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なぜトァンはミァハを撃ったのか ‐ 『ハーモニー』試論 ‐

SF 文学 百合

 『ハーモニー』で全人類のハーモニクスが達成される直前に、なぜトァンはミァハを殺害したのだろうか。ハーモニクスを間近にひかえた状況で行動の意味は乏しく、また、ハーモニクスが達成されれば個人そのものが無化される。本稿では、『ハーモニー』全体を概観するとともに、その疑問に回答したい。
 まず、作中で言明されている動機を確認する。

"「ヴァシロフは――残念だった。トァンのお父さんも」不思議と、ミァハにそう言われても頭に血が上りはしなかった。零下堂キアンの思い出と共に、ねっとりとした怒りが臓腑の奥に淀んでいるのは実感できるけれど。"(伊藤計劃著『ハーモニー』早川書房、2010年、p.330)

"ねえ、御冷ミァハさん、あのお昼、零下堂キアンがカプレーゼに頭を突っこんでから、このチェチェンのバンカーに苦労してやってくるまで、何度わたしがあなたのことを殺そうと思ったか考えたことはなかったの。"(同p.349)

 トァンがキアンとヌァザの二人分として、二発の銃弾を使った(同p.351)ことから、この独白が本心であることがわかる。
 ここで気になるのはミァハがトァンの殺意にたいし、とくに抵抗をみせないことだ。ミァハはトァンに依頼してコーカサスの風景がみえる場所に移動し、死を迎える。それはトァンが迎えるハーモニクスとほぼ同時で、また、明確な区別はされていない。

"身体が、脳が熱を失い、意識が、わたしはわたしであるという意識が、死という、昔ながらの単純で複雑な仕組みによって消え去ってゆく。たとえそれが大脳辺縁系のエミュレーションだったとしても、中脳が生み出すわれわれの意識とそれのあいだに、大した違いはない。"(『ハーモニー』p.352)

 ならば、ミァハが肉体的な死を拒まなかったのは、それがハーモニクスという意識の死と同質だからでないだろうか。
 では、ミァハが全人類のハーモニクスを試みたのはなぜだったのか。

"「幸福を目指すか、真理を目指すか。人類は〈大災禍〉のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないな動物であることの否定を選んだ。自然を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが生きるこの世界のすべてを人工に置換すれば、それが得られる。人類はもう、戻ることのできない一線を越えてしまっていたんだよ」(中略)それを憎んでいたのは、誰よりも否定していたのは、御冷ミァハ、あなたじゃなかったの。"(『ハーモニー』pp.337-338)

 この技術による社会とはどのようなものか。

"「権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」「誰かの言葉、それ」「ミシェル・フーコー」(中略)死っていうのはその権力の限界で、そこから逃れることができる瞬間――。「ここから出て行くには、やっぱり、それしかないのかな」わたしはそうつぶやいてみた。ミァハはじっと目の前の風景を見つめるというよりはそれと対峙しながら、「わたしは前、こことは別の権力に従わされてた。地獄だった」ミァハは振り返らずに背中で語り、「だから逃げてきた、ここに。でも、ここも充分狂っていた。向こう側と同じくらいには、人間が生きるための場所じゃなかった」「向こうって、どんな場所だったの」「こことは真逆な場所。向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」"(同pp.291-292)

 この引用は『知への意志』からだ。

"死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。一つの世界からもう一つの世界へと移ることで、死とは、地上的主権にもう一つの、奇妙にもより強大な主権が取ってかわることだった。死を取りまく豪奢は、政治的典礼に属していた。今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」点である。自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『知への意志』新潮社、1986年、pp.175-176)

"「生府。正確に言うところの医療合意体(メディカル・コンセンサス)。提供される医療システムについて一定の合意に至った人々の集まり。調和者(ハーモニクス)たち。そりゃ、生府にも評議員はいるけど、昔の政府の議員とはぜんぜん違う。評議員連中やコミッショナーあたりに、王様や政府ほどの権力は集中してない。なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなってしまったから。生府を攻撃しよう、って言ったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」"(『ハーモニー』p.46)

"権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配圏において実体化されるような戦略である。権力が可能になる条件、というか少なくとも権力の行使をその最も「周縁的な」作用に至るまで理解し得るものとする視座であり、それはまた、〈社会的な場〉を理解可能にする読解格子として権力のメカニズムを用いることを許す視座だが、このような条件あるいは視座は、最初に存在するものとしての中心点に、つまり派生して下へと降りる諸形態がそこから拡がるはずの主権の唯一の中枢に求められるべきではない。それは、己が不平等によって絶えず権力の状態を、但し常に局地的で不安定なものとして誘導する力関係というものの、揺れ動く台座なのである。権力の偏在だが、しかしそれは権力が己が無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。"(『知への意志』pp.119-120)

 本作にたいするフーコーの関係は、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングらにたいするドゥルーズ=ガタリの関係に類比される。

"テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さをスターリングは教えてくれました。「ネットの中の島々」にはとりわけインパクトを受けたと思います。「スキズ~」でも「巣」でもなく。いわゆるレッテルとしてのサイバーパンク的な「頽廃した近未来」でなく、我々の社会と極端に異なる遠未来でもなく、今のわれわれとあまり変わらない「ちょっとだけ未来」を描いていて、それがすごく新鮮でした。"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

"「トゥアレグ、というのがアラブ語でどんな意味か、知っているかね」「あいにく」「『神に見捨てられし民』だよ、お嬢さん。余所者が勝手につけた名前だ」"(『ハーモニー』p.38)

"「(前略)マリやニジェールアルジェリアの独裁者とも闘った。どれも同じ、帝国主義という名のハードウェアだよ。あなた方のいう〈生命主義〉とて、それらのソフトが入れ替わったに過ぎない代物だ」"(同p.40)

"「トゥアレグ族は知っているかい? サハラの部族だ。知らない?」(中略)「まあ、いい。彼らは自分たちを"ケル・タマシェク"と呼んでいる。"トゥアレグ"というのはアラブ人の呼び名だ――"神に見捨てられたもの"という意味だ」"(ブルース・スターリング著、小川隆訳『ネットの中の島々』下巻、早川書房、1990年、p.248)

"「(前略)ウィーン、マリ、アザニア――みんな帝国主義のハードウェアだ、ブランドネームのちがいにすぎない」"(同p.341)

 さて、では、十三年前に自殺を試みた動機はなにか。

"だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。命が大事にされすぎているから。互いに互いにを思いやりすぎているから。とはいえ、ただ死ぬだけでは駄目だ、なにがしかの方法で健康そのものを嘲笑うようなやり方じゃなくちゃ。あの頃のわたしたちはそんな考えにとりつかれていた。"(『ハーモニー』p.45)

 社会と個人のあいだの齟齬の片面的な解消で、ミァハのことばでいえば幸福の否定であり(p.337)、十三年後に全人類のハーモニクスという完全なものになる。それは幸福と真理の一致ともいえる。

"老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。"(同p.362)

 すなわち、全人類のハーモニクスは十三年前の自殺の完成された形でもある。十三年前の自殺は社会にたいするテロリズムであると同時に、自己本位な目的の自殺でもある。

"わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。"(同p.336)

 『ハーモニー』は人類の意識が消滅したあとの世界に書かれたテクストという体裁だ。

"これが人類の意識最後の日。これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。"(『ハーモニー』p.359)

 同様の形式では、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』が先行する。

"この物語を横切っていった人々の人生、外見、性格に関して、われわれは多くの事柄を知っている。とはいえこの本は、証明可能な唯一の真実を映したものというより、一個のフィクション、部分的な思い出にもとづく信用に足る再構成とみなされるべきである。ミシェル・ジェルジンスキが二〇〇〇年から二〇〇九年のあいだ、その偉大な理論を構築するかたわら綴った回想や個人的印象、そして理論的考察の錯綜する複合体である『クリフデン・ノート』の刊行によって、彼の人生上の出来事、特異な人生観を形成するに至った分岐点や試練、ドラマについてはより多くが判明したとはいえ、なお彼の人生に関しても人柄に関しても多くの謎が残されている。逆に以下の記述は歴史に属するものであり、またジェルジンスキの業績が刊行されて以降の出来事についてはこれまで幾度も記述され、論評され、分析されてきたのであるから、簡単なレジュメで十分であろう。"(ミシェル・ウェルベック著、野崎歓訳『素粒子』筑摩書房、2006年、p.339)

"この段階に到達して、人間に動物である部分が残されていた時代に書かれた社会学も経済学も、一夜で破産を迎えた。社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。"(『ハーモニー』p.361)

"意識が人間の機能として重要視されていた時代も、もう遠く昔に過ぎ去った。今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意志」が選択において重要な役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。システムに完全に従属した現在の人類にとって、旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが、それを知っておくことも無駄ではない。かつて、御冷ミァハと霧慧トァンという女性がいた。彼女たちこそ、我々の「わたし」の最後の弔い手。"(同pp.362-363)

"それはまた、大衆の精神にとって、哲学的問題が明確な指標としての意義をどれほど失っていたかということでもある。数十年に及びとんでもなく過大評価されてきたフーコーラカンデリダドゥルーズの仕事が、突如笑止千万とみなされ省みられなくなって以後、かわりとなる新たな哲学的思考が出現するどころか、「人文科学」を標榜する知識人全体が不信に晒されたのだった。"(『素粒子』pp.345-346)

"歴史は存在する。それは厳として動かしがたく、その支配を免れることはできない。しかし厳密に歴史学的なレベルを超えて、本書の究極の野心は、われわれを造り出した幸薄い、しかし勇気ある種族に敬意を表することである。痛ましくも下劣な、猿とほとんど差のない存在でありながら、この種族は心の内に数々の高貴な願いを抱いてもいた。責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。そしてまたこの種族は世界史上初めて、自らを超克する可能性を検討することができたのだし、数年間を経てそれを実行に移すことができたのだ。彼らの最後の生き残りが消えていこうとする今、われわれは人類に最後のオマージュを捧げてしかるべきだろうと考える。そのオマージュもまたいつしか忘れられ、時間の砂漠のうちに失われるだろう。しかし少なくとも一度はしっかりと敬意を表しておく必要がある。本書は人間に捧げられる。"(同p.348)

 ハーモニクスに達した人類が旧人類とはまったく異なる存在ならば、『素粒子』において人類があたらしい生命に希望を託してみずから絶滅したのと同様に、全人類のハーモニクスは人類の集団自殺だったということができる。本書は自殺のモチーフが散在する。十三年前の集団自殺が物語の端緒であり、トァンが捜査する事件は世界における自殺の同時多発であり、全人類のハーモニクスを正当化するのは世界で毎年数万件おきているという自殺だ。(『ハーモニー』p.343)さらに、ミァハは『若きウェルテルの悩み』に言及する。(同p.223)

 エミール・デュルケムは『自殺論』で自殺の社会的要因に社会的規制のゆるみであるアノミーを挙げる。

"だから、そうならないためには、なによりもまずこれらの情念(パッシオン)に限界が画されなければならない。その場合にはじめて情念は能力と調和することができるであろうし、したがって充足されることのできるものは個人のなかには存在しないから、個人の外部にあるなんらかの力が必然的にここに介入してこなければならない。肉体の欲求にたいして有機体の演ずる役割と同じような役割を、精神的欲求にたいしても演ずる、一つの規制力が必要となるのである。それは、この力がもっぱら精神的なものでなければならないという意味である。まどろみつづけていた動物の均衡状態を打ち破ったのは、ほかならなぬ意識の覚醒であり、したがって、この意識のみが、均衡を回復させるすべを与えることができる。物質的強制は、ここでは効果がうすい。物理・化学的な力によっては、人々の心を変えることはできない。欲望が生理的メカニズムによって自動的に規制されない場合には、その欲望は、みずから正当とみとめる限界を前にしてしかふみとどまることができない。人々は、決められた限界をふみこえるだけの正当な理由があると信じているときには、その欲望が制限されることに承服しないだろう。ただ、この正義の法(人々が正当とみとめた限界)も、前述のような理由から、彼らみずからが自分自身に課すというわけにはいくまい。だから、人々は、尊敬し、自発的に服従しているある権威から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、あるときは直接的、全体的に、またあるときにはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。なぜなら、社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性をみとめているからである。社会は、法律を布告し情熱(パッシオン)をこえてはならない限界をしめすうえで、必要にして唯一の権威である。"(『世界の名著47』収録 エミール・デュルケーム著、宮島喬訳『自殺論』中央公論新社、1968年、pp.205-206)

 豊かさはアノミー的自殺のひとつの原因だ。

"なにを行なう場合にも、欲望は、つねに多少は手段について考慮をめぐらさなければならないが、その手段とは、人がなにかを手に入れようと決めるとき、ある程度手がかりとして依拠したものである。したがって、けっきょく所有しているものが貧しければ貧しいほど、それだけ人は、自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。無力さは、人々に節度を守るようにさせ、また節度を守ることに慣れさせるし、そのうえ、中庸が支配的なところでは羨望をそそるものとてない。ところが反対に、豊かさは、それが与える力から、自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる。それは、物(ショーズ)がわれわれに及ぼしていた手ごたえを減じさせるので、そのため、われわれは、物をいくらでも手に入れることができると思いこんでしまう。ところで、人は、自分に限界が課せられていないと感じると、あらゆる制限をますます耐えがたいと思うようになるものである。(中略)もちろん、このことは、人がその物質的条件を改善していくことに異をとなえる理由にはならない。しかし、あらゆる豊かさの増大から生じる道徳的な危険は、たとえそれを救うすべがあるとしても、見のがされてよいものではない。"(同pp.212-213)

 自殺こそ、上述のフーコーが『知への意志』で権力にたいする生と死の転換で論点にしたことであり、その論法は伊藤計劃がミァハを擬したタイラー・ダーデンの語ったことだ。

"自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(『知への意志』p.176)

"テーマは百合です。女版タイラー・ダーデンといちゃいちゃする主人公が見物です。"(

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20081214

)"

"素晴らしい体力と知力に恵まれた君たち、伸びるべき可能性が潰されている。職場と言えば、ガソスタかレストラン、しがないサラリーマン。宣伝文句に煽られて、要りもしない車や服を買わされている。歴史のはざまで生きる目標が何もない。世界大戦もなく、大恐慌もない。俺たちの戦いは魂の戦い。毎日の生活が大恐慌だ。TVは言う「君は明日の億万長者かスーパースター」、大嘘だ。その現実を知って俺たちはムカついている。"(デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』1999年)

"知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースを混ぜると、ナパーム弾が作れる。家庭にあるもので、どんな種類の爆弾だって作れるんだぜ"(『ファイト・クラブ』)

"「メディケアの、タンク半分のメディモルさえあれば、大体のことができる。毒ガスを風呂場で造るなんてお茶の子さいさい、だよ」"(『ハーモニー』pp.15-16)

"わたしはといえば、戦場という名の喫煙所から喫煙所へ。空港から空港へ。葉巻から葉巻へ。酒瓶から酒瓶へ。"(同p.96)

 ミァハを失ったあとのトァンは『ファイト・クラブ』の自己破壊のように拒食や過食を試している。

 全人類のハーモニクスが十三年前の自殺の再試行ならば、なぜミァハとトァンはそこに全人類を巻きこんだのだろうか。

"「わたしたちは、未来に生きてるんだよ」ミァハはその一見ポジティヴに聴こえる言葉とは裏腹に、憂鬱そうな口調でため息をつき、「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」"(『ハーモニー』p.33)

 ここで思いだすのが、バラードの『結晶世界』だ。本作は結晶化していく世界で、登場人物の争いののちに、主人公がみずから結晶化に身投げすることで終幕する。いわば自殺だ。

"バントレスはこのことばを無視した。「われわれはみんな前にここに来たことがあるのさ、ドクター。誰もが間もなく気がつくようにね――もし"時間"がありさえすればだが」彼はその"時間"ということばを、鳴り響く鐘の音のように引っぱって、特有の奇妙な抑揚をつけて発音した。彼はそのことばの最後の反響が、消えゆく鎮魂曲のように、無数の水晶の壁の中にこだまして薄れてゆくのに聞き入った。「しかし、それはわれわれみんなそこから逃げ出して行っている何かだって気がするのさ、ドクター。――そうは思わないかね?」(中略)「時間から逃げ出して行ってるって?」彼はおうむ返しに尋いた。「そんなこと、まだ考えたことがなかったね。君の解釈はどういうんだい?」「それははっきりしてるんじゃないか、ドクター? 君自身の"専門"、われわれがここで周りに見ている太陽の暗い側、それが手がかりを与えているんじゃないか? 間違いなく癩病は、ガンのように、何よりまず時間の病気であり、その時間という特別な媒介を通して自分自身を拡大しすぎたことの結果じゃないのか?」サンダース博士はバントレスのことばにうなずきながら、相手が少なくとも顔付きでは軽蔑しているように見えるその時間という要素について論ずる時、その骸骨のような顔が生き生きしてくるのを眺めた。「それは一説ではあるね」彼はバントレスが話を終えた時に同意した。「あまり――」「あまり科学的じゃないが、かね?」バントレスは頭を後ろに引いた。前より大きな声を出して彼は弁じ立てた。「ウイルスを見てみ給え、ドクター。生きてもおらず、生命がないのでもない、その結晶状の構造を。それからその時間に対する免疫を!」彼は片手で窓じきいをひとなでして、ガラスのような粒子を一塊すくい上げ、それからそれを粉々になった大理石のように床の上にぶちまけた。「君もぼくも間もなくこんなようになるのさ、サンダース。そして世界の残りも全部だ。生きてもおらず、死んでもいないような状態にね!」"(『世界SF全集26』収録 J・G・バラード著、峯岸久訳『結晶世界』早川書房、1969年、pp.349-350)

"階下のバーテン――嬉しいことに少なくとも彼はまだ自分の持ち場を離れないでいます(他の者はほとんどすべて行ってしまいました)――のいうところによれば、森はいまや毎日四百ヤードほどの速さで前進しているそうです。やってきてルイーズと話したジャーナリストの一人は、この前進速度でゆくと、次の十年の終わりには、少なくとも地球の表面の三分の一が影響を受け、何十という世界の首都が、すでにマイアミがそうなっているように、虹のような結晶の層の下で石化してしまうだろうと主張しています――もちろん、あなたはあの放棄された保養地が、無数の大寺院の尖塔の立ち並ぶ都市(まち)、ヨハネ書から実体化した状況となっている報道記事をご覧になったことと思います。しかし、実をいえば、こうした先の見通しは、ほとんどわたしの心を悩ましてはいません。前にもいったように、ポール、この原因が物理学以上のものだということが、いまはわたしにははっきりしています。わたしが、かつてバントレスであった救いようもない幻を見てから二日後に、金の十字架を両手にしっかり持って森からよろめき出てきて、モン・ロワイアルから五マイルの軍隊の哨兵線に引っかかった時、わたしはもう二度と森へは行かないと固く決心していました。(中略)しかし、その時の気持ちがどうであったにせよ、いまはわたしは、自分がいつかモン・ロワイアルの森に帰って行くだろうことを知っています。毎晩、エコー衛星の砕けた円盤が頭上を通過し、銀のシャンデリアのように真夜中の空を照らし出しています。そしてポール、わたしは太陽自体が晶化し始めているのを確信しています。日没に、その円盤が深紅色の塵でベールをかけられる時、それは独特の格子模様、巨大な落とし格子で区切られているように思われます。そうした格子模様はいつか外方に拡がって、惑星や恒星に達し、それぞれの軌道上でそれを止めるでしょう。十字架をわたしにくれたあの勇敢な異端の神父の例が示しているように、あの凍った森には無限の報酬が見いだされます。そこでは、あらゆる生き物や生命のない物の変貌が目の前に起こりますし、われわれ自身の肉体的結果として、不死の贈り物が授けられます。この世界でわれわれがどんなに異端であろうとも、そこではわれわれは必然的に虹のような太陽の使徒になるのです。ですから、身体の回復が完全なものになったら、わたしはここを通過する科学探検隊の一つに合流して、モン・ロワイアルへ帰ります。何とかその隊から抜け出すよう工夫するのは、そうむずかしくないはずですから、そうしたらわたしは魔法をかけられた世界の寂しい教会に戻ります。その世界では、昼は夢幻的な鳥が石化した森の中を飛び、宝石化したワニが結晶性の川の土手に紋章上の火とかげのようにきらめき、そして夜は金の車輪のような腕をし、スペクトルの王冠のような頭をした彩飾された人間が、木々の間を走っているのです。"(同pp.424-426)

"いや~、「ホーリー・ファイヤー」とか読むと、スターリングってやっぱどこまでもオプティミストなんだな~って。もう元気いっぱい。イーガンもぼくはある種のオプティミストだと思いますし。わたしの場合は、バラードの心でスターリングのように書きたい、と(笑)"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

 全人類のハーモニクスは『結晶世界』における結晶化のような、自殺を安楽にする美しい幻想ではないだろうか。

 また、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で、人生の苦難の解決手段としての自殺を部分的に認め、しかし、それは世界そのものが存続する以上、部分的な解決にしかなっていないとして意志の否定を訴えている。これは、トァンがはじめに自殺を試み、それに失敗し、意識の消滅を選択したことを思わせる。さらに、ショーペンハウアーは同書で技術の進歩による福祉国家の完成と、それが人類の苦悩の解決になることはないという終末論を述べており、『ハーモニー』の世界観と一致する。

"人生というものは岩礁と渦巻にみちみちている海にほかなるまい。人間はこれらを避けようとしてこのうえなく慎重に気をくばっている。が、それでいて彼は知っているのだ。たとえ彼が努力と手だての限りをつくし岩礁や渦巻をくぐり抜けることに成功したとしても、まさにそのことによって、彼はひと船足ごとに、最大の、全面的難破――避けることもできずに救いようもない難破に近づきつつあるのだということを。いな、彼はもともとこのような難破をめざして――すなわち死をめざして舵を取っていたのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのであり、死こそ人間がこれまで避けてきたあらゆる岩礁よりもはるかにひどいものなのである。さて、しかし、ここでただちに注目すべきことは、人生の苦悩と苦患とがふえていくことはこれほどたやすいことであり得るし、全人生はいわば死からの逃亡において成り立っているといってもよいほどなのに、そのような死でさえ、一面では望ましいように思う人、自ら進んで死に急ぐ人が出てくるということである。ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、今度はたちまち退屈がまぢかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。"(アルトゥル・ショーペンハウアー著、西尾幹二訳『意志と表象としての世界』(『世界の名著 続10』中央公論新社、1980年)p.561)

"国家がその目的に完全に達したならば、国家は人間の諸力をそのなかに統合することで、人間以外の自然を自分にますます役立てることができるわけだから、最終的には、あらゆる種類の悪禍がとり除かれて、やがてある程度まで「怠惰安逸の歓楽境」に近いような状態が出現することにならないともかぎらない。しかし、現実の国家はまだいぜんとして、この目標からはるかにへだたった所にあるということがひとつ言えるし、さらにもうひとつ、かりに目標に達したとして、人生にとってまったく本質的な悪禍というものはあいかわらず無数に生じてこようし、よしそれらをことごとく除去したとしても、悪禍の立ち去った跡は、たちまち退屈によって占められ、今までと同じように人生を苦しいものにするであろう。さらにもうひとつ、個人同士の争いというような小事でさえ、国家はこれをすっかり解消する力をもっていない。国家は大事であれば罰則をもって禁圧するが、小事はいい加減にあしらってしまうからである。そして最後に、国内から不和の女神エリスを運よく放逐すると、これは結局国外に向かっていくことになる。すなわち不和の女神が個人間の争いとして国家組織の手で追放されると、それは今度は諸国民同士の戦争として、いま一度外からやってくるのであって、個人間の争いのときにはいちいち賢明な予防手段を講じて流血の犠牲だけは免れてきたというのに、戦争になると、今度は累積した負債として、大規模なかたちで、一挙に、流血の犠牲が要求される。いやそれだけにとどまらない。以上のことがことごとく、幾千年もの経験に培われた人間の賢さによって、よしんば最終的に克服され、除去されたとしてみよう。そうなったあかつきには、今度はこの地球全体がしまいには現実に人口過剰に陥る結果になるであろう。その結果の怖るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持主にしか思い浮かべることはできない。"(同p.617)

"それにしても自殺はまたマーヤーの傑作だともいえる。それは生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着する号泣の表現なのだ。われわれはこの矛盾撞着を意志の低次元の諸現象において、自然の諸力のあらゆる発動の間の不断の闘争のうちに、物質と時間と空間とを有機的なあらゆる個体が奪い合う不断の闘争のうちにすでに認めておいた。この闘争は意志の客観化の段階が少しずつ高まっていくにつれて、しだいに恐ろしいほど明瞭にきわ立ってくる闘争であったが、とどのつまり意志の客観化の最高の段階――人間のイデア――に到達すると、この闘争はただ単に同一イデアを表わす個体同士が相互に滅ぼし合うということだけではなしに、同じ個体が自分自身に対して宣戦を布告するということさえもする、そういう程度にまでも達するものなのである。個体が生を意欲するときの激しさ、個体が生を阻むものに歯向かう、つまり苦悩に歯向かうときの激しさが、逆に個体をして自分自身を破壊するにいたらしめる激しさにつながっているのである。その結果、この個体的な意志は、苦悩に打ち挫かれてしまうくらいなら、自分の身体――これは意志自身が可視的になったものにすぎない――を個体自身の意志的な行為によってなきものにしてしまう方をむしろ選ぶ。自殺者は意欲することを中止するわけにはいかないという、まさにその理由のために、生きることを中止する。このとき意志は、意志の現象をまさに廃棄することを通じて、かえって自分自身を肯定していることになるのであり、意志はもはやそういう仕方以外においては自分を肯定することができなくなっているからなのである。"(同p.691)

"こうして「個体化の原理」がますます明らかに看做されていくにつれて、われわれはそこからまず第一に自由なる正義を、第二にエゴイズムの完全な廃棄にいたるまでの愛を、そして最後に諦念もしくは意志の否定を発生させるにいたったのであった。キリスト教教義論の諸教義は、そのものとしては哲学とは無関係なのであるが、わざわざわたしがこれらの諸教義をここに引合いに出しておいたのは、ただ次のようなことをここに示しておきたかったがためにほかならない。本書の考察全体から生まれてきた倫理、本書の考察のあらゆる部分とぴったり符合し連関するこの倫理は、表現のうえからは目新しく、前例のないものかもしれないが、本質的にみればけっしてそんなことはなく、キリスト教本来の教義と完全なまでに一致し、しかも要点は、キリスト教本来の教義そもののの中にすでに含まれ、存在していたといえるのである。本書の考察全体から生まれてきたこの倫理は、じつにまた、インドの聖典というまったく別の形式で述べられたもろもろの考えや道徳訓とも厳密に一致しているのである。以上のことと合わせて、キリスト教教会の諸教義に読者の注意をうながしたことは、次のような見掛けのうえでの矛盾――すなわち一方においては動機が突きつけられると性格のいかなる現われも必然的であること、他方において、意志が自分自身を否定し、性格と、性格にもとづく動機の必然性とをともに廃棄してしまう意志自体の自由、この二つの間の見掛けのうえでの矛盾を、説明し、解明することに役立ったのであった。"(同p.705)

 ここで、はじめの問いにこたえよう。ミァハは十三年前の自殺で、現世への未練になる書物を焼滅させている。

"燃やすの、全部。その言葉が本当ならば、ここにあるのはミァハがお小遣いのほとんどを注ぎ込んで製本してもらった、ミァハの持っている小説全部のはず。そのときのわたしはミァハの家に行ったことがなかったから、本当にそこにあるのがミァハの持っていた本のすべてかどうかはわからない。でも、ミァハが嘘をついているようにもまた、見えなかった。ミァハが言う。「多分これを持っていたら、行けないと思うから」わたしは訊いた。「行けないって……」ミァハは片手で周辺を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。「ここの、向こう側に。皆が天国とか地獄とかあの世とか言ってる世界に。無に。逝けないかもしれない、この子たちがわたしを地上に縛りつけて。もう少し経つまでほっといたら、からだ、弱っちゃって、本をここに運ぶことだってできなかったと思う」"(『ハーモニー』pp.332-333)

 『ハーモニー』がトァンの主観における物語で、全人類のハーモニクスを自分の意思で実行したならば、なぜトァンがミァハを殺害したかわかるだろう。トァンはハーモニクスという完全なかたちの自殺を迎えるまえに、この世界の未練であるミァハを消したかったのだ。それは火葬だ。

"火葬、っていうの。そのときは、棺のなかに死んだ人が好きだったものを入れたんだ。死体の処理が蛋白分解液になってから、そういう習慣はなくなってしまったんだけどね。これはミァハの火葬なの、とわたしは訊いた。うん、とミァハは答える。わたしの棺に、本は入れられないからね。わたしに力をくれたものは、わたしが連れて行く。"(『ハーモニー』p.336)