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『ゲーデル、エッシャー、バッハ』あるいは『みすてぃっく・あい』

 "「この手紙を発見する前は、一冊の本がどうして無限であり得るのか、疑問に思っていました。循環する、円環的な本いがいのあり方を思いつかなかったのです。最後のページが最初のページと同一で、限りなく接続する可能性を持った本です。わたしはまた、『千夜一夜物語』のちょうど真ん中にある、あの夜のことを思いだしました。シェヘラザード姫は(筆写係の奇妙な間違いで)『千夜一夜物語』の話を文字どおりくり返し、その話をした夜にふたたび戻るという、そしてこれが無限に続くという危険なはめに落ちいったのです。わたしはまた、親から子へと受け継がれる、世襲的な、プラトン的な作品を想像しました。そのなかでは、新しい人間がそれぞれ一章を書き加えるか、先祖の書いたページを孝心から訂正するのです。これらの推測はわたしを楽しませてくれました。しかし、そのどれかが崔奔の矛盾した章にあてはまるとは、とても思えませんでした。こうして途方に暮れていたとき、すでにあなたもお調べになった草稿が、オックスフォードから送られてきたのです。当然のことですが、以下の文章に気を引かれました。余はさまざまな未来――すべての未来にあらず――にたいし、余の八岐の園をゆだねる。ほとんど即座に、わたしは理解しました。『八岐の園』とは、あの混沌とした小説だったのです。さまざまな未来――すべての未来にあらず――ということばは、空間ではなくて、時間のなかの分岐のイメージを示唆しました。作品ぜんたいを読みなおすことによって、この理論はたしかめられたのです。あらゆるフィクションでは、人間がさまざまな可能性に直面した場合、そのひとつをとり、他を捨てます。およそ解きほぐしようのない崔奔のフィクションでは、彼は――同時に――すべてをとる。それによって彼は、さまざまな未来を、さまざまな時間を創造する。そして、これらの時間がまた増殖し、分岐する。ここから例の小説の矛盾は生まれているのです。……」"
 ――ホルヘ・ルイス・ボルヘス著『八岐の園』(所収『伝奇集』)鼓直

 『みすてぃっく・あい』(一柳凪著、小学館、2007年)は再帰的構造の小説だ。末尾の文は"薄白い霧のようなものが私を包んだ。霧のなかにボンヤリとした影が浮かぶ。こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では。これは、どこかで見た光景だと。そう思いながら私はゆるやかにまどろみのなかにおちていった――"(『みすてぃっく・あい』、pp.224-225)で、冒頭の"一面に積もった雪のうえを、一対の足跡がのびている。"(同p.10)、"こんなに曖昧で。こんなに不確かな世界では、道標がなければあっという間に迷ってしまうだろう。"(同pp.11-12)に結合しており、半透明で"endless"の文字が添えられている。"さえぎるものの何もない平原というのは、迷路とどう違うだろうか。目印ひとつない平原にポツンと置かれたとして、どうやってゴールを目指せばいいのか。始点と終点の見分けすらつかないというのに、何を基準にして順路を決めたらいいんだろう、いや、そもそも終着点などありはしないのだとしたら? 自分が迷っていると気づくことさえなしに、いつまでも迷いつづけることになるだろう。それこそが最悪の(あるいは最良の?)迷路というものだ。白無地のミルクパズルが最も難解なジグソーパズルであるのと同じように。"(同p.11)。そして、主人公の蝶子は自らを"迷い人"(同p.14)と称す。
 全体は「etude」「ⅰ imaginary」「ⅱ garden」「etude」の4章で構成されており、同名の「etude」と題されたプロローグとエピローグは先述のとおり一体化しており、「ⅰ imaginary」で展開された12月27日から29日の3日間が「ⅱ garden」でループしていることが解明される。しかし、その解明そのものが全体を包摂するループ構造の要素であることが明かされ、エピローグに至る。では、なぜループ構造の解明はそれ自体を保存したのか。以下、『ゲーデルエッシャー、バッハ』(ダグラス・リチャード・ホフスタッター著、野崎昭弘、はやし・はじめ、柳瀬尚紀訳、白揚社、1985年)を基に読解したい。"湖の畔に到着すると、湖水全体を俯瞰できる恰度よい場所に敷物を敷き、めいめいスケッチブックを取り出して座りこんだ。部長の持ってきた敷物には奇妙な模様が描かれており、鳥の形らしき幾何学模様が少しずつ形を変えながら反復する構成は、エッシャーの騙し絵を連想させた。"(同p.58)。
 ループ構造を実行するプログラムは作中では〈『虚数の庭』〉という題名の小説となっている。"『虚数の庭』……実際、それはなかなかに奇妙な本だった。全体の恰度中央にあたる二頁に書名と同じ《虚数の庭》と題された一篇の詩が配されており、本の前半はその詩に対する長いながい序文、後半は長いながい解題が連なっているという、やたら勿体をつけた構成になっている。言ってみれば、たった二頁の詩こそがこの本の実体で、あとはその中心点のまわりを付随的な言説が浮遊しているようなものだった。"(同pp.102-103)。作者はあとがきで"この作品は第一回小学館ライトノベル大賞ガガガ文庫部門で期待賞を受賞した『虚数の庭』を大幅に改稿のうえ改題したものです。"(同p.229)と原題を明記している。つまり、本書は自己言及の構造をとっている。
 ループの契機となる『虚数の庭』の音読のさいに蝶子は独白する。"のどやかな時間は逆に不安を与える。後ろ向きな私は、安心に浸りきることができない。何かと理由を探してはむやみに憂いを抱いてしまう。大事なことを忘れているんじゃないかと懸念する。憂慮の無限後退。ここに足りないものといえば、そう……。"(同p.101)。それはプロローグで仮想される〈迷路〉を連想させる。"――一本の直線でできた迷路、という話をどこかで聞いたことがある(直線もまた私を苛立たせる)。このうえもなく恐ろしい想像ではないか。直線のうえですら人は迷いうるのだとすれば……そんな迷路から人はどうやって逃れうるというのか。そこではもはや、迷うという概念そのものが全く異なるものになってしまうのではないか。"(同p.13)
 『ゲーデルエッシャー、バッハ』において、TNT(字形的数論)においてG(自己言及文)を適用したときに、「GはTNTの定理ではない」という矛盾が生じることを例に(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.443-445)、形式システムの不完全性を証明する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.464-465)。"これら三つの条件を満足すれば、ゲーデルの構成法が適用できるので、無矛盾なシステムは必ず不完全である。面白いことに、そのようなシステムはどれも固有の穴を掘っている。そのシステムの豊かさがそれ自身の破滅をもたらすのである。破滅は、本質的にそのシステムが自己言及文をもてるほど強力であることから起る。物理学では、ウラニウムのような核分裂性物質の「臨界質量」という概念が存在する。その物質の固体のかたまりは、臨界質量以下ならじっとしていられる。しかし臨界質量を越えると、そのようなかたまりは連鎖反応を起し、爆発してしまう。形式システムにも同じような臨界点があるように思われる。臨界点以下では、システムは「無害」で、算術的真実を形式的に定義することさえはじめられない。それが臨界点を越えると、システムは突如として自己言及の能力を獲得し、そのことによって自分を不完全と運命づける。その発端は大ざっぱにいって、システムが上に挙げた三つの性質を獲得したときである。この自己言及能力がひとたび獲得されると、システムはそれ自身にあわせて作られた「穴」をもつことになる。穴はそのシステムの特性を十分考慮に入れて、そのシステムに逆らうように利用している。"(同p.465)。さらにそこから、チューリングの停止性検定プログラムの不可能性の証明(同pp.424-425)、チャーチの定理(同pp.569-570)、タルスキの定理(pp.570-571)を演繹する。チューリングの証明は"しかしアラン・チューリングの独創的な論考によると、どんなブー・プログラムもこの判別をけっして誤りなく行うことはできない。その技巧は実はゲーデルの技巧とほとんど同じで、当然カントール対角線論法と密接に関連している。ここで詳しくは述べないが、停止性検定プログラムにそれ自身のゲーデル数を入力するという着想による、といえば十分であろう。それはある文全体をその中で引用しようとするのと似たところがあるので、そう簡単ではない。引用を引用する、等々のことが必要で、無限退行に導かれるように見える。しかしチューリングは、あるプログラムにそれ自身のゲーデル数を入力する技巧を案出した。"(同p.425)と要約している。
 『みすてぃっく・あい』において、ループ構造の実現される場は虚数に例えられる。"虚数とは、では何だろう。実数のいかなる領域にも属さぬ仮想上の数でしかない虚数単位iは、ひどく孤独なものに思える。存在しない、だが想定することはできる。そんな存在の曖昧さと不透明さとデタラメさに、私は不安を抱くと同時に惹きつけられるものも感じるのだった。タッタひとつの、けれども決定的な非合理をこの世界が孕み持っているという事実には、幾分心慰められるものがある。虚数とは数の世界において、ゼロとはまた違った意味での奇妙な特異点であり鍵でもあるのではないか。"(『みすてぃっく・あい』p.159)。そして、〈庭〉が入子構造を意味する(同pp.155-156)。TNT(字形的数論)にG(自己言及文)を矛盾なく適用するためには、~G(Gの否定)を公理に足せばよい。それは、自然数を超自然数に拡張することを意味する(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.448-451)。つまり、自然数有理数、負数、無理数、そして虚数に拡張する。
 ループ構造の物理的な説明には、エヴェレットの多世界解釈が当てられている。"「ともかくだ。これらのいずれかが起こるんじゃなくて、すべて起きているってことだよ。無限に分岐した並行世界のなかで。それらの世界はどれも同じように存在していて、純粋に確率の問題でしかない。あるのは《私》という主体ないし主観がどこに存在するかの違いだけだ。それぞれの《私》は自分が属している世界しか見ることができないからね」よどみなく説明する先輩の話はあまりに現実離れし過ぎていて(そう、昔そんな内容の小説を読んだことがあったから、いっそう作り話っぽく聞こえた)、正直、私は面食らっていた。「分岐」と聞いて、ある段階までは枝分かれのイメージを浮かべることができたが、「無限」という概念は想像できなかった。"(同pp.140-141)。そして、それを蝶子の選択の回避が具現化する。"昔から、何事につけ選ぶのが苦手だった。(中略)いずれを選んでも大して変わらないような気がするのに……そのくせ、いったんどれかに決めると、後で何故、他の方にしなかったのかと考えて絶望的な悔恨に陥ってしまう。そしておそらくは、仮に別の選択肢を選んでいたとしても全く同じことが起こっているのだろう。最善の選択など、何処にもありはしない。どれかひとつを選択するということは、必然的に残りの可能性を棄てるということで、だから、実現しなかった可能性に思いをめぐらせて煩悶するというのは、結局のところ避けようがないのだ。あらゆる不確定要素を加味して、すべての可能性を想定したうえで先の先のそのまた先まで見通して最良の選択を行うなど、どだい無理な話なのだから。人は皆、そうした感情と折り合いをつけて生きているのだろうけれど、私にはそれがうまくできない。選択するという行為に必然的につきまとうリスクが耐え難かった。それならいっそ、他人に任せた方が良い。そうすれば自分が『選んだ』という事実からは逃れられる。責任を肩代わりしてもらえる。なので、できうる限り周囲の流れに身を委ねてやり過ごしてきた。そこには『私が』という主語はない。主体が、ない。"(同pp.45-47)。そして、その例外がループ構造の起点だ。"いや――ただの一度だけ、後悔したことがあったような気もするのだけれど……。"(同p.47)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは数論における超自然数幾何学におけるアナロジーが量子力学だとしている(『ゲーデルエッシャー、バッハ』pp.452-453)。"さらに、そしておそらくこれがずっと大事なことであるが、物理学者はわれわれが住んでいる3次元空間だけを研究しているのではない。物理的計算が行われる「抽象空間」は山ほどあって、それらはわれわれが住んでいる物理的空間からは全くかけ離れた幾何学的性質をもっている。だとすれば、「正しい幾何学」というのは天王星海王星が太陽のまわりで軌道をえがいている空間であると定義したらよい、などとどうしていえようか? 量子力学的な波動関数が波うっている「ヒルベルト空間」がある。フーリエ成分が住んでいる「運動量空間」がある。波動ベクトルがはね回っている「相反空間」がある。素粒子の多体配位が音をたててひしめいている「位相空間」がある、等々。これらすべての空間の幾何学が、同じでなければならないという理由は全くない。事実、これらは同じではありえない! だから物理学者にとっては、異なる「競争相手の」幾何学が存在することは本質的かつ不可欠なことである。"(同p.453)。
 『みすてぃっく・あい』の根幹は符号がなす(『みすてぃっく・あい』pp.169-170)。それは現実を文字に置換することだ。"「並行世界を移動する、か。……んんん、ん……ねえ、ちょっと聞いてくれるかい。カバラの教義を記した『創造の書』のなかに、こんな一節がある――《二十二の基礎となる文字。彼はそれらを刻み、それらを入れ換え、それによってすべての創造と、そしてそれに続いて創造されなければならないすべてを形成した》文字に関するカバラゲマトリアとは、単語に含まれた文字が表わす数字とその組み合わせから、世界の象徴的な意味を読みとる行為だ。単語は各アルファベットに解体されたうえで、数字としての総計が算出される。数字こそが最も重要な要素なんだ」"(同pp.208-209)。"「そのうえで、世界とは起きている事象の総和であるとみなすなら、文字列の集合、記述の仕方こそが世界そのものだと言える。無論、それには果てしなく長い文字列が必要だがね。そう考えると、無数に存在する並行世界のそれぞれに写像のように対応した文字列が存在するはずだ。その文字列を書き換えることさえできれば、別の並行世界に転移することが可能になるのではないか。と――そんなことを、私は夢みていたんだ」(中略)「でも……、無限に続く文字列なんて存在しないでしょう?」「うん、たしかにその通り」噛み締めるような口調で先輩は答える。「現実問題として無限の長さを持つ文字列は作成しえないし、よしんば存在したとしてもそれを読むことじたい不可能だ。無限に長い文字列を読むには、原理的に言って無限の時間が必要なはずだからね」(中略)「そうだね、文字通り果てしなく気の長い話だ。生身の人間になしうる業じゃない。……《虚数》ということでちょっと思い出したんだが、量子論でも虚数が登場するんだ。現実の状態を説明するための量子論に、実際には存在しないはずの虚数が現われるなんて随分と矛盾した話に聞こえるかもしれないけれどね。電子やなんかの状態を記述する波動関数のなかに、粒子に波動性を与える……揺らぎを導入するものとして虚数が組みこまれているんだ。この、揺らぎというのは、ここにあるかもしれないと同時にあちらにもあるかもしれない、という存在の不確定性のことだ。まさしく並行世界の基礎となる概念だよ。ふふん、こんなところで思いがけず虚数が関わってくるなんて、ちょいとゾクゾクするじゃないか」"(同pp.210-212)。そして、それを具現化するのは脳の機能だ。"「ところで久我崎は問題の詩を読んでいて急に眠りに陥ったのだったね。眠り……脳生理学の分野でこんな仮説がある。夢がどのように生起するかについてだが、神経細胞のデタラメな発火によって生じるイメージに対して、脳がさまざまな意味を見出し夢を組み立てるのだと。意味を見出す、それはまさに解釈の問題と言える。夢もまた、書物を読むことと同様の営為とみなすことができるんだ。逆に言えば、書物が夢に似ているということでもある」夢……幾度となく私の頭のなかで再生された、あの記憶。思えばあの夢に、自分はずっと操られていたのではないか。「……話を戻すが。無限に続く文字列を作ることは不可能、ってことだったね。ならば、夢の生成に作用するような文字列を作り上げればどうだろう? 古来から夢をもうひとつの現実として捉える伝承なり創作はそれこそ山のように存在するわけだが、無数の現実――並行世界へ移行するための過渡状態として捉えられないだろうか。そうしてその構造を自在に操ることさえできれば、無限に存在する並行世界のどこへでも思うがままに転移することができるのではないか……」"(同pp.212-213)。そして、そのためのプログラムが『虚数の庭』だ(同p.214)。『ゲーデルエッシャー、バッハ』においてホフスタッターは自己言及のパラドックスを解消するための仮説として脳の機能を挙げている。"私の感じでは、エピメニデスのパラドクスのタルスキによる変換は、英語版の中に基質を探すことを教えてくれる。算術版では、意味の上位レベルは下位の算術的レベルによって支えられている。おそらく同じように、われわれが読みとる自己言及文(「この文は偽である」)は二重レベルの実体の最上位レベルにすぎない。それなら、下位のレベルは何なのだろうか? 頭脳の上である。したがって、エピメニデスのパラドクスに対する神経基質――たがいにぶつかりあう物理的事象の下位レベルを探すべきである。「ぶつかりあう」とは、二つの事象が、それらの本性から、同時には起りえないことである。もしこの物理的性質が存在するとしたら、われわれがエピメニデスのパラドクスを理解できない理由は、われわれの脳が不可能な仕事をしようとするためである。では、衝突する物理的事象の本性は何なのだろうか? エピメニデスのパラドクスを聞いたときにはおそらく、脳はその文のある「符号化」――相互作用をする諸記号の内部的配置を設定する。そして、その文を「真」か「偽」かに分類しようとする。この分類行為は、いくるかの記号をある特定のしかたで相互作用させるような試みを必要とするはずである。(たぶんこのことは、どんな文を処理するときにも起る。)ところで、もし分類行為が文の符号化を物理的に破壊するようなこと(ふつうはけっして起らないことだが)が起ったときは、プレーヤーにそれ自身を破壊するレコードをかけようとするのと同じ災難がひき起される。われわれは衝突を物理的な用語で説明したが、神経系の用語ではなかった。もしこの分析がこれまでのところ正しいとすると、おそらくあとの議論は、脳の中でのニューロンとその発火による「記号」の構成について何かわかったときに続行できるであろう。また、文が「符号」に変換されるしかたについての知識も必要である。"(『ゲーデルエッシャー、バッハ』p.574)。
 蝶子が選択の回避による無限後退をつづけるためには自己言及のかたちをとるしかなく、それが『虚数の庭』の原題をもつ『みすてぃっく・あい』なのだ。