『青い花』の表現技法とその意味

 "『青みをおびた』(Bleute):ほかのどんな色も、優しさの、このような言語的形態を知らない。ノヴァーリス風の言葉。「非存在のように優しく青みをおびた死」(『笑いと忘却の書』)。"(ミラン・クンデラ著『小説の精神』所収『七十三語』浅野敏夫訳)

 『青い花』(志村貴子著、太田出版、2005-2013年)の表現技法の特徴とその効果について、題名である〈青い花〉の解釈を中心に検討する。
 本作は各話の副題を小説および劇、映画の題名からとっており、よって、最終話の副題でもある「青い花」は一次的にはノヴァーリスの同名の小説を指していると考えてよい。ただ、注意すべきことは、作中で「青い花」という文言が登場したことはない。しかし、第1巻の末尾において〈小さい花〉が象徴的にえがかれている(『青い花』第1巻、p.188)。
 "あまりにも小さなその花は あまりにも小さすぎて すぐそばにあるのにわからない 持て余してしまうかもしれない そんな花……"(同、p.187)
 本稿は巻数と一致するここまでを一編として、検討の対象とする。
 ジョルジュ・プーレ著『円環の変貌』は、ドイツ・ロマン派の特徴を以下のように分析し、小説『青い花』をそのなかに位置づける。


 "だが、その孤立性を意識するということは、ある新たな神秘のまえに立つことである。もし、外的自然がわれわれと異質なものになるにつれて、われわれの目に謎めいたものになるとすれば、逆にまさにそれと同じ度合で、われわれはわれわれの自我がやはり神秘に満ちたものであるという自覚をいちはやくもつのである。われわれはもはや自我をいかなる既知なるものにも関連づけることができない以上、どのようにしてそれを認めるのだろうか。みつめればみつめるほど理解できなくなってゆく。その本質的な差異性による以外には、けっしてそれを把握することができない。それは何ものとも合致することがない。どんなものとも類似していない。光の神秘があるのと同じように、ここには中心の神秘がある。あまりに吟味しすぎると消えてしまう。それ自体、目のまえで霧散しはじめるのだ。しかし、それはいわばその場でおこなわれる。探究がなされなければならないのは、もはや自我から遠く離れた、自我の外側ではない。周辺的世界という遠い遥かな深淵に対して、もうひとつの深淵すなわち中心という身近な深淵が対立する。内観が拡張ではない。それはむしろ凝視である。思考が空間のなかに急いで流出することがなくて、生起したその場所に沈思不動のままとどまっているような凝視である。ロマン主義というもの、とはいわないにしても、少なくともそのもっとも重要な一面は、精神の根源的に主体的な特質を自覚することであるとする以上にうまく定義することは多分できないのではないか。ロマン主義者とは中心を発見するもののことである。"(『円環の変貌』、国文社、1973年、上巻、pp.189-190)

 


 "そのうえ、当時、フランスでもドイツでもイギリスでも、ほとんど時を同じくしてロマン派の作家たちが人間の中心性のもつ本質的に宗教的な特質を発見ないし再発見していた。《私が中心点であり、聖なる源泉なのだ》と、ノヴァーリスの小説のなかでアストラリスが叫んでいる。人間が源泉であり、しかも神聖なる源泉なのだ。人間の中心性のもつ深淵において、人間固有の本質の神秘とそれにかかわりをもとうとする神の神秘とが、どちらのものとも分からぬような仕方で混じりあっているのだ。中心に引きこもるということは、したがって充実した存在を放棄し、やむを得ず衰退した生を送ることではなく、すでにモーリス・セーヴやその他のルネサンス期のプラトン主義的詩人たちがそうしたように、根源的なちからに立ち帰り、源泉から汲みとることである。しかも、その理由をあえて説明するまでもないほど明らかなひとつの現象によって、外的自然から離れて精神が自己自身のうちに引きこもることが、自然への新たな回帰の、したがって精神が再びそこで活気づけられるような中心の外側で新たに開花するということの、原理そのものになるのだ。"(同、p.193)


 ノヴァーリスは小説『青い花』において主観性の優越を説き、そこにおいて〈青い花〉は神秘との通路の象徴としてえがかれる。ミシェル・フーコーはルートヴィヒ・ビンスワンガー著『夢と実存』の序文において、それを以下のように述べている。


 "このヘラクレイトス的主題は、すべての文学とすべての哲学を貫いてきた。これまで引用してきた、一見したところ精神分析にきわめて近いものに見える多彩なテクストにも、この主題が繰りかえし現われてはいた。だが、実のところ、夢へのその出現が話題にされてきたこの精神の深み、この「魂の深淵」によって指示されているのは、リビドー的本能のような生物学的装置ではない、――それは、自由の原初的な運動であり、実存の運動そのもののうちでの世界の誕生なのである。ほかの誰よりもこの主題に接近し、倦むことなくこれを神話的表現におさめようとしたのがノヴァーリスである。彼は夢の世界のうちに、夢を担っている実存の指示作用を認めた。「われわれは世界中をめぐる旅の夢をみる――とすれば、この世界全体の方が、われわれのうちにあるのではなかろうか。……永遠なるものがその世界、過去、記憶をともなって住みついているのは、自己のうちにであって、他のいずこにでもない。外界とは影の世界であり、この世界がその影を〔内面の〕光の王国に投げかけているのだ。」だが、だからといって夢の時間が、主観性へのアイロニー的な還元の遂行される曖昧な瞬間にすぎないというわけではない。ノヴァーリスは、夢が発生の原初的瞬間だというヘルダーの考えを採りあげなおす。夢こそ詩の最初の心像であり、そして詩は言語活動の原始的形式、「人類の母語」なのである。こうして夢は、生成と客観性との原理そのものに通じている。そして、ノヴァーリスは、「自然とは無限の動物、無限の植物、無限の鉱物なのであり、また自然のこれら三領域は、自然のみる夢の心像なのだ」と付けくわえている。"((『夢と実存』《序論》中村昇、小須田健訳、pp.54-55)『夢と実存』所収、みすず書房、1992年))


 本作における〈青い花〉も、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"(『青い花』第1巻、p.44)とあるように時間性を超越している。


 "したがって神聖な源泉と個体的な諸源泉とのあいだには、起源上の同一性と成長発展上の同一性とがある。神的存在者と同様に人間的存在者も、《自分自身の内側から数限りなく無尽蔵に多量の光を放つような》発生者的な原理に従って発展してゆくのだ。生存のそれぞれの時間、どれほど微妙であろうともごく微小なものによって占められているそれぞれの場所が放射的エネルギーの中心となり、それがサン=マルタンが述べているように、《同時にかつあらゆる意味で拡大し、その円周におけるあらゆる部分を占有し充満させるのだ》。この種の《中心の爆発》については、ウィリアム・ブレイクの詩のなかに数多くの実例がみられる。……ルネサンスの詩人たちにおけるように、とりわけベーメにおける場合と同様に、創造のひとつひとつの点、持続の特定の瞬間瞬間がここでも真に無際限の拡大能力を表している。しかし、もっとも顕著なことは、この詩人の想像力がそれと等しいほどのちからを賦与されている点である。一個の世界となるような一粒の砂、その香りでみたす薔薇となる人間の精神は、神が創造した世界の事物にあたえるのと同じ拡張力をもつ。そこには事物の開花があるのと同じように、精神の拡大がある。誰もが自分自身から真に内的な永遠性と広大さを引き出せるのだ。あらかじめひろがりも持続もない心理的現実に対して感情によってあたえられる空間的ならびに時間的なこうした桁外れの拡張の完璧な実例は恋愛である。それはコンスタンの『アドルフ』の次の有名な一節に見られる。……したがって恋する人には、自分の周辺に空間と時間の持続が拡大するのが見えるものである。というよりむしろ、まさにその内面において存在の二重の拡大が感じられるのだ。恋とは、思惟領域の拡張であり、自分の存在があらゆる面で現実がそこに自分を固定させようとしている時間的空間的な一点をはみ出ようとしているのを感じるひとつの方式である。"(『円環の変貌』上巻、pp.194-195)


 しかし、本作は作品として、主観性を客観性に優越させてはいない。そもそも、ふみが物語の当初において愛していたのはあきらではなく千津だ。この愛は、のちに言明されるように否定的なものではなく、またあきらへの愛情と対立的な関係にあるものでもない(『青い花』第5巻、p.136)。高校に進学したふみが千津に再会した様子は、ふたりが同一のコマのうちで、距離が近く、親密なものとしてえがかれている。しかし、その愛情はページが変わると同時に〈結婚祝いの手作りのケーキ〉というきわめて即物的な存在により否定される(『青い花』第1巻、pp.38-40)。それはまた、結婚という社会的な行事をもしめしている。そもそも、"その一言は 10年の月日をかるくとびこえた"という傍白が感動的なのは、それが時間性のなかに位置しているからだ。

 ルカーチ・ジョルジュもまた、『小説の理論』において、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の主観性の自己認識と自己止揚というイロニーにもとづく現実の形象化は、現実をロマン化する危険を冒しており、ノヴァーリスはそれを批判し、『青い花』において、現実のうちに実現された超越である童話(メールヘン)を形象化の目標においたと述べている。それは、現実とその超越との不統一を先鋭化するか、社会としての世界形態の抒情的ロマン化をおこない、やはりそれも、その不統一を先鋭化する。ゲーテの方法は、小説を叙事詩にしなければ達成できず、よって『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』は終盤で〈塔の結社〉という幻想装置を登場させるが、それは超越を引下げ、また全体の調子を損なうに留まる。


 "ロマン主義的現実化のかかるイローニッシュなかけひきのうちに、この小説形式がもつもう一つ別の大きな危険がひそむのである。それを逃れえたのはただひとりゲーテあるのみであるが、それもただ、部分的な成功にすぎなかった。それは現実を完全にその彼岸に横たわる領域までロマン化するか、あるいは小説の形象化する形式にはとうてい手が出せぬ、完全に問題から解放された、問題の彼岸の領域まで、現実をロマン化する危険、すなわちよりいっそう明白に実際の芸術的危険を示す、危険なのだ。ほかならぬこの点において、ゲーテの創造を散文的、反文学的であるとして拒絶したノヴァーリスは、現実的なるもののうちにおいて実現された超越、童話(メールヘン)を叙事的な詩の目標、規準として『ヴィルヘルム・マイスター』の形象化方法に対置する。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代は」とかれは書く、「いうなれば徹頭徹尾散文的で近代的な作品である。そのなかではロマン的なものは滅び、自然詩、すなわちあの驚異にあふれたものもまた滅んでゆく。かれがとりあげるものはたんに日常的なもの、人間的なるものにかぎられ、自然、神秘主義などはことごとく忘れさられる。この作品は市民的物語、家庭的物語の詩化されたものにすぎない。このなかで驚異にあふれたものは、はっきり詩、陶酔としてあつかわれる。この書の精神は芸術的無神論である。……この書はその根底において……いかに表現が詩的であろうと、最高に非文学的なのだ。」そしてかかる傾向をもつノヴァーリスが、騎士叙事詩の時代を振りかえり、そこへ立ち戻ってゆくのもこれまた偶然ではなく、それは、謎めいた、しかしきわめて深いところで条理にもとづいている親和力が、志向と素材のあいだにはたらいているからにほかならない。かれが形象化しようとこころざすのは、騎士道物語に似た(もちろんここで問題となるのは努力の先験的共通性であって、なんらかの種類の直接、間接の影響を問題にしているわけではない)、明白なものとなった超越に、此岸で完結した全体性をあたえることなのだ。それゆえかかるかれの様式化は騎士叙事詩の様式化同様に、童話を目標としなければならない。中世の叙事詩人は、素朴にして自明なものである叙事的志向をもって、真一文字に此岸の世界の形象化目ざしてすすめば、超越が光となって現在のうちにさしこみ、それによって現実は光あふれて童話へと変貌し、それをみずからがおかれた、歴史哲学的状況のさしだす贈物として、かれは受け取ればすむのであった。しかしそれに反してノヴァーリスにとっては、この童話の現実が現実性と超越とのあいだの、引き裂かれた統一を回復するもの、意識的な形象化の目標となるのだ。それゆえそこではいっさいを決定する、あますところなき綜合の成就することはありえない。現実は理念に見捨てられた大地の重みに強くとりつかれ、それが重くのしかかり、超越的世界は抽象的一般性という哲学的、要請的領域から、あまりにも直接に由来することにより、空気に似てあまりにも軽く、内容を欠く。それゆえかかる両者を結合し、有機的な生きた全体性の形象化が成就することは不可能なのである。ノヴァーリスが慧眼にもゲーテのうちに見出した、あの芸術上の裂け目は、かくてかれの作品のなかでひときわ拡大し、その架橋は不可能となった。詩の勝利、光をそそぎ救済をもたらす、全宇宙におよぶ詩の支配は、その他もろもろの方へと引きよせる、あの本質規定力を欠如するのだ。現実のロマン化は現実をおおうが、それもただたんに詩の抒情的輝きをもっておおうにすぎず、抒情的輝きは事件にも、叙事文学にも転化されず、そのあげく現実的、叙事的形象化は、ゲーテ的問題性をひときわ尖鋭化して示すか、あるいは現実的叙事的形象化を、抒情的反省、または気分的場面によって回避することに終わるのである。それゆえノヴァーリスの様式化は反省的様式化にすぎず、危険を表面上おおいかくしはするが、しかし、本質的にはそれをただ尖鋭化するにとどまる。なぜなら社会としての世界形態の抒情的、気分的ロマン化は、現在の精神の位置において存在することのない、内面性のもつ本質的な生との、その予定調和にかかわることは不可能であるから。そしてイローニッシュに浮遊し、主観から創造された、可能なかぎり形態にふれることのない平衡を、ここに見出さんとするゲーテの道も、ノヴァーリスは拒絶したから、形態をその客観的現存在のうちで抒情的に詩化し、かくて美しく調和しているが、みずからのうちにとどまる関連を欠く、一つの世界の創造以外、かれにとってはいかなる道も残されない。かかる世界は現実となった究極の超越にも、問題となった内面性にも関係をもつが、しかし、ただ反省的、気分的に関係をもつにすぎず、叙事的な関係をもつことがないから、真の全体性とはなりえないのである。"(ルカーチ・ジョルジュ著『小説の理論』大久保健治訳(所収『ルカーチ著作集』第2巻、pp.148-140))

 

 では、本作はそのような客観性において、どのように主観性を表現しているのか。
 ロラン・バルトは『零度のエクリチュール』において、《近代リアリズム》(エーリッヒ・アウエルバッハ著『ミメーシス』)の小説の特徴を単純過去と三人称ととらえる。


 "小説と歴史とは、それらがもっとも華やかに開花したまさにその世紀に緊密な関係をもった。それらの深いむすびつきによってバルザックミシュレをわたしたちは同時に理解することもできるはずだが、そのむすびつきは、これら両者における自給自足的な宇宙の構築である。その宇宙は自らの拡がりと限界を自力でつくり出し、そこに自らの時間や空間や住民や品物のコレクションや神話を配置している。十九世紀の大作品のこうした球状性は、彎曲して連結している世界の平面投射とでも呼べる、小説と歴史との長い叙唱調(レシタチーフ)によって表現された。当時誕生した新聞小説は、渦巻形に錯綜したかたちで、格下げされたイメージをさし出している。しかし、ナレーションはかならずしもそのジャンルの法則ではない。たとえば、ある時代は書簡体小説を構想することができたし、また別のある時代は分析風の歴史をつくることも可能であろう。したがって、小説と同時に歴史にも拡張できる形式としての物語(レシ)〔Recit〕は、がいして、たしかに歴史上の一時期の選択あるいは表現である。単純過去(パセ・サンプル)は、話されるフランス語からは姿を消したが、物語を支える隅石であり、相変わらずひとつの芸術(アール)をさし示している。それは、芸文(ベル・レットル)の儀礼の一部をなしている。その任務はもはやある時を表現することではない。その役割は現実をある一点につれ戻すことであり、たくさんの、体験され、積重ねられた時間から、ある純粋な動詞的行為を抽出することである。その行為は、経験の実存的な根をとり払われ、他の行動、他の経過との論理的な連結、世界の全般的な動きに方向づけられている。つまり、その役割は、事実の帝国のなかにヒエラルキイを維持することをめがけている。動詞は、単純過去によって、暗々裡に因果の連鎖の一部をなし、方向づけられた連帯的行動の相対に関与し、ある意図の代数的記号のように機能する。動詞は一時性と因果性の間のあいまいさを支えつつ、ある展開、すなわち物語のわかりよさといったものを招じ入れる。動詞が、あらゆる宇宙構築の理想的な道具であるのはそのためだ、それは、宇宙発生説や神話や歴史や小説の人工的な時制である。構築され、練上げられ、意味のある線に帰せられる世界を想定していて、投げ出され、陳列され、さし出される世界をではない。単純過去のうしろにはいつも造物主か神か語り手(レシタン)がかくれており、世界は物語られながら説き明かされ、事件のひとつひとつはその場かぎりのものにすぎない。単純過去はまさしく、ナレーターが現実の爆発を、密度もなければボリュームも拡がりもない、痩せて純粋な動詞につれ戻すためにつかう記号である。そして、その動詞はできるかぎり早く原因と結末とをむすびつけることを唯一の機能としている。歴史家が、ギーズ公は一五八八年十二月二十三日に死んだと確認したり、小説家が公爵夫人は五時に外出したと物語るとき、これらの行動は厚味のない往事からたちあらわれる。それらは実存のふるえから解き放たれて、代数の安定性と構図とをもつ。それらは記憶だが、利害関係の方が持続よりもはつかにたくさん勘定に入る有益な記憶なのである。"(『零度のエクリチュール渡辺淳訳、みすず書房、1971年、pp.30-32)

 

"単純過去のこうしたあいまいな機能は、また別のエクリチュールの事実のなかにも見出される。それは小説の三人称のことである。殺人者を物語の一人称のもとにかくすことに創意のすべてが賭けられていたある小説のことを多分おぼえているだろう。読者は殺人犯を筋のなかのすべての《かれ》の背後にさがしていた。ところが、殺人犯は《わたし》のもとにいた。作者は、小説では通常《わたし》は証人で、行為者は《かれ》であるということを重々承知していたのである。なぜそうなのか。《かれ》は小説の典型的約束であり、叙述的時称と同じく小説的事実を表示し、完成する。三人称がないと小説に到達できなかったり、小説を破壊するおそれがある。《かれ》は形式的に神話を表している。少なくとも西欧においては、先ほども見たように、自分のマスクを指さない芸術はない。したがって三人称は、単純過去と同様、小説芸術においてそのつとめをはたし、その消費者たちに、信頼できるがたえず偽りだと公表されている仕組の安全性を提供している。《わたし》はそれほどあいまいではないが、まさにそのためにそれほど小説的ではない。だから、《わたし》は、物語が慣習のこちら側にとどまるときにはもっとも直接的な解決となり(たとえばプルーストの作品の意図は、文学への序になることにほからならない)、《わたし》が慣習のかなたに置かれ、物語をいかにも自然を装った打ち明け話にして慣習を破壊しようとするときには、もっとも練りあげられた解決となる(ある種のジッド的物語の狡猾な眺望がこれである)。同様に、小説的な《かれ》の使用は、二つの対立した倫理とかかわりあう。というのは、小説の三人称は異論の余地のない慣習を示し、もっともアカデミックな人々ともっとも文章に凝らない人々を誘惑するが、同時にまた自分たちの作品の新鮮さに慣習を結局のところ不可欠のものと判断している人っちをも魅了するからである。ともかく、三人称は社会と作者との間の明瞭な契約のしるしである。しかし、それはまた作者にとって、自分が欲する流儀で世界を立たせる第一の手段なのだ。したがって、三人称は想像を歴史や実存にむすびつける人間的行為にほかならぬ、文学的経験以上のものである。"(同、pp.35-36)

 
 こうした透視図法によるような時間的、空間的に均質で等方向的な時空において主観性はどのように表現されるのか。ふみがあきらに同性愛者であることを告白するまでの場面(『青い花』第1巻、pp.136-141)を例に検討する。
 この一連の場面において視点は継起的に移行している。はじめ、視点は京子にあり、京子が立ちばなしするふみとあきらを眺め、各務との会話を回想する。そして、回想が終わったとき、セットは移動しており、そこに登場するふみとあきらに視点は移行している(pp.136-137)。そして、ふたりの会話において、180度システムの視界にとどまる切返しショットは、エスタブリッシング・ショットにつづく5コマのみで、以降、はじめにふみを正面ショットでとらえ、あきらを90度の角度でえがき、つぎにあきらを正面ショットでとらえるとき、ふみは90度の角度でえがいている(pp.138-139)。
 これにより、ふみの熱っぽい様子から、あきらのおどろきまで、視点の移行が円転滑脱としておこなわれ、それぞれの感情が同時的にえがかれている。
 こうした視点の移行の自然さへの工夫は他所でもおこなわれている。恭己と交際をはじめたふみは、恭己に主導権をとられる。したがって、恭己の行動は意外性をもってえがかれる。最初のデートで"またどこか行こうね"(p.106)という約束はそれまでの文脈を無視しておこなわれ、いっしょに登校できないというふみへの"帰りは私のためにとっといて"(p.128)という妥協は、それまでの皮肉な調子に反している。しかし、これらの意外性は停止(ポーズ)ではなく、恭己がコマの枠外にフレーム・アウトしていくなか、内容が描写に反することで演出される。
 そして、このような視点の移行の自然さは、画面における繊弱な輪郭線と淡い塗りが寄与している。
 プーレは『円環の変貌』で《近代リアリズム》の代名詞であるギュスターヴ・フローベールの描写について以下のように述べている。


 "『ミメーシス』すなわち文学における現実描写に関してのあのすぐれた批評書においてエーリッヒ・アウエルバッハは、『ボヴァリー夫人』から次の一節を引用し、注釈をつけ加えている。……さて、ここでアウエルバッハの指摘の要約をかかげておこう。――フローベールはトストにおけるエンマの生活を長々と述べたあと、この一節で、あるひとつの明確なタブローすなわち食事の時間の妻と夫のタブローを提示している。しかし、このタブローはそれ自身のために、それ自体では存在しない。それはエンマの絶望という中心主題に従属している。われわれはまず彼女を見て、それから彼女を通して状況を見る。他方、ここではエンマの思考のたんなる再現つまり彼女が思考してゆく通りの彼女の考えは問題にはならない。たしかにこのタブローを照らす光は彼女から出ているが、彼女みずからはこのタブローの一部分になっていて、その内側に位置づけられている。こうした指摘の意味をよく考えてみることは有益なことである。つまりフローベール的方法とは、凝視の対象としてひとつの存在者を提示し、今度はその存在者が周辺的な現実を凝視の対象とすることにある。《エンマは見る人である。さらに彼女は、彼女がみるのをわれわれがみつめている人でもある。》もし彼女がたんに外面から描かれていたなら、彼女は多くの事物のなかのひとつにすぎなかったであろう。暖炉や壁や夫や皿とともに客体的な雑多なものの一部になっていただろう。逆にもし『ユリシーズ』のブルームか、あるいはダロウェイ夫人のように、彼女がわれわれに内面的独白のなかで提示されていたなら、もはや皿も夫も壁も暖炉も存在しなかっただろう。存在するのはただ、そうした事物によってエンマのなかに喚起される感覚ないし情緒だけであろう。そしてエンマすらもはや存在していないだろう。なぜなら、彼女の身体が事物の基底にみずからの影をおとしながらわれわれにあたえている客観的な統一感は、感情と思考の純粋な流れによってとって代わられるからである。そのいずれの場合にも何かが失われるだろう。つまり一方では客観的世界が、他方では主観的存在が失われ、しかもその両方の場合に、この小説の本質そのものを構成している客体と主観との微妙な関係が失われる。意識と皿のようにまったく相異なる本質をもつものを互いに結びつけるのが明らかにこの関係である。はっきりと区別されている二つの現実が、それなりに、それぞれの構成要素を多様化させることによって自己分解してしまうのを妨げているのがこの関係である。したがって『ボヴァリー夫人』のなかには、ある全般的な一貫性というものがある。それは、事物が、同時的なものであれ、連続的なものであれ、つねに知覚的な思考のもつ統一性によって結びつけられていて、しかもこうした思考自体が絶えず接触をもちつづけているひとつの世界の客観性によって、その連続的な状態のなかでつねに分解から免れているという事実にもとづいている。"(『円環の変貌』下巻、pp.114-116)

 


 "しかしフローベールは、円周的な原因から点のような意識に至るこのような動きをわれわれに目に見えるようにしてくれたかと思うと、次の瞬間には、たちまちその魂が離心的に作用し、こんどはひとつのものとして自分の感情を空間に投影してゆくという逆の動きをわれわれに描き出してくれる。すなわちまた蒸し肉の湯気とともに彼女の魂の奥底からさらに別のむかつくような息吹きが立ちのぼってくるのだった。要するに求心的と拡張的との相つぐ運動によって、まったく異なる二つの方向に横切られるために、フローベール的環境は円周から中心へと中心から円周へとひろがるひとつの状況的空間のように見えてくる。フローベールにおける現実描写のこのような円環的な特徴は、すこしも隠喩的なものではない。あるいはたとえそれが隠喩だとしても、批評家によって議論の必要上思いつかれたものでないことは確かである。じじつ、こうした隠喩はフローベールの作品のなかにはたえず見出され、しかもそれらがきわめて一貫したものであり、きわめて必然的であり、きわめて意味深いものである以上、われわれはそれをフローベール的想像力における世界と存在の諸関係が表現される本質的イメージとして理解しなければならない。"(同、pp.118-119)

 


 "以上引用したテクストによって、フローベールがよく知りつくしかつ実現したものは、存在とその対象とのあいだの関係を提示する新しい方法であり、しかも彼の先行者たちのものよりももっと真実で、あらゆる場合に、もっと具体的で、もっと感覚的な方法であることが明らかになるだろう。彼の先行者たちやスタンダールでさえも作中の主人公を時間の流れに沿っていちいちその行動によって追いかけてゆくことに満足していたし、また他方バルザックは主人公の行動をある発端から放射されている諸力の中心として投げかけていたが、フローベールこそは、こうした直線的ないし単一中心的概念を放擲して、自分の小説を一連の中心点において構成し、そこからは数々の対象が前方にも工法にもあらゆる方面に拡散し、さらにそこには時間的であると同時に空間的な放射もあるようにした最初の小説家なのだ。小説の領域においてはじめて人間の意識が、感覚と回想の集中的ないし拡散的な飛翔が限りなくそれをめぐって行なわれ、つねに再構成されている一個の中心として、あるがままの姿を表わすものである。また小説はそれ自体が円環と中心になることによって初めて、人間的実体のもつ密度ないし濃度とでもいえるようなものを表現できるようになる。そうした濃度は、あらゆる方向に拡散してゆく意識の中心から、あるいはまた意識にむかってのひとつの集中運動となって数々の感動や回想の描く円周から形成されるようなものによって可能となる。こうした二つの運動は、すでに考察したように『ボヴァリー夫人』において、それぞれ交互に行なわれている。"(同、pp.137-138)

 

 そして、プーレはシャルル・デュ・ボスの批評を例に、『感情教育』への"人々はしばしばこの小説を形の整わない作品、つまり存在のまとまりのなさを主題としている小説と考えている。"(p.138)という定見に次のように反論している。

 

 "だが、こうした絶え間ない循環運動は、もし中心にひとつの要素が、つまり創造者でなくて秩序づけをする者のことを言っているのだが、そうした要素が存在しない場合には何の意味ももたないだろうし、また小説は形をなさないだろう。数多くの人物や経験や思い出を休むことなくあるひとつの中心に関連づけているその要素とは、主人公の愛である。仮りにフレデリック・モローがアルヌー夫人を愛さないとすれば、この小説には何の意義も構造も存在しなくなるだろう。だが、この場合はそうではない。ジャン=ピエール・リシャールが『フローベールにおける形式の創造』に関する研究のなかで言っているように、『教育』は《すべてのものが方向づけられた一個の軸のまわりに配置されている》ような小説である。この物語の発端からアルヌー夫人が現われてきてフレデリックに愛してもらったり、外面的には流動的で無定形な生き方をしているすべてのものが、このイメージのまわりに廻わりはじめ、そこから光を浴びるようになるのは、まさにこのためである。もっとも重要な文章を次に引用しておこう。……こうしてこのフローベールの小説は、いまやひとつの構成体として、一個の秩序あるものとして現われてくる。この秩序は形式上のものである。感情的諸要素は、それ自体は無定形な感覚的なものであるが、円環状の流れとなって、フローベールのもっとも美しい表現を借りれば《事物の総体が集中してくるまばゆいばかりの中心》が存在している中央部のある一点にむかって配置されるのだ。中心から円周へ、そして円周から中心へと運動するものがそこにはあり、しかもなお恒常的な関係がある。それが意識が生まれてくるひとつひとつの瞬間、意識が位置づけられているひとつひとつの場所的な地点と、他方、内面的であると同時に外面的でもあるその環境とのあいだに意識が確立しているような関係そのものである。フローベールのこの小説はしたがって状況(アンビアンス)の小説なのだ。"(同、pp.140-141)


 本作において〈青い花〉は作品の底部にライトモチーフとして一貫して存在し、それは、二者の主人公という非人称的な空間により可能になっている。