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『あの教室』MV - 教室で『箱男』になるということ -

百合

 寡聞にして乃木坂46のMVをあまりみたことがなく、しかし『あの教室』につよい印象をうけた。以下、そのプロットを読解し、その仮説から映像表現の意味を探る。さらにそののち、じっさいのコードと歌詞、映像と対照する。
 プロットは次のようなものだ。齋藤飛鳥演じる少女(以下「齊藤」)が教室で紙袋をかぶっており、教師がそのことを詰問しているが、齊藤はなにも説明せず、教室を去る。生徒たちは遠巻きにしているが、堀未央奈演じる少女(以下「堀」)はひとり、席を立たずに齊藤をみている。のちに、堀と思われる少女が紙袋をかぶっており、教師が質そうとするが、それが堀が判別できない。
 紙袋をかぶるという行為は安部公房の『箱男』における、ダンボール箱をかぶる人びとを思わせる。作中において、ダンボール箱をかぶるという行為は匿名になることを意味する。

 "Aにもし何か落度があったとすれば、それはただ、他人よりちょっぴり箱男を意識しすぎたというくらいの事だろう。Aを笑う事は出来ない。一度でも、匿名の市民だけのための、匿名の都市――扉という扉が、誰のためにもへだてなく開かれていて、他人どうしだろうと、とくに身構える必要はなく、逆立ちして歩こうと、道端で眠り込もうと、咎められず、人々を呼び止めるのに、特別な許可はいらず、歌自慢なら、いくら勝手に歌いかけようと自由だし、それが済めば、いつでも好きな時に、無名の人ごみにまぎれ込むことが出来る、そんな街――のことを、一度でもいいから思い描き、夢見たことのある者だったら、他人事ではない、つねにAと同じ危険にさらされているはずなのだ。"(安部公房著『箱男』p.23)

 みずからの外形を隠すものの製作とその装着というシノプシスにおいて、『箱男』と類比的な同著者の『他人の顔』について解説で大江健三郎が指摘するように、匿名になることは政治的だ。ここに存在するのは仮題が『僕らの革命』だった『サイレントマジョリティー』と同じ〈反抗的人間〉だ。

 "……なるほど、顔のない人間には、朝鮮人のために署名をする資格もないというわけか。むろん、助手に、悪意はなく、おそらく直観的に、ぼくを刺激しかねない要素があることに気づいて、むしろ憐みの気持から敬遠してくれたのだろう。たしかに、最初から人間に顔がなかったとしたら、日本人だとか、朝鮮人だとか、ロシア人だとか、イタリア人だとか、ポリネシア人だとか、そんな人種差別による問題など、起りえたかどうかも疑わしい。それにしても、ちがった顔をもっている朝鮮人に、それほど寛容なこの青年が、顔のないぼくには、なぜこうも分け隔てをするのだろう? 人間は、進化の過程で猿から独立するとき、ふつう言われているように、手や道具などによってではなく、顔で自分を区別してきたとでもいうのだろうか?"(安部公房著『他人の顔』p.243)

 またドゥルーズ=ガタリも『千のプラトー』で、シニフィアンと記号系が機能するのは、専制的アレンジメントによる意味性と権威的アレンジメントによる主体化があってはじめて可能になり、それは身体の脱コード化と顔の超コード化をも要請し、そのため、顔は政治的なものだとしている。

 "仮面さえもここでは以前と正反対の新しい機能を持つ。というのも、仮面の統一的機能とは、否定的な機能でしかないからだ(どんな場合でも、仮面が偽り隠すために使われることはない。たとえ顕示したり開示したりする場合も)。一方に、原始社会の記号系におけるように、身体を頭部に所属させ〈動物になること〉を可能にするものとして仮面がある。逆にもう一方で、今日のように、顔の屹立と高揚、頭部と身体の顔貌化を可能にする仮面がある。仮面はここで、顔そのものであり、顔の抽象あるいは操作となっている。顔の非人間性。顔がシニフィアンと主体をあらかじめ前提することは決してない。順序はまったく違う。専制的かつ権威的な権力の具体的なアレンジメント→ホワイト・ウォール-ブラック・ホール、顔貌性抽象機械の始動→穴のあいたこの表面上への、意味性と主体化からなる新しい記号系の設置。そのためわれわれの考察はずっともっぱら二つの問題を対象にしてきた。顔とそれを生産する抽象機械との関係、顔と、顔の社会的生産を必要とする権力のアレンジメントとの関係。顔とは一つの政治なのだ。"(ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ著『千のプラトー宇野邦一他訳、p.207)

 では、なぜ齊藤は紙袋をかぶったのか。MVの始まりで齊藤はすでに紙袋をかぶっており、説話論的な因果関係は呈示されない。明確なプロットをもつ『無口なライオン』のMVと対照的だ。齊藤は教室そのものを拒絶している。それは、教師の叱責が"「みんなびっくりするだろう」"、"「先生な、無視はだめだと思うぞ」"など紋切り型で、意味内容をもたないことからもいえる。村田沙耶香の『しろいろの街の、その骨の体温の』では、教室のスクールカーストの下位に位置する少女の透明になりたいという欲望が記述される。最下位ではない下位は、外縁ではなく周辺として、中心と示差的にシステムに包摂される。その意味で、離脱できないシステムであるスクールカーストは世界のすべてとなる。スクールカーストと教室はほぼ同義だ。

 透明になるということは、プラトンの『国家』のギュゲスの指輪の例話にしめされているように、万能になることをも意味する(プラトン著、藤沢令夫訳『国家』上巻、pp.118-121)。それは世界そのものの拒絶だ。ジャン・ストロバンスキーは『透明と障害』において、ジャン=ジャック・ルソーが透明を志向したことを著作から分析し、それが実践においては孤独を選択させたとする。

 "ジャン=ジャックは狂おしいほどにかれ自身の透明を宣言しているのであるが、他方では、ヴェールは暗黒のなかで重くのしかかり、いっさいの眼に見える空間を覆う。すでに見てきたように、『ヌーヴェル・エロイーズ』の結末では、同じように透明とヴェールが同時に勝利をおさめたのであった。……究極においては、透明は完全に眼に見えないものである。人間はわたしをありのままとは別のものに見ている。したがって、かれらはわたしを見ていないのであり、わたしはかれらにとって眼に見えず、かれらはわたしにとって無縁な不透明をわたしに押しつけ、わたしの顔にわたしに似ないさまざまな仮面をはりつけている。わたしはかれらからいっさいのわたしの現存を隠し、かれらがわたしに外観を与えることを妨げることができればとひたすら願っている。夢想は魔術的な神話に向けられるのだ。《もしもわたしが神のごとく眼に見えず、全能であったなら、わたしは神のごとく慈悲深く、善良であったろう…… もしわたしがジジェスの指輪をもらったなら、人間の隷属から脱して、かれらをわたしの隷属下に置いたことだろう。わたしならこの指輪をどう使うだろうかと、わたしはよくいろいろ夢を描いては考えてみることがあった。(『夢想』)》眼に見えないものになること、それは存在の極端な空虚さがある無限の力に転換される地点である。ジジェスの指輪をそなえるならば、ルソーはかれの無為から脱し、行為に移り、善をなし、女たちを手に入れるであろう。さらに外観から解放されるならば、かれを不随にしている障害から解放されるであろう。そしてこの『第六の散歩』を読んでみるならば、もっとも恐るべき、もっとも不動の障害とは、他人の意識のなかに形成され、かれの透明を否定しているジャン=ジャックのいつわりのイメージにほかならないことが見出される。眼に見えないものとなることは、もはや(一時的に)薄黒い隈で取囲まれた透明となることではなく、禁じられることを知らない視線となることである。それこそまさしく「生きた眼」となることであり、閉ざされていた空間を取戻すことである。"(ジャン・スタロバンスキー著、山路昭訳『透明と障害』、pp.411-412)

 匿名になることは透明になることと同義だ。

 "ぼくは自分の醜さをよく心得ている。ぬけぬけと他人の前で裸をさらけ出すほど、あつかましくはない。もっとも、醜いのはなにもぼくだけではなく、人間の九十九パーセントまでが出来損ないなのだ。人類は毛を失ったから、衣服を発明したのではなく、裸の醜さを自覚して衣服で隠そうとしたために、毛が退化してしまったのだとぼくは信じている(事実に反することは、百も承知の上で、なおかつそう信じている)。それでも人々が、なんとか他人の視線に耐えて生きていけるのは、人間の眼の不正確さと、錯覚に期待するからなのだ。なるべく似たような衣装をつけ、似たような髪型にして、他人と見分けがつきにくいように工夫したりする。こちらが露骨な視線を向けなければ、向こうも遠慮してくれるだろうと、伏目がちな人生を送ることにもなる。だから昔は「晒しもの」などという刑罰もあったが、あまり残酷すぎるというので、文明社会では廃止されてしまったほどだ。「覗き」よいう行為が、一般に侮りの眼をもって見られるのも、自分が覗かれる側にまわりたくないからだろう。やむを得ず覗かせる場合には、それに見合った代償を要求するのが常識だ。現に、芝居や映画でも、ふつう見る方が金を払い、見られる方が金を受取ることになっている。誰だって、見られるよりは、見たいのだ。ラジオやテレビなどという覗き道具が、際限もなく売れつづけているのも、人類の九十九パーセントが、自分の醜さを自覚していることのいい証拠だろう。ぼくが、すすんで近視眼になり、ストリップ小屋に通いつめ、写真家に弟子入りし……そして、そこから箱男までは、ごく自然な一と跨ぎにすぎなかった。"(『箱男』pp.117-118)

 透明=匿名になることは実存の超克だ。
 MVで、齊藤と堀は教室から机とイスの折りかさなる舞台にモンタージュ理論に則し、連続的に移行し、ダンスを演じる。ここでのダンスはコンテンポラリー・ダンスだ。なぜ、コンテンポラリー・ダンスなのか。コンテンポラリー・ダンス塚本晋也監督『ヴィタール』で用いられている。『ヴィタール』のシノプシスは、浅野忠信演じる記憶をなくした医学生が、柄本奈美演じる恋人の遺体を解剖実習で解体してゆくうちに、べつの世界で恋人に会う夢をみるようになるというものだ。その世界の柄本は寡黙で、代わりに、浅野にコンテンポラリー・ダンスをみせる。『あの教室』のMVで齊藤と堀がコンテンポラリー・ダンスを演じるのは、そこが夢の世界だからだ。また、舞台の美術もシュルレアリスティックなものとなる。ジャック・デリダは『グラマトロジーについて』でルソーの透明への志向をエクリチュールを媒介しないパロールへの志向としてとらえる。

 "すでに言ったように、ルソーはこの力――これは音声言語(パロール)を開始し、自身が構成する主体を解体し、主体が自身の記号に現前することを妨げ、主体の言語活動(ランガージュ)を或る文字言語(エクリチュール)の全体によって苦しめるのであるが――を或る仕方で認識していたが、にもかかわらず、その必然性を引受けるよりはそれを払いのけるのに急である。それゆえ彼は、現前の再構成を目ざして、文字言語(エクリチュール)を評価すると同時にその資格を奪う。同時にというのは、分裂してはいるが首尾一貫したものの中において、ということだ。この運動の奇妙な統一性を見失わぬようにせねばなるまい。ルソーは現前の破壊、音声言語(パロール)の病いとして文字言語(エクリチュール)を弾劾する。彼は、それが音声言語(パロール)から奪われていたものの再所有化を可能にするかぎりにおいて、それを復権させる。だが音声言語(パロール)から奪取したのは、それよりも古く、すでに場所を割り当てられていた一つの書差(エクリチュール)でなくして何であろうか。この欲望の最初の運動は、言語理論として表現される。別の運動がこの著作家の経験を支配する。『告白』でジャン=ジャックが自分はいかにして著作家になったかを説明しようとする際に、彼は文章表現(エクリチュール)への移行を、音声言語(パロール)における裏切られた自身の現前の、或る種の不在と或るタイプの計算ずくの消失とによる復興として記述している。その場合、書くことは音声言語(パロール)を保持し、あるいはそれを取り戻すための唯一の方法であるが、それは音声言語(パロール)が与えられるのと同時に拒否されるからである。そのとき記号の経済が形成される。だがこれはまた欺瞞的なものであり、さらに欺瞞の本質と必然性にいっそう近いものである。不在を抑圧したいという気持は避け難いものであるが、われわれはつねにそれを放棄せねばならない。スタロバンスキは、ルソーがそんな具合に位置せざるを得ないところの空間を支配している一つの根本的な法則を記述している。「彼をその真価に従って表現することを妨げているこの誤解を、彼はどのように克服するであろうか。話された音声言語(パロール)の危機をいかにして逃れるであろうか。別のどんな伝達様式に訴えるのか。別のどんな手段によって自己を表現するのだろうか。ジャン=ジャックは不在であることと書くこととを選ぶ。逆説的に言えば、彼はより良く現れるために身を隠すのであって、書かれた音声言語(パロール)に身をゆだねるであろう。『必ず自分に不利なように見られるばかりでなく自分と全く似てもいない別人に見られるという心配さえなければ、私も人なみに社交はすきである。私が選んだ書くことと身を隠すという立場は、誠に私には適わしかった。人々の前に顔を出していたら、世間は私の真価〔私がそれに価するところのもの〕を知ってはくれなかっただろう。』(『告白』)この打明け話は独特であり、強調に価するものだ。ジャン=ジャックは他人たちと手を切るが、それは自分を書かれた言葉(パロール)の中で示す〔現前させる〕ためである。彼は暇に任せ、孤独に護られて、自分の文章に幾度となく推敲を重ね続けるであろう。」"(ジャック・デリダ著、足立和浩訳『グラマトロジーについて』下巻、pp.2-3)

 そのパロールエクリチュールの二項対立をこえるもののひとつが夢だ。

"ソシュールによれば、個的発話(パロール)の受動性はまずその言語体系(ラング)への関係である。受動性と差異との関係は、言語活動の根本的無意識(言語体系(ラング)における根基としての)と意味作用の根源を構成する間=化(espacement)(休止、余白、句読法、間一般、等々)との関係から区別されない。「言語体系(ラング)は形式であって実体ではない」(p.169)がゆえに、逆説的ではあるが、個的発話(パロール)の能動性はつねにそこから引き出すことができるし、またそうせざるを得ない。だが、それが一つの形式であるのは、まさに「言語体系においては諸々の差異しか存在しない」(p.166)からである。間=化(この語は時空の分節、時間の空間化、空間の時間化を意味するということがそのうちお分りいただけると思う)は、つねに知覚されないものであり、非=現在であり、無意識的なものである。そういったもので有り得るのは、これらの表現を非=現象学的な仕方で用いる場合にだけである。というのも、ここでわれわれはまさしく現象学の限界を通り抜けているのだから。間=化としての原=エクリチュールが、現前の現象学的経験においてそのものとして与えられることは有り得ない。それは、生きた現在の中に、またあらゆる現前の一般的形式の中に、死せる時間を刻み込む。死せる時間は活動しつつある。それだから、痕跡についての思惟は、自身が現象学から借り受けているあらゆる論弁的方策にもかかわらず、なおけっして文字言語(エクリチュール)の現象学と混同されることはないであろう。記号一般の現象学と同様、文字言語(エクリチュール)の現象学は不可能である。いかなる直観も、「『余白』が実際に重要性を引き受けている」(『骰子一擲』〔マラルメ〕への序文)のような場所では実現され得ないのである。フロイトが夢の仕事について、それが話声言語よ(ランガージュ)よりも文字言語(エクリチュール)に、また表音文字エクリチュール)よりもむしろ象形文字エクリチュール)に比較し得るものだと語っているのはなぜか、ということが多分はっきりと理解されるであろう。またソシュールが言語体系(ラング)について、それは「話す主体の一部ではない」(p.30)と語っている理由についても。また同様に、命題の作者と共犯しつつあるいは共犯せずに、現前や意識する主観性の形而上学のたんなる顛倒を越えて理解せねばならぬような諸命題についても。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.139-140)

 齊藤と堀は夢の世界では素顔でいる。実存の超克としての孤独を選択する齊藤、あるいは堀が、なぜ相互に交感を果たすのか。

 "教会に避難する人々は沈黙をまもることができるのであるが(なぜならば教会はその場合にかれらの沈黙を正しいものとするために、かれらの名のもとに聖人、学者などの口を通して語るのである)、しかし自己以外には正当であることの根拠をもたないルソーはけっして沈黙の世界に入ることはできないであろう。かれの孤独の真実の意味をけっして説明しおわることはないが故に、かれは語り続けることをけっしてやめないであろう。事実、かれは孤独が悪人の、そして傲慢な人間の孤独として解釈されうることを知っている。「ひとりでいるのは悪人だけだ」とディドロは言っている。この言葉が自分を目標にしていることを感じとったルソーは、残された全生涯を通してかれに答えることになる。ルソーにとっては、曖昧なことはたえられないからである。ルソーにとって自分を奇矯な存在に見せ、かれの相違を示すことだけが問題であったならば、戦いはかくも悲劇的ではなかったはずである。かれはたんに別人の役割(アルメニア人の服装をして)を演じなければならないだけではなく、悪しき社会に向い合って、根源的に悪とは別のものであるものを示さなければならない。つまり人々の眼前にかれらが見おとしている善を出現させなければならない。ルソーにおける悲劇的緊張は、分離と相剋そのものに由来するものではない。それはかれの孤独をつねに本質的な善と真理に一致させる必要、しかもかれがそれらを深い内面において認めているにもかかわらず、すべての人々によって承認されるような本質的な善と真理に一致させる必要に由来している。したがってわれわれは、対立者として置かれることを主張する意識の非理性的な要求に向い合っているわけではなく、ルソーの主観性が特権を求めているのであり、しかもそれはたんに他者によって完全に承認されるためだけではなく、(そのことは、錯乱気味のジュネーヴの職人の息子がフランスの元帥や徴税請負人たちのなかに迷いこんでいるということですでに十分である)、さらにどうすることもできないような奇矯さを世間の人々にわざわざ見せびらかすためだけではなく、他の人々が忘れさっていた真理の正当な解説者として受容されるためなのである。ルソーはかれの孤独な言葉に否定的な挑戦と予言の意味を与えようとしている。他者に対立することによって、ルソーはたんに奇矯なかれの自我を押しつけようとしているのではなく、自由、徳、真理、自然などの普遍的な価値に一致しようとする英雄的な努力を行っているのである。ルソーは普遍の名のもとに正当性をもって語ることができるために孤独のなかに自己を置いている。かれは都会を離れ、「自称の友人たち」と絶交する。かれは「神秘」もしくは主観的な存在の「精神の深奥」に逃避しようとするのだろうか。絶対にそうではない。ルソーにかれがはるかに遠くから先取りしているにすぎないロマンチシズムを付与してはならない。ルソーにおける主観的な直観は、たとえデカルトやマルブランシュにおいてそれがもっていた知的特質をもたないにせよ、普遍に通じようとするものであり、そしてさらにこのような普遍は本質的に非理性的なものでも超理性的なものでもないという点で、かれらと相通じている。自己自身にかえること、それは確実によりいっそう高い理性的明晰さと直接的な感覚的明証に、社会を支配している無意味に対立することによって近づくことなのである。"(『透明と障害』pp.65-67)

 紙袋をかぶるという行為は政治的な演技(パフォーマンス)だ。そこには実存論的に他者が存在する。そして、それは存在論としてではない、世界が存在することの承認だ。齋藤と堀は屋上と階段で、それぞれ近くに座りつつ、同じ方向をみていて視線は交わらない。夢の世界になり、それまでと対照的に正対すると、手をとりあって走りだす。

 "他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。"(マルティン・ハイデガー著、原佑訳『存在と時間』p.228(所収『世界の名著』第62巻))

"このように「存在の声」を呼び起した後で、ハイデッガーは、それが沈黙しており、声なく響きなく語ももたず、根源的に無音声的である(「隠された源泉の声なき声の保証」(die Gewahr der lautlosen Stimme verborgener Quellen))ことに注意を促す。源泉からの声は聞かれないのだ。存在の根源的意味と語、意味と声、「存在の声」と「フォーネー」、「存在の呼び声」と分節された音、との間の断絶。根本的隠喩を確言すると同時に、隠喩の落差を告発することでそれを疑ってもいるこのような断絶は、現前とロゴス中心主義形而上学にたいするハイデッガーの立場の曖昧さをひじょうによく物語っている。この立場は、それ〔現前とロゴス中心主義形而上学〕に含み込まれていると同時に、それに背を向けてもいる。だが、それを共有することは不可能である。背を向ける運動そのものが、しばしばそれを限界の手前にとどめておく。先に示唆したのとは反対に、存在の意味はハイデッガーにとっては、たんにまた厳密には、一つの〈意味されるもの〉ではないということに注目せねばなるまい。この用語がつかわれていないのも偶然ではない。ということは、存在は記号の運動を逃れているということである。この命題は、古典的伝統の繰返しだと解されてもよいし、また意味作用についての形而上学的な、あるいは技術的な理論にたいする不信だと解されてもよい。他方、存在の意味は文字通り「最初のもの」でも「基礎的なもの」でもなく、またスコラ的意味に解されようと、カント的あるいはフッサール的意味に解されようと、transcendantal〔超越的、先験的、超越論的〕なものでもない。存在者の諸範疇を「超越する」ものとしての存在の解放、基礎的存在論の開示性は、まさに必然的な諸契機ではあるけれども、暫定的なものであるにすぎない。『形而上学入門』以来、ハイデッガー存在論の企てと存在論という語を放棄する。存在の意味の必然的根源的で還元不可能な隠蔽、現前の出現そのものの中における存在の意味の掩蔽。隅から隅まで歴史であり、存在の歴史であった存在史をまさしく成立させるであろうような後退。存在はロゴスによってしか歴史として生みだされず、その外にあっては何ものでもないということにたいするハイデッガーの力説。存在と存在者の差異〔区別〕。こういったものみな、根本的には何ものも〈意味するもの〉の運動を免れてはいないということを、そしてけっきょくのところ〈意味されるもの〉と〈意味するもの〉との差異は何ものでもないということを良く示している。この背反の命題は、〔ロゴス中心主義の時代の哲学に〕先んじる言説の中に取り込まれていないので、退歩それ自体を定式化する危険性がある。それゆえ、この奇妙な無差異についての厳密な思惟に接近し、それを正確に規定するためには、ハイデッガーによってまた彼だけによって、存在論=神学の中でかつそれを越えて定立されているような存在の問いを通過せねばならない。"(『グラマトロジーについて』上巻、pp.52-53)

 さて、以下ではじっさいのコードと歌詞、映像をみたい。主旋律のコードを確認し、要部の映像がどこに配置されているかをみる。


CGAmF×3
CGFG
 導入部はT-Dの完全4度上行の強進行で、短調平行調に下りたあと長調のSDに回帰する。最後に平行調に下りず、D-SD-Dという2度の順次進行ののちにコーラスにはいる。

 

CGAmF
あれから/初めて来た/ね/
何年ぶりに/チャイム聞い/ただろ/う
懐かし/い校庭/は
思ってた/よりも狭/く思え/た
 はじめの章では第1主題を反復する。

 

DmGEmAm
自転/車/二人乗/り
FEmDmEM7♭
ぐるぐ/る/走りな/がら…
 Fで平行短調のDmに転調する。一時的に長調にもどりつつ、SD-D-SD-<T>でサブドミナント終止する。このとき使われるEM7♭はAm7の代理コードで、平行長調に結びつきやすいコードだ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
本当/は知っ/てたよ/と
AmCFE♭
大声/で叫/んでい/た
DmE♭N.C.
あの教室を/を/見上げて…
 Am-Cで一時的に平行長調に転調し、かつ、ここでT-Dの完全4度上行の強進行がおこなわれる。T-T-SD-<T>でふたたびサブドミナント終止をするが、ここではAm7の代理コードでもE♭が用いられ、短調のまま<T>-SD-<T>という結尾への進行を容易にしている。

 

CGAmF×3
CGFG

 

CGAmF
地元の/商店街/で
バッタリ出逢っ/て通学/路たどっ/た
あの頃/は毎日/が
楽しい/なんて気付か/なかっ/た
DmGEmAm
ペダル/を/漕ぎなが/ら
FEmDmEM7♭
時間/を/巻き戻/した
AmCGAm
お互/いに好/きだっ/た
AmCFE♭
過ぎた日/々が/切ない/ね
 ここで齋藤と堀は、現実では屋上のへりに同方向をみて腰かけている。また、夢の世界のカットをはさみ、屋上への階段にふたたび同方向をみて腰かけている。夢の世界では、堀は右方、斎藤は左方に向けて走っている。そして、ふたりは正対する。

 

AmCGAm
胸の/奥し/まいこん/だ
AmCFE♭
ときめき/を思/い出し/た
DmE♭N.C.
あの教室/が/眩しい

 

FGAmG
FGC
FGAmG
FEsus4E♭

 

AmGC
"もしも"なんて/考え/て
AmFE♭
甘酸っぱい/風が吹/く
 長調への転調をまじえたT-D-Tのドミナント終止だが、反復するときはAm7の代理コードが使われ哀切さをともなう。
 ここで斎藤は屋上でひとりで踊っており、堀は遠くからそれを隠れてみている。齋藤の踊りはモンタージュ理論にそって、夢の世界に舞台を移すが、そのさいの齋藤の衣装はそれまでのものとは異なる。それまでは堀とおなじ、現実での丸襟の制服と同様にかわいらしさの目立つ、ジャンパースカートに似た衣装だったが、ここでは赤のシャツにエナメル靴、黒のタイトスカートという気品のあるものであり、堀との距離を思わせる。このとき、夢の世界だが堀は制服のままで齋藤を遠目にみるだけだ。しかし、その後、夢の世界で壇上という舞台により堀と齋藤は同方向をみて立っている。そして、ふたりは顔を見合わせてわらう。

 

AmGC
自転車の二/人乗り/も
AmAmFE♭
少し/だけきゅん/として/る
EM7♭N.C.
 Am-C-F-E♭の主題がふたたび使われるが、ここではAm-Amの2連音になり、緊張をたもつ。

 

AmCGAm
好き/だった/人の名/を
AmCFE♭
今に/なって言/い合っ/た
AmCGAm
三階/の校/舎の/端
AmCFE♭
ガラス/窓が/反射す/る
 そして、堀と齋藤は夢の世界で踊る。このとき、セットの背景の色調はあかるい。その意味は上述のとおりだ。

 

DmE♭N.C.
DmE♭
CGAmF×3
CGFG

 ジョルジュ・プーレは『人間的時間の研究』で、ルソーの人間観は生まれたままの感情である純粋感覚と、純粋であるために受動的な純粋感覚にたいし、能動的な半面である自我の両面から構成されていると述べている。よって、自分じしんとの一致が、相対的なものではない唯一で絶対の幸福であるとき、その方法のひとつは現在の瞬間という永遠のなかで、純粋感覚と、共同の存在の感情と矛盾するものとしてある、個人の存在の感情が一体化することになる。それは自然との一致をも意味する。もうひとつは、激しい情念を排し、つねに真実のものである、感情の記憶を追想することだ。
 本曲の懐古的な歌詞は、この後者の方法論を実現する。