『ファンタジスタドール・イヴ』と『未来のイヴ』の対照および『ファンタジスタドール』再論

 野崎まど著『ファンタジスタドール・イヴ』(早川書房、2013年)はアニメ『ファンタジスタドール』(斎藤久監督、フッズエンタテインメント制作、2013年)の前日譚だ。内容は女性に幻滅した科学者が、それでも女性を欲し、志を同じくする友人とともに人造の女性を創造するというものだ。自身も製作に参加するかという異同はあるが、これはヴィリエ・ド・リラダン著『未来のイヴ』(1886年)と同じ筋書きだ。タイトルをはじめ、『ファンタジスタドール・イヴ』は『未来のイヴ』を援用しており、結末に明確な対照性がある。以下、それを検討するとともに、その対照をもとに『ファンタジスタドール』を再論したい。
 『ファンタジスタドール・イヴ』で主人公の大兄太子は幼少期にミロのヴィーナスをみることで、女性の肉体への憧憬をおぼえる。「連れて行かれたのは、世界で最も有名な美術館、ルーヴルだった。(中略)だが、私は、それに強く魅入られた。裸身の像の近くまで来た私は、たった今述べたような逡巡を一瞬で失い、ただただその裸体を眺めていた。その石像の顔立ちはもちろん名作という評価に違わず美しかったし、整っていたのだが、私の目は顔から離れ、首、そして肩へと続く筋肉の流れを追った。その曲線は、なんとも表現しがたい、だけれどとても良いものに違いないという、何かの真実に触れたような感覚を呼んだ。」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.12-14)。これに対し、『未来のイヴ』ではミロのヴィーナスが女性の外面的な美の象徴として説明される。「私は女を宿まで送って行きました。この義務を果たすと、またルーヴルへ戻って来たのです。私は再びあの神聖な広間へ入りました! そして星を鏤めた「夜」をその形体の中に秘めているあの「女神」を一目見ますと、ああ、生まれて初めて私は、かつて生者を窒息せしめた最も神秘的な嗚咽の一つのために胸がいっぱいになるのを感じたのでした。」(『リラダン全集2』ヴィリエ・ド・リラダン著、斎藤磯雄訳、東京創元社、1977年、pp.83-84)。
 こうした女性の形而上的な美しさに対し、大兄太子、そして『未来のイヴ』の主人公のエワルド卿は現実の女性に幻滅し、理想の女性を創造することを決意する。大兄太子は恋人に近い学友の中砥生美、エワルド卿は愛人であるアリシアへの幻滅がその契機だ。また『ファンタジスタドール・イヴ』においては大兄の友人の遠智要が婚約者に裏切られた経験から、『未来のイヴ』においてはエワルド卿の友人のトマス・エジソンがかつてある男が女性に翻弄されて破滅する様子を目撃したことから、理想の女性の創造に協力する。「「僕は、女性の体が好きなんだ。それが僕の望み、希望なんだ」それから遠智を見て、「でも、君は違うだろう?」「うん」彼は、諦めたように笑って「僕は婚約者に裏切られた。ずっと好きだった女性に不義をされて、酷く傷付けられた。でも、それでも、僕は忘れられなかったんだ。彼女が優しかったことも、彼女が僕を好きだと言ってくれたことも、彼女が僕に与えてくれた全てが愛おしかった。結局僕は、女性を嫌いになど、なれなかった。でももう、彼女には戻れない、心が離れてしまった、新しい人に会いたかった、心を通じ合わせ、そして二度と離れることのない、最高の女性に巡り会いたい。それが僕の希望なんだ」」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.128-129)。「しかしこれは申し上げて置きますが、こうした災厄を惹き起こす女どもの精神的醜悪さというものは、彼女等が肉体的に僅かばかり持合せているらしいそれほど厭らしくない点までも、充分帳消しにしてしまうということです。というのも、単なる動物にも授けられているような愛情能力さえも失っていて、破壊したり堕落させたりすることにしか勇気を持たぬ女どもである以上、彼女等が罹らせる病気、若干の人が恋愛と呼んでいるあの一種の病気については、私の意見を全部述べぬ方がよいと思うからです。見当違いの儀礼から、それを実際の名で呼ばずに、恋愛などという言葉を使うところから、不幸の一部分は出て来るのです。(中略)要するに、もしそれを身代わりに立てて人間の魂を救えるような、或る電気人間というものの創造方式を公式化することが可能ならば、「恋愛」の一方程式を「科学」から抽き出してみようではありませんか。この恋愛は、突如として人類に添えられる、電気人間というこの新たな付加物が無ければ避け得ないものであることが証明されたあの呪詛を惹き起こさないということが、先ず第一の特徴であり、従って情欲の火を制御することにもなるでしょう。」(『リラダン全集2』pp.213-214)
 こうして、両者は理想の女性、『ファンタジスタドール・イヴ』ではイヴ、『未来のイヴ』ではハダリーを創造するが、その結末は異なる。『未来のイヴ』ではエワルド卿はハダリーと精神的な愛情を通わせ、海難事故でハダリーが海中に没したあと、その喪に服することで物語は終了する。ミッシェル・カルージュは『独身者の機械』で、ハダリーが誕生から間もなく海中に没したことに注目し、「ヴィリエのイヴは女でも天使でもなければ、女たちの新しい世代を産む母でもない。彼女こそは、男の独身者の機械によって魂のない石胎の地位に追いやられた女が、それによってみずからもまた独身者の機械に変わっていくところの弁証法的な答えというにほかならない。」(『独身者の機械』ミッシェル・カルージュ著、高山宏訳、ありな書房、1991年、p.166)と断言している。これに対し、『ファンタジスタドール・イヴ』では大兄たちが人造の女性、ファンタジスタドールを創造することを決意するところで作中の時間は停止し、十数年後に第三者の視点から大兄たちの使用した研究所が焼失したことだけが語られる。『ファンタジスタドール・イヴ』の物語は『ファンタジスタドール』につづくのだ。

 『未来のイヴ』のエワルド卿、『ファンタジスタドール・イヴ』の大兄は形而上学的な女性を求め、創造する。形而上学が自然に対してイデアや純粋形相といった超自然的原理を設定し、自然を無機的なものとみる機械論的自然観を形成したことが、近代科学、技術文明の基盤となったことは両書を読むうえで興味深い。
 『ファンタジスタドール』の主人公の鵜野うずめは孤高の存在である大兄太子やエワルド卿と異なり「どこにでもいそうな普通の中学生」(『ファンタジスタドール』オープニングナレーション)だ。うずめはファンタジスタドールであるささらたちと多くの経験をへて、マスターとドールの壁をこえ「友だち」(『ファンタジスタドール』ep.11-12)となる。その友情は他のマスターにも伝わり、ドールを道具として利用していた清正小町は考えをあらため、犠牲にしようとしていたドールのプロトゼロと友情を結ぶ。
 うずめが「どこにでもいそうな普通の中学生」だったからこそ、機械的、形而上学的な、すなわち男性的な二分法から自由にささらたちと友情を結ぶことができたのだと思う。そして、それこそが『ファンタジスタドール・イヴ』で破滅的な結末を迎えた大兄と遠智に対する解答なのだろう。

『君が僕を』と論理実証主義

 中里十著『君が僕を』全4巻(小学館、2009-2010年)のテーマはコミュニケーションの不可能性だ。舞台装置の「恵まれさん」は金銭という概念上の存在を具体化する役割を負っている(『君が僕を3』p.140)。金銭の使用、すなわち交換が生じるのは両者のあいだに価値観の相違が存在するからだ(カール・マルクス著『資本論向坂逸郎訳、第1巻、岩波書店、1969年、pp.191-192)。マラッツィが『現代経済の大転換』の注釈で、ヴィトゲンシュタイン情報科学との関係について紙幅を割くのもその謂いだ("『世界機械、創造、認知、情報文化』[La machine univers. Création et culture informatique(La Découvrez, Paris 1987)]の中で、ピエール・レヴィは、かなりのページを割いてルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの哲学理論と情報科学創始者ノーバート・ウィーナーやウォーレン・マカロックの理論のあいだの平行関係を論じている。両者の本質的な差異は、前者の哲学者がともかくも言語化できないものやその「神秘的な」要素に関わっているのに対して、情報言語論者は、言語そのものを増殖させることはできはするものの、言語が論理形式的に翻訳不可能になるたびに、立ち止まってしまうという点にある。「サイバネティックス学者たちは、人間を情報処理を行なう論理的な自動機械と捉えている。それゆえ彼らは言語化できるものにとどまることになり、彼らがいったい誰であるのかということを忘れ、ヴィトゲンシュタインが彼らに示した表現不可能なものを無視したのである」(一二九頁)。もっぱら言語学の領域ではあるが、類似した結論に至っているものに Roberta De Monticelli, Dottrine dell'intelligenza. Saggi su Frege e Wittgenstein, De Donato, Bari 1981.がある。"(クリスティアン・マラッツィ著『現在経済の大転換』多賀健太郎、青土社、2009年、p.171))。

 主人公のひとり、絵藤真名は言語をその意味内容と一致したかたちでとらえようとする少女だ。各巻のタイトルは真名がきらう「気持ち悪い言葉」であり、真名はそうしたことばに接したときに、その意味内容に対応することばではなく、そのことばを発する意図に対応することば、あるいは行動を返す。もうひとりの主人公、橘淳子はその孤独を理解したつもりでいたが、1巻はその不理解が暴露されるかたちで決着する。

 ではその真名の世界、ひいてはコミュニケーションの不可能性とはなんなのか、そしてそれは最終的にどういうかたちで決着したのか。わたしはここにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の援用をみる。以下、それにもとづいて本書を読解し、また結末の意味を解きたい。
 4巻において淳子と真名の再会が語られる。このとき淳子はニューヨークの地下鉄のトンネルに侵入し、多くのひとが「いかにもありそうなことだ」として抽象的なものと認識する落書きのじつは多様なすがたをみる。そしてそこから真名との出会いを連想する(『君が僕を4』pp61-62)。これを『論理哲学論考』は「私の言語の限界が私の世界の世界の限界を意味する」(野矢茂樹訳『論考』(岩波書店、2003年)p.114)とし、経験によってその限界が広がるとする。しかし、これは同時に以下のことも示す。言語は命題の総体だが(『論考』p.39)、命題は現実との比較でその真偽を「語る」ものの、そのための論理形式は不可知であり「示す」ことしかできない(『論考』p.43)。
 また真名は以下のようにいう。「『大人になる』とか、『将来なにになる』とか、みんな筋書き。時間の影」(『君が僕を4』p.239)。これを『論考』では以下のようにいう。「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。」(『論考』pp.79-80)、あらゆる要素命題は独立であり、その関係は論理形式でしかありえない。そこに因果関係はありえない。
 真名は『論考』の論理形式を重視し、世界を記述する日常言語において、その論理性をあいまいにする記号学的な意味内容と表現の不一致を排除しようとしているのだと思う。
 では、そうした真名の姿勢はどうなったのか。橘れのあは真名に「世の中がたまたまで動いてて、人間がたまたまで生きているのに、人間のやることだけ筋が通ってるなんて、そんなのおかしくな~い?」(『君が僕を4』p.197)といい、その姿勢を改めさせようとするが、真名は変わらない。しかしまた真名も世界を変えることができずに終わる。「れのあのように適当なことを言うなら――真名は、おそらく、変えようとしていた。緑を、自分の両親を、あるいはもっと大きなものを。そのために真名はあんな事件を起こして、緑や両親を巻き込んだ。けれど緑は変わらなかった。おそらく両親も。」(『君が僕を4』p.207)。
 そして、『君が僕を1』において提示されたコミュニケーションの不可能性はどうなったのか。『論考』はコミュニケーションを以下のように述べる。「ある言語から他の言語への翻訳は、一方の各命題から他方の命題へと為されるのではない。ただ命題の構成要素だけが翻訳される。」(『論考』p.44)。『君が僕を4』の最終行において、1巻から問われつづけてきたコミュニケーションの問題は以下のようにタイトルへと終着する。「私は、時間の影じゃなくて、真名の影に。なりたい、なる、じゃなくて、今まさに。きっと真名も。動詞がないあの言葉、『君が僕を』。私は左手の人差し指を、真名の指に。」(『君が僕を4』p.240)。
 『論考』によれば世界の限界は自己の言語の限界であり、ここに他者の世界の不可知性がある。しかし命題を共有することはできる。この命題について『論考』は以下のように述べている。「しかし命題は、意味を介さずには何ものにも対応しない。命題は「真」とか「偽」と呼ばれるなんらかの性質をもったあるもの(真理値)を指示するわけではないからである。命題に対して「真である」や「偽である」という動詞が与えられる、フレーゲはそう考えていたが、それはまちがっている。「真である」という動詞は、その命題が真であることのうちに含まれているのである。」(『論考』pp.49-50)。
 『君が僕を』は真名と淳子が没したあとで淳子の義娘がその手記を発表するという形式をとっている。よって二人の未来に希望的な観測はない。しかし作中で、淳子は真名が死ぬまでその傍にいたように述べられている。ただし、「真名が生きていたあいだ、弱いのはいつでも私だった。」(『君が僕を4』p.71)が示すように、真名は最期まで淳子と本質的な和解はしていない。しかし、4巻の最終行と、淳子が真名の最期まで傍にいたという事実が、ロマンチシズムでない、コミュニケーションの不可能性に立脚した二人のコミュニケーションの成功を示唆しているように思う。