『ONE ~輝く季節へ~』読解 - 「えいえん」とは何か -

 本稿では1998年、keyの前身であるTacticsが発売した『ONE~輝く季節へ~』を里村茜ルートを中心に読解する。本作では《えいえん》という異世界が主要な道具立てになっている。《えいえん》が筋書きに大きく関わるのは茜ルートのみであり、そのため、茜ルートが本作の主要なルートだと言える。
 読解の構成としては、まず、茜ルートの筋書きを確認しつつ、《えいえん》の表象するものを考察し、そののちに、茜ルートおよび作品そのものの主題を読解する。

 茜ルートの特色は、茜が《えいえん》を経験として知っていることだ。雨の日は、茜はある空地で誰かを待っている。個別ルートに入ったのち、その人物が《えいえん》に行った幼なじみであることがわかる。
 主人公の浩平は、茜にそのことの精神的な決着をつけさせる。そのことを通じ、浩平と茜は愛しあうようになる。しかし、物語の終結部において浩平も《えいえん》に行ってしまう。エンディングののち、翌年、茜のもとに浩平が戻ってきて、今度こそ本当の結末を迎える。
 さて、この《えいえん》とは何なのか。作品そのものが、次の台詞ではじまる。

《「えいえんはあるよ」
「ここにあるよ」》

 説話論的には、各ルートとも個別ルートに入ったのち、《えいえん》の間接的な説明がなされる。浩平は幼少期に妹を亡くした。そのことですべてに絶望していたとき、正体不明の少女に上記の言葉を言われた。そして、浩平は再起した。
 しかしながら、作中で直接的に《えいえん》について説明されることはない。
 部分的に言えることは、《えいえん》による別れは、プレイヤーがゲームを終えることと類比されているということだ。

1月5日
《ぱたんと窓を閉めると、雨音が遠ざかる。
浩平〈今日は、どうするかな…〉
これだけ寝ていたんだ、腹も空いているはずなのに全く食欲がない。
得体の知れない虚脱感に包まれながら、さっきまで横になっていたベッドに再び身体を預けた。
視線だけを動かしてカレンダーを見る。/

1999年。
由起子さんが、職場から貰ってきてくれた真新しいカレンダーだ。
1月から3月まで、3ヶ月分を1枚にまとめた壁掛けのカレンダー。これ以上、このカレンダーをめくることはあるのだろうか…。
そんな考えが、重くけだるい脳裏をよぎる。/

本当に、去年の喧騒が偽りの出来事のように思える。
何が違うのか…。
去年と何が違うのか…。
ただ、今は冬休みで、クラスの奴らと馬鹿騒ぎすることもないだけだ。
違うのはただそれだけだ。/

新学期が始まれば、また学校だ。そして、またお祭り騒ぎのような日常が始まる。
去年と何も変わらない。
くだらなくて、退屈で…。
でも、楽しかった日常。
…そうなるはずだった。
……
浩平「…だった?」/

オレは何を言ってるんだ…。
………
浩平「……ふぅ」
雨音にかき消されないように、わざと大げさにため息をつく。
やめよう。部屋に閉じこもってるから、よけい気分が重くなるんだ。》

 個別ルートの開始する初日の独白だ。浩平の人物造型は90年代のゲームらしく、躁的なものになっている。共通ルートでは浩平が過激な言動をくり返し、そのスラップスティックなギャグはかなり笑える。また、共通ルートは毎朝、ヒロインの長森瑞佳が起こしにくるが、冬季休暇であるこの日はそれがない。
 躁の反動の抑鬱を描写しつつ、メタ=フィクショナルな視点を暗示する、巧みな文章だ。事実、作中の時間は結尾部を除き、3月までで終わる。
 また、ここでは主人公が学生であることで、青春の喪失感が描写されている。そのことも、作中における抑鬱を描くとともに、いわゆる学園モノである本作に対するメタ=フィクショナルな視点を導入し、その虚構性に対する虚無感を暗示している。

2月6日 BAD END
《いつまでも繰り返される日常。
他愛ない友達とのやりとりや、たまのすれ違い。
屈託なく笑い合って過ごす休み時間、退屈な授業。
それは、ふと思うと永遠とも感じられるような
長く、穏やかな時間。/

………。
でも、永遠がほんとうにあることをオレは知っていた。/

ぼくはそれを知っていたんだ。》

 青春の喪失感と、いわゆる学園モノである本作のメタ=フィクショナルな虚無感の問題を前景化している。

2月6日 回想(※各ルート共通)
《〈………〉
長い時間が経ったんだ。
いろいろな人と出会って、いろいろな日々に生きたんだ。
ぼくはあれから強くなったし、泣いてばかりじゃなくなった。
消えていなくなるまでの4ヶ月の間、それに抗うようにして、ぼくはいろんな出会いをした。/

乙女を夢見ては、失敗ばかりの女の子。
光を失っても笑顔を失わなかった先輩。
ただ一途に何かを待ち続けているクラスメイト。
言葉なんか喋れなくても精一杯の気持ちを伝える後輩。
(※ルートによって暗示される人物が増える)
駆け抜けるような4ヶ月だった。
そしてぼくは、幸せだったんだ。/

〈滅びに向かって進んでいるのに…?〉
いや、だからこそなんだよ。
それを、知っていたからぼくはこんなにも悲しいんだよ。
滅びに向かうからこそ、すべてはかけがえのない瞬間だってことを。/

こんな永遠なんて、もういらなかった。
だからこそ、あのときぼくは絆を求めたはずだったんだ。
…オレは。》

 前述した《えいえん》の間接的な説明だ。ここでは、作品そのものが明確にメタ=フィクショナルに対象化されている。4ヶ月とは作中の時間だ。

《 『この人……茜の、知り合い?』/

それが日常の崩壊を知らせる警笛だった。
枕元の目覚まし時計を見る。
8時過ぎ。
いつも通りなら、学校へ行かなければならない時間。
いつも通りなら、お節介焼きな幼なじみが布団をはぎ取る時間。/

…でも今日は。
この部屋に勝手に上がり込む者なんていない。
ここは、他人の家だから。
他人の住む家だから。/

……
聞こえるのは雨の音だけ。
そろそろ、ここにいることもできなくなるな…。
今のオレはただの空き巣と同じ存在だった。
由起子さんの留守に、合い鍵を持っているのをいいことに勝手に家に上がり込んでいるんだから…。
…オレはゆっくりと身体を起こし、そして服を着替えた。
簡単に身支度を整えて、廊下へ出る。/

行く宛なんてなかった。
オレの存在を受け入れてくれる場所はもうこの世界にはないんだから…。》

 《えいえん》による別れの予兆がはじまる。主人公は存在ごと周囲のひとびとに認識されなくなってゆく。
 主人公を通じ、作中世界に仮住まいするプレイヤーの立場を明晰に表現している。
 浩平は叔母である《由起子さん》の家に居候しているという設定だが、《由起子さん》は作中に1度も登場しない。茜が会おうとしたときなどは、偶然、行きちがいがおきる。こうした描写も、両親が存在せず、事実上、独居しているという主人公の虚構性を強調する。
 では、《えいえん》とは現実世界の隠喩なのだろうか。そうではない。
 なぜなら、各ルートとも、クリアすると浩平は作中の世界に帰還するからだ。
 さらに、仮に《えいえん》が現実世界の隠喩だったとして、意味はそれにとどまらない。《えいえん》は強い懐かしさをおぼえる場所として描写されている。

3月9日
《網膜の奥にまで侵食する赤。
それは直接涙腺を刺激するようにオレの中に入り込んでいた。
目の奥から何かがこみ上げてくる感覚。
オレはそれを誤魔化すようにゆっくりと上を見上げる。/

360度パノラマの中で、視界が別の光景を映し出す。
赤から赤へ。
雲の天井。
流れる。/

浩平「…なあ、茜」
茜 「…はい」
浩平「もし、オレがどこかへ行ってしまったらどうする?」
茜 「…嫌です」
浩平「…そうか」
茜 「…はい」/

信号が点滅して、人が動き出す。
浩平「綺麗な夕焼けだよな」
茜 「…本当に綿飴みたい」
浩平「綿飴か、懐かしいな」/

茜 「今度私が作りますよ」
浩平「作れるのか?」
茜 「見よう見まねですけど」
浩平「…そうか、だったらできるだけ早いほうがいいな」/

見上げた瞳。
ゆったりと流れる雲。
浩平「…もうすぐオレはあの雲の向こう側に行くんだから」
こみ上げる涙が頬を伝って流れ落ちていた。
それは確かな確信だった。/

あの日、オレの切望した世界がその向こうにあった。
オレはその世界に行くのだろうか…。
すると、この世界のオレはどうなるんだろうか…。/

茜 「…消えますよ」
点滅する横断歩道を、困った顔で指さしていた。
浩平「…ああ、そうだな」/

時間は移ろいゆくものの象徴。
永遠なんてないって…。
止まらない時間なんてないって…。
ぼくはずっとそう思っていた。》

 見事な懐かしさの感覚の描写だ。
 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』でルソーの分析において、個人と世界の対立につき、その葛藤を解消する方法は、本能的な感覚と感情を一体化させるか、激しい感情を排し、感情の記憶を追想するかしかないと述べる。それが懐かしさの効用だ。
 また、その懐かしさはフィクションを体験するときの全能感と同質だ。サルトルは『想像力の問題』でその全能感を指摘する。
 《大多数の人間にとって最悪のものに他ならぬ、作りもので、ぎこちなく、テンポが遅く、味もそっけもないその生活、これこそまさしく分裂病患者たちが望むところのものなのだ。自分を王様だと想像する病的な夢想家は実際の王位には我慢できぬであろうし、一切の彼の欲望がきき容れられるような専制君主の位にさえも我慢がならぬであろう。》(ジャン・ポール・サルトル著、平井啓之訳、『想像力の問題』(『サルトル全集』第12巻)、p.204)
 プルーストはこの両者を理論的にまとめ、実作した。それが『失われた時を求めて』全7篇だ。
 『失われた時を求めて』においてプルーストは過去を永遠化しようと、その文章そのものを書記している。その理論は最終巻で直接的に述べられる。非在を対象とする想像力、すなわち美の享受が現在においておこなわれることで、記憶は超時間的なものとなる。そして、そのことによりひとびとははじめて幸福を得る。《というのも、本当の楽園とは失われた楽園にほかならないからだ。》(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、『失われた時を求めて』第7篇『見出された時2』、p.373)。
 それは『ONE~輝く季節へ~』の構造と同じだ。《えいえん》は作中における超越的な異世界を指し、それが現実世界を指すと同時に、現実世界における作品そのものをも指す。つまり、現実世界と作品とで、《えいえん》はクラインの壺のような無限に循環する構造をもつ。
 そして、われわれは『ONE~輝く季節へ~』の物語を哀惜する。しかし、それこそが鑑賞体験に他ならない。だから、その体験は超時間的で、無限におこなえるものだ。つまり、永遠だ。
 そのため、本作は循環構造のように、次の台詞ではじまる。

《「えいえんはあるよ」
「ここにあるよ」》