『淡島百景』 - どこにも繋がらない人びとの肖像 -

"「そうだとも。あんたは彼を自分のために愛していて、彼のために愛しているのじゃない。あんたを魅する現世的な快楽のためであって、彼に寄せる愛のためじゃない。あんたがそういう風に彼をわがものとしたということは、神の手でもっとも崇むべき完璧の刻印を捺された人間がつねに呼びさますあの聖なる戦慄を感じていないということだ。あんたはあんたの不純な過去のために彼が堕落するということを考えたことがあるかね。あんたに破廉恥を誇りとするようなあの渾名を頂戴させる例の恐ろしい快楽によって、一人の子供を腐敗させようとしているのだということを。あんたはあんた自身に対しても、また一日こっきりのあんたの情熱に対しても、筋道を通していない……」
「一日きりのですって」と彼女は目をあげながら鸚鵡返しに言った。
「永遠のものではない、キリスト教徒としての来世に至るまでわれわれをわれわれの愛するものに結びつけることがない愛、これをいかなる名で呼べばよいというのかな」"(オノレ・ド・バルザック著『浮かれ女盛衰記』寺田透訳、上巻(所収『バルザック全集』第13巻、p.30))

 『淡島百景』(志村貴子著、太田出版、2015年)の構成の特徴とその演出意図についてのべる。
 吉田秋生は『櫻の園』でチェーホフの戯曲に材をとり、群像劇としてその説話論的な契機と人称のない物語を創造した。中原俊監督、じんのひろあき脚本の劇場版もまた、カメラという統一された視点のもとに、その意図を継承した。群像劇の登場人物は、みずからの役割ではなく、世界を要求する。トルストイが『人間にはどれほどの土地がいるか』で人間には3アルシンの土地があれば十分だとのべたのにたいし、チェーホフは『すぐり』で、3アルシンの土地で十分なのは死体だけだ、人間には地球全体が必要だとこたえた。
 チェーホフの近代リアリズム演劇はじしんの仮構性を剥きだしにする。志村貴子は、群像劇の『淡島百景』をえがくにあたり、網目状の登場人物の配置と錯綜した時系列を綿密に構成することで、世界そのものを創造した。
 第1話『田畑若菜と竹原王子』は、"まんまとその気になってしまった"(『淡島百景』p.20)という理由で淡島歌劇学校に入学した田畑若菜の視点で寮生活が語られる。本話は校内の権力争いに辟易する若菜に、いまだ〈竹原王子〉というあだ名で名指されることのない竹原絹枝が"わたしの友達"(同p.24)という、若菜にとっては伝聞情報でしかない人物を引合いにして在校する理由を語る場面を最終部とする。
 しかし、"こんど寄宿生のみんなと町へ買い物に行くことになりました その話はまたいずれ"(同p.28)という間奏をはさみ展開する第2話『竹原絹枝と上田良子』は、読者が予期するだろう絹枝ではなく、"わたしは父に話すことさえしなかった"(同p.47)という、淡島に入学しなかった人物である"わたしの友達"こと上田良子を視点とする。こうした入子構造は、バルザックが『谷間のゆり』で青年フェリックスとモルソーフ伯爵夫人の情事を語るにあたり、フェリックスが現在の恋人であるマネヴィル伯爵夫人へ宛てた書簡という体裁をとったのとおなじものだ。
 第3話『岡部絵美と小野田幸恵』で、その構造はもっとも美しい結晶をみせる。"〈すてきだった〉〈わたしの初恋はあの人よ 男役の あの〉"(同p.53)という導入部の独白は、視点の人物の語るものではない。岡部絵美は顔のみえない回想と電話越しの声をのぞき、作中には故人として登場する。視点の人物の旧姓竹原、新姓浦上悦子という姓名がわかるのは、念入りにも、小野田幸恵と人違いされてからだ(同p.65)。そして、悦子は絹枝の淡島への入学の後押しをした"叔母"(同p.45)だ。
 絵美が淡島を退学した理由が、のちに再登場する伊吹桂子を交え、絵美、幸恵の人間関係の綾によるものであったことが語られる。絵美の総括は、説話論的な因果関係を否定するものだ。それは、人間が継起的に他人に影響を与えることをも否定する。そのため、本作は入子構造をとり、接点としてのみ存在する人間関係をえがいた。"「わたしを追いつめたのは」「伊吹桂子だし 小野田幸恵だし わたし自身よ」「口実を探していたのよ わたしたち 幸せになれないのは誰かのせいだって」「まるで歌謡曲ね」"(同p.87)。
 だが、そうした孤独がしめされたあとで、物語の時制は悦子が絹枝の淡島入学を後押しした時点に回帰する。"(挫折した絵美ちゃんを見とうなかったんは)(面倒に思ったけえじゃ)"(同p.83)というとおり、悦子に進学後の絵美との面識はなく、そこに因果的な契機はあり得ない。ただ、絵美という存在が、悦子に間接的な影響を及ぼすのみだ。そして、その影響力の余波が絹枝に伝播する。これが説話論な因果関係でないことは、先後関係の反転した第2話において、悦子が役名のないただの叔母として登場するにとどまることからわかる。
 "「おっせーよ タコ」「なに」「いい女がバスん中で泣いてた」"(同p.97)と、無名の男性によりその存在が予示されるだけの絵美の涙は、異なる時制の挿入により物語から遮られ、かつ、乗客の視線の向きが車両の進行方向と一致するバスの車内にあって、だれにも目撃されることがない。ゆえに、作品そのものとおなじくする〈歌劇〉という示導動機で書記される、絵美の淡島からの退学、絹枝の入学、という下行、上行、の音型ののち、ふたたび下行をするとともに、1ページ全体という強勢をともなう表現、作中における岡本絵美のすがたの終端であり、物語から孤絶した涙は、いかなる意味論にも還元されない。
 ここにおいて、第4話『伊吹桂子と田畑若菜』で、成人した伊吹桂子が淡島の教師として独自の立ち位置をもっているのは当然のことだ。
 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、そのような継起的ではなく存在そのものである時間がバルザックの『人間喜劇』の特徴だとした。
" そのようにして、十九世紀の時間は、本質的に一つの連続した運動のように見られる。その運動は、運動の最初の原因からつかむことができる。十九世紀の時間は一つの生成であり、その生成はつねに未来である。現実はアリストテレスの生成におけるように、完了したものではなくて、発生の過程そのものであり、その過程から原因が結果を生みだすのである。私は自分が事物の発生とともに生きているという限りにおいてしか実在しないし、また事物の実在に参加しない。民衆の全的性格を精神と肉体を備えた一個の存在として理解するたすけとなったあの内的経験について語りながら、ミシュレは書く、「私は民衆の全的性格を理解した、なぜか? なぜなら私は歴史的起源のなかでそれのあとをたどることができたからだ。時間の奥深くからそれがやってくるのを見ることができたからだ。」
 そのような発生の意味をバルザックにも増して小説の部門に適用した人がない。『人間喜劇』のどの事件においても、小説のすべての時間に先立ち小説のすべての時間を決定するある力の、時間を通した作用、といったものがただちに見わけられる。一方、反対にフローベールにあっては、人生の各瞬間は、無限に連続する一組の原因の帰結のようなものに感じられる。"(ジョルジュ・プーレ著『人間的時間の研究』井上究一郎他訳、p.36)
 プーレは『円環の変貌』で、『人間喜劇』のそうした世界にあって、人物間の相互作用は影響力により生じるという。
" 次の一節はモンコルネ将軍の物語であるが、『農民』のなかで、周辺の村々が彼に対して同盟を組んでいる。
 《あるひとりの老将軍に対する郡全体や小さな村のこうした同盟が……いくつかの地方において善いことをしようとする人たちに対してもち上がることを想像してみなさい。こうした連合は、たえず天才的な人間、大政治家、大農学者、最後にあらゆる改革者たちを脅かすのです!》
 バルザックは別の個所で、《われわれは、悪の絶えざる陰謀を挫折させる必要はないのだろうか》と記している。陰謀、共謀、貪欲の集まりというものは、いとも簡単に同一目的にむかって力を結集する。バルザックのほとんどすべての小説において、羨望の犠牲であると同時にその対象であるような人物の周辺に、例えば『老嬢』という小説にみられるように、《じつに多くの利己心が集約されている》とバルザックが述べているような人間的中心にむかって、貪欲な意志の円環が構成される。バルザックは、彼が《集団的感情》と呼んでいるもの、つまり円周から中心にむけて、あらゆる方向から同時的に作用をおよぼすものを描くすばらしい画家である。またバルザックは、ある連合が孤立した個人よりも強力であることを欲する包囲の社会的力学によって余儀なくされるような、中心に対する包囲攻撃を描くとき、同じようにすばらしい画家である。
 社会によって囲まれているあらゆる人間の状況固有の弱さには、さらに、そのひと自身の性質に固有の弱さが加わる。なぜなら人間は、社会によって攻撃され、しかもなおそこに気晴らしと食糧とを求めてゆかねばならず、《たえず中心から円周上のあらゆる点へ進んでゆかねばならない。人間は、数多くの情念、数多くの観念をもっているが、しかもなおその土台とその作用のひろがりとのあいだにはあまりにもわずかな均衡しかないために、一刻一刻、過失による現行犯でとらえられるのだ》。しかし、他方、個人が多数の情念のかわりにたったひとつの情念しかもたないと想定してみると、その個人のあらゆる関心のこのような危険な集中化は、ある防御不能の点から彼を攻撃できるような機会をその敵に対してもあたえることにもなりえよう。
 《あるあたえられた一点に、若干の激烈な観念を統合させてみよう。すると、人間はナイフで突き刺されたかのようにして、それらの観念によって殺されるだろう。》
 《ある気体から創造行為の縮小版をおこなう現代化学に、その気紛れの点でそっくりの人間の魂は、その楽しみや力や観念などの急速な集中化によって、ある恐るべき毒薬をつくり出すのではないだろうか。夥しい数の人間が、彼らの内面に突然そそいこまれた若干の道徳的な酸の衝撃で死亡しているのではないか。》
 したがって思想は武器であり毒薬である。それは《一点に注ぎこまれることによって、ライデンびんのように作用し、死をもたらすこともできる》ような液体である。
 このように力が流れこみ致命傷をあたえるような点こそ、存在の肝要な中心である。つまり《われわれの魂と呼ばれるものは、われわれの感覚のなかを通っている多くの進路が行き着くところの幾何学的な点》であるとバルザックはいう。そのような進路は敵に盗用され、そこから敵が接近してくるものでもある。したがって社会における人間は、二重の意味で無防備である。それは、適性国のまんなかで包囲攻撃をうけている場所に似ているのと、彼自身の情念がその防壁をひらかせ、攻撃側が集中攻撃をしかけてくるような弱点をしばしば露呈するからである。
 しかしバルザックは、周辺的な社会と中心的な個人との相剋を、後者の即座の敗北という形でつねに表現しているわけではない。もし彼にとって生活が本質的にこの二つの傾向の相剋であるとすれば、一方が他方によってあまりにも早急に打ち敗かされ、社会的な喜劇ないし悲劇というものがすべて、人間が位置づけられている環境による人間の屈服ということに還元されるのは都合のよいことではない。なぜなら、その場合には、要するに相剋がすぐになくなるだろうし、その結果、生活もなくなるからである。したがって逆に、この小説家は敵対するエネルギーに対して、攻撃と同様に防御においても、ほぼ等しい力をあたえる必要がある。個人が社会によってつねに粉砕されてしまうわけではない。個人が社会を粉砕することさえあるのだ。じじつ人間は、平和の期間に蓄積することができ、しかも危険な瞬間にそれを使いはたせるような莫大な資力を準備しているものである。バルザック的な人間は、しばしば情念によって中心から円周のあらゆる点につれられてゆくことによって弱体化するとしても、同じようにしばしば節制つまり思考と欲望の節約、すなわちバルザックのいう《内的な諸力の集中化》ということによって再び力をとりもどすのだ。もっとも抵抗力をもっている性格というのは、バルザックにとっては《純潔なる性格》である。《純潔は、あらゆる奇怪なものと同様に、特別な豊饒さ、大いなる吸引力をもっているものである。その諸力が節約されているような生活は、純潔なる個人において、計りしれないほどの抵抗力と持続力をもつものである。》精神的身体的な不変性、瞑想的な生活、欲望の簡素、激しい情念の欠如などが、バルザックにとっては一種の存在の初原的な状態である。このような状態とは、力をたくわえ、それらを浪費することなく、中心に立ちもどり、いわば潜在的で規則正しい生活だけしかしないもので、いまは締められているが、必要な場合には荒々しくいつでもゆるめられるようになっているぜんまいのようなものである。
 《諸原理からの論理的で単純な還元によって、意志が、内的存在のもつ完全に収縮性の運動によって蓄積され、それから、さらに別の運動によって外部へ放射されることができることを彼は知るようになった。》
 《あるひとたちは……言葉なり、行為によって世界を支配することができるようになって再びそこから出られるために、長いあいだ沈黙して、自己のもつ諸力を集中しようとしないのではないか。》
 だが、このような沈黙した集中化は、まだ初原的で潜在的な状態にすぎず、まだ作動していない潜在力にすぎない。ところがこれとは逆に、バルザックの場合、いまや集中化は欲望の目標となっている対象にむかって存在のあらゆるエネルギーを働らかせ、可能態から作用への、しばしば急激におこなわれる、その移行を把えることができるような個所が数多く存在している。
 《どんな激しさでわたしの欲求は彼女にまで高まってゆくことか! もしこれまでの日々、宇宙がわたしのために拡大していたとすれば、じつに一夜にしてそれはひとつの中心をもったのだ。わたしの願望、わたしの野心は、じつに彼女にひきつけられていた。》
 《その瞬間、わたしの全生活、わたしの思考、わたしの諸力が、欲求を名づけるもののうちに基礎づけられ、そこに統合されるのだ。……》"(ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』岡三郎訳、上巻、p.268-272)
" しかし、バルザックは虚空におけるさまざまな創造にはほとんど関心をもっていない。彼に興味のあることは、充実した創造ないし噴出である。阿片には想像的な空間のなかでの空しい膨張しかできない。種々の障害や圧力、作用と反作用などのある世界こそもっと価値のあるものである。バルザックの宇宙において、誰かがある決定的な危機にある場合、その人物は、たちまち自分の持てる力を集中し、それまで考えられなかったような物質的ならびに精神的な手段を自分のものとし、周辺的な脅威に対してほとんど桁外れの抵抗力ないし反撃力をむけるのだ。
 《極度の危機というものは……強力な反応体が肉体におよぼすのと同じような、恐るべき効果を魂に対してもつものである。それは精神的な電圧(ボルト)をもつ電池である。おそらく、電気の流れに似たような流れとなって、感情が化学的に凝縮するような方法がえられる日も、たぶん、そう遠いことではないのではないか。……打ちひしがれ、いまにも死にそうで、ずっと眠っていないこの女性、着物を着せてやるのにたいそう難儀するこの公爵夫人は、窮地に追いこまれたライオンのような力と、戦陣における将軍のような機知をやがて取りもどすだろう。》
 したがってここでは、周辺的な圧力は反応体の役割をはたしている。包囲されている中心に収縮する求心的な運動に対して、脅威をうけているものがそれによって攻撃に転じ、侵攻してくるものを撃退させるような、逆方向の、遠心的な運動が対立されている。これが『従兄ポンス』において起こることで、この場合、無一物にされ、貪欲の重みでいまにも倒されそうな余命いくばくもない老音楽家が、突然、病いの床から立ちあがり、これまでの状態では見られなかったほどの肉体と精神のエネルギーをもって、自分の敵に対して攻撃をあびせるのがみられる。
 こうしたことは、人間喜劇における場合、意志の力学によって生じる方向の逆転である。《魂は、離心的な力で獲得するものを、向心的な力でうしなう》が、またその逆でもある。魂はあらかじめ向心的な力で凝縮するその度合においてだけ離心的な力をもつのである。その拡大力は、その撤退力にかかっているのだ。ある人間がやがてその力点を外部に投げだし、行動によって中心から周辺に移行し、自分の周辺に次第に拡大してゆく活動領域のなかで変化してゆけるのは、彼がその力点のうちに自己を集中できる場合に限られる。
 すべてのわがままなものたち、つまりすべて力強い連中は、バルザックにおいては、退却と拡大という二重の運動ができるものである。ルイ・ランベールはそのような型の人間である。
 《ランベールは、ある一定の瞬間に、異常な力を自分によび起こし、それらの力を放射するためにあたえられたある一点に集中する才能をもっていた。》
 《……ある人間がこうした力を集中させ、その全体を操作し、そうした流動体の投影をつねに他の人々にむけているような習慣を身につける場合には、なにものもそうした力に抵抗できないだろう。》
 したがってバルザックの小説のなかには、共謀の小説とはまさに正反対であるような創造形式を識別することができる。後者は圧縮のプロセスを述べるが、前者は拡大と表現のプロセスを述べる。人間喜劇において、集中作用によって十倍も強力になった個人の力の放射ほど著しいものはないだろう。バルザックの作品において、すべての偉大な野心家や情熱家たちは一様に、自分たちの周辺に、動物磁気的(メスメリック)な流体つまりその効力と作用範囲がたえず増大してゆく擾乱的で威圧的なエネルギーを発散させているものとして表現されている。影響をうけるのは、一般的にはまず彼ら自身の精神的物質的生活であり、次は直接彼らをとり巻いている人々、つまり妻、子供たち、愛人ないし友人であり、その次が知り合いであり、彼らが中心をなしている社交的な集り全体であり、ついには彼らの意志は枠をうち破り、社会全体が彼らの活動がゆきわたり支配的であるような領域になってゆく。
 《人間は、その運動にもとづく一切の活動によって、自分自身からそとへ、自分の活動領域においてなんらかの結果を生ずべき多量の力を放射できるものだという判断をわたしはくだしていた。……
 じじつ、もし、きわめてすばらしい分析的な天才で、教会の門前で多くのことを聞きとったある数学者がいったことだが、地中海の岸辺で放たれたピストルの弾丸は、中国の海岸でも感じられるような運動をひきおこすとすれば、われわれが自分たちのそとへ多くの力を放射する場合、われわれは自分たちの周辺で雰囲気的な諸条件を変化させるか、あるいは必然的に、しかるべき場所を求めているこのいきいきとした力の効果によって、われわれがとり囲まれている人間や事物のうえに影響をおよぼすか、いずれかに多分なるのではないか。》
 《ひとりの人間のものつ全部の力は、他の人々に対して反作用をおこし、もし彼らがこうした攻撃に対して自衛しなければ、彼らにとって異質のものを彼らのなかに滲みこませるといった特質をもつにちがいない。》"(同p.275-277)
"運動をその初原的な一点に把える場合に、ひとは究極的にはもはやその運動ではなくて、その一点しか把えないという危険をおかす。まだ結果をうみ出さない原因、まだ姿をとらない原理としての絶対的な一者は、バルザックの思想が一致する傾向をもっているプロティノス的な神がである。しかし、プロティノスの神は、現実に創造者としての神ではない。もし世界がそうした神から発生するならば、その発生は、結局、たいした重要性もまた現実性ももつものではなく、それは夢における非実在性をもつにすぎない。最終的には、形態をもたない原理、宇宙をもたない神、円周も放射も空間ももたない中心点がのこるにすぎない。《抽象は萌芽状態のまったくひとつの性質を含んでいる》ということは事実である。しかし、その性質は萌芽にすぎず、それは潜在的なものであり、現実には存在しいないものである。したがって、バルザックが実際しばしばそうしているように、すべてのものをある中心的で原因を示す原理に還元することから成立するような、彼の発展の究極的な一点、つまり、そこからすべての線が生じるが、またすべての線がそこに消え去ってゆくような一点に立ち至る場合、彼は、人間喜劇のなかにあふれている具体的な数々の人物の、ある円形をなしている、じつに驚くべき展開を、その逆のものによって、すなわち、そこにはもはやなにものも存在せず、それ自体が無であるような一点にそれらの人物を吸収させることによって替えているのだ。"(同p.290)
 その唯物論の徹底ために、ティボーデは『人間喜劇』を父なる神のまねび(イミタシオン)といった。志村貴子も『淡島百景』でまたおなじことをした。
" 『ゴリオ爺さん』の場合でもおなじだが、『谷間のゆり』を読むと、「哲学的研究」が「人間喜劇」の肝要な部分をなしていて、それのアクロポリスのようにそびえていることが感じられる。その小説が一つの実証哲学によって、一つの世界観によってつらぬかれているような大小説家はバルザックひとりである。彼はそれを哲学の伝統から学ばずに、神秘主義の伝統から受けついでいる。ところが神秘主義者という印象をわれわれに与えない点で、バルザックの人品や小説の上を行くような人間なり作風なり天分なり、めったにあるものではない。サント=ブーヴやヴェース、そしてつまるところテーヌといった二代にわたる批評家たちが、バルザックを特徴づけ、描き出し、賞讃したのは右とまったく反対に唯物論者として、「獣的文学」の頭目、その巨頭としてである。けれどもバルザックのような作家の場合、感覚的事物の莫大な重みがそこにあるのは、精神や愛情や透視力の、それとひとしく巨大な量と均衡をたもつためなのである。そこでバルザックの世界観の起源にいる神秘主義者の一人、トゥーレーヌ生まれのサン・マルタンなり、あるいはスウェーデン人のスウェーデンボルグなりを他の哲学者にくらべるならば、想像力にとって神秘主義者の優越は思想に同位、とまでは行かなくとも支柱を与えることにあるのがわかり、その神の国に関する写実主義がいかに哲学者の崇高な実在論と対立するかがわかる。『あら皮』から『絶対の探究』を経て『セラフィタ』にいたる「哲学的研究」は、地上から天界に達する螺旋を描いている。パリのわきかえるような物の世界を土台とし、フィヨールドの天使の詩で終わっている螺旋形だ。この小説体の叙事詩はラマルティーヌとユゴーの哲学的叙事詩よりも一段とゆたかで、込み入っていて、暗い。けれどもおなじ源から出て、おなじ方向に向かっている。
 源とは神秘主義であり、方角とは新しい「キリスト教」である。「人間喜劇」の序文の次のようなバルザックの宣言は大いに論議の種となった。曰く「私はキリスト教と君主政体という二つの永遠の真理に照らされて書く」と。バルザックが、信念にもよるが同時に家庭や女性の影響をも受けて、正統王朝派でもありナポレオン讃美者(いささかその後継者として)でもあったこと、そしてフランスを君主の統治する国として考えていたことは明らかである。けれどもそれ以上に「人間喜劇」をカトリック的に考えていた。よしんば信仰は持たなかったにしろ、かつて『神曲』がかく考えられたように、「人間喜劇」をカトリック的に考えていたのである。
 バルザックサン・マルタンとおなじく影の状態で、水をわった状態で、香水のあきビンに残った匂いの状態でカトリック教を感じてはいなかった。この点ではシャトーブリアンやルナンのような作家と反対である。それとは逆に彼の方向は超カトリック教、過度のカトリック教の方向である。「人間喜劇」の序文で彼は、ルイ・ランベールの手紙を参照してほしいと読者にいっている。『その若い神秘哲学者はそこでスウェーデンボルグの教義について、この世がはじまって以来宗教はただ一つしかなかった次第を説いている。』そしてバルザックは『セラフィタ』を「キリスト教仏陀の行動的教義」と呼んでいる。「人間喜劇」はシャトーブリアンや「進歩的な司祭たち」や折衷主義などから引っぱりだこにされた可もなく不可もない普通のキリスト教を採用せず、逆にもっとはげしい永遠のキリスト教をえらんでいる。もろもろの宗教の神秘的な、逆説的な、まっかにもえている炉であり、透視力の天賦がそれらの宗教を眺め、認め、分類する中心ともいうべきキリスト教である。バルザックヴォルテールの詩の文句のように、「めいめい安心して信仰のうちに光を求める」とはいうまいが、「信仰のうちにあまねき光を楽しむ」とはいうだろう。信仰のうちに、そして職業のうちに、である。社会科学の精通家と自称するバルザックにとって、「キリスト教ことにカトリック教は、『田舎医者』でも述べておいたように人間の頽廃的傾向を抑圧する完全な組織なるがゆえに、社会秩序の最大要素である。」
 社会秩序は世界の秩序としかいっしょにならない。バルザックが宗教を一つの警察力とみなすのは、はじめまずそれを一つの神秘神学とみなしたからにほかならない。「人間喜劇」もまた、そして何よりもまず『神曲』である。バルザックは上機嫌で健康にもめぐまれて、自発的にというよりむしろずうずうしくといいたいほど神にみたされている。なぜなら存在にみたされているからである。彼はその創造的な精力のなかを神が通りすぎることを、反逆的な題材を通じて、――ただにいろいろの情熱によってばかりでなく「情熱」そのものを通じて自覚する。バルザックデカルトと共に神が何よりもまず意志であることを、ベルクソンと共に神がそうおいそれと行動を起こさないことを、生命や思想や創造は上り坂であることをみとめるだろう。およそ神の見地ほど、インゲンの芝居がはっきり目にうつる見地はない。
 されば「人間喜劇」を別のはじっこで、つまりその物質性のはじっこでとらえるのは、バルザック主義に関する大きな誤解なのである。バルザックもそれをいい、釈明さえしている。「私がかように多くの事実をあつめ、かつ描くのを見て、人はあやまって私を汎神論という同一事実の両面なる感覚論ならびに唯物論の派に属するものと想像した。しかしこのような勘ちがいはおそらくありうることで、むしろ当然だった。」
 事実、二代にわたる批評家はその点思い違いをした。バルザックの物質主義、というのがサント=ブーヴの口ぐせであった。そしてお上品な小説は「理想主義」をかつぎ出してこれと対抗するのに精根をからした。一八五〇年代はバルザックをもって官能主義的で「獣的な」文学の先頭第一人とし、ヴェースはこれを讃美した。文学提要の類はかかる判断を忠実にまもってきた。いまやこれは完全に用いつくされた見地である。ブリュンティエールもバルザックに関するその見解の第二期において、すでにかかる判断をすててしまった。クルティウスからベレッソールにいたる現代の批評においても、そのなごりすらみとめることはできまい。
 なぜなら「人間喜劇」の世界は芸術が生み出したもっとも広いセカイであり、太陽の沈むことなきこの帝国を一望のもとにおさめたり、われわれの昼夜の観念で理解したりするのはむずかしいからである。ひとたび透視力の天賦という中心観念さえ呑みこめれば、この世界について抱きうつもっとも完全に近い映像は、一つの世紀すなわち十九世紀をフランスに具象化しようとする自然の試み、――自然のあらゆる試みとおなじくそれは半ば失敗に終わったが、とにかくそういう試みというふうにバルザックの天分を見ることにあるだろう。人間の芝居、――まさにそれにちがいない。けれどもそれはフランスの芝居、一世紀に一度の芝居という限定づきで現れる。"(アルベール・ティボーデ著『バルザック』水野亮訳(所収『バルザック全集』第3巻))