『ハーモニー』補論

 伊藤計劃著『虐殺器官』に"戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。"(伊藤計劃著『虐殺器官』、p.19)と引用されるジョージ・オーウェル著『1984』には"自由とは、2足す2は4だと言える自由だ。"という文句が一再ならず登場する。この原則が崩壊することで本書はディストピア小説として完成するが、これより以前にニコライ・チェルヌイシェフスキーの空想的社会主義小説『何をなすべきか』を引きつつ、"二二が四がすばらしいものだということには、ぼくも異論がない。しかし、讃めるついでに言っておけば、二二が五だって、ときには、なかなか愛すべきものではないだろうか。"と述べている小説がある。フョードル・ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。

 この表現には『悪霊』にも"私はそのまま引きさがってしまった。この人が何か恐ろしい騒動を起こさないで、無事にあすこから帰って来るはずはないと、私は信じて疑わなかった。それは二二が四というくらい明瞭だった。"(『悪霊』下巻、米川正夫訳、p.309)と反復して(『悪霊』上巻、p.538)登場するが、ユートピア思想は本書でもまた語られる。

"「それはちょっと違いますよ。シガリョフ氏はあまり自分の問題に没頭していられるし、それにまたあまり謙譲に過ぎるのです。僕は同氏の著述を知っています。同氏はこの問題の最後の解決法として、人類を大小同一ならざる二つの部分に分割することを、主張しておられるのです。すなわち、十分の一だけの人が個性の自由をえて、残り十分の九に対する無限の権力を享有する。そして、これらの十分の九はことごとく個性を失って、一種羊の群のようなものに化してしまい、絶望を服従裡に幾代かの改造を経たあとで、ついに原始的天真の心境に到達すべきだと言うのです。それは、いわば原始の楽園みたいなものです。もっとも、働きはしますがね。著者の主張している方法、すなわち人類の十分の九から意志を奪って、幾代かの改造を経てこれを畜群に化する方法は、なかなか立派なものであります。自然科学に根底を置いて、論理的にできています。個々の論点に対しては、異議があるかも知れませんが、著者の頭脳なり知識なりには、一点うたがいをさしはさむわけにいきません。(後略)」"(同、下巻、pp.114-115)

"「私は諸君に宣告します、――私に必要なのは直截な返答です。むろん、私もここへやって来て、自分で諸君を一団に糾合した以上、諸君に対して説明の義務を有していることは、わかり過ぎるくらいわかっています(これまた、意想外の告白である)。が、私は、諸君の持していられる思想のいかんを知るまでは、いかなる説明をも与えるわけにゆきません。むやくな問答を抜きにして(もう三十年間もいたずらにしゃべり続けるような愚を、二度と再び繰り返したくないですからね。ところが、今までは事実三十年間、ただしゃべり続けていたのです)、――私は単刀直入にお訊ねします。いったい諸君はどちらが望ましいのです。社会小説を書いたり、お役所ふうに紙の上で、何千年さきの人類の運命を想像したりするような、悠長な方法がお望みですか? ただし、お断りしておきますが、そんな呑気なことをしている間に、専制主義はうまく焼けた肉のきれを、遠慮なく呑みつくしてしまいますよ。その肉のきれは、自分から諸君の口へ飛び込んで来るのに、諸君は口のはたを素通りさしてるわけなんです。それとも、また方法はどうだろうと、とにかく人々の束縛を解き、人類が自由に社会組織を改造しうるような、急速な解決に味方をされますか? この方は、もう紙の上の空想じゃありません、実行に基礎を置いてるんですよ。『一億人の首、一億人の首』と言ってやかましいことですが、それはまあ、一種の譬喩に過ぎないとしても、とにかく一億人の首だって、何もそう恐れるには当たりません。なぜなら、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食いつくしてしまいますからね。ねえ、そうでしょう、不治の病人は、どんな処方を紙に書いてもらったところで、やはりなおりっこありゃしません。かえってぐずぐずしていると、ますます腐りがまわって、ほかの者まですっかり感染してしまいます。今ならまだしも希望を繋ぎうる新鮮な力も、みんなだめにされてしまって、われわれは結局、破滅のほかなくなるのです。実際、雄弁をふるって過激なことをしゃべるのは、なかなか愉快なものです。それは私もぜんぜん同感です。しかし、いざ活動となると、――どうも少し億劫なんでしょう、――いや、しかし私はうまく言いまわすことが不得手でしてね。実のところ、いろいろ諸君に報告したいことがあって、この町へやって来たのですから、一つお集まりの諸君にお願いがあるのです。それは投票なんかじゃありません。今いった二つの方法のうち、どちらが諸君にとって望ましいか、忌憚なく明瞭に述べていただきたいのです。亀の子のように泥沼をのろのろ這って行く方か、それとも、全速力でその上をとび越える方か?」"(同、下巻、pp.121-123)

 『1984』との関係では、"「ねえ、スタヴローキン、山をならして平地にする、これはいい思いつきですよ、こっけいじゃありません。僕は、シガリョフに賛成します! 教育もいらない、科学ももうたくさんだ! 科学なんかなくったって、千年くらいは材料に不自由しませんよ。ただ、服従というやつを、うまく完成しなきゃならない。この世はただ一つ不足してるのは、この服従です。教育欲というやつは、すでに貴族的な欲望ですからね。また、ちょっとでも家庭らしいものや、愛などというやつがきざすと、もうそこに所有欲が起こるんですからね。なに、僕らはこの欲望というやつを処分しますよ。飲酒、誹謗、密告などを道具に使うのです。かつて聞いたこともないような、淫蕩の風を起こす。あらゆる天才を二葉のうちに窒息させる。こうして、いっさいのものを一つに通分してしまうのです、――つまり、絶対の平等です。『われわれは一つの職業を習い覚えた、われわれは正直な人間だ、だから、ほかになんにもいりゃしない。』つい近ごろ英国の労働者が、こういう答えをしたそうです。ただ必要なものが必要なだけだ。これが今日以後、全地球のモットーとなるのです。しかし、痙攣もまた必要です。このことは、われわれ支配者が面倒を見てやらねばなりません(奴隷には支配者がいりますからね)。絶対の服従、絶対の没人格ですが、三十年に一度くらい、シガリョフ氏も痙攣というやつを道具に使うんです。すると、誰も彼も突然たがいに食い合いをはじめる。が、これもある程度までで、まあ、退屈しないだけにすればいいんです。退屈というやつは、貴族的感覚ですからね。シガリョフ一派には希望というものがなくなるのです。希望や苦痛はわれわれのために必要なので、奴隷どものためにはシガリョフ説があります。」"(同、下巻、pp.141-142)という補説もみる必要があるだろう。

 また、ウィリアム・ホワイトの『組織のなかの人間』では、『1984』の拷問による教化を科学の対極に位置づけている。そのさい、科学の側を代表するのは『カラマーゾフの兄弟』上巻の《大審問官》の挿話だ。

 "人間の生存の秘密は、単に生きることにあるのではなく、何のために生きるかということにあるのだからな。何のために生きるかという確固たる概念なしには、人間は生きてゆくことをいさぎよしとせぬだろうし、たとえ周囲のすべてがパンであったとしても、この地上にとどまるよりは、むしろわが身を滅ぼすことだろう。それはまさにそのとおりだが、しかし結果はいったいどうだ。お前は人間の自由を支配する代りに、いっそう自由を増やしてしまったではないか! それともお前は、人間にとっては安らぎと、さらには死でさえも、善悪の認識における自由な選択より大切だということを、忘れてしまったのか? 人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。しかも、それをしたのがだれかと言えば、人間のために自分の生命を捧げに来た男なのだからな! 人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。お前に惹かれ、魅せられた人間が自由にあとにつづくよう、お前は人間の自由な愛を望んだ。昔からの確固たる掟に代って、人間はそれ以来、自分の前にお前の姿を指針と仰ぐだけで、何が善であり何が悪であるかを、自由な心でみずから決めなければならなくなったのだ。だが、選択の自由などという恐ろしい重荷に押しつぶされたなら、人間はお前の姿もお前の真理も、ついにはしりぞけ、反駁するようにさえなってしまうことを、お前は考えてみなかったのか? 最後に彼らは、真理はお前の内にはないと叫びだすだろう。なぜなら、彼らはあれほど多くの苦労と苦しみと解決しえぬ難題を残すことによって、お前がやってのけた以上に、人間を混乱と苦しみの中に放りだすことなぞ、とても不可能だからだ。"(フョードル・ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟原卓也訳、上巻、pp.489-490)。

 『地下室の手記』では以下のとおりだ。

"しかし、にもかかわらず諸君は、人間がやがてはその習性を獲得するときにがきて、そうなれば古い悪癖のあれこれは完全に消滅し、健全な理性と科学が人間の本性を完全に改造し、正しい方向に向けるものと、心から信じきっておられる。諸君はまた、そのときには人間がわざわざ好きこのんで誤りを犯すようなこともなくなり、自分の正常な利益に反した意志をもつ気になど、なろうたってなれはしない、だいいち、その自由がなくなる、と確信しておられる。そればかりか、諸君に言わせれば、そのときは人間が科学に教えられて(ぼくの考えでは、すこし贅沢すぎる話だが)、人間にはもともと意志も気まぐれもありはしない、いや、これまでにもあったためしがなかった、そもそも人間なんて、せいぜいピアノの鍵盤かオルゴールのピンどまりの存在なのだと悟るようになる、というわけだ。いや、それ以上に、この世界には自然法則なるものが厳存しているから、人間が何をしてみたところで、それはけっして人間の恣欲にもとづいてなされるのではなく、自然法則によっておのずとそうなるだけだ、とも悟らされるというのである。したがって、この自然法則さえ発見できれば、人間はもう自分の行為に責任をもつ必要がないわけであり、生きていくのもずっと楽になる道理である。そのときには、人間のすべての行為がこの法則によっておのずと数学的に分類されて、まるで対数表か何かのように、その数も十万八千ほどになり、カレンダーなんぞに書きこまれる。あるいは、もっとうまくいけば、現在の百科辞典式の懇切丁寧な出版物が数種刊行されて、それには万事が実に正確に計算され、表示されることになり、もうこの世のなかには、行為とか事件とかいったものがいっさい影をひそめることになる。そのときこそ――いや、これも諸君の説なのだが――やはり数学的な正確さで計算され、完璧に整備された新しい経済関係がはじまり、およそ問題などというものは、一瞬のうちに消滅してしまう。というのも、いっさいの問題について、ちゃんとその回答が用意されているからである。そのときにこそ、例の水晶宮*が建つわけだ。そのときにこそ……いや、一言でいえば、そのときにこそ鳳凰が舞いおりるわけなのだ。"(『新潮世界文学』10巻 『地下室の手記江川卓訳、pp.170-171)

(*『何をなすべきか』に登場する未来の社会主義社会)

"〈は、は、は! それにしても、その恣欲とやらが、へたをしたら、そもそも存在しないのかもしれないじゃないですか!〉諸君は笑いながらこうさえぎるだろう。〈科学はすでに今日でさえ、人間を立派に解剖してくれていますからね、もう万人周知の事実なんですよ、恣欲とか、いわゆる自由意志とかいうものが、ほかでもない、たんなる……〉いや、待ちたまえ、諸君、ぼく自身、そんなふうに切りだそうと思っていたところなのだ。だから、白状すると、ぎくりとしたくらいだ。たったいま、ぼくは、恣欲なんてわけのわからない代物で、何に左右されるか知れたものじゃないし、そこがまた、おそらく、めっけものなんだろう、と叫びかけたのだが、そこではたと科学のことを思いだして、それで……絶句してしまった。と、そこへさっそく、諸君が半畳を入れたわけなのだ。だって、実際問題として、たとえば、いつの日か、ぼくらの恣欲やら気まぐれやらの方程式がほんとうに発見されてだ、それらのものが何に左右されるか、いかなる法則にもとづいて発生するか、どのようにして拡大していくか、これこれの場合にはどこへ向かって進んでいくか、といったようなことがわかってしまったら、つまり、ほんものの数学的方程式が発見されたら、そのときには人間、おそらく即座に欲求することをやめてしまうだろう、いや、確実にやめてしまうに相違ない。だいたい、一覧表に従って欲求するだなんて、糞おもしろくもないだろう? それどころか、そうなったら人間は、たちまち人間であることをやめて、オルゴールのピンみたいなものになってしむだろう。なぜって、欲望も意志も恣欲もない人間なんて、オルゴールの回転軸についているピンもいいところじゃないか? 諸君の考えはどうだろう? そういうことがありうるものかどうか、ひとつその可能性をかぞえあげてみようじゃないか? 〈ふむ……〉と諸君は解答を出すだろう。〈ぼくらの恣欲は、ぼらくらの利益に対する見方が誤っているために、あらかたはまちがっているんですよ。ぼくらがときたまとてつもないナンセンスをしたくなるのも、ぼくらのあさはかさから、このナンセンスこそが、あらかじめ予定された何かの利益に到達するいちばんの近道だと思いこむからなんです。だから、もしこうしたことが全部解きあかされて、紙の上で計算されてしまったら(いや、それも大いにありうることですがね。人間がある種の自然法則を認識できないなどと頭からきめこんでしまうのは、みにくい、たわけたことですから)、――そのときには、むろん、いわゆる欲望などというものはなくなってしまうでしょうよ。だって、もし将来、恣欲と理性とが完全に手を結んだとしたら、そのときにはもうぼくらは理性的に判断をくだすだけで、欲望なんかもたなくなるでしょうもの。なにしろ、理性を保ちながら、意味もないようなことを望むなんて、つまり、みすみす理性に逆らって、自分に悪しかれと望むなんて、どだいありえないことですからね……いや、いつかはぼくらのいわゆる自由意志の法則も発見されるわけで、恣欲やら判断やらがほんとうに全部計算されつくしてしまうかもしれないんですから、してみると、冗談は抜きにして、実際に何やら一覧表のようなものができあがって、ぼくらはこの表にしたがって欲求するというようなことにもなりかねんのですよ。だって、たとえば、ぼくが親指をどこかの指の間から突きだして、赤んべえとばかりだれかを侮辱してやったとしても、それはこれこれの理由でそうせざるをえなかったのだ、しかも、ぜひともこれこれこの指を使わざるをえなかったのだ、といったことが計算によって証明されるようなときがくるとしたら、いったいどんな自由がぼくのうちに残されることになります? ましてやぼくが学者で、どこかの大学を卒業でもしていたら。そうなったらぼくは、三十年もの先まで、自分の全人生を計算できることになる。つまり、一言でいえば、もしそんなことになったら、ぼくらはもう何をすることもなくなってしまう、何でもかでも受け入れるしか手はないのですよ。いや、それよりぼくらは、一般的にいって、たえず倦むことなく、自分に言いきかせておくべきですな。これこれの瞬間、またこれこれの状況のもとでは、自然がぼくらの意向をたずねてくれる気づかいはないわけだから、自然のそのあるがままに受け入れるべきで、けっしてぼくらが空想するように受け入れてはいけない。で、もしぼくらがほんとうに例の一覧表やカレンダーをめざして進んでいるということだったら、いや、それと……たとえば例のレトルトさえもめざしているということだったら、仕方がないから。そのレトルトも受け入れなければならない! さもないと、そのレトルトのほうから、きみの意向などかまわず、割りこんでくることになる……〉"(同pp.172-174)

"ぼくが味方するのは……自分の気まぐれ、いや、それから、必要な場合には、この気まぐれがぼくに保証されること。それだけである。苦悩というやつは、たとえば、笑劇などには登場させてもらえない、これは承知している。水晶宮では、これはもう考えられもしないことだ。苦悩とは疑惑であり、否定であるが、水晶宮で暮らしてなおかつ疑惑に悩むくらいなら、これはもう水晶宮でも何でもありはしない。ところで、ぼくの確信によれば、人間は真の苦悩、つまり破壊と混沌をけっして拒まぬものである。苦悩こそ、まさしく自意識の第一原因にほかならないのだ。ぼくは最初のほうで、自意識は、ぼくの考えでは、人間にとって最大の不幸だ、などと説いたが、しかしぼくは、人間がそれを愛しており、いかなる満足にもそれを見替えないだろうことを知っている。自意識は、たとえば、二二が四などよりは、かぎりもなく高尚なものである。二二が四ときたら、むろんのこと、あとにはもう何も残らない。することがなくなるだけではなく、知ることさえなくなってしまう。そのときにできることといったら、せいぜい自分の五感に栓をして、自己観照にふけることくらいだろう。ところが、自意識が一枚噛んでくると、なるほど結果は同じで、やはり何もすることがなくなってしまうにしても、しかし、すくなくとも、ときどきは自分で自分を鞭打つぐらいのことはできるわけで、これでもやはり多少は救いになるのである。なんとも消極的な話だが、それでも、何もないよりはましというわけだ。"(同pp.180-181)

"「この社会にとって完璧な人類を求めたら、魂は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」「わたしは笑わなかったよ」パシン、とミァハはステップを止めて両手を叩き合せる。バンカーの暗闇の奥に、木霊が逃げていった。「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万という男の子女の子が自殺してる。大人もね。野蛮を、自然を、徹底して自分の内側から排除することはできないんだよ。生府が体現する小さな共同体とか、そういうシステムや関係性を扱う以前に、わたいたちはまずどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めに過ぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」「あなたは思ったのね。この世界に人々がなじめず死んでいくのなら――」「そ、人間であることをやめたほうがいい」タタッ、タタッ、タタッ。再びミァハはステップを軽やかに踏みはじめた。「というより、意識であることをやめたほうがいい。自然が生み出した継ぎ接ぎの機能に過ぎない意識であることを、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的な存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。『わたし』とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる」タタタタタタッタタッタタッ。「昔、兵隊は靴を身体に合わせるんじゃなくて、身体を靴に合わせろって言われたそうだよ。わたしたちには、それが簡単にできるんだ」「老人たちが認めればね」再び、ミァハのステップが止まった。肩を落としてため息をつくと、「そう。老人たちは『意識の停止』を死と同義に受け取った。それで何千年ってやってきた少数民族が、コーカサスの山のなかにいたっていうのにね。システムがそれなりに成熟していれば、意識的な決断は必要ない。これだけ相互扶助のシステムがあって、これだけ生活を指示してくれるソフトウェアがあって、いろいろなものを外注しているわたしたちに、どんな意志が必要だっていうの。問題はむしろ、意志を求められることの苦痛、健康やコミュニティのために自身を律するという意志の必要性だけが残ってしまったことの苦痛なんだよ」"(伊藤計劃著『ハーモニー』pp.342-344)

 『1984』と『地下室の手記』のユートピアディストピアの両義性を統一した『ハーモニー』は、まさに"ユートピアの臨界点"をしめしたといえるだろう。

 余談だが、『反抗的人間』で頻々にドストエフスキーの小説の登場人物を〈反抗的人間〉としてあげるアルベール・カミュは、『ペスト』において"二足す二は四"の表現を用いている。

 また、ジョン・マクスウェル・クッツェーも、ユートピアでありディストピアである都市をえがいた『イエスの幼子時代』でこの表現を用いている。

"保健隊に献身的に働いた人々も、事実そうたいして奇特なことをしたわけではなく、つまり彼らはこれこそなすべき唯一のことであるのを知っていたのであって、それを決意しないということのほうが、当時としてはむしろ信じられぬことだったかもしれないのである。こういう隊が作られたことは、市民たちが一層深くペストのなかにはいりこむことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、一部分、彼らに納得させたのである。こうしてペストがある人々の当然なすべき仕事となったため、ペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、眼に映ずるに至った。これはいいことである。しかし、教師が二たす二は四になることを教えたからといって、別にお祝いをいわれはしない。お祝いをいわれることがあれば、それはおそらくそういうりっぱな職業を選んだということであろう。だから、タルーやその他の人々が、どちらかといえばその逆よりも、二たす二は四になることを証明するほうを選んだのは、ほめるべきことであったといっておくとして、しかしまたこの善き意志は、彼らとともに教師および教師と同じ心をもつすべての人々に共通のものであることをいっておきたいのであって、こういう人々は、人類の名誉にかけても、普通考えられている以上に多いのであり、少なくともそれが筆者の確信なのである。もっとも筆者としても、これに対する反駁がありうることは十分意識しており、それはつまり、これらの人々は生命の危険を冒していたということである。しかし、歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるというときが、必ず来るものである。教師もそれはよく知っている。そして問題は、いかなる褒賞あるいは懲罰がその推論を待ち受けているかを知ることではない。問題は、二たす二がはたして四になるか否かを知ることである。市民のなかでそのとき生命の危険を冒した人々の場合も、彼らの決すべきことは、自分たちがはたしてペストのなかにいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。"(アルベール・カミュ著『ペスト』宮崎嶺雄訳、pp.156-157)

"「ブント・アレーナスに特殊学校を建てたからさ。フアンとマリアのお話だの、海辺の活動だのに退屈してしまう子たちのための。退屈しているうえに、退屈しているのを隠しもしない子たちの学校だ。担任教師の押しつける足し算引き算の規則に従わない子どもたち。規則ったって、人為的な規則だよ。二足す二は四です、みたいな」「大変っすね。けど、どうして坊やは先生の言うやり方で足し算をしようとしないんだろう?」「先生の言うやり方は正しくないと、内なる声が語りかけているのに、どうしてそんなものに従わなくてはいけない?」「わからないな。その規則がシモンさんやおれや、ほかのみんなにも正しいものなら、どうしてダビードにだけは当てはまらないんですか? それに、どうして人為的な規則なんて呼ぶんです?」「なぜなら、二足す二は、われわれの決め方次第で、イコール三にも五にも十九にもなり得るからだ」「でも、二足す二って四じゃないですか。"イコール"に特別変わった意味でも持たせないかぎり、自分で、指で数えてみたらいいですよ。一、二でしょ、三、四。まじで二足す二、イコール三だったら、なにもかもが滅茶苦茶になりますよ。こことは違う物理法則をもつ、別の宇宙にいるってことになる。現存するこの宇宙では、二足す二、イコール四。これはおれらの意思から独立した普遍的法則で、ぜんぜん人為的とかじゃないです。たとえ、シモンさんとおれが存在しなくなっても、二足す二は四であり続ける」「そうだろうな、しかしどの二とどの二を足すと四になるんだ? ……」"(ジョン・マクスウェル・クッツェー著『イエスの幼子時代』鴻巣友季子訳、pp.327-328)