『さらざんまい』読解 - 欲望機械、円環、永劫回帰 -

 本稿では『さらざんまい 』(幾原邦彦監督、MAPPA、ラパントラック制作、2019年)の読解をおこなう。概要としては、まず本作の世界観を確認したのち、同時代性を踏まえ、その問題意識を特定する。そして物語によるその解答を分析する。また、本作はメッセージ性が明確なことから、これを幾原邦彦の過去の監督作品と比較対照する。
 本作の世界観は、ヒトの世界と河童の世界が存在し、主人公たちがヒトの姿と河童の姿のあいだで変身しつつ、両世界の危機を解決するというものだ。
 この世界観は芥川龍之介の『河童』のオマージュだ。

《「私は王子であるがゆえに、カエルという侮辱を受けると、ついかっとなって尻子玉を抜いてしまうのですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)

 

《「その河童は誰かに蛙だと言はれ、――勿論あなたも御承知でせう、この国で蛙だと言はれるのは人非人と云ふ意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです。」》(『河童』、芥川龍之介著、青空文庫

 また、本作では河童の国の敵国が獺の国となっているが、これは芥川龍之介の『河童』そのままだ。
 なぜ、いま芥川龍之介なのか。野口武彦は『近代小説の言語空間』で、芥川龍之介の自殺を分析的な知性の現実に対する敗北と類比させている。また、その敗北の顕著な例として、『或る阿呆の一生』の失敗を挙げている。これはラカンで言うところの象徴界の内破であり、きわめて現代的な問題だ。

《千葉「そうですね。言いかえれば、情報テクノロジーの発達で行きついたのは要するにSNSでの承認欲求のゲームであるということで、最先端のテクノロジーを使って何をやっているかと言えば、そこで展開されているのはきわめて人文的な風景ですよね。まさにラカンジジェクが得意とするような主人と奴隷の弁証法が展開している状況で、テクノロジーに還元することが難しいような主体化のロジックこそがやはり人間には大事なのだということがわかります。加速主義者がある種の科学主義者であるならば、そうした主体の問題は時間の経過とともに消滅するのかもしれませんが、まったくそうなっていない。それどころか、テクノロジーによるある意味での脱主体化、テクノロジーによる脱意味化とでも言うのでしょうか――つまり、すべてがお金の量の計算、クオンティティ(量)の問題になっていく一方で、人間はそれでも主体的な意味にしがみついてしまう。こういった状況の二重性があります。つまり、人間がより無機的な数の次元に還元されていくと同時に、ある意味きわめて純粋に主体化の次元が抽出されてくる。それが加速主義と新反動主義が双子であるということの一つの意味なのではないかと思うのです。」》(「加速主義の政治的可能性と哲学的射程」、千葉雅也、河南瑠莉、セバスチャン・ブロイ、仲山ひふみ、所収『現代思想』2019年6月号《特集=加速主義》、p.16)

 人文学における左派加速主義は、こうした資本主義のシステムへの埋没を剔抉する。そこで生じていることは象徴界想像界に対する敗北、より端的には、記号に対する意味の喪失だ。その顕著な例は、SNSのタコツボ化だ(『ダークウェブ・アンダーグラウンド』、木澤佐登志著、イースト・プレス、2019年)。
 本作のキャッチコピーは《つながっても、見失っても。手放すな、欲望は君の命だ。》というものだ。《つながり》は作中に頻出する言葉で、多義的に使用されている。しかし、本作の第1話ではスマートフォンSNS、アマゾンのネットショッピングの小道具が強調されており、少なくとも《つながり》は部分的にSNSを主題化している。
 左派加速主義の代表作である『資本主義リアリズム』において、マーク・フィッシャーはラカンの分裂症理論を援用し、そうした意味を失った記号の流通する資本主義を批判している(『資本主義リアリズム』、マーク・フィッシャー著、セバスチャン・ブロイ、河南瑠莉訳、堀之内出版、2018年、p.52)。
 《つながり》につき、芥川龍之介は半自伝的小説の『大導寺信輔の半生』において、友人をつくることの困難さを語っている。

《信輔は才能の多少を問わずに友だちを作ることは出来なかった。たといどう言う君子にもせよ、素行以外に取り柄のない青年は彼には用のない行人だった。いや、寧ろ顔を見る度に揶揄せずにはいられない道化者だった。》(『大導寺信輔の半生』、芥川龍之介著、青空文庫

 また、芥川龍之介は『大導寺信輔の半生』で象徴界の住人である自己を素描している。芥川龍之介は《自分は人生からは何も学ばない。書物から学ぶのだ。》というアナトール・フランスの言葉に賛同していた。

《こう言う信輔は当然又あらゆるものを本の中に学んだ。少くとも本に負う所の全然ないものは一つもなかった。実際彼は人生を知る為に街頭の行人を眺めなかった。寧ろ行人を眺める為に本の中の人生を知ろうとした。》(同前)

 デイヴィッド・ピース芥川龍之介にオマージュを捧げた『Xと云う患者』において、芥川龍之介とともに、マーク・フィッシャーに献辞を送っている。《Aに捧ぐ。マーク・フィッシャー、ウィリアム・ミラー、および我等が人生の全ての幽霊たちを偲びつつ。》(『Xと云う患者 龍之介幻想』、デイヴィッド・ピース著、黒原敏行訳、文藝春秋、2019年)。ピースは芥川龍之介の作品で『河童』を最高傑作として評している。

《ピース「ちなみに「河童」は、芥川の最高傑作だと思います。アナトール・フランスのような政治風刺と、幻滅した作家の内面が、あれだけの長さに収まっているのは見事です。死を意識した芥川にとって、書かずにはいられない小説だったのでしょう。」》(《巧みな「コラージュ」で浮かびあがる、芥川の人生の闇 デイヴィッド・ピースさん「Xと云う患者 龍之介幻想」》

http:// https://book.asahi.com/article/12305730

 作品の世界観と問題意識を確認したところで、物語の内容を分析する。ここでは作品の思想にドゥルーズの批判哲学を仮定する。なぜなら、承認の欲求というものをはじめに問題にしたのは『精神現象学』におけるヘーゲルであり、ラカンジジェクがそれを発展させたが、ヘーゲルの解答は個人間の対立を家族、市民社会、国家へと糾合して解消する愚劣なものだったからだ。問題意識を継ぎつつ、そのもっとも先鋭な批判者だったのがドゥルーズだ。また、左派加速主義はドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』、ボードリヤールの『象徴交換と死』、リオタールの『リビドー経済』を一般に援用している。

 主人公の矢逆一稀、陣内燕太、久慈悠らは尻子玉を抜かれることで河童に変身し、欲望フィールドで活動できるようになる。

《「ここは欲望フィールドですケロ。人の世の裏側。人間にはこの世界もカッパも見ることはできませんケロ。つまりあなたたちは生きていて死んでいるのですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)

 欲望フィールドは死の向こう側であり、象徴界現実界、記号と意味が完全に同致する場所、アイロニーがそのまま真理である場所だ。そして、河童は人間の世界における象徴界現実界の乖離の象徴だ。

《我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。(僕はこの章を読んだ時思はず笑つてしまひました。)》(『河童』)

 尻子玉はそのまま『アンチ・オイディプス』における《欲望機械》に相当する。『アンチ・オイディプス』の全編において肛門は《欲望機械》の比喩として用いられる。《欲望機械》は人間を駆動させるもの全般を指す。

《「その尻子玉って何?」
「尻子玉とは人間の欲望エネルギーを蓄積する臓器ですケロ」》(『さらざんまい』、ep.1)
《「これからあなたたちにはカパゾンビと戦っていただきますケロ。やつらは生前執着していた欲望を満たそうとしてますケロ。カパゾンビは尻子玉を抜けば消滅しますケロ。河童になったあなたたちになら抜けますケロ」》(同前)

 

《〈それ(エス)〉はいたるところで機能している。中断することなく、あるいは断続的に。〈それ〉は呼吸し、過熱し、食べる。〈それ〉は排便し、愛撫する。〈それ〉と呼んでしまったことは、何という誤謬だろう。いたるところに機械があるのだ。決して隠喩的な意味でいうのではない。連結や接続をともなう様々な機械の機械がある。〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。》(『アンチ・オイディプス』、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳、河出書房、2006年、上巻、pp.15-6)

 一方、《欲望機械》はそれ自体では抽象的な欲求しかない。その欲求を具体化するため、記号が展開する場が《器官なき身体》だ。

《欲望機械と器官なき身体との間に、あからさまな戦いがまき起る。諸機械の接続、機械の生産、機械のノイズ、いちいちの場合にそれらは器官なき身体にとって耐え難いものとなってきた。この身体は、もろもろの器官の下にいまわしい蛆虫や寄生虫がうごめくのを感じ、この身体に器官を与えて台なしにし窒息させる神の行為をかぎつける。「身体は身体だ/他に何もない/器官などいらない/身体は決して有機体ではない/有機体は身体の敵なのだ」器官は彼の肉に打ちこまれる釘、数々の拷問に等しい。もろもろの〈器官機械〉にむけて、器官なき身体はすべすべした不透明な、はりつめた自分の表面をこれらの器官機械に対抗させる。結びつけられ、接続され、また切断されるもろもろの流れに、器官なき身体は、自分の未分化な不定形の流体を対抗させる。音声学的に明瞭なことばに、器官なき身体は、分節されない音のブロックに等しい息吹や叫びを対抗させる。根源的といわれる抑圧はこれと別の意味をもっているとは思われない。 つまり、それは〈逆備給〉などではなく、器官なき身体による、欲望機械へのあの反発を意味しているのだ。 そしてパラノイア機械はまさにこのことを意味している。それは器官なき身体の上に欲望機械が侵入してゆく作用であり、欲望機械を全体として迫害装置と感ずる器官なき身体の反発的反作用なのである。》(『アンチ・オイディプス』、上巻、pp.27-8)

 新星玲央と阿久津真武は獺の手先として、欲望をもつ人間を殺害し、カパゾンビに変身させる。
 そのときの劇中歌である『カワウソイヤァ』の歌詞は以下のとおりだ。

《去勢された負け犬ども 牙を剥け
惰性で生きる虫ケラよ 身を焦がせ
欲望を 手放すな!
欲望を 手放すな!
我らが獲たもの ふたつの運命
我らは似たもの ひとつの生命
欲望を 搾り取れ!
欲望を 搾り取れ!》

 《去勢》こそがドゥルーズガタリが『アンチ・オイディプス』でもっとも問題にしたことであり、《欲望機械》と《器官なき身体》をもつ人間が主体性を損なわれ、資本主義に埋没させられる過程だ。そして、これは前述のとおり、きわめて同時代的な問題だ。

《したがって、資本のもろもろのイメージそのものはもはや欲望の中にはまったく認められず、欲望は、これらの資本のイメージの幻影のみを備給するように規定される。家族的諸規定は、社会の公理系の適用となる。家族は、部分集合となり、これに社会野の集合が適用される。各人(、、)は私的な資格において父と母をもっているので、ある配分的な部分集合が、各人に対して社会的人物の全体集合を模倣し、社会的人物の領域を閉じ、これらの人物のイメージを見失わせてしまう。すべては父-母-子の三角形に還元され、この三角形は、資本のもろもろのイメージによって刺戦されるたびごとに、〈パパーママ〉と答えて反響することになる。要するに、オイディプスがやってくるのだ。オイディプスは、資本主義システムにおいて、第一の次元の社会的イメージが、第二の次元の私的家族的イメージに適合することから生まれてくる。オイディプスは到達点の集合であり、これは社会的に規定された出発点の集合に対応する。オイディプスは、私たちの内に秘められた植民地的組織体であり、これは、社会的主権の形態に対応する。私たちはみんな小さな植民地であり、オイディプスが私たちを植民地化するのである。家族が生産と再生産の単位であることをやめるとき、連接の働きが家族の中に単なる消費の単位を見いだすとき、私たちはまさに父-母を消費するのだ。出発点の集合に存在するものは、社長、指導者、神父、警官、徴税吏、兵士、労働者であり、あらゆる機械と大地性であり、私たちの社会のあらゆる社会的イメージである。ところが、到達点の集合に存在しているのは、結局はもはや、パパとママと私でしかない。専制君主の記号はパパによって受けつがれ、残滓的大地性はママによって引き受けられ、〈私〉は分割され、切断され、去勢される。》(『アンチ・オイディプス』、下巻、pp.97-8)

 

《この操作こそが、オイディプスを現代的社会野の中に構成することになる。それはまさに三角形化の原因なのだ。こうして精神分析における最も根本的な改革者の説は、きわめて重要であるとともに、不確定で決定不能なものになる。この説は、象徴界想像界との間に、象徴的な去勢と想像的なオイディプスの間に、置き換えられた極限を介入させる》(同前、pp.163-4)

 では、《去勢》されず、しかもカパゾンビのようなパラノイア(偏執症)としてではなく、主体性を回復するにはどうすればよいか。『アンチ・オイディプス』は現代の病質を描破しただけで、その処方箋までは記述していない。そこで、ドゥルーズが自身の哲学を全般的に解説した『差異と反復』を参照する。
 『差異と反復』はヘーゲル主義を批判し、随伴現象でしかないヘーゲル止揚に対し、ニーチェ永遠回帰を称揚している。この随伴現象は資本主義の亡霊に等しい。

ニーチェは、永遠回帰を「信じよう」としない者たちに対して、軽い罰しか告知しない――君たちは、束の間の生しか感じないだろうし、それしかもたないだろう! 彼らは、おのれがそれであるところのものがほかならぬ随伴現象である、ということを感じ、そしてそれを知るだろう。以上が、彼らの絶対《知》になるだろう。このようにして、帰結としての否定は、十全な肯定から生じて、否定的であるものすべてを焼き尽し、永遠回帰の可動的な中心においておのれ自身をも焼き尽すのである。というのも、永遠回帰がひとつの円環であるならば――すなわち、絶えず脱中心化され、つねに捩れていて、〈不等なもの〉のまわりしか回らないような円環であるならば、その中心に存在するのはまさに《差異》であって、《同じ》ものはその周辺にしか存在しないからである。》(『差異と反復』、ジル・ドゥルーズ著、財津理訳、河出書房、2007年、上巻、pp.159-60)

 この永遠回帰の円環こそ、『さらざんまい』の主題である《つながり》だ。
 玲央と真武は人間をカパゾンビに変身させるときに《「始まらず終わらずつながれないものたちよ」 「いま、一つの扉を開こう」「愛か、欲望か」》という口上を述べ、一稀たちがカパゾンビの尻子玉を抜くと、《はじまらない おわらない つながらない》というタイポグラフィーの演出が表れる。

《「ちがう服を着てたって、大人になって離れ離れになったって。僕とカズちゃんは、始めから終わりまで、まあるい円でつながってるよ」》(『さらざんまい』、ep.5)

《「俺と一緒に円の外側へ行こう。そのつまらねえつながりを断つんだ」》(『さらざんまい』、ep.10)

 ドゥルーズは『ニーチェ』で永遠回帰について簡明に説明している。
 それは、《意思を二分化し、活動し抑制する能力が要求される自由意志をもった中立的主体》(『ニーチェ』、ジル・ドゥルーズ著、湯浅博雄訳、筑摩書房、1998年、p.60)がおこなう《決して過ぎ去ることのない過去の瞬間》、《生成の生成》(同前、p.104)だ。
 要言すれば、主体性を失わず、絶えず思考を続けることだ。一見、簡単そうだが、そうではない。《去勢》され、内面化されたコードのうち、もっとも代表的なものは異性愛規範だ。
 その批判は同監督の『少女革命ウテナ』(幾原邦彦監督、J.C.STAFF制作、1997年)の主要主題だった。だが、同作品の放送から20年経った現在も、状況は当時と変わらない。ネグリは『〈帝国〉』でフーコードゥルーズの議論を援用し、性別、人種、性志向の被抑圧者が資本主義のシステムに糾合される状況を批判した(『〈帝国〉』、アントニオ・ネグリマイケル・ハート著、水島一憲訳、以文社、2003年)。

 ひとが永遠回帰の意思をもつことは、哲学的に大きな意味をもつ。それは、多数の可能性を意識するとともに、そうならなかった現実を肯定することだからだ。
 これは、始まりと終わりを設定することをも意味する。始まりと終わりは所与のものではない。ドゥルーズの批判哲学において、真正なものは存在しない。存在しない真正なものを求めることは愚劣なヘーゲル主義だ。現代の世界は見せかけ(シミュラクル)の世界であり、そのため、現代思想は表象=再現前化(ルプレザンタシオン)のもとで作用している威力の発見から生まれる(『差異と反復』、上巻、p.13)。
 第7話で、真正な友情を幻視した一稀は《つながり》を絶たれる。その失敗は当然のものだ。

《ところで、《理念(イデア)》のなかにあるかぎりでの、諸関係=比のヴァリエーションと、諸特異性の配分は、存在論的にひとつであるそうした投擲にとってのそれら形式的に区別される規則よりほかに、いかなる起源ももっていない。それは、根源的な始点(オリジン)が起源(オリジン)の不在(永遠回帰というっねに置き換えられる円環のなかで)転倒する点である。ひとつの不確定の点は、すべての回にとっての一回のように、複数の設子のすべての目を通じて置き換えられる。おのれ自身の規則を発明し、そして多くの形式においてまた永遠回帰において、ただひとつの設子振りを組み立てる、それらもろもろの異なった投擲は、いずれも命令的な問いであり、しかもそれらの問いは、それらの問いを開いたままにしてけっして埋めてしまうことのない唯一同一の答えによって裏打ちされている。それらの投擲は、イデア的な諸問題を活気づけ、その諸問題の諸関係=比と諸特異性を規定する。さらにそれらの投擲は、その諸問題を介して、もろもろの成果を、すなわち、それらの関係=比と特異性を具現している異化=分化したもろもろの解をインスパイアする。「意志」の世界。偶然についての諸肯定(命令的で自由決定によるもろもろの問い)と、産出された結果的な諸青定(決定的な解の諸事例あるいはもろもろの決意)とのあいだで、諸《理念(イデア)》の全定立性が展開される。問題的なものと命令的なものとの遊び=賭けが、仮言的なものと定言的なものとの遊び=賭けに取ってかわったのである。差異と反復との遊び=賭けが、《同じ》ものと表象=再現前化との遊び=賭けに取ってかわったのだ。》(『差異と反復』、下巻、pp.299-300)

 

《自己への還帰が、裸の諸反復の基底(フォン)であってみれば、他のものへの還帰は、着衣の諸反復の基底(フォン)である。他方において、見せかけ(シミュラクル)たちの配分を司る遊び=賭けは、数的に区別されるそれぞれの組み合わせの反復を保証する。なぜなら、もろもろの異なる「骰子振り」は、それらの計算のために数的に区別されるというのではなく、たんに「形式的に」区別されるのであり、したがってすべての結果は、いまわたしたちが再確認したばかりの巻き込まれるものと巻き込むものとの諸関係に従って、それぞれの骰子振りの数のなかに含まれており、それぞれの骰子振りは、それら骰子振りの形式的区別に即して他の骰子振りのなかに還帰し、またそればかりでなく、つねに差異の遊び=賭けの統一に即して自己自身に還帰するからである。永遠回帰における反復は、以上のすべてのアスペクトのもとで、差異の固有な力(ピュイサンス)として現われる。そして反復されるものの置き換えと偽装は、運搬としてのディアフォラ(、、、、、、)であるところの唯一の運動のなかで、異なるものの発散と脱中心化の再生しか遂行しないのだ。永遠回帰は差異を肯定する。永遠回帰は、非類似と齟齬をきたすものとを、偶然を、多様なものと生成とを肯定する。ツァラトゥストラ、それは永遠回帰の暗き先触れである。永遠回帰が除去するもの、それはまさしく、差異を表象=再現前化の四重のくびきに従わせることによって、差異を押さえつけ、差異の運搬を停止させるすべての審廷である。差異が奪い返され、解放されるのは、差異の力の末端においてでしかない、すなわち永遠回帰における反復によってでしかないのだ。差異の運搬を不可能にすることによって永遠回帰それ自身をも不可能にするものをこそ、永遠回帰は除去するのである。永遠回帰が除去するものとは、表象=再現前化の前提としての《同じ》ものと《似ている》もの、《類比的な》ものと《否定的な》ものである。なぜなら、再-現前化(ル-プレザンタシオン)とその諸前提は、なるほど還帰しはするが、それもただ一回だけ、これを最後に還帰し、その都度除去されるからである。》(同前、下巻、pp.340-1)

 この決定論のため、尻子玉を失うことは、将来的ではなく遡及的に存在が消えることを意味する。

《「人間は尻子玉でつながっていますケロ。それを失うと誰ともつながれなくなって、世界の円の外側にはじかれるのですケロ」

「円の外側…」

「矢逆一稀という人間は初めからこの世界に存在しなかったことになりますケロ。あなたにまつわる記憶や出来事や物、すべてがなかったことになりますケロ」》(『さらざんまい』、ep.6)

 最終回である第11話では、一稀たちがサッカー選手になるという可能性を意識しつつ、現実となった、悠が少年院で服役したという、そうした可能性のひとつを肯定する。
 同監督の『輪るピングドラム』(幾原邦彦監督、ブレインズ・ベース制作、2011年)における《運命日記》の《運命の乗り換え》も同じ効果をもつ。同作の第15話で、巨大なダビデ像が東京タワーに変化していることで、《運命の乗り換え》が果たされたことが示される。これは現実のものである東京タワーに変化したから、可能性の主題について感興をもたらすのであり、東京タワーが巨大なダビデ像に変化していても、何の説得力もない。同作の最終回である第24話においても、《運命の乗り換え》がおこなわれるが、やはりその効果は遡及的なものであり、そのため当事者は《運命の乗り換え》がおこなわれたことすら知ることができない。
 『差異と反復』は、この決定論の肯定を、円環から分前=運命(ロ)を受けとる籤(ロトリー)と表現している(『差異と反復』、下巻、p.274)。
 さて、《欲望機械》、または欲望は『さらざんまい』の作中で原則的に肯定されている。

《「忘れないで。喪失の痛みを抱えてもなお、欲望をつなぐものだけが未来を手にできる」》(『さらざんまい』、ep.11)

 《「欲望を手放すな。未来は欲望をつなぐものだけが手にできる」》は、玲央と真武の決め台詞だ。
 では、そうした欲望と区別される愛とは何なのか。第6話で、矢逆春河は一稀への利他心が利己心を上回ったため、抱えているものが《欲望》ではなく《愛》と判定され、カパゾンビになることを免れる。
 『差異と反復』は他者の他者性について述べている。これはサルトルの『存在と無』の他者論を発展させたものだ。サルトルは『存在と無』で、他者の他者性を受けいれることを《愛》と定義しているため(『存在と無』、ジャン=ポール・サルトル著、松浪信三郎訳、筑摩書房、2007年、第2巻、p.372)、これを《愛》に関する議論とみていいだろう。
 ドゥルーズは『差異と反復』で、他者の他者性を、自己と他者の構造を受けいれることと述べている。

《繰り広げの途上にある心的なシステムのなかには、個体化の諸ファクターにとって有利な証拠となる巻きこみの諸価値つまり包み込みの諸中心が、何と言っても存在するのでなければならない。それらの中心は、ならかに《私》によっても《自我》によっても構成されず、かえって、《私》-《自我》のシステムに帰属している或るまったく異なった構造によ って構成されているのである。この構造は、「他者」という名のもので指示されなければならない。この構造は、だれも指示することはなく、ただ、他の《私》に対する自我、および、自我に対する他の《私》、を示すだけである。従来の諸理論の誤りはまさに、他者が客観の状態に還元される次元と、他者が主観の状態に帰着させられる次元とのあいだを、絶えず揺れ動くということにあった。サルトルでさえも、そのような揺れ動きを他者そのもののなかに合ませるだけで済ま していた。というのもサルトルは、他者は、私が主観であるときには客観になり、私が今度は客観であるときには必ず主観になる、ということを指摘していたからである。したがって、他者の構造も、心的なシステムにおける他者の機能の仕方も同様によく理解されないままであったのだ。だれであるわけでもないが、しかし二つの心的なシステムにおいては〈他の私に対する自我〉および〈自我に対する他の私〉であるような他者、つまりア・プリオリな《他者》(、、、、、、、)は、その二つのシステムのそれぞれにおいて、表現的な価値、すなわち暗黙のかつ包み込む価値として定義される。》(『差異と反復』、下巻、pp.241-2)

 

《わたしたちはすでに、以上の点を、心的な諸システムにおける《他者》に関して見た。《他者》は、システムのなかに巻き込まれている個体化の諸ファクターと混じりあっていず、むしろ或る意味でそれらのファクターを「代表=再現前化」し、それらのファクターに相当する価値をもっている。事実、知覚的世界において展開されたもろもろの質と延長のあいだで、《他者》は、おのれの表現の外では存在しないいくつかの可能な世界を、包み込みかつ表現している。こうして、表象=再現前化された知覚的世界のなかで《他者》にひとつの本質的な機能を与える執拗な巻き込みの諸価値を、当の《他者》が証示しているのである。なぜなら、《他者》は、すでにもろもろの個体化の場の組織化を前提しているにせよ、反対に、わたしたちがそれらの場のなかで判明な諸対象や諸主体を知覚する(、、、、)ための、しかもわたしたちがそれらの対象や主体を、再認や同定の可能な個体を様々な資格で形成しているものとして知覚するための条件になっているからである。《他者》は、厳密に言えば、だれでもなく、私でも君でもない、ということは、《他者》はひとつの構造であるということを意味しているのであり、この構造が実現されるとすれば、それは、互いに異なるもろもろの知覚的世界のなかでの変化可能ないくつかの項――君の世界のなかでの君にとっての私、私の世界のなかでの私にとっての君――によってのみである。他者に、知覚的世界一般のひとつの個別的なあるいは種的な構造を見る、というのではまだ十分ではない。実際には、他者は、そうした知覚的世界全体の機能の仕方のすべてを根拠づけ保証するひとつの構造なのである。というのも、(わたしたちにとって)基底において存在するものが、同時に、ひとつの可能な形式、たとえば深さであるものとして、またひとつの可能な幅などとして、そこで前-知覚的にあるいは下-知覚的に捉えられるような当のいくつかの可能な世界を表現するところの《他者》が、現に存在しないということにでもなれば、そうした知覚的世界の記述にとって必要なもろもろの基礎概念――図-地、対象の諸射影-統一、深さ-幅、地平-焦点など――は、空虚で使用不能なものにとどまるであろうからだ。諸対象の裁断、断絶としての推移、ひとつの対象から他の世界の利益にかなうよう過ぎ去ってゆくという事実、巻き込まれていながらなお繰り広げられなければならぬものが必ずや何か存在するという事実、それら一切は、〈他者-構造〉と、知覚におけるその表現力とによるのでなければ可能にはならないのである。要するに、知覚的世界における個体化を保証するものは、ほかならぬ〈他者-構造〉なのである。》(同前、下巻、pp.293-4)

 玲央は理想の真武を求め、結果として現実の真武をみず、すでに手にしていたはずの理想の真武さえ失う。
 また、真武は玲央との関係を失うより、一方向的な関係を求め、結果としてその関係すら失う。
 サルトルは『存在と無』で、自己を相手の対象とすることを望むマゾヒズムは、結局、自己の主観において対象としての自己をみることはできないため、不毛だと述べている。真武が玲央の人形として振舞うかぎり、両者の関係の破綻は必然だった。

《「滑稽だね! 誰だって自分の欲望のためなら簡単につながりを捨ててしまえるんだ」

「それでも僕はつながりを諦めたくないんだ。僕たちが一緒にいる未来のために!」》(『さらざんまい』、ep.10)

《「触るな!お前は俺の真武じゃない。一人だった俺を見つけてくれた…俺が欲しかった言葉をくれた真武じゃない!」》(同前)

《「ウッソー。われわれはお前たちの欲望そのもの。われわれはみる者の望む姿でこの世界に顕現することができる」》(同前)

 《「俺はそのままの一稀とつながっていたいんだ!」》(同前)はこれらに対比される台詞だ。

 第10話において、愛か欲望かの二者択一が示唆される。

《「僕またあの夢を見たんだよ。おっきなニャンタローに乗って、星の王子様と出会う夢。王子様は僕に、欲望か愛か選べって言うんだ。でも僕は怖かった。選んだら、まあるい円が壊れちゃうんじゃないかって」

「この世界は今、再び試されようとしています。つながっているのか。つながっていないのか」》(同前)

 だが、最終回において、その二者択一は《つながり》の肯定のもとで無化される。
 『差異と反復』は、自己と他者の構造を受けいれることで、他者性を暫定的に認めることができても、前提として主体は独我論者でしかありえないと述べている。

《したがって、もろもろの強度的セリーのなかにあるかぎりでの個体化の諸ファクターと、《理念(イデア)》のなかにあるかぎりでの前個体的な諸特異性とを再発見するためには、この道を逆方向にたどらなければならず、〈他者-構造〉を実現している諸主体から出発して、その構造それ自身にまで遡行しなければならないのであり、したがって《他者》を《だれ》でもないものとして了解しなければならず、さらには、充足理由の曲がり角に沿ってもっと先まで進み、〈他者-構造〉がその条件となっている諸対象と諸主体のはるかかなたにあって、もろもろの特異性が純粋な《理念(イデア)》のなかで展開され配分されるために、また個体化の諸ファクターが純然たる強度のなかで割りふられるために、もはや〈他者-構造〉がそこでは機能しなくなるそうした諸領域に到達しなければならないのである。思想家が必然的に孤独で独我論者であるのは、そうした意味において、まさに真実である。》(『差異と反復』、下巻、p.295)

 これが同監督の『ユリ熊嵐』(幾原邦彦監督、SILVER LINK.制作、2015年)において《蜂蜜》と《キス》につき、自ら《キス》を与えることが肯定されるゆえんだ。本作において《透明な嵐》に抗うことが主唱され、自ら《キス》を与えることと同じ立場にあるが、これは『さらざんまい』における《欲望》の肯定と同じだ。
 また、この《キス》と《欲望》はすでに『輪るピングドラム』で提示されている。

《「さて、今日はある恋のお話です。追えば逃げ、逃げれば追われる。あれほどうまくいっていたのに、ある日突然そっけない。 逃げられた! さあ、君ならどうする?」
「私だったら、追いかけない」
「なぜ?」
「疲れちゃうし」

「たしかに、そういうタイプの人もいるね。つまり君は逃げる役目しかやらないと宣言するわけだ」
「どういう意味?」

「両方が逃げるんだから、それはお互いが《私からは近づきませんよ》と相手に言うのと同じってことさ」
「つまり?」
「その恋は実らない」
「それでいいよ。私、恋なんかしないもん。例えばだけど、相手が逃げたら、私は追えばいいの? それで恋は実るの?」
「実る場合もある」
「そうかな。そういう相手は、逃げ続けて絶対こっちには実りの果実を与えないんじゃないかな」
「鋭いね。そう、逃げるものは追うものに決して果実を与えない。それをすると、楽ちんなゲームが終わるからね」
「ひどい」
「君は果実を手に入れたいわけだ。キスをするだけじゃ駄目なんだね」
「キスは無限じゃないんだよ。消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばかりしていると、私は空っぽになっちゃうよ」
「空っぽになったらダメなのかい?」
「空っぽになったら、ポイされるんだよ」
「ポイされてもいいじゃないか。百回のキスをやり返すんだよ」
「ムリだよ。そうなっちゃったら、
心が凍りついて息もできなくなっちゃう」
「じゃあ心が凍りついて、息もできなくなるギリギリまでキスを繰り返せばいい」
「そんなの惨めだよ」
「惨めでもいいじゃないか。キスができるんだから。何もしないで凍りついてもおもしろくないよ。だったらキスをして凍りつくほうが楽しいんじゃないかな」
「だったらどうすればいいの?」
「気持ちに任せろってこと。キスだけが果実じゃないかな」》(『輪るピングドラム』、ep.20)

 ここで《キス》を与えることを主張している渡瀬眞悧は世界のシステムの破壊を志す人間であり、『少女革命ウテナ』における天上ウテナと同じだ。
 最終回で眞悧はテロリズムに失敗し、ウテナは《王子様》になることに失敗する。
 ドゥルーズは『ニーチェ』で、ニーチェの超人を、決して実現することのない抽象的な存在として定義している。主体は永遠回帰により超人になることを目指すが、決して超人そのものには到達しない。
 『少女革命ウテナ』の最終回において、ウテナは《王子様》になることに失敗する。しかし、ウテナにより姫宮アンシーの認識は変わり、世界のシステムから脱出する。これは《革命》と言えるが、しかし、だとすれば《革命》とはきわめて現実的なものだ。この現実性は、すでに『輪るピングドラム』の《運命の乗り換え》で示したとおりだ。
 この現実性は劇場版である『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』(幾原邦彦監督、1999年)で明確にされている。

《「ねえ、これからボクたちの行くところは、道のない世界なんだ。そこで、やっぱりボクたちは、ダメになるかもしれない」
ウテナ、私わかったの。私たちはもともと、その外の世界で生まれたんだわ」
「じゃあ、ボクたちは、元いたふるさとに帰るんだね。ボクも分かったよ。どうして君がボクを求め、ボクが君を拒まなかったか」
「ボクたちは、王子様を失ってた共犯者だったんだね」
《そうよ、外の世界に道はないけど》
《新しい道を造ることは出来るのよね》
「だからボクらは行かなくっちゃ。ボクらが進めば、それだけ世界は拡がる。きっと」》(『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』)

 奇跡はおこらず、過去の現実は受けいれる他なく、理想は永遠に実現せず、絶えず自己批判を続けなければならず、他者と完全な合意に至ることは決してない。
 それでも、われわれは欲望をつなぐ、つまり円環の永遠回帰を続けなければならない。なぜなら、それをやめることは、《去勢された負け犬》になることで、《生きながら死ぬ》ことだからだ。

《「そうか… 残念だな。でも、お前たちには、やはりあの世界でお姫さまを続けてもらうよ。何、生きながら死んでいればいいだけのことさ」》(同前)

 『さらざんまい』は幾原邦彦の過去作より結末の雰囲気が爽快だが、幾原が思想的に転回したわけではない。幾原は明晰な理論家だ。
 そうした安易で短絡的な解釈をするなら、それは《去勢》されていることに他ならない。
 幾原邦彦の監督作品の主人公たちがつねにしていることは、決して同致することのない、利己性と利他性をともに実現することの試みだ。『さらざんまい』も、また。