩人の想像力がそれと等しいほどのちからを賦与されている点である。一個の世界となるような一粒の砂、その香りでみたす薔薇となる人間の精神は、神が創造した世界の事物にあたえるのと同じ拡張力をもつ。そこには事物の開花があるのと同じように、精神の拡大がある。誰もが自分自身から真に内的な永遠性と広大さを引き出せるのだ。あらかじめひろがりも持続もない心理的現実に対して感情によってあたえられる空間的ならびに時間的なこうした桁外れの拡張の完璧な実例は恋愛である。それはコンスタンの『アドルフ』の次の有名な一節に見られる。……したがって恋する人には、自分の周辺に空間と時間の持続が拡大するのが見えるものである。というよりむしろ、まさにその内面において存在の二重の拡大が感じられるのだ。恋とは、思惟領域の拡張であり、自分の存在があらゆる面で現実がそこに自分を固定させようとしている時間的空間的な一点をはみ出ようとしているのを感じるひとつの方式である。"(『円環の変貌』上巻、pp.194-195)


 しかし、本作は作品として、主観性を客観性に優越させてはいない。そもそも、ふみが物語の当初において愛していたのはあきらではなく千津だ。この愛は、のちに言明されるように否定的なものではなく、またあきらへの愛情と対立的な関係にあるものでもない(『青い花』第5巻、p.136)。高校に進学したふみが千津に再会した様子は、ふたりが同一のコマのうちで、距離が近く、親密なものとしてえがかれている。しかし、その愛情はページが変わると同時に〈結婚祝いの手作りのケーキ〉というきわめて即物的な存在により否定される(『青い花』第1巻、pp.38-40)。それはまた、結婚という社会的な行事をもしめしている。そもそも、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"という傍白が感動的なのは、それが時間性のなかに位置しているからだ。

 ルカーチ・ジョルジュもまた、『小説の理論』において、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の主観性の自己認識と自己止揚というイロニーにもとづく現実の形象化は、現実をロマン化する危険を冒しており、ノヴァーリスはそれを批判し、『青い花』において、現実のうちに実現された超越である童話(メールヘン)を形象化の目標においたと述べている。それは、現実とその超越との不統一を先鋭化するか、社会としての世界形態の抒情的ロマン化をおこない、やはりそれも、その不統一を先鋭化する。ゲーテの方法は、小説を叙事詩にしなければ達成できず、よって『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は終盤で〈塔の結社〉という幻想装置を登場させるが、それは超越を引下げ、また全体の調子を損なうに留まる。


 "ロマン主義的現実化のかかるイローニッシュなかけひきのうちに、この小説形式がもつもう一つ別の大きな危険がひそむのである。それを逃れえたのはただひとりゲーテあるのみであるが、それもただ、部分的な成功にすぎなかった。それは現実を完全にその彼岸に横たわる領域までロマン化するか、あるいは小説の形象化する形式にはとうてい手が出せぬ、完全に問題から解放された、問題の彼岸の領域まで、現実をロマン化する危険、すなわちよりいっそう明白に実際の芸術的危険を示す、危険なのだ。ほかならぬこの点において、ゲーテの創造を散文的、反文学的であるとして拒絶したノヴァーリスは、現実的なるもののうちにおいて実現された超越、童話(メールヘン)を叙事的な詩の目標、規準として『ヴィルヘルム・マイスター』の形象化方法に対置する。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代は」とかれは書く、「いうなれば徹頭徹尾散文的で近代的な作品である。そのなかではロマン的なものは滅び、自然詩、すなわちあの驚異にあふれたものもまた滅んでゆく。かれがとりあげるものはたんに日常的なもの、人間的なるものにかぎられ、自然、神秘主義などはことごとく忘れさられる。この作品は市民的物語、家庭的物語の詩化されたものにすぎない。このなかで驚異にあふれたものは、はっきり詩、陶酔としてあつかわれる。この書の精神は芸術的無神論である。……この書はその根底において……いかに表現が詩的であろうと、最高に非文学的なのだ。」そしてかかる傾向をもつノヴァーリスが、騎士叙事詩の時代を振りかえり、そこへ立ち戻ってゆくのもこれまた偶然ではなく、それは、謎めいた、しかしきわめて深いところで条理にもとづいている親和力が、志向と素材のあいだにはたらいているからにほかならない。かれが形象化しようとこころざすのは、騎士道物語に似た(もちろんここで問題となるのは努力の先験的共通性であって、なんらかの種類の直接、間接の影響を問題にしているわけではない)、明白なものとなった超越に、此岸で完結した全体性をあたえることなのだ。それゆえかかるかれの様式化は騎士叙事詩の様式化同様に、童話を目標としなければならない。中世の叙事詩人は、素朴にして自明なものである叙事的志向をもって、真一文字に此岸の世界の形象化目ざしてすすめば、超越が光となって現在のうちにさしこみ、それによって現実は光あふれて童話へと変貌し、それをみずからがおかれた、歴史哲学的状況のさしだす贈物として、かれは受け取ればすむのであった。しかしそれに反してノヴァーリスにとっては、この童話の現実が現実性と超越とのあいだの、引き裂かれた統一を回復するもの、意識的な形象化の目標となるのだ。それゆえそこではいっさいを決定する、あますところなき綜合の成就することはありえない。現実は理念に見捨てられた大地の重みに強くとりつかれ、それが重くのしかかり、超越的世界は抽象的一般性という哲学的、要請的領域から、あまりにも直接に由来することにより、空気に似てあまりにも軽く、内容を欠く。それゆえかかる両者を結合し、有機的な生きた全体性の形象化が成就することは不可能なのである。ノヴァーリスが慧眼にもゲーテのうちに見出した、あの芸術上の裂け目は、かくてかれの作品のなかでひときわ拡大し、その架橋は不可能となった。詩の勝利、光をそそぎ救済をもたらす、全宇宙におよぶ詩の支配は、その他もろもろの方へと引きよせる、あの本質規定力を欠如するのだ。現実のロマン化は現実をおおうが、それもただたんに詩の抒情的輝きをもっておおうにすぎず、抒情的輝きは事件にも、叙事文学にも転化されず、そのあげく現実的、叙事的形象化は、ゲーテ的問題性をひときわ尖鋭化して示すか、あるいは現実的叙事的形象化を、抒情的反省、または気分的場面によって回避することに終わるのである。それゆえノヴァーリスの様式化は反省的様式化にすぎず、危険を表面上おおいかくしはするが、しかし、本質的にはそれをただ尖鋭化するにとどまる。なぜなら社会としての世界形態の抒情的、気分的ロマン化は、現在の精神の位置において存在することのない、内面性のもつ本質的な生との、その予定調和にかかわることは不可能であるから。そしてイローニッシュに浮遊し、主観から創造された、可能なかぎり形態にふれることのない平衡を、ここに見出さんとするゲーテの道も、ノヴァーリスは拒絶したから、形態をその客観的現存在のうちで抒情的に詩化し、かくて美しく調和しているが、みずからのうちにとどまる関連を欠く、一つの世界の創造以外、かれにとってはいかなる道も残されない。かかる世界は現実となった究極の超越にも、問題となった内面性にも関係をもつが、しかし、ただ反省的、気分的に関係をもつにすぎず、叙事的な関係をもつことがないから、真の全体性とはなりえないのである。"(ルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』大久保健治訳(所収『ルカーチ著作集』第2巻、pp.148-140))

 

 では、本作はそのような客観性において、どのように主観性を表現しているのか。
 ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』において、《近代リアリズム》(エーリッヒ・アウエルバッハ著『ミメーシス』)の小説の特徴を単純過去と三人称ととらえる。


 "小説と歴史とは、それらがもっとも華やかに開花したまさにその世紀に緊密な関係をもった。それらの深いむすびつきによってバルザックミシュレをわたしたちは同時に理解することもできるはずだが、そのむすびつきは、これら両者における自給自足的な宇宙の構築である。その宇宙は自らの拡がりと限界を自力でつくり出し、そこに自らの時間や空間や住民や品物のコレクションや神話を配置している。十九世紀の大作品のこうした球状性は、彎曲して連結している世界の平面投射とでも呼べる、小説と歴史との長い叙唱調(レシタチーフ)によって表現された。当時誕生した新聞小説は、渦巻形に錯綜したかたちで、格下げされたイメージをさし出している。しかし、ナレーションはかならずしもそのジャンルの法則ではない。たとえば、ある時代は書簡体小説を構想することができたし、また別のある時代は分析風の歴史をつくることも可能であろう。したがって、小説と同時に歴史にも拡張できる形式としての物語(レシ)〔Recit〕は、がいして、たしかに歴史上の一時期の選択あるいは表現である。単純過去(パセ・サンプル)は、話されるフランス語からは姿を消したが、物語を支える隅石であり、相変わらずひとつの芸術(アール)をさし示している。それは、芸文(ベル・レットル)の儀礼の一部をなしている。その任務はもはやある時を表現することではない。その役割は現実をある一点につれ戻すことであり、たくさんの、体験され、積重ねられた時間から、ある純粋な動詞的行為を抽出することである。その行為は、経験の実存的な根をとり払われ、他の行動、他の経過との論理的な連結、世界の全般的な動きに方向づけられている。つまり、その役割は、事実の帝国のなかにヒエラルキイを維持することをめがけている。動詞は、単純過去によって、暗々裡に因果の連鎖の一部をなし、方向づけられた連帯的行動の相対に関与し、ある意図の代数的記号のように機能する。動詞は一時性と因果性の間のあいまいさを支えつつ、ある展開、すなわち物語のわかりよさといったものを招じ入れる。動詞が、あらゆる宇宙構築の理想的な道具であるのはそのためだ、それは、宇宙発生説や神話や歴史や小説の人工的な時制である。構築され、練上げられ、意味のある線に帰せられる世界を想定していて、投げ出され、陳列され、さし出される世界をではない。単純過去のうしろにはいつも造物主か神か語り手(レシタン)がかくれており、世界は物語られながら説き明かされ、事件のひとつひとつはその場かぎりのものにすぎない。単純過去はまさしく、ナレーターが現実の爆発を、密度もなければボリュームも拡がりもない、痩せて純粋な動詞につれ戻すためにつかう記号である。そして、その動詞はできるかぎり早く原因と結末とをむすびつけることを唯一の機能としている。歴史家が、ギーズ公は一五八八年十二月二十三日に死んだと確認したり、小説家が公爵夫人は五時に外出したと物語るとき、これらの行動は厚味のない往事からたちあらわれる。それらは実存のふるえから解き放たれて、代数の安定性と構図とをもつ。それらは記憶だが、利害関係の方が持続よりもはつかにたくさん勘定に入る有益な記憶なのである。"(『零度のエクリチュール渡辺淳訳、みすず書房、1971年、pp.30-32)

 

"単純過去のこうしたあいまいな機能は、また別のエクリチュールの事実のなかにも見出される。それは小説の三人称のことである。殺人者を物語の一人称のもとにかくすことに創意のすべてが賭けられていたある小説のことを多分おぼえているだろう。読者は殺人犯を筋のなかのすべての《かれ》の背後にさがしていた。ところが、殺人犯は《わたし》のもとにいた。作者は、小説では通常《わたし》は証人で、行為者は《かれ》であるということを重々承知していたのである。なぜそうなのか。《かれ》は小説の典型的約束であり、叙述的時称と同じく小説的事実を表示し、完成する。三人称がないと小説に到達できなかったり、小説を破壊するおそれがある。《かれ》は形式的に神話を表している。少なくとも西欧においては、先ほども見たように、自分のマスクを指さない芸術はない。したがって三人称は、単純過去と同様、小説芸術においてそのつとめをはたし、その消費者たちに、信頼できるがたえず偽りだと公表されている仕組の安全性を提供している。《わたし》はそれほどあいまいではないが、まさにそのためにそれほど小説的ではない。だから、《わたし》は、物語が慣習のこちら側にとどまるときにはもっとも直接的な解決となり(たとえばプルーストの作品の意図は、文学への序になることにほからならない)、《わたし》が慣習のかなたに置かれ、物語をいかにも自然を装った打ち明け話にして慣習を破壊しようとするときには、もっとも練りあげられた解決となる(ある種のジッド的物語の狡猾な眺望がこれである)。同様に、小説的な《かれ》の使用は、二つの対立した倫理とかかわりあう。というのは、小説の三人称は異論の余地のない慣習を示し、もっともアカデミックな人々ともっとも文章に凝らない人々を誘惑するが、同時にまた自分たちの作品の新鮮さに慣習を結局のところ不可欠のものと判断している人っちをも魅了するからである。ともかく、三人称は社会と作者との間の明瞭な契約のしるしである。しかし、それはまた作者にとって、自分が欲する流儀で世界を立たせる第一の手段なのだ。したがって、三人称は想像を歴史や実存にむすびつける人間的行為にほかならぬ、文学的経験以上のものである。"(同、pp.35-36)

 
 こうした透視図法によるような時間的、空間的に均質で等方向的な時空において主観性はどのように表現されるのか。ふみがあきらに同性愛者であることを告白するまでの場面(『青い花』第1巻、pp.136-141)を例に検討する。
 この一連の場面において視点は継起的に移行している。はじめ、視点は京子にあり、京子が立ちばなしするふみとあきらを眺め、各務との会話を回想する。そして、回想が終わったとき、セットは移動しており、そこに登場するふみとあきらに視点は移行している(pp.136-137)。そして、ふたりの会話において、180度システムの視界にとどまる切返しショットは、エスタブリッシング・ショットにつづく5コマのみで、以降、はじめにふみを正面ショットでとらえ、あきらを90度の角度でえがき、つぎにあきらを正面ショットでとらえるとき、ふみは90度の角度でえがいている(pp.138-139)。
 これにより、ふみの熱っぽい様子から、あきらのおどろきまで、視点の移行が円転滑脱としておこなわれ、それぞれの感情が同時的にえがかれている。
 こうした視点の移行の自然さへの工夫は他所でもおこなわれている。恭己と交際をはじめたふみは、恭己に主導権をとられる。したがって、恭己の行動は意外性をもってえがかれる。最初のデートで"またどこか行こうね"(p.106)という約束はそれまでの文脈を無視しておこなわれ、いっしょに登校できないというふみへの"帰りは私のためにとっといて"(p.128)という妥協は、それまでの皮肉な調子に反している。しかし、これらの意外性は停止(ポーズ)ではなく、恭己がコマの枠外にフレーム・アウトしていくなか、内容が描写に反することで演出される。
 そして、このような視点の移行の自然さは、画面における繊弱な輪郭線と淡い塗りが寄与している。
 プーレは『円環の変貌』で《近代リアリズム》の代名詞であるギュスターヴ・フローベールの描写について以下のように述べている。


 "『ミメーシス』すなわち文学における現実描写に関してのあのすぐれた批評書においてエーリッヒ・アウエルバッハは、『ボヴァリー夫人』から次の一節を引用し、注釈をつけ加えている。……さて、ここでアウエルバッハの指摘の要約をかかげておこう。――フローベールはトストにおけるエンマの生活を長々と述べたあと、この一節で、あるひとつの明確なタブローすなわち食事の時間の妻と夫のタブローを提示している。しかし、このタブローはそれ自身のために、それ自体では存在しない。それはエンマの絶望という中心主題に従属している。われわれはまず彼女を見て、それから彼女を通して状況を見る。他方、ここではエンマの思考のたんなる再現つまり彼女が思考してゆく通りの彼女の考えは問題にはならない。たしかにこのタブローを照らす光は彼女から出ているが、彼女みずからはこのタブローの一部分になっていて、その内側に位置づけられている。こうした指摘の意味をよく考えてみることは有益なことである。つまりフローベール的方法とは、凝視の対象としてひとつの存在者を提示し、今度はその存在者が周辺的な現実を凝視の対象とすることにある。《エンマは見る人である。さらに彼女は、彼女がみるのをわれわれがみつめている人でもある。》もし彼女がたんに外面から描かれていたなら、彼女は多くの事物のなかのひとつにすぎなかったであろう。暖炉や壁や夫や皿とともに客体的な雑多なものの一部になっていただろう。逆にもし『ユリシーズ』のブルームか、あるいはダロウェイ夫人のように、彼女がわれわれに内面的独白のなかで提示されていたなら、もはや皿も夫も壁も暖炉も存在しなかっただろう。存在するのはただ、そうした事物によってエンマのなかに喚起される感覚ないし情緒だけであろう。そしてエンマすらもはや存在していないだろう。なぜなら、彼女の身体が事物の基底にみずからの影をおとしながらわれわれにあたえている客観的な統一感は、感情と思考の純粋な流れによってとって代わられるからである。そのいずれの場合にも何かが失われるだろう。つまり一方では客観的世界が、他方では主観的存在が失われ、しかもその両方の場合に、この小説の本質そのものを構成している客体と主観との微妙な関係が失われる。意識と皿のようにまったく相異なる本質をもつものを互いに結びつけるのが明らかにこの関係である。はっきりと区別されている二つの現実が、それなりに、それぞれの構成要素を多様化させることによって自己分解してしまうのを妨げているのがこの関係である。したがって『ボヴァリー夫人』のなかには、ある全般的な一貫性というものがある。それは、事物が、同時的なものであれ、連続的なものであれ、つねに知覚的な思考のもつ統一性によって結びつけられていて、しかもこうした思考自体が絶えず接触をもちつづけているひとつの世界の客観性によって、その連続的な状態のなかでつねに分解から免れているという事実にもとづいている。"(『円環の変貌』下巻、pp.114-116)

 


 "しかしフローベールは、円周的な原因から点のような意識に至るこのような動きをわれわれに目に見えるようにしてくれたかと思うと、次の瞬間には、たちまちその魂が離心的に作用し、こんどはひとつのものとして自分の感情を空間に投影してゆくという逆の動きをわれわれに描き出してくれる。すなわちまた蒸し肉の湯気とともに彼女の魂の奥底からさらに別のむかつくような息吹きが立ちのぼってくるのだった。要するに求心的と拡張的との相つぐ運動によって、まったく異なる二つの方向に横切られるために、フローベール的環境は円周から中心へと中心から円周へとひろがるひとつの状況的空間のように見えてくる。フローベールにおける現実描写のこのような円環的な特徴は、すこしも隠喩的なものではない。あるいはたとえそれが隠喩だとしても、批評家によって議論の必要上思いつかれたものでないことは確かである。じじつ、こうした隠喩はフローベールの作品のなかにはたえず見出され、しかもそれらがきわめて一貫したものであり、きわめて必然的であり、きわめて意味深いものである以上、われわれはそれをフローベール的想像力における世界と存在の諸関係が表現される本質的イメージとして理解しなければならない。"(同、pp.118-119)

 


 "以上引用したテクストによって、フローベールがよく知りつくしかつ実現したものは、存在とその対象とのあいだの関係を提示する新しい方法であり、しかも彼の先行者たちのものよりももっと真実で、あらゆる場合に、もっと具体的で、もっと感覚的な方法であることが明らかになるだろう。彼の先行者たちやスタンダールでさえも作中の主人公を時間の流れに沿っていちいちその行動によって追いかけてゆくことに満足していたし、また他方バルザックは主人公の行動をある発端から放射されている諸力の中心として投げかけていたが、フローベールこそは、こうした直線的ないし単一中心的概念を放擲して、自分の小説を一連の中心点において構成し、そこからは数々の対象が前方にも工法にもあらゆる方面に拡散し、さらにそこには時間的であると同時に空間的な放射もあるようにした最初の小説家なのだ。小説の領域においてはじめて人間の意識が、感覚と回想の集中的ないし拡散的な飛翔が限りなくそれをめぐって行なわれ、つねに再構成されている一個の中心として、あるがままの姿を表わすものである。また小説はそれ自体が円環と中心になることによって初めて、人間的実体のもつ密度ないし濃度とでもいえるようなものを表現できるようになる。そうした濃度は、あらゆる方向に拡散してゆく意識の中心から、あるいはまた意識にむかってのひとつの集中運動となって数々の感動や回想の描く円周から形成されるようなものによって可能となる。こうした二つの運動は、すでに考察したように『ボヴァリー夫人』において、それぞれ交互に行なわれている。"(同、pp.137-138)

 

 そして、プーレはシャルル・デュ・ボスの批評を例に、『感情教育』への"人々はしばしばこの小説を形の整わない作品、つまり存在のまとまりのなさを主題としている小説と考えている。"(p.138)という定見に次のように反論している。

 

 "だが、こうした絶え間ない循環運動は、もし中心にひとつの要素が、つまり創造者でなくて秩序づけをする者のことを言っているのだが、そうした要素が存在しない場合には何の意味ももたないだろうし、また小説は形をなさないだろう。数多くの人物や経験や思い出を休むことなくあるひとつの中心に関連づけているその要素とは、主人公の愛である。仮りにフレデリック・モローがアルヌー夫人を愛さないとすれば、この小説には何の意義も構造も存在しなくなるだろう。だが、この場合はそうではない。ジャン=ピエール・リシャールが『フローベールにおける形式の創造』に関する研究のなかで言っているように、『教育』は《すべてのものが方向づけられた一個の軸のまわりに配置されている》ような小説である。この物語の発端からアルヌー夫人が現われてきてフレデリックに愛してもらったり、外面的には流動的で無定形な生き方をしているすべてのものが、このイメージのまわりに廻わりはじめ、そこから光を浴びるようになるのは、まさにこのためである。もっとも重要な文章を次に引用しておこう。……こうしてこのフローベールの小説は、いまやひとつの構成体として、一個の秩序あるものとして現われてくる。この秩序は形式上のものである。感情的諸要素は、それ自体は無定形な感覚的なものであるが、円環状の流れとなって、フローベールのもっとも美しい表現を借りれば《事物の総体が集中してくるまばゆいばかりの中心》が存在している中央部のある一点にむかって配置されるのだ。中心から円周へ、そして円周から中心へと運動するものがそこにはあり、しかもなお恒常的な関係がある。それが意識が生まれてくるひとつひとつの瞬間、意識が位置づけられているひとつひとつの場所的な地点と、他方、内面的であると同時に外面的でもあるその環境とのあいだに意識が確立しているような関係そのものである。フローベールのこの小説はしたがって状況(アンビアンス)の小説なのだ。"(同、pp.140-141)


 本作において〈青い花〉は作品の底部にライトモチーフとして一貫して存在し、それは、二者の主人公という非人称的な空間により可能になっている。

『荊の城』と『オリバー・ツイスト』

 独白をのぞき、『荊の城』は『オリバー・ツイスト』の観劇の場面ではじまる。本作はロンドンの下町を舞台にしており、主人公のスウは"Fingersimith"=スリであり、『オリバー・ツイスト』でオリバーが仲間にいれられる窃盗団の少年たちとおなじだ。付言すれば、ジョンとデインティのふたりは『オリバー・ツイスト』のノアとシャーロットを想起させる。
 "いまも覚えている――あの日、生まれて初めて見た――世間というものの図を。この世にはビル・サイクスのような悪い人もいれば、イッブズ親方のようないい人もいて、どっちに転ぶかわからないナンシーのような人もいる。よかった、とあたしは思った。ナンシーがようやくたどり着いた側に、あたしは最初からいるのだから――いい人たちの側に。砂糖菓子のある側に。"(『荊の城』上巻、サラ・ウォーターズ著、中村有希訳、東京創元社、2004年、pp.14-15)
 スリであるスウは潔白なオリバーではなく、娼婦のナンシーだ。("「話の中身はたいへん結構だけどね。言葉づかいに問題がある。サクスビーさんはそのへん、ちゃんとしつけてくれたはずだろ。きみは街角ですみれを売るわけじゃないんだ。もう一度、言って」"(同pp.61-62))
 『オリバー・ツイスト』で、有名なロンドン橋での密会や、サイクスの逃亡などの場面につながる前章として、娼婦のナンシーは令嬢のローズと会見する。
 "「いまのあなたのお暮しと、それから逃れ出る機会があることを、もう一度考えて下さいな。あなたは、わたくしにそれを請求する権利をお持ちですわ。自分からすすんで今のようなことを報せて下すったというばかりでなく、ほとんど救いの道を失った女性として、たった一言で救われるというのに、そんな盗賊の群や、そんな男のところへ、お帰りになるのですか。あなたを引戻し、そんな悪業や不幸へ縋りつかせるとは、どんな魅力なのでしょう。ああ、わたくしが触れることのできる琴線が、あなたの心にはないのでしょうか。そうしたおそろしい魅力を相手にして、わたしの力でうったえることのできるものは残っていないのでしょうか」
「お嬢さまのように、若くて、悪をしらない、美しい方が、恋をなさっても、恋というものは、どこまででもあなたを引っぱってゆくものですわ――お嬢さまのように、家庭や、お友だちや、ほかに心を寄せる人や、そのほかあらゆるものがお心を満たしているというのに。きまった屋根といっては棺の蓋しかない、病気になったり死ぬ時の友だちといっては、慈善病院の看護婦しかないわたしのような女が、どんな男にでも望みをかけ、みじめな暮しをしている間じゅう、ぽっかり心の中にあいている空所を、その男でうずめるとなっては、わたしたちにどんな希望がありましょう。わたしたちを憐れんで下さい、お嬢さま――女に残されたたった一つの情(こころ)を持っていることを、そして、神さまの厳かなお裁きで、慰めと誇りに別れ、かえって虐待と苦しみへと向ったわたしたちを、憐れと思って下さいまし」
「わたくしから」とローズはちょっとためらってから云った。「お金を受取って下さいな。お金があれば、悪いことをなさらずに暮らせるでしょう――なにはともあれ、この次おめにかかるまでは」
「いただきませんわ」とナンシーは手を振りながら答えた。
「わたくしがお手助けしようとしているのに、お心をおとじにならないで下さいな」とローズはやさしく歩み寄りながら云った。「ほんとに、わたくし、あんたのお力になりたいと思っているんですから」
「お力になって下さる気なら」とナンシーは両手を砕けるほど握りしめながら答えた。「ここですぐ命をとって下さることがいちばんですわ。だって、今夜ほど自分の身の上を考えて悲しかったことはないんですもの。それに、これまで暮して来たような地獄の中で死ななかったのが、せめてものことですわ。ではさよなら、わたしが自分でうけた恥だけの幸せを、神さまがあなたにお恵みくださいますように」"(『オリバー・ツイスト』下巻、チャールズ・ディケンズ著、中村能三訳、新潮社、1955年、pp.177-179)
 ディケンズの二作目である『オリバー・ツイスト』は、その初期作品の特徴として楽観主義的であり、登場人物は善悪に分かれている。ナンシーはその例外として、オリバーの誘拐に参加しつつ、その救出を手助けし、作品の半ばで死ぬ。ディケンズの作品はヴィクトリア朝にあって社会諷刺に貫かれており、ニューゲート監獄に多くの紙幅を割く『大いなる遺産』は、『荒涼館』『リトル・ドリット』などと同様に後期作品らしく陰鬱で、ジェントリとしての振舞いを重視する価値観そのものを批判する。マーシャル・マクルーハンは『メディア論』で、前期から後期への作風の変化に、可動的な子どもの目を視点に用いた『デヴィッド・カッパーフィールド』を書いたことを一因に挙げる。
 『大いなる遺産』で流刑囚のマグウィッチがピップをジェントリにしようとしたように、『荊の城』ではサクスビー夫人はモードを貴婦人にしようとした(『荊の城』下巻、p.82)。
 おなじヴィクトリア朝を舞台として、『半身』で監獄を、『荊の城』でポルノを主題にした両作は当時の価値観を相対化している。そして、モードは生粋の令嬢ではなく、ポルノの朗読者で、スウもまた公爵の血筋でスリだ。
 "「そうすりゃ、ここに来てあたしになれるってわけかい!」モードは答えない。ああしは言った。「あたしたち、一緒に、あいつを裏切ることだってできたんだ。あんたが言ってくれさえすりゃ。あたしたちで――」
「えっ?」
「なんとかできたのに。あたしがきっとなんとかした。どうにかして……」
 モードは首を横に振り、静かに言った。「あなたはどれだけのものを捨てられたかしら?」
 その視線は闇のように、揺れもせずまっすぐに伸びてきた。突然、あたしは母ちゃんが――そしてジョンもデインティもイッブズ親方も――固唾をのんでこっちを見ていることに気づいた。そしてあたしは、自分の臆病な心を覗きこんで思い知った。あたしにはモードのために何ひとつ、本当に何ひとつ捨てることができなかったのだと。これ以上、モードに恥をかかされるくらいなら死んだほうがましだった。"(『荊の城』下巻、p.336)
 『荊の城』が『オリバー・ツイスト』を引いているとすれば、そこにはディケンズの初期作品では叶えられなかったナンシーとローズの友情にたいする目配せがあるだろう。

 

『ハーモニー』補論

 伊藤計劃著『虐殺器官』に"戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。"(伊藤計劃著『虐殺器官』、p.19)と引用されるジョージ・オーウェル著『1984』には"自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。"という文句が一再ならず登場する。この原則が崩壊することで本書はディストピア小説として完成するが、これより以前にニコライ・チェルヌイシェフスキーの空想的社会主義小説『何をなすべきか』を引きつつ、"二二が四がすばらしいものだということには、ぼくも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないだろうか。"と述べている小説がある。フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。

 この表現には『悪霊』にも"私はそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、私は信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。"(『悪霊』下巻、米川正夫訳、p.309)と反復して(『悪霊』上巻、p.538)登場するが、ユートピア思想は本書でもまた語られる。

"「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにまたあまり謙譲に過ぎるのです。僕は同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶望を服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだと言うのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかも知れませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。(後略)」"(同、下巻、pp.114-115)

"「私は諸君に宣告します、――私に必要なのは直截な返答です。むろん、私もここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、私は、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべり続けるような愚を、二度と再び繰り返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべり続けていたのです)、――私は単刀直入にお訊ねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断りしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? この方は、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』と言ってやかましいことですが、それはまあ、一種の譬喩に過ぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはりなおりっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りがまわって、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんなだめにされてしまって、われわれは結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それは私もぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少し億劫なんでしょう、――いや、しかし私はうまく言いまわすことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行く方か、それとも、全速力でその上をとび越える方か?」"(同、下巻、pp.121-123)

 『1984』との関係では、"「ねえ、スタヴローキン、山をならして平地にする、これはいい思いつきですよ、こっけいじゃありません。僕は、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学ももうたくさんだ! 科学なんかなくったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世はただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、僕らはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない。』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一度くらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、誰も彼も突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦痛はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります。」"(同、下巻、pp.141-142)という補説もみる必要があるだろう。

 また、ウィリアム・ホワイトの『組織のなかの人間』では、『1984』の拷問による教化を科学の対極に位置づけている。そのさい、科学の側を代表するのは『カラマーゾフの兄弟』上巻の《大審問官》の挿話だ。

 "人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか! それともお前は、人間にとっては安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の真理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてみなかったのか? 最後に彼らは、真理はお前の内にはないと叫びだすだろう。なぜなら、彼らはあれほど多くの苦労と苦しみと解決しえぬ難題を残すことによって、お前がやってのけた以上に、人間を混乱と苦しみの中に放りだすことなぞ、とても不可能だからだ。"(フョードル・ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟原卓也訳、上巻、pp.489-490)。

 『地下室の手記』では以下のとおりだ。

"しかし、にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときにがきて、そうなれば古い悪癖のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる。諸君はまた、そのときには人間がわざわざ好きこのんで誤りを犯すようなこともなくなり、自分の正常な利益に反した意志をもつ気になど、なろうたってなれはしない、だいいち、その自由がなくなる、と確信しておられる。そればかりか、諸君に言わせれば、そのときは人間が科学に教えられて(ぼくの考えでは、すこし贅沢すぎる話だが)、人間にはもともと意志も気まぐれもありはしない、いや、これまでにもあったためしがなかった、そもそも人間なんて、せいぜいピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまりの存在なのだと悟るようになる、というわけだ。いや、それ以上に、この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それはけっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。そのときには、人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、まるで対数表か何かのように、その数も十万八千ほどになり、カレンダーなんぞに書きこまれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。そのときこそ――いや、これも諸君の説なのだが――やはり数学的な正確さで計算され、完璧に整備された新しい経済関係がはじまり、およそ問題などというものは、一瞬のうちに消滅してしまう。というのも、いっさいの問題について、ちゃんとその回答が用意されているからである。そのときにこそ、例の水晶宮*が建つわけだ。そのときにこそ……いや、一言でいえば、そのときにこそ鳳凰が舞いおりるわけなのだ。"(『新潮世界文学』10巻 『地下室の手記江川卓訳、pp.170-171)

(*『何をなすべきか』に登場する未来の社会主義社会)

"〈は、は、は! それにしても、その恣欲とやらが、へたをしたら、そもそも存在しないのかもしれないじゃないですか!〉諸君は笑いながらこうさえぎるだろう。〈科学はすでに今日でさえ、人間を立派に解剖してくれていますからね、もう万人周知の事実なんですよ、恣欲とか、いわゆる自由意志とかいうものが、ほかでもない、たんなる……〉いや、待ちたまえ、諸君、ぼく自身、そんなふうに切りだそうと思っていたところなのだ。だから、白状すると、ぎくりとしたくらいだ。たったいま、ぼくは、恣欲なんてわけのわからない代物で、何に左右されるか知れたものじゃないし、そこがまた、おそらく、めっけものなんだろう、と叫びかけたのだが、そこではたと科学のことを思いだして、それで……絶句してしまった。と、そこへさっそく、諸君が半畳を入れたわけなのだ。だって、実際問題として、たとえば、いつの日か、ぼくらの恣欲やら気まぐれやらの方程式がほんとうに発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのようにして拡大していくか、これこれの場合にはどこへ向かって進んでいくか、といったようなことがわかってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、おそらく即座に欲求することをやめてしまうだろう、いや、確実にやめてしまうに相違ない。だいたい、一覧表に従って欲求するだなんて、糞おもしろくもないだろう? それどころか、そうなったら人間は、たちまち人間であることをやめて、オルゴールのピンみたいなものになってしむだろう。なぜって、欲望も意志も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか? 諸君の考えはどうだろう? そういうことがありうるものかどうか、ひとつその可能性をかぞえあげてみようじゃないか? 〈ふむ……〉と諸君は解答を出すだろう。〈ぼくらの恣欲は、ぼらくらの利益に対する見方が誤っているために、あらかたはまちがっているんですよ。ぼくらがときたまとてつもないナンセンスをしたくなるのも、ぼくらのあさはかさから、このナンセンスこそが、あらかじめ予定された何かの利益に到達するいちばんの近道だと思いこむからなんです。だから、もしこうしたことが全部解きあかされて、紙の上で計算されてしまったら(いや、それも大いにありうることですがね。人間がある種の自然法則を認識できないなどと頭からきめこんでしまうのは、みにくい、たわけたことですから)、――そのときには、むろん、いわゆる欲望などというものはなくなってしまうでしょうよ。だって、もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ。だって、たとえば、ぼくが親指をどこかの指の間から突きだして、赤んべえとばかりだれかを侮辱してやったとしても、それはこれこれの理由でそうせざるをえなかったのだ、しかも、ぜひともこれこれこの指を使わざるをえなかったのだ、といったことが計算によって証明されるようなときがくるとしたら、いったいどんな自由がぼくのうちに残されることになります? ましてやぼくが学者で、どこかの大学を卒業でもしていたら。そうなったらぼくは、三十年もの先まで、自分の全人生を計算できることになる。つまり、一言でいえば、もしそんなことになったら、ぼくらはもう何をすることもなくなってしまう、何でもかでも受け入れるしか手はないのですよ。いや、それよりぼくらは、一般的にいって、たえず倦むことなく、自分に言いきかせておくべきですな。これこれの瞬間、またこれこれの状況のもとでは、自然がぼくらの意向をたずねてくれる気づかいはないわけだから、自然のそのあるがままに受け入れるべきで、けっしてぼくらが空想するように受け入れてはいけない。で、もしぼくらがほんとうに例の一覧表やカレンダーをめざして進んでいるということだったら、いや、それと……たとえば例のレトルトさえもめざしているということだったら、仕方がないから。そのレトルトも受け入れなければならない! さもないと、そのレトルトのほうから、きみの意向などかまわず、割りこんでくることになる……〉"(同pp.172-174)

"ぼくが味方するのは……自分の気まぐれ、いや、それから、必要な場合には、この気まぐれがぼくに保証されること。それだけである。苦悩というやつは、たとえば、笑劇などには登場させてもらえない、これは承知している。水晶宮では、これはもう考えられもしないことだ。苦悩とは疑惑であり、否定であるが、水晶宮で暮らしてなおかつ疑惑に悩むくらいなら、これはもう水晶宮でも何でもありはしない。ところで、ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見替えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚噛んでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにしても、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だが、それでも、何もないよりはましというわけだ。"(同pp.180-181)

"「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」「わたしは笑わなかったよ」パシン、とミァハはステップを止めて両手を叩き合せる。バンカーの暗闇の奥に、木霊が逃げていった。「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万という男の子女の子が自殺してる。大人もね。野蛮を、自然を、徹底して自分の内側から排除することはできないんだよ。生府が体現する小さな共同体とか、そういうシステムや関係性を扱う以前に、わたいたちはまずどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めに過ぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」「あなたは思ったのね。この世界に人々がなじめず死んでいくのなら――」「そ、人間であることをやめたほうがいい」タタッ、タタッ、タタッ。再びミァハはステップを軽やかに踏みはじめた。「というより、意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる」タタタタタタッタタッタタッ。「昔、兵隊は靴を身体に合わせるんじゃなくて、身体を靴に合わせろって言われたそうだよ。わたしたちには、それが簡単にできるんだ」「老人たちが認めればね」再び、ミァハのステップが止まった。肩を落としてため息をつくと、「そう。老人たちは『意識の停止』を死と同義に受け取った。それで何千年ってやってきた少数民族が、コーカサスの山のなかにいたっていうのにね。システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ」"(伊藤計劃著『ハーモニー』pp.342-344)

 『1984』と『地下室の手記』のユートピアディストピアの両義性を統一した『ハーモニー』は、まさに"ユートピアの臨界点"をしめしたといえるだろう。

 余談だが、『反抗的人間』で頻々にドストエフスキーの小説の登場人物を〈反抗的人間〉としてあげるアルベール・カミュは、『ペスト』において"二足す二は四"の表現を用いている。

 また、ジョン・マクスウェル・クッツェーも、ユートピアでありディストピアである都市をえがいた『イエスの幼子時代』でこの表現を用いている。

"保健隊に献身的に働いた人々も、事実そうたいして奇特なことをしたわけではなく、つまり彼らはこれこそなすべき唯一のことであるのを知っていたのであって、それを決意しないということのほうが、当時としてはむしろ信じられぬことだったかもしれないのである。こういう隊が作られたことは、市民たちが一層深くペストのなかにはいりこむことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、一部分、彼らに納得させたのである。こうしてペストがある人々の当然なすべき仕事となったため、ペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、眼に映ずるに至った。これはいいことである。しかし、教師が二たす二は四になることを教えたからといって、別にお祝いをいわれはしない。お祝いをいわれることがあれば、それはおそらくそういうりっぱな職業を選んだということであろう。だから、タルーやその他の人々が、どちらかといえばその逆よりも、二たす二は四になることを証明するほうを選んだのは、ほめるべきことであったといっておくとして、しかしまたこの善き意志は、彼らとともに教師および教師と同じ心をもつすべての人々に共通のものであることをいっておきたいのであって、こういう人々は、人類の名誉にかけても、普通考えられている以上に多いのであり、少なくともそれが筆者の確信なのである。もっとも筆者としても、これに対する反駁がありうることは十分意識しており、それはつまり、これらの人々は生命の危険を冒していたということである。しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるというときが、必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。そして問題は、いかなる褒賞あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちがはたしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。"(アルベール・カミュ著『ペスト』宮崎嶺雄訳、pp.156-157)

"「ブント・アレーナスに特殊学校を建てたからさ。フアンとマリアのお話だの、海辺の活動だのに退屈してしまう子たちのための。退屈しているうえに、退屈しているのを隠しもしない子たちの学校だ。担任教師の押しつける足し算引き算の規則に従わない子どもたち。規則ったって、人為的な規則だよ。二足す二は四です、みたいな」「大変っすね。けど、どうして坊やは先生の言うやり方で足し算をしようとしないんだろう?」「先生の言うやり方は正しくないと、内なる声が語りかけているのに、どうしてそんなものに従わなくてはいけない?」「わからないな。その規則がシモンさんやおれや、ほかのみんなにも正しいものなら、どうしてダビードにだけは当てはまらないんですか? それに、どうして人為的な規則なんて呼ぶんです?」「なぜなら、二足す二は、われわれの決め方次第で、イコール三にも五にも十九にもなり得るからだ」「でも、二足す二って四じゃないですか。"イコール"に特別変わった意味でも持たせないかぎり、自分で、指で数えてみたらいいですよ。一、二でしょ、三、四。まじで二足す二、イコール三だったら、なにもかもが滅茶苦茶になりますよ。こことは違う物理法則をもつ、別の宇宙にいるってことになる。現存するこの宇宙では、二足す二、イコール四。これはおれらの意思から独立した普遍的法則で、ぜんぜん人為的とかじゃないです。たとえ、シモンさんとおれが存在しなくなっても、二足す二は四であり続ける」「そうだろうな、しかしどの二とどの二を足すと四になるんだ? ……」"(ジョン・マクスウェル・クッツェー著『イエスの幼子時代』鴻巣友季子訳、pp.327-328)

なぜトァンはミァハを撃ったのか ‐ 『ハーモニー』試論 ‐

 『ハーモニー』で全人類のハーモニクスが達成される直前に、なぜトァンはミァハを殺害したのだろうか。ハーモニクスを間近にひかえた状況で行動の意味は乏しく、また、ハーモニクスが達成されれば個人そのものが無化される。本稿では、『ハーモニー』全体を概観するとともに、その疑問に回答したい。
 まず、作中で言明されている動機を確認する。

"「ヴァシロフは――残念だった。トァンのお父さんも」不思議と、ミァハにそう言われても頭に血が上りはしなかった。零下堂キアンの思い出と共に、ねっとりとした怒りが臓腑の奥に淀んでいるのは実感できるけれど。"(伊藤計劃著『ハーモニー』早川書房、2010年、p.330)

"ねえ、御冷ミァハさん、あのお昼、零下堂キアンがカプレーゼに頭を突っこんでから、このチェチェンのバンカーに苦労してやってくるまで、何度わたしがあなたのことを殺そうと思ったか考えたことはなかったの。"(同p.349)

 トァンがキアンとヌァザの二人分として、二発の銃弾を使った(同p.351)ことから、この独白が本心であることがわかる。
 ここで気になるのはミァハがトァンの殺意にたいし、とくに抵抗をみせないことだ。ミァハはトァンに依頼してコーカサスの風景がみえる場所に移動し、死を迎える。それはトァンが迎えるハーモニクスとほぼ同時で、また、明確な区別はされていない。

"身体が、脳が熱を失い、意識が、わたしはわたしであるという意識が、死という、昔ながらの単純で複雑な仕組みによって消え去ってゆく。たとえそれが大脳辺縁系のエミュレーションだったとしても、中脳が生み出すわれわれの意識とそれのあいだに、大した違いはない。"(『ハーモニー』p.352)

 ならば、ミァハが肉体的な死を拒まなかったのは、それがハーモニクスという意識の死と同質だからでないだろうか。
 では、ミァハが全人類のハーモニクスを試みたのはなぜだったのか。

"「幸福を目指すか、真理を目指すか。人類は〈大災禍〉のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないな動物であることの否定を選んだ。自然を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが生きるこの世界のすべてを人工に置換すれば、それが得られる。人類はもう、戻ることのできない一線を越えてしまっていたんだよ」(中略)それを憎んでいたのは、誰よりも否定していたのは、御冷ミァハ、あなたじゃなかったの。"(『ハーモニー』pp.337-338)

 この技術による社会とはどのようなものか。

"「権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」「誰かの言葉、それ」「ミシェル・フーコー」(中略)死っていうのはその権力の限界で、そこから逃れることができる瞬間――。「ここから出て行くには、やっぱり、それしかないのかな」わたしはそうつぶやいてみた。ミァハはじっと目の前の風景を見つめるというよりはそれと対峙しながら、「わたしは前、こことは別の権力に従わされてた。地獄だった」ミァハは振り返らずに背中で語り、「だから逃げてきた、ここに。でも、ここも充分狂っていた。向こう側と同じくらいには、人間が生きるための場所じゃなかった」「向こうって、どんな場所だったの」「こことは真逆な場所。向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」"(同pp.291-292)

 この引用は『知への意志』からだ。

"死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。一つの世界からもう一つの世界へと移ることで、死とは、地上的主権にもう一つの、奇妙にもより強大な主権が取ってかわることだった。死を取りまく豪奢は、政治的典礼に属していた。今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」点である。自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『知への意志』新潮社、1986年、pp.175-176)

"「生府。正確に言うところの医療合意体(メディカル・コンセンサス)。提供される医療システムについて一定の合意に至った人々の集まり。調和者(ハーモニクス)たち。そりゃ、生府にも評議員はいるけど、昔の政府の議員とはぜんぜん違う。評議員連中やコミッショナーあたりに、王様や政府ほどの権力は集中してない。なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなってしまったから。生府を攻撃しよう、って言ったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」"(『ハーモニー』p.46)

"権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配圏において実体化されるような戦略である。権力が可能になる条件、というか少なくとも権力の行使をその最も「周縁的な」作用に至るまで理解し得るものとする視座であり、それはまた、〈社会的な場〉を理解可能にする読解格子として権力のメカニズムを用いることを許す視座だが、このような条件あるいは視座は、最初に存在するものとしての中心点に、つまり派生して下へと降りる諸形態がそこから拡がるはずの主権の唯一の中枢に求められるべきではない。それは、己が不平等によって絶えず権力の状態を、但し常に局地的で不安定なものとして誘導する力関係というものの、揺れ動く台座なのである。権力の偏在だが、しかしそれは権力が己が無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。"(『知への意志』pp.119-120)

 本作にたいするフーコーの関係は、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングらにたいするドゥルーズ=ガタリの関係に類比される。

"テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さをスターリングは教えてくれました。「ネットの中の島々」にはとりわけインパクトを受けたと思います。「スキズ~」でも「巣」でもなく。いわゆるレッテルとしてのサイバーパンク的な「頽廃した近未来」でなく、我々の社会と極端に異なる遠未来でもなく、今のわれわれとあまり変わらない「ちょっとだけ未来」を描いていて、それがすごく新鮮でした。"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

"「トゥアレグ、というのがアラブ語でどんな意味か、知っているかね」「あいにく」「『神に見捨てられし民』だよ、お嬢さん。余所者が勝手につけた名前だ」"(『ハーモニー』p.38)

"「(前略)マリやニジェールアルジェリアの独裁者とも闘った。どれも同じ、帝国主義という名のハードウェアだよ。あなた方のいう〈生命主義〉とて、それらのソフトが入れ替わったに過ぎない代物だ」"(同p.40)

"「トゥアレグ族は知っているかい? サハラの部族だ。知らない?」(中略)「まあ、いい。彼らは自分たちを"ケル・タマシェク"と呼んでいる。"トゥアレグ"というのはアラブ人の呼び名だ――"神に見捨てられたもの"という意味だ」"(ブルース・スターリング著、小川隆訳『ネットの中の島々』下巻、早川書房、1990年、p.248)

"「(前略)ウィーン、マリ、アザニア――みんな帝国主義のハードウェアだ、ブランドネームのちがいにすぎない」"(同p.341)

 『ハーモニー』の郊外住宅地と、他者に寛容で同質な住民で構成された社会は、ウィリアム・ホワイトが『組織のなかの人間』で予言した未来図だ。ホワイトは、そのユートピアを『1984』のアンチ・ユートピアと同視している。

"集団に対するこのような敏感さをどのようにみようと、その道徳的基礎を認めることは重要である。新しい郊外住宅地における人との付合いが、個人的な特徴を非常に超越しているということは、確かに、アメリカの中産階級のもっている諸価値が、次第に同質化してきているということに原因がある。しかしそればかりではなく、もう一つの面として、非常に積極的な寛容ということに帰因している。そしてこのことを諒解しないと、郊外居住者のもっているディレンマの本当のむつかしさを評価することができない。"(ウィリアム・ホワイト著『組織のなかの人間』辻村明、佐田一彦訳、下巻、p.251)

"……しかしさしあたり、私としては、その要点を次のようにのべてよいと考える。人間は社会の一単位として存在する。自分一人だけでは、彼は孤立し、無意味である。人間は他人と協力するとき、はじめて価値のあるものとなる。なぜなら、集団のなかで自分を昇華させることによって、部分の総和よりはもっと偉大な全体を生み出す助けを果たすからだ。そこでは、個人と社会との間に、なんらの相剋もあるはずがない。相剋と考えられるものは、誤解であり、コミュニケーションの障害である。人間関係(ヒューマン・リレーションズ)に科学的方法を適用すれば、意見不一致をきたすこれらの障害は除かれ、社会と個人の双方の要求は一つにして等しい、という調和と平衡の状態が創造される。本質的に、それはユートピアンの信条である。表向きは、それは組織の生活の実際問題に貢献するものとみえる。かつまたその提案者たちは、彼らの研究態度をのべるさいに、しばしば(軟らかい(ソフト)に対して)硬い(ハード)という形容詞を使っている。しかし、集団の倫理の追従者たちを活気づけているのは、その将来への保証である。集団の倫理は明確な達成可能な調和への展望を与える技術と関連しているからだ。ここでは一八四〇年代のユートピア共同社会の信仰が、ただちに想起されるだろう。人間の性格はほとんど一方的に環境によって決定されるという、オウエンの共同社会におけると同じ観念がそこにみられる。フーリエの共同社会における、個人の意欲と社会の要求とは自然の秩序によって同義語なのであり、したがってなんの相剋もあってはならないとする同じ信念がまたそこにみられる。ユートピア社会主義の共同社会とおなじく、ここでは社会は狭い直接的な意味に解される。誰でも、人は社会的責務をもつと信ずることはできる。あるいは、集団の調和が共同社会の試金石だという信念を抱かずとも、個人は窮極的には共同社会に寄与すべきだと信ずることもできよう。しかしながら、私のいう集団の倫理にしたがえば、人間の責務は、ここに、そしていま、あるのだ。彼の義務とは広い意味での共同社会に対するものではなく、個人をとりまく現実の物理的なそれに向けられる。しかも、そこから背を向け――あるいは進んで反逆することによって、かえって結果的にはより大きく奉仕しうるかもしれないという見方はほとんど考慮されていない。実際、集団の倫理のもっとも熱烈な擁護者たちは、社会の広範な問題についてはごく僅かしか心を悩ますことはない。彼らがこの種の問題をかえりみないというのではない。むしろ彼らは組織の目標と道徳性とは容易に一致するものとみなし、社会の福祉といった事柄については、組織に代理権を委任していると考えるのである。"(同、上巻、pp.9-10)

"地獄はたとえどうあろうと、人間の魂にとってやはり地獄である。「偉大なる兄弟」が支配する「一九八四年」になれば、少なくとも人は、誰が敵であるかを――権力を好むがゆえに権力を求める一束の悪人ども――悟るようになるだろう。しかし、別の種類の一九八四年には、人は誰が敵であるかを悟らず、そのために武装解除されてしまうだろう。そして、最後の審判の日がやってきたとき、テーブルの片側に着席している人は偉大なる兄弟の悪しき従者たちではなかろう。その人々は大審問官のように心から諸君の役に立ちたいと望み、そのことを着々と実行しつつある物腰おだやかな治療家たちの一群であろう。"(同、上巻、pp.51-52)。

 さて、では、十三年前に自殺を試みた動機はなにか。

"だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。命が大事にされすぎているから。互いに互いにを思いやりすぎているから。とはいえ、ただ死ぬだけでは駄目だ、なにがしかの方法で健康そのものを嘲笑うようなやり方じゃなくちゃ。あの頃のわたしたちはそんな考えにとりつかれていた。"(『ハーモニー』p.45)

 社会と個人のあいだの齟齬の片面的な解消で、ミァハのことばでいえば幸福の否定であり(p.337)、十三年後に全人類のハーモニクスという完全なものになる。それは幸福と真理の一致ともいえる。

"老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。"(同p.362)

 すなわち、全人類のハーモニクスは十三年前の自殺の完成された形でもある。十三年前の自殺は社会にたいするテロリズムであると同時に、自己本位な目的の自殺でもある。

"わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。"(同p.336)

 『ハーモニー』は人類の意識が消滅したあとの世界に書かれたテクストという体裁だ。

"これが人類の意識最後の日。これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。"(『ハーモニー』p.359)

 同様の形式では、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』が先行する。

"この物語を横切っていった人々の人生、外見、性格に関して、われわれは多くの事柄を知っている。とはいえこの本は、証明可能な唯一の真実を映したものというより、一個のフィクション、部分的な思い出にもとづく信用に足る再構成とみなされるべきである。ミシェル・ジェルジンスキが二〇〇〇年から二〇〇九年のあいだ、その偉大な理論を構築するかたわら綴った回想や個人的印象、そして理論的考察の錯綜する複合体である『クリフデン・ノート』の刊行によって、彼の人生上の出来事、特異な人生観を形成するに至った分岐点や試練、ドラマについてはより多くが判明したとはいえ、なお彼の人生に関しても人柄に関しても多くの謎が残されている。逆に以下の記述は歴史に属するものであり、またジェルジンスキの業績が刊行されて以降の出来事についてはこれまで幾度も記述され、論評され、分析されてきたのであるから、簡単なレジュメで十分であろう。"(ミシェル・ウェルベック著、野崎歓訳『素粒子筑摩書房、2006年、p.339)

"この段階に到達して、人間に動物である部分が残されていた時代に書かれた社会学も経済学も、一夜で破産を迎えた。社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。"(『ハーモニー』p.361)

"意識が人間の機能として重要視されていた時代も、もう遠く昔に過ぎ去った。今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意志」が選択において重要な役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。システムに完全に従属した現在の人類にとって、旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが、それを知っておくことも無駄ではない。かつて、御冷ミァハと霧慧トァンという女性がいた。彼女たちこそ、我々の「わたし」の最後の弔い手。"(同pp.362-363)

"それはまた、大衆の精神にとって、哲学的問題が明確な指標としての意義をどれほど失っていたかということでもある。数十年に及びとんでもなく過大評価されてきたフーコーラカンデリダドゥルーズの仕事が、突如笑止千万とみなされ省みられなくなって以後、かわりとなる新たな哲学的思考が出現するどころか、「人文科学」を標榜する知識人全体が不信に晒されたのだった。"(『素粒子』pp.345-346)

"歴史は存在する。それは厳として動かしがたく、その支配を免れることはできない。しかし厳密に歴史学的なレベルを超えて、本書の究極の野心は、われわれを造り出した幸薄い、しかし勇気ある種族に敬意を表することである。痛ましくも下劣な、猿とほとんど差のない存在でありながら、この種族は心の内に数々の高貴な願いを抱いてもいた。責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。そしてまたこの種族は世界史上初めて、自らを超克する可能性を検討することができたのだし、数年間を経てそれを実行に移すことができたのだ。彼らの最後の生き残りが消えていこうとする今、われわれは人類に最後のオマージュを捧げてしかるべきだろうと考える。そのオマージュもまたいつしか忘れられ、時間の砂漠のうちに失われるだろう。しかし少なくとも一度はしっかりと敬意を表しておく必要がある。本書は人間に捧げられる。"(同p.348)

 ハーモニクスに達した人類が旧人類とはまったく異なる存在ならば、『素粒子』において人類があたらしい生命に希望を託してみずから絶滅したのと同様に、全人類のハーモニクスは人類の集団自殺だったということができる。本書は自殺のモチーフが散在する。十三年前の集団自殺が物語の端緒であり、トァンが捜査する事件は世界における自殺の同時多発であり、全人類のハーモニクスを正当化するのは世界で毎年数万件おきているという自殺だ。(『ハーモニー』p.343)さらに、ミァハは『若きウェルテルの悩み』に言及する。(同p.223)

 エミール・デュルケムは『自殺論』で自殺の社会的要因に社会的規制のゆるみであるアノミーを挙げる。

"だから、そうならないためには、なによりもまずこれらの情念(パッシオン)に限界が画されなければならない。その場合にはじめて情念は能力と調和することができるであろうし、したがって充足されることのできるものは個人のなかには存在しないから、個人の外部にあるなんらかの力が必然的にここに介入してこなければならない。肉体の欲求にたいして有機体の演ずる役割と同じような役割を、精神的欲求にたいしても演ずる、一つの規制力が必要となるのである。それは、この力がもっぱら精神的なものでなければならないという意味である。まどろみつづけていた動物の均衡状態を打ち破ったのは、ほかならなぬ意識の覚醒であり、したがって、この意識のみが、均衡を回復させるすべを与えることができる。物質的強制は、ここでは効果がうすい。物理・化学的な力によっては、人々の心を変えることはできない。欲望が生理的メカニズムによって自動的に規制されない場合には、その欲望は、みずから正当とみとめる限界を前にしてしかふみとどまることができない。人々は、決められた限界をふみこえるだけの正当な理由があると信じているときには、その欲望が制限されることに承服しないだろう。ただ、この正義の法(人々が正当とみとめた限界)も、前述のような理由から、彼らみずからが自分自身に課すというわけにはいくまい。だから、人々は、尊敬し、自発的に服従しているある権威から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、あるときは直接的、全体的に、またあるときにはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。なぜなら、社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性をみとめているからである。社会は、法律を布告し情熱(パッシオン)をこえてはならない限界をしめすうえで、必要にして唯一の権威である。"(『世界の名著47』収録 エミール・デュルケーム著、宮島喬訳『自殺論』中央公論新社、1968年、pp.205-206)

 豊かさはアノミー的自殺のひとつの原因だ。

"なにを行なう場合にも、欲望は、つねに多少は手段について考慮をめぐらさなければならないが、その手段とは、人がなにかを手に入れようと決めるとき、ある程度手がかりとして依拠したものである。したがって、けっきょく所有しているものが貧しければ貧しいほど、それだけ人は、自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。無力さは、人々に節度を守るようにさせ、また節度を守ることに慣れさせるし、そのうえ、中庸が支配的なところでは羨望をそそるものとてない。ところが反対に、豊かさは、それが与える力から、自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる。それは、物(ショーズ)がわれわれに及ぼしていた手ごたえを減じさせるので、そのため、われわれは、物をいくらでも手に入れることができると思いこんでしまう。ところで、人は、自分に限界が課せられていないと感じると、あらゆる制限をますます耐えがたいと思うようになるものである。(中略)もちろん、このことは、人がその物質的条件を改善していくことに異をとなえる理由にはならない。しかし、あらゆる豊かさの増大から生じる道徳的な危険は、たとえそれを救うすべがあるとしても、見のがされてよいものではない。"(同pp.212-213)

 自殺こそ、上述のフーコーが『知への意志』で権力にたいする生と死の転換で論点にしたことであり、その論法は伊藤計劃がミァハを擬したタイラー・ダーデンの語ったことだ。

"自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(『知への意志』p.176)

"テーマは百合です。女版タイラー・ダーデンといちゃいちゃする主人公が見物です。"(

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20081214

)"

"素晴らしい体力と知力に恵まれた君たち、伸びるべき可能性が潰されている。職場と言えば、ガソスタかレストラン、しがないサラリーマン。宣伝文句に煽られて、要りもしない車や服を買わされている。歴史のはざまで生きる目標が何もない。世界大戦もなく、大恐慌もない。俺たちの戦いは魂の戦い。毎日の生活が大恐慌だ。TVは言う「君は明日の億万長者かスーパースター」、大嘘だ。その現実を知って俺たちはムカついている。"(デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』1999年)

"知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースを混ぜると、ナパーム弾が作れる。家庭にあるもので、どんな種類の爆弾だって作れるんだぜ"(『ファイト・クラブ』)

"「メディケアの、タンク半分のメディモルさえあれば、大体のことができる。毒ガスを風呂場で造るなんてお茶の子さいさい、だよ」"(『ハーモニー』pp.15-16)

"わたしはといえば、戦場という名の喫煙所から喫煙所へ。空港から空港へ。葉巻から葉巻へ。酒瓶から酒瓶へ。"(同p.96)

 ミァハを失ったあとのトァンは『ファイト・クラブ』の自己破壊のように拒食や過食を試している。

 全人類のハーモニクスが十三年前の自殺の再試行ならば、なぜミァハとトァンはそこに全人類を巻きこんだのだろうか。

"「わたしたちは、未来に生きてるんだよ」ミァハはその一見ポジティヴに聴こえる言葉とは裏腹に、憂鬱そうな口調でため息をつき、「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」"(『ハーモニー』p.33)

 ここで思いだすのが、バラードの『結晶世界』だ。本作は結晶化していく世界で、登場人物の争いののちに、主人公がみずから結晶化に身投げすることで終幕する。いわば自殺だ。

"バントレスはこのことばを無視した。「われわれはみんな前にここに来たことがあるのさ、ドクター。誰もが間もなく気がつくようにね――もし"時間"がありさえすればだが」彼はその"時間"ということばを、鳴り響く鐘の音のように引っぱって、特有の奇妙な抑揚をつけて発音した。彼はそのことばの最後の反響が、消えゆく鎮魂曲のように、無数の水晶の壁の中にこだまして薄れてゆくのに聞き入った。「しかし、それはわれわれみんなそこから逃げ出して行っている何かだって気がするのさ、ドクター。――そうは思わないかね?」(中略)「時間から逃げ出して行ってるって?」彼はおうむ返しに尋いた。「そんなこと、まだ考えたことがなかったね。君の解釈はどういうんだい?」「それははっきりしてるんじゃないか、ドクター? 君自身の"専門"、われわれがここで周りに見ている太陽の暗い側、それが手がかりを与えているんじゃないか? 間違いなく癩病は、ガンのように、何よりまず時間の病気であり、その時間という特別な媒介を通して自分自身を拡大しすぎたことの結果じゃないのか?」サンダース博士はバントレスのことばにうなずきながら、相手が少なくとも顔付きでは軽蔑しているように見えるその時間という要素について論ずる時、その骸骨のような顔が生き生きしてくるのを眺めた。「それは一説ではあるね」彼はバントレスが話を終えた時に同意した。「あまり――」「あまり科学的じゃないが、かね?」バントレスは頭を後ろに引いた。前より大きな声を出して彼は弁じ立てた。「ウイルスを見てみ給え、ドクター。生きてもおらず、生命がないのでもない、その結晶状の構造を。それからその時間に対する免疫を!」彼は片手で窓じきいをひとなでして、ガラスのような粒子を一塊すくい上げ、それからそれを粉々になった大理石のように床の上にぶちまけた。「君もぼくも間もなくこんなようになるのさ、サンダース。そして世界の残りも全部だ。生きてもおらず、死んでもいないような状態にね!」"(『世界SF全集26』収録 J・G・バラード著、峯岸久訳『結晶世界』早川書房、1969年、pp.349-350)

"階下のバーテン――嬉しいことに少なくとも彼はまだ自分の持ち場を離れないでいます(他の者はほとんどすべて行ってしまいました)――のいうところによれば、森はいまや毎日四百ヤードほどの速さで前進しているそうです。やってきてルイーズと話したジャーナリストの一人は、この前進速度でゆくと、次の十年の終わりには、少なくとも地球の表面の三分の一が影響を受け、何十という世界の首都が、すでにマイアミがそうなっているように、虹のような結晶の層の下で石化してしまうだろうと主張しています――もちろん、あなたはあの放棄された保養地が、無数の大寺院の尖塔の立ち並ぶ都市(まち)、ヨハネ書から実体化した状況となっている報道記事をご覧になったことと思います。しかし、実をいえば、こうした先の見通しは、ほとんどわたしの心を悩ましてはいません。前にもいったように、ポール、この原因が物理学以上のものだということが、いまはわたしにははっきりしています。わたしが、かつてバントレスであった救いようもない幻を見てから二日後に、金の十字架を両手にしっかり持って森からよろめき出てきて、モン・ロワイアルから五マイルの軍隊の哨兵線に引っかかった時、わたしはもう二度と森へは行かないと固く決心していました。(中略)しかし、その時の気持ちがどうであったにせよ、いまはわたしは、自分がいつかモン・ロワイアルの森に帰って行くだろうことを知っています。毎晩、エコー衛星の砕けた円盤が頭上を通過し、銀のシャンデリアのように真夜中の空を照らし出しています。そしてポール、わたしは太陽自体が晶化し始めているのを確信しています。日没に、その円盤が深紅色の塵でベールをかけられる時、それは独特の格子模様、巨大な落とし格子で区切られているように思われます。そうした格子模様はいつか外方に拡がって、惑星や恒星に達し、それぞれの軌道上でそれを止めるでしょう。十字架をわたしにくれたあの勇敢な異端の神父の例が示しているように、あの凍った森には無限の報酬が見いだされます。そこでは、あらゆる生き物や生命のない物の変貌が目の前に起こりますし、われわれ自身の肉体的結果として、不死の贈り物が授けられます。この世界でわれわれがどんなに異端であろうとも、そこではわれわれは必然的に虹のような太陽の使徒になるのです。ですから、身体の回復が完全なものになったら、わたしはここを通過する科学探検隊の一つに合流して、モン・ロワイアルへ帰ります。何とかその隊から抜け出すよう工夫するのは、そうむずかしくないはずですから、そうしたらわたしは魔法をかけられた世界の寂しい教会に戻ります。その世界では、昼は夢幻的な鳥が石化した森の中を飛び、宝石化したワニが結晶性の川の土手に紋章上の火とかげのようにきらめき、そして夜は金の車輪のような腕をし、スペクトルの王冠のような頭をした彩飾された人間が、木々の間を走っているのです。"(同pp.424-426)

"いや~、「ホーリー・ファイヤー」とか読むと、スターリングってやっぱどこまでもオプティミストなんだな~って。もう元気いっぱい。イーガンもぼくはある種のオプティミストだと思いますし。わたしの場合は、バラードの心でスターリングのように書きたい、と(笑)"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

 全人類のハーモニクスは『結晶世界』における結晶化のような、自殺を安楽にする美しい幻想ではないだろうか。

 また、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で、人生の苦難の解決手段としての自殺を部分的に認め、しかし、それは世界そのものが存続する以上、部分的な解決にしかなっていないとして意志の否定を訴えている。これは、トァンがはじめに自殺を試み、それに失敗し、意識の消滅を選択したことを思わせる。さらに、ショーペンハウアーは同書で技術の進歩による福祉国家の完成と、それが人類の苦悩の解決になることはないという終末論を述べており、『ハーモニー』の世界観と一致する。

"人生というものは岩礁と渦巻にみちみちている海にほかなるまい。人間はこれらを避けようとしてこのうえなく慎重に気をくばっている。が、それでいて彼は知っているのだ。たとえ彼が努力と手だての限りをつくして岩礁や渦巻をくぐり抜けることに成功したとしても、まさにそのことによって、彼はひと船足ごとに、最大の、全面的難破――避けることもできずに救いようもない難破に近づきつつあるのだということを。いな、彼はもともとこのような難破をめざして――すなわち死をめざして舵を取っていたのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのであり、死こそ人間がこれまで避けてきたあらゆる岩礁よりもはるかにひどいものなのである。さて、しかし、ここでただちに注目すべきことは、人生の苦悩と苦患とがふえていくことはこれほどたやすいことであり得るし、全人生はいわば死からの逃亡において成り立っているといってもよいほどなのに、そのような死でさえ、一面では望ましいように思う人、自ら進んで死に急ぐ人が出てくるということである。ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、今度はたちまち退屈がまぢかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。"(アルトゥル・ショーペンハウアー著、西尾幹二訳『意志と表象としての世界』(『世界の名著 続10』中央公論新社、1980年)p.561)

"国家がその目的に完全に達したならば、国家は人間の諸力をそのなかに統合することで、人間以外の自然を自分にますます役立てることができるわけだから、最終的には、あらゆる種類の悪禍がとり除かれて、やがてある程度まで「怠惰安逸の歓楽境」に近いような状態が出現することにならないともかぎらない。しかし、現実の国家はまだいぜんとして、この目標からはるかにへだたった所にあるということがひとつ言えるし、さらにもうひとつ、かりに目標に達したとして、人生にとってまったく本質的な悪禍というものはあいかわらず無数に生じてこようし、よしそれらをことごとく除去したとしても、悪禍の立ち去った跡は、たちまち退屈によって占められ、今までと同じように人生を苦しいものにするであろう。さらにもうひとつ、個人同士の争いというような小事でさえ、国家はこれをすっかり解消する力をもっていない。国家は大事であれば罰則をもって禁圧するが、小事はいい加減にあしらってしまうからである。そして最後に、国内から不和の女神エリスを運よく放逐すると、これは結局国外に向かっていくことになる。すなわち不和の女神が個人間の争いとして国家組織の手で追放されると、それは今度は諸国民同士の戦争として、いま一度外からやってくるのであって、個人間の争いのときにはいちいち賢明な予防手段を講じて流血の犠牲だけは免れてきたというのに、戦争になると、今度は累積した負債として、大規模なかたちで、一挙に、流血の犠牲が要求される。いやそれだけにとどまらない。以上のことがことごとく、幾千年もの経験に培われた人間の賢さによって、よしんば最終的に克服され、除去されたとしてみよう。そうなったあかつきには、今度はこの地球全体がしまいには現実に人口過剰に陥る結果になるであろう。その結果の怖るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持主にしか思い浮かべることはできない。"(同p.617)

"それにしても自殺はまたマーヤーの傑作だともいえる。それは生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着する号泣の表現なのだ。われわれはこの矛盾撞着を意志の低次元の諸現象において、自然の諸力のあらゆる発動の間の不断の闘争のうちに、物質と時間と空間とを有機的なあらゆる個体が奪い合う不断の闘争のうちにすでに認めておいた。この闘争は意志の客観化の段階が少しずつ高まっていくにつれて、しだいに恐ろしいほど明瞭にきわ立ってくる闘争であったが、とどのつまり意志の客観化の最高の段階――人間のイデア――に到達すると、この闘争はただ単に同一イデアを表わす個体同士が相互に滅ぼし合うということだけではなしに、同じ個体が自分自身に対して宣戦を布告するということさえもする、そういう程度にまでも達するものなのである。個体が生を意欲するときの激しさ、個体が生を阻むものに歯向かう、つまり苦悩に歯向かうときの激しさが、逆に個体をして自分自身を破壊するにいたらしめる激しさにつながっているのである。その結果、この個体的な意志は、苦悩に打ち挫かれてしまうくらいなら、自分の身体――これは意志自身が可視的になったものにすぎない――を個体自身の意志的な行為によってなきものにしてしまう方をむしろ選ぶ。自殺者は意欲することを中止するわけにはいかないという、まさにその理由のために、生きることを中止する。このとき意志は、意志の現象をまさに廃棄することを通じて、かえって自分自身を肯定していることになるのであり、意志はもはやそういう仕方以外においては自分を肯定することができなくなっているからなのである。"(同p.691)

"こうして「個体化の原理」がますます明らかに看做されていくにつれて、われわれはそこからまず第一に自由なる正義を、第二にエゴイズムの完全な廃棄にいたるまでの愛を、そして最後に諦念もしくは意志の否定を発生させるにいたったのであった。キリスト教教義論の諸教義は、そのものとしては哲学とは無関係なのであるが、わざわざわたしがこれらの諸教義をここに引合いに出しておいたのは、ただ次のようなことをここに示しておきたかったがためにほかならない。本書の考察全体から生まれてきた倫理、本書の考察のあらゆる部分とぴったり符合し連関するこの倫理は、表現のうえからは目新しく、前例のないものかもしれないが、本質的にみればけっしてそんなことはなく、キリスト教本来の教義と完全なまでに一致し、しかも要点は、キリスト教本来の教義そもののの中にすでに含まれ、存在していたといえるのである。本書の考察全体から生まれてきたこの倫理は、じつにまた、インドの聖典というまったく別の形式で述べられたもろもろの考えや道徳訓とも厳密に一致しているのである。以上のことと合わせて、キリスト教教会の諸教義に読者の注意をうながしたことは、次のような見掛けのうえでの矛盾――すなわち一方においては動機が突きつけられると性格のいかなる現われも必然的であること、他方において、意志が自分自身を否定し、性格と、性格にもとづく動機の必然性とをともに廃棄してしまう意志自体の自由、この二つの間の見掛けのうえでの矛盾を、説明し、解明することに役立ったのであった。"(同p.705)

 ここで、はじめの問いにこたえよう。ミァハは十三年前の自殺で、現世への未練になる書物を焼滅させている。

"燃やすの、全部。その言葉が本当ならば、ここにあるのはミァハがお小遣いのほとんどを注ぎ込んで製本してもらった、ミァハの持っている小説全部のはず。そのときのわたしはミァハの家に行ったことがなかったから、本当にそこにあるのがミァハの持っていた本のすべてかどうかはわからない。でも、ミァハが嘘をついているようにもまた、見えなかった。ミァハが言う。「多分これを持っていたら、行けないと思うから」わたしは訊いた。「行けないって……」ミァハは片手で周辺を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。「ここの、向こう側に。皆が天国とか地獄とかあの世とか言ってる世界に。無に。逝けないかもしれない、この子たちがわたしを地上に縛りつけて。もう少し経つまでほっといたら、からだ、弱っちゃって、本をここに運ぶことだってできなかったと思う」"(『ハーモニー』pp.332-333)

 『ハーモニー』がトァンの主観における物語で、全人類のハーモニクスを自分の意思で実行したならば、なぜトァンがミァハを殺害したかわかるだろう。トァンはハーモニクスという完全なかたちの自殺を迎えるまえに、この世界の未練であるミァハを消したかったのだ。それは火葬だ。

"火葬、っていうの。そのときは、棺のなかに死んだ人が好きだったものを入れたんだ。死体の処理が蛋白分解液になってから、そういう習慣はなくなってしまったんだけどね。これはミァハの火葬なの、とわたしは訊いた。うん、とミァハは答える。わたしの棺に、本は入れられないからね。わたしに力をくれたものは、わたしが連れて行く。"(『ハーモニー』p.336)

 

劇場版『ハーモニー』レビュー

(本稿は劇場版『ハーモニー』を鑑賞した筆者が、映画としては最悪、百合としては最高という二心に分裂した苦悩を反映してふたりの女子高生が対話する形式で書かれています。何卒ご了承ください)

 ふたりの女子高生が映画館で集合した。劇場版『ハーモニー』をみるためだ。ひとりはクローム色の革製のジャケットに、ぴったりとしたジーンズを履いている。肩口で切った髪は自分で染髪しており、手入れを怠り、一部が枝毛になっていた。もうひとりはブラウスに緑の薄手のカーディガンを羽織り、細身のスカートを履いている。黒髪をまっすぐに伸ばしていた。
 革ジャンの少女、未来はSFファンで、もうひとりの小百合は百合マンガの愛好家だった。ふたりは女児向けゲーム『プリパラ』、そしてそのアニメにSFと百合の両面があることから意気投合し、親友となっていた。SFとして多数の賞を受賞し、百合としても名高い『ハーモニー』の劇場版をふたりは楽しみにしていた。
「劇場版『ハーモニー』楽しみだね、未来ちゃん」
「うん。監督が『鉄コン筋クリート』のマイケル・アリアスだもん。きっとすばらしい映画だよ」
 場内に入ると、すでに大半の観客が入場していた。ただ奇妙なことに、観客のほぼ全員が大学生とおぼしき十代から二十代の若者で、高田馬場の居酒屋のような雰囲気を呈していた。
「おれ『ハーモニー』もってきたよ」
 ひとりの若者がふたりの友人に白色の文庫版『ハーモニー』を示す。ふたりはほほえみ、同様に文庫版『ハーモニー』を取りだした。
 三人は片手に文庫版『ハーモニー』をもち、両腕を交差させて円陣を組んだ。声を合わせる。
「『いこう、ハーモニーの世界へ』!」
 未来と小百合はそれを嫌悪の眼差しでながめた。
「厄介なオタクだ。ああいうオタクが映画をみたあとにツイッターで悪口とかをいうんだよ」
「やだね」
 未来が小百合にほほえんだ。
「わたしたちはああいうオタクとはちがうからね。劇場版『ハーモニー』を心から楽しもうね!」

 上映終了後、未来は死んでいた。
 一方、小百合は晴れやかだった。場外に出る足取りも軽い。
「ねえ、いっせーのせ、で感想をいおう? せーの」
「最悪だった!」
「最高だった!」
 ふたりは愕然とたがいを見つめた。ふたりは喫茶店にはいった。未来がとつとつとはなしだした。
小野俊太郎の『フランケンシュタインの精神史』によると、『屍者の帝国』は人造人間であるフランケンシュタインの怪物が、メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を発想する源をつくったエラズマス・ダーウィンの孫であるチャールズ・ダーウィンとなる転倒がおこることで、作者の手によるテクストが主体となってあたらしいテクストを生みだすことを象徴しているらしい。遺稿を継いだ『屍者の帝国』自身がそれを現前している。だから、円城塔が原作から大幅に改作された劇場版『屍者の帝国』に、『あなたがそこにいてくれてよかった。』というコメントを寄せたのもそういう意味だったんだと思う。…ってそれで納得できるか!」
 未来はキレた。
「1800円払って十代の腐女子の好きそうなBLみせられてたまるか! 『ゆるゆり なちゅやちゅみ』をみたほうがマシだ!」
「『ゆるゆり なちゅやちゅみ』を悪くいわないで」
「さっきみた『ハイスピード』の劇場予告もみて思ったけど、十代の腐女子の好きそうなBLはどうして登場人物がみんな情緒不安定なの? 『THX-1138』の抑制剤を飲んだほうがいいんじゃない?」
「BLは知らないけど、劇場版『ハーモニー』は百合に焦点を当てていてよかったよ。百合の要素は完全に捨象されることも覚悟していたからね」
「『マルホランド・ドライブ』みたいにちゅっちゅ、ちゅっちゅしやがって。暴力表現もだめなデヴィッド・リンチみたいだし」
「『マルホランド・ドライブ』より『ドライヴ』かもね」
「彩色がニコラス・レフンみたいにけばけばしいんだよ。『ハーモニー』は近未来だ。それなら『ガタカ』や『her』みたいな彩度を落としたやや幻想的な、現実に近い風景を予想しないか? アンドリュー・ニコルが『ガタカ』で予算の都合で未来的な車のデザインができなかったときにどうしたか知ってる? スチュードベーカー・アヴァンティを使ったの。未来的なデザインが用意できないときは、すこしクラシックなデザインを使ったほうがいいってね。劇場版『ハーモニー』の車はなんだ? まるでバトルドームだ」
「網の覆いがあるやつ?」
「町並みも最悪だ。なんでだれもビルについたピンクのガムをそうじしないんだ? 『色彩の薄い立方体が群れて集まる住宅地』がなんでああなる? どうして『マイノリティ・リポート』みたいにできなかったんだ。でも犯罪予防局が予知システムを開発していたら、劇場版『ハーモニー』は公開されなかっただろうね」
「どうして?」
「怒り狂ったファンがスタッフを殺すからだよ!」
「ヒュー!」
「キアンとトァンの会食するビルなんて、まるっきり『鉄コン筋クリート』の塔そのままじゃないか! STUDIO4℃の社員は同じものしか描けないの!? わたしのママだって、『今日は遅くなります』と『夕飯は冷蔵庫のものをチンしてください』のふたつくらい書けるよ!」
「早急に家庭内の話合いをもったほうがいいと思う」
「拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)も最悪。いまは2015年だよ。どうしてあんなに洗練されていないの? まるでピンクのスカウターだよ。戦闘力の代わりに社会評価点(ソーシャル・アセスメント)が表示されるけどね。空港のモニターに『健康』『社会』って表示されるのはなに⁉︎ わたしがみたのは『ニンジャスレイヤー』なの⁉︎
「わたしは『ユージュアル・サスペクツ』の小林弁護士事務所の『力』『成功』『財産』って印字された磨りガラスを思いだしたよ」
「衣装もひどい。なんでスーツにピンクの襟カラーがつけられているの? それが未来のオシャレなの? おまけにキアンは縄文土器みたいなかっこうをしているし。これなら『スタートレック』の低予算全身タイツのほうがマシだよ。螺旋監察官の制服なんて対魔忍と区別つかないんだけど! なんで七十二歳のシュタウフェンベルクまで太ももを露出しているの⁉︎」
榊原良子声の三十代にしかみえない七十二歳の独身ハイレグおばさんなんて最高じゃない」
「もっとも、美術についてはオープニングでいきなりそそり立つWiiリモコンが出てきたときに覚悟していたけどね」
「わたしはiPodかと思った」
Wiiリモコンはいいさ。イントロを文章で示すなら、なんでそこでカットを割るんだ!? だれが考えてもあそこはカットを割っちゃいけないところだろ! それどころか全編に渡って、ずっとカメラがパン、ティルトしつづけているぞ! 安っぽくてまるでマイケル・ベイか大手配給の韓国映画みたいだ! 『ハーモニー』の内容を考えれば静的なカメラワークが当然だろ!?」
「『ハーモニー』はロケーションが世界各国におよぶスパイ活劇の側面もあるから、カメラワークが扇情的なことは否定できないと思うよ。バグダッドの旧市街とバンカーのシークエンスはよかったじゃない」
「ききたいんだけど、ディアン・ケヒトはなんで床までガラス張りなの? わたしがオヤジだったら一日中その下でスカートの女性が通りがかるのを待ってるよ。小泉花陽もいるしね。それに、ヴァシロフと撃ちあいをするときの『灰とダイアモンド』のオマージュはダサすぎだろ。冒頭とふたつだけのアクションシーンなのに、どうしてここだけカメラワークを利かせてないの! 逆だよ! 編集も雑だから展開がつぎはぎにしかみえない! それに劇伴が野暮ったすぎる!」
「トァレグ族が出てきたときに民族調の音楽が流れてきたのは笑えた」
 未来はため息を漏らした。
「どうせレズキスオチなら、『桜Trick』のオープニングを120分ループ再生していたほうがマシだった」
「物語が『ハーモニー』なんだからいいじゃない」
「ぜんぜん『ハーモニー』じゃねーよ! 伊藤計劃は『バラードの心でスターリングのように書きたい』っていったんだ! どこがバラードだ! 自動車でレイプするぞ!(※轢殺するの意味)だいたいミァハの父親がヌァザであることを明かすのが中盤だから、後付けにしかみえないんだよ! 『ハーモニー』は権力の分散した世界なのに、どうして一部の権力者に支配された世界になってるんだよ! メディケアは各家庭に配備されているって原作に書いてあるのに、なんでわざわざ列をなして薬の配給を待つひとびとのシーンをあらたに挿入しているんだよ! 『リベリオン』か! あたまが『メトロポリス』の時代でとまっているんじゃないか!?」
「たしか『メトロポリス』って戦前だよね」
「おまけに百田尚樹レベルの民主主義論を三回もぶちこみやがって! なにが『民主主義でわたしたちが責任を担うようになった。でも、わたしたちのなかに悪いものがあったとしたらどう?』だ! そういう意味じゃねーよ! これじゃフーコーじゃなくて『フーコーの振り子』だっつーの! 2001年9月11日の世界貿易センタービルにいなければ時代の変化もわからないのか!? わからなくてもせめて原作を読めよ! 爆弾積んだ零戦にのせてツインタワーにカミカゼアタックさせるぞ!」
 未来は夢想した。自分が二丁の拳銃をかまえ、ガン=カタでSTUDIO4°Cの社員をつぎつぎに血祭りにあげるところを…
「銀ピカあたまは『1984』のビッグ・ブラザーか!? ゼーレ(※『エヴァンゲリオン』)みたいな螺旋監察官会議や、拡現(オーグ)で通信相手をクレイアニメで再現してくれる面白サービスはがまんしても、これはひどすぎる! マイケル・アリアスが『わかるひとには「ここはマイケルがやったシーンだな」ってわかる』といったらしい。おまえを101号室にぶちこむぞ!」
 未来は目に涙を浮かべていた。
「こんなことなら千円札を燃やして遊んだほうがマシだった…」
「お札を燃やすのはかなりの快感だから、それをこえるのはなかなか難しいよ」
「混乱する世界の映像も『映像の世紀』みたいだったし… 『パリは燃えているか』を劇伴に制作委員会のメンバーを壁にならばせてひとりずつ射殺したい…」
 濡れた目で小百合を見あげる。
「あんたは文句はないの?」
「バンカーのシークエンスがふたりの再会からミァハの独白、暗転と銃声まですべてが完成されていたからかなり満足。欲をいえば、どうせふたりの関係に焦点を当てるなら、もうすこし学生時代にシーンの配分を増やすべきじゃなかったかな。ディレクターズ・カット版に期待」
「そんなに百合が好きなら『ヴァルキリードライヴ マーメイド』でもみてろよ!」
「もちろん無修正版のためにAT-Xに加入して、最高画質で毎週録画してる」
 未来は号泣した。
「『ソラリス』みたいに前作の失敗をふまえたふたつ目の劇場版が制作されるかもしれないじゃない。レムは二度目の映画化にも文句をいってるし、劇場版『ハーモニー』はどちらかというとソーダバーグ版の『ソラリス』みたいだけどね!」
 未来の泣き声がいっそうおおきくなった。
「もういやだ… 『未来世紀ブラジル』のサム・ラウリーみたいに夢の世界に逃避したい」
「それ、肉体は拷問されてるよね」
 ガバッとあたまをあげる。
「『THX-1138』の抑制剤を用意して! もうこんな悲しい思いはしたくない!」
 小百合は顎に指を当てた。
「百合SFはマンガ版がすばらしい出来で、映画化が失敗に終わるのがよくあるパターンみたいだね。『ルー=ガルー』もそうだったし」
 小百合は劇ハモで出てきた妊娠検査薬のような薬剤入れからカプセルを取りだした。
「これを飲めば、意識が消滅する」
 未来は迷わず嚥下した。
 こうして無になった女子高生は三十四歳のオタクと付きあったのだった。(了)

 

『いたいけな主人』論 アリストテレス『詩学』から笠野頼子まで

 前回、『いたいけな主人』(中里十著、小学館、2009年)がメタフィクションの構造をとっていることを確認した。今回は、なぜ本作がメタフィクションの構造をとっているか考察し、あわせて光の行動を読みときたい。

 まず、光が陸子と別れるまでの行動を確認する。はじめにみておきたいのは、光と陸子が共犯的な役割の演技をおこなっていることだ。光は登場しての第一声が"「恐縮の極みでございます。私も一日千秋の思いでございましたが、陛下の快活なお姿を拝見して、待ち遠しく思ったことなどすっかり忘れてしまいました」"(『いたいけ』p.14)であるように、国王護衛官という立場で芝居がかって畏まり、それは陸子の気質に通じるものでもある(『いたいけ』p.24)。国王護衛官の一次選考でふたりは出会う。このとき光はただの野次馬根性で選考に応募し、陸子に特別な感情をもっておらず(『いたいけ』p.19)、陸子は丁寧語ではなし、光も敬語を忘れる(『いたいけ』pp.19-21)。だが、このとき光が陸子に惚れることでふたりの運命はおおきく変わる。そして最終選考でふたりは国王と国王護衛官の立場でたがいが死ぬ状況をロールプレイし、その関係が固着する(『いたいけ』pp.22-26)。
 本作の文体はその役割の演技によるものだ。『いたいけな主人』は一人称小説であり、これはおなじ著者の『どろぼうの名人』(小学館、2008年)、『君が僕を』(小学館、2009-2010年)も同様だが、本作は第二文が"私は陛下のご実家にお迎えにあがっていた。"(『いたいけ』p.14)であり、全編が過剰敬語で語られる。
 そうした文体の意味とはなにか。中里十は本作の表紙の折返しで『戦場の小さな天使たち』(ジョン・ブアマン監督、1987年)について語っている。"イギリスの映画に『Hope and Glory』という傑作があります。タイトルを直訳すると、『希望と栄光』。しかし日本公開時の邦題は、『戦場の小さな天使たち』。この邦題をつけた人を、私は尊敬しています。なぜこんな邦題に? なぜ尊敬? それは、映画本編をご覧ください。ぜひ。"『戦場の小さな天使たち』は第二次世界大戦中の空襲下のロンドンを子どもの目線で描いたものだ。独特なのは、子どもの視点であるため、悲惨な戦時生活が心躍る冒険に満ちたものとして描かれていることだろう。映画は最後、学校が爆撃され、休校になったことに欣喜雀躍する子どもたちと、「それが人生で最良の日だった」という主人公のビルのナレーションで幕を閉じる。大人の視点ならば、学校が爆撃され休校になることは悲劇のはずだ。この「天使」という単語は、最終章の章題でもある。"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"(なお、『ぴたテン』8巻の引用だ)最終章が光によって語られた「悲劇よりも悲しいハッピーエンド」であることは前回確認したとおりだ。本作では「天使」という単語がもう一箇所で登場する。
 "私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。(中略)自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。陛下のお顔と同じく、お心も天使のようでなく、緋沙子を捨てようとなさる。繰り返すこと。自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。"(『いたいけ』pp.245-246)陸子は捨て子であり、緋沙子を捨てることで自身の体験を再現しようとする。"でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として。二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。"(『いたいけ』p.243)"繰り返すこと。陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。"(『いたいけ』p.245)中里十は本作のあとがきで、『オデュッセイア』の解釈について補足するときにアリストテレスの『詩学』を引用している。アリストテレスは『詩学』で、すべての叙事詩と悲劇、喜劇などの詩作は再現すなわち模倣(ミメーシス)であるとしている(『詩学』(松本仁助訳、岩波書店、1997年)p.21)。ありうべきこと、すなわち普遍的なことの模倣であり、これはプラトンが『国家』で述べた、悲劇作家や画家は、普遍的なものである〈実相〉(エイドス)と、それを具現化する製作者にたいし、具現化されたものを模倣する三番目のものだという仮説(『国家』(藤沢令夫訳、岩波書店、1979年)下巻、pp.302-312)を発展させたものだ。千葉国王が抽選制であり(『いたいけ』p.75)、それがプラトンが同時代の課題として『国家』で述べた僭主独裁制を防止(『国家』下巻、pp.216-221)する方法で、アリストテレスが『政治学』で発展させ、共和制を成すとしたものであるのは興味深い(『世界の名著8』収録 アリストテレス著、田中美知太郎責任編集『政治学』中央公論新社、1972年、p.181)。陸子のおこなおうとする再現が具体的な事実の模倣であるプラトンのものであるのにたいし、光のいう「天使」とはアリストテレスが模倣の対象だとする普遍的なものだろう。そして、すべての創作が再現である以上、光と陸子の役割の演技もまた再現だといえる。光はもとは漫画家を志望しており(『いたいけな』p.75)、才能が発揮されるときを多くの偉大な作品が誕生した十五世紀のフィレンツェに喩えていた(『いたいけ』pp.75-76)。そして、国王護衛官として陸子と特別な関係になったときに、その夢は捨てられる。"私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことでなくても。そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。さようなら、私のフィレンツェ。"(『いたいけ』p.82)

 また同時に、『いたいけな主人』は『オデュッセイア』の再現でもある。『オデュッセイア』の再現にはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』という先例がある。『いたいけな主人』が『オデュッセイア』の筋(ミュートス)の再現であるのにたいし、『ユリシーズ』はその細部と綿密な対応をしておりおおきく異なる。しかし、第9章の章題にポストモダン文学の旗手である笠野頼子を引き、メタフィクションの構成をとる本作が『オデュッセイア』の再現でありながらこの小説を無視していることは考えづらい。アリストテレスは創作を普遍的なものの模倣と定義したが、近代以降の文学ではその模倣自体がエクリチュールとして問われることになる(『零度のエクリチュール』(ロラン・バルト著、渡辺淳・沢村昴一訳、みすず書房、1971年)pp.5-7)。その結果、ポストモダン文学やメタフィクションが誕生する。偶然ということもあるが、陸子の宿願である中学生のメイドの三人、岬早苗、松山結香、木下桃子は第13挿話「ナウシカア」の三人の少女、高飛車なシシー・キャフリー、メガネをかけたイーディ・ボードマン、可憐なガーティ・マクダウェルと対応する。なにより、光と陸子は賢君のオデュッセウスと貞淑なペネロペイアより、『ユリシーズ』でパロディされている妻に甲斐甲斐しく尽くすブルームと浮気症のモリーに喩えたほうが適当だ。モリーは第18挿話「ペネロペイア」で語られるとおり、わがままだが内心では夫のことを愛している〈いたいけな主人〉だ。
 陸子の芝居は芝居であって、芝居でない。"もともと陛下には芝居がかったところがあられる。慣れないうちは、陛下の感情表現はわざとらしく思えることもある。茶番という夢はさほど無理せず見られる。けれどその夢では、あまりいい気持ちにはなれなかった。あのとき、陛下のお心の奥底に、じかに触れたと思ったのに、それも茶番になってしまう。茶番――護衛官選考の最終面接のことを思い出す。あのとき私は、陛下との絆を確かめたと思った。確かめたはずなのに、あとで不安になった。あれは茶番だったのではないか、と。それでもいい、陛下のお側にお仕えできるなら、と思った。私はやっといまになって信じている。陛下のなさることは、まばたきひとつに至るまで、お心をそのまま映している。どんなに嘘をおっしゃり、隠し事をなさっても、みな真心からのことだ。そのことを知らなかったわけではない。けれど心のどこかで疑っていた。もし、なにもかもが真心からのことだとしたら、私はあまりにも、息もできないほど、愛されている。"(『いたいけ』pp.278-279)陸子が芝居がかっている、つまり本心をさらせないのは幼少期に母親に捨てられたからだと思われる。光は緋沙子を助けるために陸子のその深部に踏みこみ、二人が共犯的におこなってきた役割の演技は崩壊する。"「……ひかるちゃん、どうして泣いているの?」「陸子さまを――ちゃんと――守ってあげられなくて――」頭が回らない。言葉遣いが敬語にできない。"(『いたいけ』p.276)そして、ふたりはたがいの愛を確認するが、同時に陸子は光を馘首する(『いたいけ』p.279)。
 そして、光と陸子は離別するが、千葉王国が政情の変化により崩壊の寸前に達したことで、光はふたたび陸子のもとへもどる。それは前回説明した『オデュッセイア』の再現であると同時に、かつての光と陸子の役割の演技の再現でもある。なぜなら、陸子が本心をさらした以上、もはやふたりが役割の演技を継続することはできず、ふたたびそれが開始するとしたら、かつての演技の再現であるからだ。しかし、光はそれを否定しない。護衛官訴訟の最高裁判決が下される直前に光は述懐する。"緋沙子が現れるよりもさらに前、陛下がまだ私に触れてくださらなかった日々。あのとき私は幸せだった。その幸せに、自分で気づくこともなかった。そこは楽園ではなかったけれど、楽園よりも素晴らしいところだった。そこは一四五〇年のフィレンツェだった。そこで私はなにかを作っていた。それは絵のようには残らないし、はっきりと名指すこともできない。きっとルネサンスの芸術家は、「芸術」なんてものは作らなかった。彼らは、建築を飾るための絵や彫刻を作りながら、それを通して、名指すことのできないなにかを作っていた。そのなにかを、あとで「芸術」と呼ぶようになった。私が作ったものは、名づけられることもなく、忘れ去られるだろう。それでいい。あれは陛下のためにだけに作ったものだ。自問自答する。私はあそこに戻りたいだろうか? ――いいえ。あそこにいた私は、自分が幸せだとは知らなかった。なにかを作っているとは知らなかった。だから、そのなにかを持っているのは、その素晴らしさを知っているのは、あそこにいた私ではない。いまの私だ。それに、緋沙子。もしあそこにいたままなら私は、緋沙子を眺めているだけだったはずだ。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。いまならわかる。本当に素晴らしいことは、一度だけ起こる。二度目はいらない。たとえば人が二度生まれることがないように。"(『いたいけ』pp.410-411)
 それにつづく最終章の章題は上述の"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"だ。最終章の希望は光による創作であり、現実には陸子は逮捕され、緋沙子が陸子に再会することは叶わず、千葉再分離運動の過激派の活動は激化し、自衛隊とロシア軍の緊張は限界まで高まり、千葉内務省の要員だった美園の身も危ないだろう。だが光は偽史を語る。なぜなら、それが光と陸子のたがいに合意した主人と従者という関係のゆくさきであり、母親に捨てられて育った陸子が必要とした、その心に寄りそう方法だからだ。それは人間の営為であり、フィクションなのに美しい。

『いたいけな主人』の最終章の誤読を解く

"「ホメロスの時代には、ギリシアはどん底から抜け出したばかりだったの。紀元前一二〇〇年くらいまでギリシアには、ミケーネ文明っていう文明があった。戦争でこの文明が滅びて、ギリシアは貧しく野蛮になった。ホメロスのころには、貧しくなる前のギリシアがどんなふうだったか、すっかり忘れられてた。ホメロスが描いてる世界は、ミケーネ文明とは似ても似つかない。でも、たぶん、昔のギリシアはいまよりずっと素晴らしかった、ってことだけは覚えてた。だから『オデュッセイア』のラストには、『昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほどかった』っていう嘆きがこめられてる。ペネロペは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元どおりになる――かなわなかった願いがこめられてるの。本当ならペネロペはさっさと再婚してるはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、オデュッセウスを待ちつづけた。本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、イタカに戻ってきた。本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳りつづけたはず。だから物語のなかでは、すごく残酷に皆殺しにされた。ひさちゃんはさっき、夫婦が再会してめでたしめでたし、で終わらせちゃったでしょう。原作はちょっと違う。夫婦の再会のあと、オデュッセウスは父親にも再会して、お互いの無事を喜びあう。それと同じころ、オデュッセウスに殺された貴族の仲間が一致団結して、オデュッセウスに復讐するために王宮に向かう。オデュッセウスはわずかな手勢とともに迎え撃つ。その戦いを、女神アテナがやめさせたところで、めでたしめでたし、になる。こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽいでしょう。皆殺しはしないで、特に悪かった奴を見せしめで殺すだけにすればいいのに。父親との再会を先にすませて、ラストは夫婦の再会で締めくくればいいのに。でも私は、意味があることだと思う。『オデュッセイア』という物語が嘘だから、ありえないことだから、こうやって終わらせたんだと思う。これは嘘だよ、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよ――って念を押すために。オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい」"(中里十『いたいけな主人』pp.306-307)

 

"フランス語では歴史のことをhistorieといいますが、この単語には「物語」という意味もあり、さらには「作り話、でたらめ」という意味もあります。本書にも、それなりのhistorieがあります――いえ、「ある」ではなく「ありうる」のほうが正確でしょう。より正確を期すなら、「historieを語ることができる」と言うべきでしょう。"(あとがき)

 ネット上の『いたいけな主人』の感想をみたところ、最終章を字義どおりの意味で受けとっているひとが多くみられたので本稿を執筆することにしました。なので、ここまででなんのことかわかった方はこれ以上読む必要はありません。
 本作は光が陸子と別れ、緋沙子とともにロシアに移住するところでおおきな転機をむかえます。その章の冒頭におかれているのが上記の『オデュッセイア』の解釈です。その後、光は作中で述べられているように(pp.321-322)、さながら『オデュッセイア』のように荒廃した千葉王国に帰還し、陸子に再会します。ただし、この『オデュッセイア』の解釈は、作者が"考古学が明らかにしたミケーネ文明の姿と、『オデュッセイア』に描かれた世界はあまりにも食い違っており、設楽光の解釈は学術的に無理があります。"(あとがき)と補足しており、フィクションです。
 本文で直接的に対応が示されているだけでなく、『いたいけな主人』そのものが『オデュッセイア』のパロディとなっています。オデュッセウスがなぜイタカを離れていたのか、本文では詳述をひかえていますが、これは美貌の女神であるカリュプソに七年間岩屋に引きとめられたためです。成長し、おそろしいほどの美しさを身につけた(p.304)緋沙子は光をロシアに引きとどめます。平石緋沙子という名前も、「石にひさぐ」でカリュプソを連想させます。
 本文ではただ「貴族」とされていますが、『オデュッセイア』では多くの場合「求婚者たち」と記述されています。貴族など有力者たちはペネロペに求婚するためにオデュッセウスの館に集っているからです。陸子の身柄を引きうける候補の旧宮家の継嗣、駐日ベラルーシ大使、千葉統合担当大臣のうち、旧宮家の継嗣のみならず、政治家の千葉統合担当大臣もが陸子に求婚する(p.364)のはパロディを意図したものでしょう。
 さらに、ペネロペは引出物の布を織るまで再婚は避けたいという口実を設け、昼に布を織り、夜にほどくことで再婚を遷延させます。しかし求婚者たちに発覚し、この手段もとることができなくなります。護衛官訴訟はこの推移を連想させます。"となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定は、早くてもロシア大統領選挙の直前になるだろう。なにかが起こるかもしれない"(p.323)"「護衛官訴訟の判決期日が決定。同時に、日本最高裁長官が異例の予告。訴訟の長期化を避けるため差し戻しは行わないとのこと」"(p.330)波多野陸子という名前も、「機織り」でペネロペを連想させます。
 しかし、本書は『オデュッセイア』のパロディをおこないながら、同時にそのことを自己言及しています。それが上記の『オデュッセイア』の解釈であり、また、たびたび『オデュッセイア』の反-現実性を通しておこなわれる現状の確認です。

"オデュッセウスなら、どうやって千葉を元どおりにするだろう。いくら不意打ちとはいえ、わずかな手勢と弓だけで、またたくまに百八人を殺してしまう凄腕のテロリスト、オデュッセウスなら。けれどそんなことは考えるまでもなく不可能だった。きっと三千年前のイタカでも、本当は不可能だった。映画のスーパーマンは、地球を逆回転させることで時間を巻き戻し、死んだヒロインを甦らせた。オデュッセウスの皆殺しも、これと同じだ。不可能なことを成し遂げるための妄想的な手段だ。オデュッセウスなら、どうやって国王公邸に入り込むだろう。嘘を武器にする詐術の達人、オデュッセウスなら。考えていくうちに、オデュッセウスの力はみな私にはないものだと気づく。"(p.321


 そして、護衛官訴訟の最高裁判決を目前にして、千葉再分離運動の過激派、自衛隊予備役の召集、在千ロシア海軍の全将兵の基地呼集と、緊張は最高潮に達し、『オデュッセイア』の空想性と現実との乖離は極点をむかえます。陸子が敗訴と同時に光を殺すという事実上の心中だけは岬早苗の必死の説得で翻意されますが、現実は依然として苛酷なままです。


"同情のこもった視線が木下桃子に集まる。信じられないのは、信じたくないのは、みな同じだったにちがいない。こんなにも美しくて心安らかなものが、明日からはもう存在しないとは。"(p.406)


 さて、そうして迎えた護衛官訴訟の判決は勝訴であり、物語は光が陸子の手をとって終わります。
 ここまで読んだ読者におかれては、その意味はおのずから明らかだと思います。全418ページの物語において、最終章は3ページときわめて軽く、本文の自己言及のとおり"こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽい"ものとなっています。


"「国王の地位がいつまでも法的に有効かを争って裁判してる」「判決はいつごろ?」「あと一年か、一年半」「勝てそう?」「不可能」"(p.311)

 

"「これはどういうことでしょう?」「えっとねー。おうちに帰って、あの子たちと遊んで、ひかるちゃんと一緒に寝るの。朝ごはんも一緒だよ」「誰かが手を回したというようなことは――」「アテナとか? そっかー、ひかるちゃん、私のほかに女がいたんだー」アテナはオデュッセウスを助けた女神だ。妻や祖父との再会のあと、悪党の貴族たちの仲間が復讐に押し寄せてきて、オデュッセウスは勝ち目のない戦いに挑む。そこへ女神アテナが割って入って戦いをやめさせたときに、物語は終わる。おかしなことを思う。もしかして私は誰かの夢を生きているのかもしれない。三千年前のエーゲ海の人々の、かなわなかった夢を、オデュッセウスは生きた。もしそうだとしたら、私は誰の夢を生きているのだろう。陛下のお側に戻れなかった人、千葉が潰え去ったあとの人――"(p.415)


 ここで描かれているのは夢の世界です。作者があとがきで語っているとおり、すべてのフィクションは存在論的には現実と区別できません。しかし、本作では自己言及のメタフィクションによって、最終章が偽史であることが語られています。


"オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい"(p.307)