『いたいけな主人』論 アリストテレス『詩学』から笠野頼子まで

 前回、『いたいけな主人』(中里十著、小学館、2009年)がメタフィクションの構造をとっていることを確認した。今回は、なぜ本作がメタフィクションの構造をとっているか考察し、あわせて光の行動を読みときたい。

 まず、光が陸子と別れるまでの行動を確認する。はじめにみておきたいのは、光と陸子が共犯的な役割の演技をおこなっていることだ。光は登場しての第一声が"「恐縮の極みでございます。私も一日千秋の思いでございましたが、陛下の快活なお姿を拝見して、待ち遠しく思ったことなどすっかり忘れてしまいました」"(『いたいけ』p.14)であるように、国王護衛官という立場で芝居がかって畏まり、それは陸子の気質に通じるものでもある(『いたいけ』p.24)。国王護衛官の一次選考でふたりは出会う。このとき光はただの野次馬根性で選考に応募し、陸子に特別な感情をもっておらず(『いたいけ』p.19)、陸子は丁寧語ではなし、光も敬語を忘れる(『いたいけ』pp.19-21)。だが、このとき光が陸子に惚れることでふたりの運命はおおきく変わる。そして最終選考でふたりは国王と国王護衛官の立場でたがいが死ぬ状況をロールプレイし、その関係が固着する(『いたいけ』pp.22-26)。
 本作の文体はその役割の演技によるものだ。『いたいけな主人』は一人称小説であり、これはおなじ著者の『どろぼうの名人』(小学館、2008年)、『君が僕を』(小学館、2009-2010年)も同様だが、本作は第二文が"私は陛下のご実家にお迎えにあがっていた。"(『いたいけ』p.14)であり、全編が過剰敬語で語られる。
 そうした文体の意味とはなにか。中里十は本作の表紙の折返しで『戦場の小さな天使たち』(ジョン・ブアマン監督、1987年)について語っている。"イギリスの映画に『Hope and Glory』という傑作があります。タイトルを直訳すると、『希望と栄光』。しかし日本公開時の邦題は、『戦場の小さな天使たち』。この邦題をつけた人を、私は尊敬しています。なぜこんな邦題に? なぜ尊敬? それは、映画本編をご覧ください。ぜひ。"『戦場の小さな天使たち』は第二次世界大戦中の空襲下のロンドンを子どもの目線で描いたものだ。独特なのは、子どもの視点であるため、悲惨な戦時生活が心躍る冒険に満ちたものとして描かれていることだろう。映画は最後、学校が爆撃され、休校になったことに欣喜雀躍する子どもたちと、「それが人生で最良の日だった」という主人公のビルのナレーションで幕を閉じる。大人の視点ならば、学校が爆撃され休校になることは悲劇のはずだ。この「天使」という単語は、最終章の章題でもある。"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"(なお、『ぴたテン』8巻の引用だ)最終章が光によって語られた「悲劇よりも悲しいハッピーエンド」であることは前回確認したとおりだ。本作では「天使」という単語がもう一箇所で登場する。
 "私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。(中略)自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。陛下のお顔と同じく、お心も天使のようでなく、緋沙子を捨てようとなさる。繰り返すこと。自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。"(『いたいけ』pp.245-246)陸子は捨て子であり、緋沙子を捨てることで自身の体験を再現しようとする。"でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として。二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。"(『いたいけ』p.243)"繰り返すこと。陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。"(『いたいけ』p.245)中里十は本作のあとがきで、『オデュッセイア』の解釈について補足するときにアリストテレスの『詩学』を引用している。アリストテレスは『詩学』で、すべての叙事詩と悲劇、喜劇などの詩作は再現すなわち模倣(ミメーシス)であるとしている(『詩学』(松本仁助訳、岩波書店、1997年)p.21)。ありうべきこと、すなわち普遍的なことの模倣であり、これはプラトンが『国家』で述べた、悲劇作家や画家は、普遍的なものである〈実相〉(エイドス)と、それを具現化する製作者にたいし、具現化されたものを模倣する三番目のものだという仮説(『国家』(藤沢令夫訳、岩波書店、1979年)下巻、pp.302-312)を発展させたものだ。千葉国王が抽選制であり(『いたいけ』p.75)、それがプラトンが同時代の課題として『国家』で述べた僭主独裁制を防止(『国家』下巻、pp.216-221)する方法で、アリストテレスが『政治学』で発展させ、共和制を成すとしたものであるのは興味深い(『世界の名著8』収録 アリストテレス著、田中美知太郎責任編集『政治学』中央公論新社、1972年、p.181)。陸子のおこなおうとする再現が具体的な事実の模倣であるプラトンのものであるのにたいし、光のいう「天使」とはアリストテレスが模倣の対象だとする普遍的なものだろう。そして、すべての創作が再現である以上、光と陸子の役割の演技もまた再現だといえる。光はもとは漫画家を志望しており(『いたいけな』p.75)、才能が発揮されるときを多くの偉大な作品が誕生した十五世紀のフィレンツェに喩えていた(『いたいけ』pp.75-76)。そして、国王護衛官として陸子と特別な関係になったときに、その夢は捨てられる。"私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことでなくても。そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。さようなら、私のフィレンツェ。"(『いたいけ』p.82)

 また同時に、『いたいけな主人』は『オデュッセイア』の再現でもある。『オデュッセイア』の再現にはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』という先例がある。『いたいけな主人』が『オデュッセイア』の筋(ミュートス)の再現であるのにたいし、『ユリシーズ』はその細部と綿密な対応をしておりおおきく異なる。しかし、第9章の章題にポストモダン文学の旗手である笠野頼子を引き、メタフィクションの構成をとる本作が『オデュッセイア』の再現でありながらこの小説を無視していることは考えづらい。アリストテレスは創作を普遍的なものの模倣と定義したが、近代以降の文学ではその模倣自体がエクリチュールとして問われることになる(『零度のエクリチュール』(ロラン・バルト著、渡辺淳・沢村昴一訳、みすず書房、1971年)pp.5-7)。その結果、ポストモダン文学やメタフィクションが誕生する。偶然ということもあるが、陸子の宿願である中学生のメイドの三人、岬早苗、松山結香、木下桃子は第13挿話「ナウシカア」の三人の少女、高飛車なシシー・キャフリー、メガネをかけたイーディ・ボードマン、可憐なガーティ・マクダウェルと対応する。なにより、光と陸子は賢君のオデュッセウスと貞淑なペネロペイアより、『ユリシーズ』でパロディされている妻に甲斐甲斐しく尽くすブルームと浮気症のモリーに喩えたほうが適当だ。モリーは第18挿話「ペネロペイア」で語られるとおり、わがままだが内心では夫のことを愛している〈いたいけな主人〉だ。
 陸子の芝居は芝居であって、芝居でない。"もともと陛下には芝居がかったところがあられる。慣れないうちは、陛下の感情表現はわざとらしく思えることもある。茶番という夢はさほど無理せず見られる。けれどその夢では、あまりいい気持ちにはなれなかった。あのとき、陛下のお心の奥底に、じかに触れたと思ったのに、それも茶番になってしまう。茶番――護衛官選考の最終面接のことを思い出す。あのとき私は、陛下との絆を確かめたと思った。確かめたはずなのに、あとで不安になった。あれは茶番だったのではないか、と。それでもいい、陛下のお側にお仕えできるなら、と思った。私はやっといまになって信じている。陛下のなさることは、まばたきひとつに至るまで、お心をそのまま映している。どんなに嘘をおっしゃり、隠し事をなさっても、みな真心からのことだ。そのことを知らなかったわけではない。けれど心のどこかで疑っていた。もし、なにもかもが真心からのことだとしたら、私はあまりにも、息もできないほど、愛されている。"(『いたいけ』pp.278-279)陸子が芝居がかっている、つまり本心をさらせないのは幼少期に母親に捨てられたからだと思われる。光は緋沙子を助けるために陸子のその深部に踏みこみ、二人が共犯的におこなってきた役割の演技は崩壊する。"「……ひかるちゃん、どうして泣いているの?」「陸子さまを――ちゃんと――守ってあげられなくて――」頭が回らない。言葉遣いが敬語にできない。"(『いたいけ』p.276)そして、ふたりはたがいの愛を確認するが、同時に陸子は光を馘首する(『いたいけ』p.279)。
 そして、光と陸子は離別するが、千葉王国が政情の変化により崩壊の寸前に達したことで、光はふたたび陸子のもとへもどる。それは前回説明した『オデュッセイア』の再現であると同時に、かつての光と陸子の役割の演技の再現でもある。なぜなら、陸子が本心をさらした以上、もはやふたりが役割の演技を継続することはできず、ふたたびそれが開始するとしたら、かつての演技の再現であるからだ。しかし、光はそれを否定しない。護衛官訴訟の最高裁判決が下される直前に光は述懐する。"緋沙子が現れるよりもさらに前、陛下がまだ私に触れてくださらなかった日々。あのとき私は幸せだった。その幸せに、自分で気づくこともなかった。そこは楽園ではなかったけれど、楽園よりも素晴らしいところだった。そこは一四五〇年のフィレンツェだった。そこで私はなにかを作っていた。それは絵のようには残らないし、はっきりと名指すこともできない。きっとルネサンスの芸術家は、「芸術」なんてものは作らなかった。彼らは、建築を飾るための絵や彫刻を作りながら、それを通して、名指すことのできないなにかを作っていた。そのなにかを、あとで「芸術」と呼ぶようになった。私が作ったものは、名づけられることもなく、忘れ去られるだろう。それでいい。あれは陛下のためにだけに作ったものだ。自問自答する。私はあそこに戻りたいだろうか? ――いいえ。あそこにいた私は、自分が幸せだとは知らなかった。なにかを作っているとは知らなかった。だから、そのなにかを持っているのは、その素晴らしさを知っているのは、あそこにいた私ではない。いまの私だ。それに、緋沙子。もしあそこにいたままなら私は、緋沙子を眺めているだけだったはずだ。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。いまならわかる。本当に素晴らしいことは、一度だけ起こる。二度目はいらない。たとえば人が二度生まれることがないように。"(『いたいけ』pp.410-411)
 それにつづく最終章の章題は上述の"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"だ。最終章の希望は光による創作であり、現実には陸子は逮捕され、緋沙子が陸子に再会することは叶わず、千葉再分離運動の過激派の活動は激化し、自衛隊とロシア軍の緊張は限界まで高まり、千葉内務省の要員だった美園の身も危ないだろう。だが光は偽史を語る。なぜなら、それが光と陸子のたがいに合意した主人と従者という関係のゆくさきであり、母親に捨てられて育った陸子が必要とした、その心に寄りそう方法だからだ。それは人間の営為であり、フィクションなのに美しい。