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『リップヴァンウィンクルの花嫁』 - 『生産の鏡』から -

 "「あと、いまからはなすことですけど」「はい」「『友だちがほしい』。それが、クライアントの、依頼です」「『友だちがほしい』… それが、わたしの仕事なんですか?」"(岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』)

 

 岩井俊二監督『リップヴァンウィンクルの花嫁』では社会関係の希薄さと、二者間の関係の構築が中心的な主題になっている。また、その背景として労働という主題があることを以下にのべる。
 黒木華演じる皆川七海は、結婚式の招待客がふたりであることにしめされるように、社会的なつながりが希薄だ。本業の代理教員では退任するさいに生徒たちにうそをつき、副業のコンビニ店員は、生徒たちの視線を気にし、本人だとわからないように変装して働いている。七海が忌憚なく心情を吐露できるのは、SNSサイト《プラネット》のアカウント《クラムボン》としてだけだ。
 "「まあ、役者にとって名前なんてのはなんでもいいんですよ。役をいただいて、その仕事が終わるまではその役の名前が自分の名前ですからね。まあ、そう考えたら名前なんてのは無限大にあるわけで、だって、ほら、あなたもそうでしょう」「え、いやいや、ないです。そんな」「いや、だってほら《クラムボン》って」「ああ… そういう意味では。最近はみんなちがう名前をもってますね」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 ボードリヤールは『生産の鏡』でマルクスの物神崇拝の概念を批判し、使用価値は交換価値にたいし、具体的で比較不可能であり、また、労働のうち質的なものも比較不可能としているが、マルクスはその比較不可能性を根拠として、質的なものにおいて、生産と労働を媒介にしてあらゆる人間的行為を比較可能なものとし、シニフィアンによる構造化として、生産と労働をフェティシズムにしたとのべている。(ジャン・ボードリヤール著『生産の鏡』宇波彰今村仁司訳、pp.12-13)
 "需要すなわち欲望は、ますますシミュレーション・モデルに照応していく。これらの新しい生産力は、今ではもうシステムに問いをつきつけるのではなくて、先取りされた答えであり、システムはそれらの出現を自ら管理している。システムは、記号の戯れによって、矛盾と弁証法に十分耐えることができるし、革命のあらゆる徴候も許容できる。システムはすべての回答を産出するのであるから、問いをたちまち無効ならしめてしまう。これはコードの強制と独占によってはじめて可能である。すなわち、どのような仕方であれシステムの内に身を置くかぎりでは、システム自身の規則に従って、システム自身の用語のなかでしかシステムに応答することはできず、システムにたいしてシステム自身の記号を送り戻すほかはない。だからこの段階への移行は競争の終りとは別物をつくり上げるのであって、その要点はこうだ――すなわち、その論理の面で社会的労働時間によって支配された生産諸力・搾取・利潤のシステム――競争システムがそうであるが――から、問い/答えの巨大な操作的戯れ、すべての価値が操作的記号に従って方向を変え、互いに交換されあう巨大な組み合わせ、への移行である。独占段階は、生産諸手段の独占(これは決して全面的ではない)というよりも、コードの独占を意味する。この段階は、記号の機能や意味作用の様態の面で根本的な変容を伴なう。権威や卓越という目的性はまだ記号の伝統的な定義に照応していた。この定義によれば、意味するものは意味されるものを指示し、形式的差異、弁別的対立(衣服の裁ち方、モノのスタイル)は記号の使用価値とよびうるもの――他人との違いで得をすること、他人に抜きん出ることを経験すること(意味された価値)――を指示している。それはまだ座標軸をなす心理学(および哲学)をともなった意味作用の古典的時代である。それは諸記号の操作の面で競争的時代でもある。形態/記号はまったく別種の組織を描く。意味されるものと座標系は消滅し、意味するものの戯れ、一般化された形式化だけが際立ってくる。コードはもはや主観的であろうと客観的であろうといかなる《実在》にも根差すのではなくて、それ自身の論理で動くのである。記号は自ら自分自身の座標系となる。記号の使用価値は消え去り、変換価値と交換価値だけが登場する。記号はまったく何ものも指示せず、他の諸記号にだけ反響するという極限的な構造論的真理に達する。かくて現実全体が記号神的(セミウルジック)操作と構造論的シミュレーションの場となる。そして伝統的記号が(言語学的交換における記号もまた)意識的投資の対象であり、意味されるものの合理的計算の対象であったのに対して、今や記号が絶対的な準拠審級になり、同時に倒錯した欲望の対象になる(『新精神分析雑誌』第二号、「フェティシズムイデオロギー」をみよ)。"(『生産の鏡』pp.117-119)
 "このような次第で、今日ではどんなものでも《回収可能》である。まずはじめに、欲求とか本物の価値があって、ついでそれらが疎外され、ごまかされ、回収される、などということを認めるとしても、そういう見方はあまりに単純すぎるし、人間主義的二元説はなにも説明しない。すべてが《回収可能》だというのは、独占資本主義社会では、財、知、技術、文化、ひとびと、かれらの関係や野心、などあらゆるものが、はじめから直接に、システムの要素、統合される変数として再生産されるということである。経済的生産部門では久しい以前から真実と認められてきた事実、すなわち使用価値はどこにも現れず、いたるところで交換価値の決定因的論理が現れるという事実は、今日でも、《消費》と文化システム一般の領域の真理として承認されなくてはならない。いいかえれば、どんなものでも、芸術的・知的・科学的生産でも、革新や違反ですら、直接に記号として、交換価値(記号の関係的価値)として産み出される。《欲求》、消費行動、文化行動が回収されるばかりでなく、生産諸力として系統的に誘導され生産されるかぎりではじめて、この抽象化と傾向的体系化に基づく消費の構造分析が可能となる。それは、記号の生産と一般交換の社会的論理の分析を根拠にして可能になる。"(ジャン・ボードリヤール著『記号の経済学批判』今村仁司他訳、p.89)
 結婚はカール・マルクスが『資本論』でいうように、資本家が負担すべき公的扶助を労働者に転嫁する機能をもつ(『資本論』第2巻、向坂逸郎訳)。また、恋愛は佐伯順子が『「色」と「愛」の比較文化史』でいうように、日本の近代化にあたり廃娼論・蓄妾批判が盛んになるなかで、結婚を基礎とする一夫一妻の関係性を称揚するなかで言説化した。
 脱工業社会(ダニエル・ベル著『脱工業社会の到来』内田忠夫他訳)においては、結婚と自由恋愛はもはやドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』でいう《文明資本主義機械》でしかない(『アンチ・オイディプス』下巻、宇野邦一訳)。七海たちが家族を演じる男女は中年にして未婚だ。
 結婚が仮象だったことが顕在化されるかたちで七海は離婚する。だが、そこにおいて七海は自身の寄る辺なさに不安をおぼえる。
 "「ここはどこなの。どこなんだろう。どこなんですか」「え、皆川さんどちらですか。どうしたんですか」「自分が、いま、どこにいるのかわからないんですよ」「えっと…」「どうしたらいいんですか」「あの、落ちついてください。あの、携帯のアプリをひらいて、あの、地図をみればそれでわかると思いますよ」「わたし、どこへいけばいいんですか? わたし、帰るところがなくて」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 七海はある邸宅でメイドとして月給百万円の仕事をする。邸宅は新古典主義様式であり、メイド服は邸宅に保管されているコスプレ用の衣装からとったものだ。Cocco演じる里中真白と現実離れした仕事をしているうちに、七海は自信を回復する。七海がオンラインで家庭教師をしている場面は、もとの自宅と、邸宅と、新居の3箇所があり、それぞれの変化があらわされている。
 ボードリヤールは『生産の鏡』において、バタイユの未開部族における象徴的・神話的思考法の概念をもとに、仕事から労働を隔てるものを、主体と客体の区別の消失、生と死の両立だとのべる。七海と結婚式を挙式した真白は、ワンカットでそれを代表するセリフをのべる。なお、『キネマ旬報』2016年4月上旬号の黒木華のインタビューで、この長回しにおいてはアドリブのないことが語られている。
 "「ほんとうに結婚する?」「はい。してもいいかもしれません」「結婚しようか?」「はい」「ホントに?」「はい」「酔っぱらってる?」「はい。酔っぱらってます!」「わたしね、コンビニとかスーパーで買物してるとき、お店のひとがさ、わたしの買ったものをさ、せっせと、袋にいれてくれてるときにさ。わたしなんかのためにさ、その手がせっせと動いてくれてるんだよ。わたしなんかのためにさ、せっせとお菓子やお惣菜なんかを袋に詰めてくれてるわけその手が。それみてるとさ、なんか胸がギューっとしてね、なんか泣きたくなる」「え? …えへへ。それってなんのはなしですか?」「わたしにはね、幸せの限界があるの。もうこれ以上はムリーって量が。たぶんその限界がくるのがそこらのだれより早いの。アリンコより早いかもしれない、その限界が。だってさあ… ホントはさ、この世界は幸せだらけなんだよ。みんながよくしてくれるんだあ。宅配便のオヤジはさあ、わたしがここって言ったところまで重たい荷物運んでくれるしさ。雨の日は、知らないひとが傘くれたこともあったよ。でもさあ、そんな簡単に幸せになったら、わたし壊れるから。だから、せめてお金はらって買うのが楽。お金ってさあ、たぶんそのためにあるんだよきっと。ひとの真心とかさ、優しさとか、あんまりそんな、はっきりくっきりみえちゃったらさ、ひとはさ、ありがたくってありがたくってさ、みんな壊れちゃうよ。だからさあ、それ、みんなお金に置換えてさ、そんなのみなかったことにするんだよ。だから、やさしいんだよ、この世界はさあ。だからわたしは、お金はらって買うんだ。お金はらって買うの。だってもう限界なんだもん。…だからそんな目でみないで。わたし壊れる」「わたしといっしょに死んで、っていったら死んでくれる?」「はい?」「いっしょに死んでくれる?」「…はい」「ホントに?」「はい」「バカだ… バカ。ありがとう」「わたしこそ」「愛してる」「わたしも、愛してます」"(『リップヴァンウィンクルの花嫁』)
 "職人の仕事について、職人は《かれの労働の生産物》の《主人》であると語るのも、すでにまちがっている。なぜなら、職人は、《制御する》立場、すなわち生産的外面性の立場にある自立的個人の状況にいるわけではないからである。《仕事》を産業労働と対立させて具体的労働過程として定義しても十分ではない。それは労働とは別物であるからだ。生産者の領域と消費者の領域との分離がないのと同様に、労働力と生産物、主体の立場と客体の立場との真の分離もない。職人は自分の仕事を象徴的交換関係のなかで生きる、すなわち、《労働者》としての自己自身の定義と《かれの労働の生産物》としての客体の定義を廃棄する形で、自分の仕事を生きるのである。かれが働きかける材料のなかの何ものかが、かれの仕事とたえず応答しており、この何ものかはあらゆる生産目的性(材料を使用価値あるいは交換価値へと端的に変形する目的性)から免れている。価値法則を免れる何かがあり、それは一種の互酬的浪費を証言している。ここでも、投資されるものは、失われ・与えられ・返される、つまり廃棄されるのであって、正確には《投資される》のではない。以上のことはすべて、芸術作品の場合にとりわけてはっきりするはずであるが、これに関して史的唯物論は、生産図式にとらわれているために、芸術作品の社会的‐歴史的決定の様式(機械論的であれ構造論的であれ)についてとやかく議論することしかできず、芸術作品の働きやその根源的差異の契機を決して説明することができなかった。しかしこのことは、より小さい程度ではあれ、職人的仕事(語源にしたがえば《デミウルゴス》の仕事)についてもあてはまる。仕事(ウーヴル)と労働(トラヴァーユ)を根本的に区別するのは、仕事が《生産》の過程であるのと同じく破壊の過程でもあるということである。まさにこのゆえに、作品は象徴的なのである。つまり、死、消失、不在が、主体の放棄、交換の律動のなかへの主体と客体の消失を通して、そこに書きこまれているからである。生産と労働といった概念から出発することによっては、そこで生起していることをつかむことができない。それは、労働を否定し、価値法則を否定し、価値の破壊を通過するからだ。芸術作品や、ある程度までは職人の仕事も、自分自身の内に、主体と客体の合目的性の消失、生と死との根源的な両立性を刻みこんでいる。これは、労働の生産物が労働の生産物たるかぎりではもうもっていない――なぜなら、労働の生産物には価値の合目的性だけが刻みこまれているから――両義性の働きである。"(『生産の鏡』pp.87-89)
 "奴隷あるいは職人(奴隷制的様式あるいは封建的/職人的様式)についてのこのような唯物論的な書きなおしは、現実には抑圧的図式にほかならない《解放》と乗り越えの図式がそこから展開されるかぎりでは、重大な結果をもつことになる。すでに見たように、奴隷を労働力の搾取の観点から再解釈することは、人間的領域における絶対的進歩としての《自由な》労働者という観点から労働力を再解釈したり、隷層を絶対的野蛮状態――幸いなことに生産諸力のおかげで乗り越えられるといった――にあるものとみなしたりする(自由のイデオロギーは、依然として西欧合理主義の消失点であり、マルクス主義の場合も同断である)。同じく、職人を《自分の労働と生産の主人》、《労働体系の主体》とみなす考え方(ロール『労働社会学入門』)は、ただちに、生産的労働の黄金時代というユートピアを描き出す。ところが、《労働》なるものは存在せず、分業と労働力の販売しかない。つまり、労働の真理とは、労働の資本主義的定義のことである。この定義から出発してはじめて、資本主義的過程に対する職人的代案と解されるような、労働過程全体のなかで再獲得可能な労働にほかならない労働という幻想がつくられる。事実、この代案は想像上のものにとどまる。この代案は、職人的様式における象徴的なものに全く触れておらず、親方の身分や生産者の自立性の観点から見なおされ修正された職人階級に依拠しているからである。ところが、この親方の身分などはとるに足らない。それというのも、それは職人階級を労働と使用価値の観点による定義のなかに閉じこめてしまうからである。自分の労働を《管理する》個人というのは、このような基本的な制約条件を理想化するにすぎない。そのような個人とは、自分自身の主人になった奴隷にほかならない。主人/奴隷の関係は、同一の個人のなかに内面化されはしたが、疎外構造として作用することを止めはしない。かれは自分自身を《自由に処分し》、自分自身への用益権をもつ。それは個人的生産者の水準での自己管理(オートジェスチオン)である。けれども、周知のとおり、自己管理とは生産管理の変身(メタモルフォーゼ)以外のものではない。自己管理が集団的形式をまとうと、今日では、社会(主義)的生産中心主義の黄金時代を描きだす。職人的自己管理はどうかといえば、個人的小生産者の黄金時代、要するに《職人本能》の礼讃にすぎない。"(同pp.93-94)
 "これ以上ぐずぐずせずに言ってしまう。暴力、そして暴力を意味している死は、二つの面を持っている、と。一方では、生への執着心と結びついている恐怖感が私たちを後退りさせる。他方で、厳粛かつ恐ろしげな要素が私たちを誘惑し、至高の混乱を惹き起こす。この両義性についてはあとで語ることにしよう。今はただ、死に関する禁止が表している動き、暴力を前にしての後退りの動きの本質的な面を示すことしかできない。死体は、それが生きていたときに仲間であった人々にとって、依然として関心の対象であったはずである。近親者たちは、暴力の犠牲者であるこの死体を新たな暴力から守ろうと配慮していたと私たちは考えるべきである。埋葬は、おそらく太古の昔から、死者を貪欲な動物から守っておきたいとする埋葬者側の願望を意味していた。しかしこの願望が埋葬の習慣の確立において決定的であったとしても、私たちはとくにこの願望だけをこの習慣に結びつけることはできない。おそらく長いあいだ、死者への恐怖感は、穏和になった文明が育んだ感情をも遠くから支配していたのである。死は、暴力が滅ぼすことができる死者を襲った暴力の性格を帯びていた。暴力の《伝染》が及ぶなかにあったものは、すでにその死者が犠牲になった破滅に脅かされていたのである。死は日常の世界とは無縁の領域から出てきたので、労働が命じる思考法とは反対の思考法だけが死にはふさわしかった。レヴィ=ブリュールが間違って原始的と呼んだ、象徴的もしくは神話的思考法だけが暴力に対応しているのだ。暴力の原理とはまさしく労働が必要としている合理的思考を逸脱する。"ジョルジュ・バタイユ著『エロティシズム』酒井健訳、pp.71-72)
 "労働は明らかに人間と同じほど古い。動物はかならずしも労働に無縁ではないが、動物の労働と違い人間の労働は、絶対に理性と無縁ではない。人間の労働は、労働の対象と労働それ自体との根本的な一致、そして労働の材料と念入りに作り上げられた道具との相違(この相違は労働に由来する)が認められていることを前提にしている。同様に、人間の労働は、道具の有用性への意識、および労働に関する原因と結果の連鎖への意識を必要としている。道具はコントロールされた操作から生まれ、そののちこの操作に仕えることになるのだが、この操作を支配している原理は、最初から、理性の原理なのである。この原理は、労働が構想し実現してゆく変化を規制している。"(同p.76)
 近代の発明である《恋愛》ではないふたりの愛は、死を許容するものだ。説話論的に真白は末期癌で余命いくばくもなく、また、もともとは心中相手を探していた。だが、綾野剛演じる安室行桝がはじめ七海が死んだものと誤解したように、七海は死を覚悟しつつ、結果的に真白ひとりで死ぬ。なお、真白の葬儀において、独身者たちがふたたび家族を演じるのも、そうした近代家族制度との対置において位置づけられる。
 また、真白が新古典主義様式の邸宅を用意したのも、バタイユのいう不連続性の破壊を意味する。
 "すなわち男女二人の恋人の結合が情念の結果だとしても、この情念は他方でもう一つの可能性、つまり死を、殺人への、あるいは自殺への欲望を、惹き起こすということだ。死の輝きが恋の情念を指し示している。この暴力――不連続な個体を絶えず侵犯しているという感覚はこの暴力から生まれるのだが――の下に二人の習慣とエゴイズムの領域が始まる。これは不連続性の新たな形式にほかならない。個人の孤立を侵犯する――死の高みにおいて――ときにだけ、愛する相手の連続性のイメージ、恋人にとっては存在するものすべての意味を持つあのイメージが現れるのだ。恋人にとって愛する相手は世界の透明さである。愛する者のなかに透けて見えるものは、私があとで神聖なもしくは聖なるエロティシズムに関して語る予定でいるものなのである。それは、もはや個人の不連続性によっては限界づけられない完全な、無際限の存在である。一言で言うと、それは、恋人からすれば解放と映る存在の連続性のことである。その外観には、不条理な面もあれば、ひどい混合もある。しかし不条理、混合、苦悩を通して、奇跡のような真実が現れるのだ。結局、恋愛の真実においては何も空しくはない。恋人にとって(あしかに恋人にとってだけだが、そんなことは重要ではない)、愛する相手は存在の真実に匹敵する。偶然のおかげで、愛する相手を通して世界の複雑さが消え、恋人は存在の奥底を、存在の単純さを見出すようになるのだ。"(『エロティシズム』pp.34-35)
 "詩は、エロティシズムのそれぞれの形態と同じ地点へ、つまり個々明瞭に分離している事物の区別がなくなる所へ、事物たちが融合する所へ、導く。詩は私たちを永遠へ導く。死へ導く。死を介して連続性へ導く。詩は永遠なのだ。それは太陽といっしょになった海なのである。"(同p.43)
 だが、その邸宅の賃料は、『スワロウテイル』の偽札とも、『リリィ・シュシュのすべて』の旅行資金とも異なり、現実的な労働による所得だ。それは、七海の雇用主が真白であることを示唆しつつ、朝帰りの真白のセリフに〈銀座〉という単語をいれ、それが不労所得であることを想像させながら、のちに真白がAV女優だと明かすことで、七海のおどろきとともに強調してしめされる。また、その労働の現実的な重みは、「3P」という単語を使うことでしめされる。
 そうした記号の経済学から離れた労働は、レヴィナスが『全体性と無限』で語るものだろう。そして、そこにおいて人格は完成する。それは当然、ボードリヤールが批判する、経済学的、心理学的な愛他主義ではない。
 "これらの事実はすべて一点に収斂する――すなわち、いわゆる前産業的な組織を説明するためには、労働、生産、生産諸力、生産諸関係といった諸概念は不適切であるということである(これらの事実は、封建的ないし伝統的組織にもおおむね妥当する)しかしながら、ヴェルナンに対して異議を立てることもできる。ヴェルナンは、生産の優位と手を切り、生産の優位がかかわりのない文脈にそれをおしつける誘惑を論難しながらも、力点のすべてを使用者の欲望や合目的性に移している。合目的性が富を規定し社会関係が基礎づけられる人格的関係は合目的性へと集中する(有意味でない生産へと集中するのではない)。われわれの経済では、交換価値の記号の下に置かれた関係とだけわれわれはかかわりをもつが、それに反してここでは、二人の人格は使用価値の記号の下で結合される。そしてこのことが実は、わたしが主張する奉仕関係を定義するのである。けれども、奉仕(サーヴィス)の概念は、われわれの社会のカテゴリーによってまだ強く侵蝕されていることを知る必要がある――すなわち、経済的カテゴリーによる侵蝕(経済的奉仕の概念は、単純に、交換価値から使用価値への移転をおこなうだけである)、心理学的カテゴリーによる侵蝕(これは生産者と使用者の分離を保持し、両者を単純に共同主観的関係のうちに置く)。このようなやり方では、《人格的》交換は、固有の意味での経済的交換を共示したり重層決定したりする心理学的次元でしかない(これは、今日、交換の《人格化》で知られていることである。つまり、それは関係の心理学的デザインであって、依然として、互いに等しいとみなされた二人の経済主体の関係なのである)。しかもこの《奉仕(サーヴィス)》は、道徳化された愛他主義の図式でしかなく、各主体のそれぞれの立場を、のりこえようとしつつも保持してしまう図式である。"(『生産の鏡』pp91-92)
 "〈私〉は他なるものに巻きこまれる一方で、つねにそのてまえから到来する。こうした身体の両義性が生起するのは労働においてのことである。労働は、原因の連続的な連鎖にあって第一原因となるのではない。すでに啓蒙をかいくぐった思考ならそのようにとらえるにしても、そうではない。思考はおわりからはじめて後方にさかのぼり、私たちにもっとも近い原因に到達したところで歩みをとめる。そこで原因と私たちは一致するからである。労働とは、思考がそのように歩みをとめるときに作用しはじめるような原因ではない。あいことなる原因はすきまなく連鎖して、一箇の機構をかたちづくる。機械がその機構の本質を表現しているのである。機械を構成する歯車はたがいに完全に噛みあって、間隙のない連続性をなしている。機械についてなら、帰結は最初の運動にとって目的因であるとも、帰結はその最初の運動がもたらした結果であるとも、おなじ権利で語ることもできるだろう。これとは対照的に、機械の動作を開始させる身体の運動、ハンマーに、あるいは打ちつけるべき釘に向かう手は、こうした目的のたんなる始動因ではない。その最初の運動の目的因となるはずの目的を始動させる原因ではない。手の運動にあっては、目標を、それにともなう偶然的なことがらのすべてとともに追及し、とらえることが、つねにいくらかは問題だからである。身体は、それが作動させる機械や機構に向かい、このように隔たりを穿って、またそれを踏破するけれども、その隔たりの大小はさまざまでありうる。その隔たりの大小を定める境界は、たとえば習慣的な動作においては、そうとうに狭められることもありうることだろう。とはいえ動作がいかに習慣的なものとなったとしても、習慣をみとびくためには熟達と器用さが必要なのである。"(エマニュエル・レヴィナス著『全体性と無限』熊野純彦訳、上巻、pp.340-341)
 "無限なものの観念は、その観念を限界づけるなにものにもじぶんの外部で出会わない一個の存在体、いっさいの限界をあふれ出し、したがって無限なものである存在体を映し出すために、主体性がたまたま思いえがく概念などではない。無限な存在体の生起を、無限なものの観念から切りはなすことはできない。無限なものの観念と、当の菅根がそれについての観念である無限なものとのあいだで均衡がとれていないことにおいてこそ、限界の踏み越えが生起しているからである。無限なものの観念は存在することの様相であり、つまりは無限なものの無限化にほからない。無限なものはまず存在し、そのあとで、啓示されるのではない。無限なものの無限化が啓示として生起し、〈私〉のうちに無限なものの観念を植えつけることとして生起する。無限なものの無限化が生起するのは、およそありえそうもない状況にあってであって、そこではじぶんの同一性のうちに固定され分離された存在、すなわち〈同〉、《私》が、にもかかわらず自己のうちに、ただじぶんの同一性のはたらきによるだけではそれが含みこむことのできないもの、受けいれることもできないものを含みこむことになる。主体性によって実現されるのは、この不可能な要求である
。主体性とはつまり、含みこむことが可能である以上のものを含みこむという、驚くべきことがらを実現するのである。本書は、こうして、〈他者〉を迎えるものとして、他者を迎えいれること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。だから、対象に対して思考が適合的なものでありつづける志向性によって、意識をその根本的な水準で定義することはできない。志向性であるかぎりでの知のいっさいはすでに、無限なものの観念を、つまり際だったかたちで非適合的であることを前提しているのである。"(同pp.25-27)
 結果的に、七海は新居に引越しし、ひとり暮らしをする。安室からは引越し祝いに家具をもらう。だが、その家具は粗大ゴミシールが貼ってあり、安室が方々から横領してきたものだ。
 七海が変わらずに《リップヴァンウィンクルの花嫁》でいることは、2匹のベタを新居にもってきていることからわかる。