『いたいけな主人』の最終章の誤読を解く

"「ホメロスの時代には、ギリシアはどん底から抜け出したばかりだったの。紀元前一二〇〇年くらいまでギリシアには、ミケーネ文明っていう文明があった。戦争でこの文明が滅びて、ギリシアは貧しく野蛮になった。ホメロスのころには、貧しくなる前のギリシアがどんなふうだったか、すっかり忘れられてた。ホメロスが描いてる世界は、ミケーネ文明とは似ても似つかない。でも、たぶん、昔のギリシアはいまよりずっと素晴らしかった、ってことだけは覚えてた。だから『オデュッセイア』のラストには、『昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほどかった』っていう嘆きがこめられてる。ペネロペは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元どおりになる――かなわなかった願いがこめられてるの。本当ならペネロペはさっさと再婚してるはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、オデュッセウスを待ちつづけた。本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、イタカに戻ってきた。本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳りつづけたはず。だから物語のなかでは、すごく残酷に皆殺しにされた。ひさちゃんはさっき、夫婦が再会してめでたしめでたし、で終わらせちゃったでしょう。原作はちょっと違う。夫婦の再会のあと、オデュッセウスは父親にも再会して、お互いの無事を喜びあう。それと同じころ、オデュッセウスに殺された貴族の仲間が一致団結して、オデュッセウスに復讐するために王宮に向かう。オデュッセウスはわずかな手勢とともに迎え撃つ。その戦いを、女神アテナがやめさせたところで、めでたしめでたし、になる。こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽいでしょう。皆殺しはしないで、特に悪かった奴を見せしめで殺すだけにすればいいのに。父親との再会を先にすませて、ラストは夫婦の再会で締めくくればいいのに。でも私は、意味があることだと思う。『オデュッセイア』という物語が嘘だから、ありえないことだから、こうやって終わらせたんだと思う。これは嘘だよ、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよ――って念を押すために。オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい」"(中里十『いたいけな主人』pp.306-307)

 

"フランス語では歴史のことをhistorieといいますが、この単語には「物語」という意味もあり、さらには「作り話、でたらめ」という意味もあります。本書にも、それなりのhistorieがあります――いえ、「ある」ではなく「ありうる」のほうが正確でしょう。より正確を期すなら、「historieを語ることができる」と言うべきでしょう。"(あとがき)

 ネット上の『いたいけな主人』の感想をみたところ、最終章を字義どおりの意味で受けとっているひとが多くみられたので本稿を執筆することにしました。なので、ここまででなんのことかわかった方はこれ以上読む必要はありません。
 本作は光が陸子と別れ、緋沙子とともにロシアに移住するところでおおきな転機をむかえます。その章の冒頭におかれているのが上記の『オデュッセイア』の解釈です。その後、光は作中で述べられているように(pp.321-322)、さながら『オデュッセイア』のように荒廃した千葉王国に帰還し、陸子に再会します。ただし、この『オデュッセイア』の解釈は、作者が"考古学が明らかにしたミケーネ文明の姿と、『オデュッセイア』に描かれた世界はあまりにも食い違っており、設楽光の解釈は学術的に無理があります。"(あとがき)と補足しており、フィクションです。
 本文で直接的に対応が示されているだけでなく、『いたいけな主人』そのものが『オデュッセイア』のパロディとなっています。オデュッセウスがなぜイタカを離れていたのか、本文では詳述をひかえていますが、これは美貌の女神であるカリュプソに七年間岩屋に引きとめられたためです。成長し、おそろしいほどの美しさを身につけた(p.304)緋沙子は光をロシアに引きとどめます。平石緋沙子という名前も、「石にひさぐ」でカリュプソを連想させます。
 本文ではただ「貴族」とされていますが、『オデュッセイア』では多くの場合「求婚者たち」と記述されています。貴族など有力者たちはペネロペに求婚するためにオデュッセウスの館に集っているからです。陸子の身柄を引きうける候補の旧宮家の継嗣、駐日ベラルーシ大使、千葉統合担当大臣のうち、旧宮家の継嗣のみならず、政治家の千葉統合担当大臣もが陸子に求婚する(p.364)のはパロディを意図したものでしょう。
 さらに、ペネロペは引出物の布を織るまで再婚は避けたいという口実を設け、昼に布を織り、夜にほどくことで再婚を遷延させます。しかし求婚者たちに発覚し、この手段もとることができなくなります。護衛官訴訟はこの推移を連想させます。"となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定は、早くてもロシア大統領選挙の直前になるだろう。なにかが起こるかもしれない"(p.323)"「護衛官訴訟の判決期日が決定。同時に、日本最高裁長官が異例の予告。訴訟の長期化を避けるため差し戻しは行わないとのこと」"(p.330)波多野陸子という名前も、「機織り」でペネロペを連想させます。
 しかし、本書は『オデュッセイア』のパロディをおこないながら、同時にそのことを自己言及しています。それが上記の『オデュッセイア』の解釈であり、また、たびたび『オデュッセイア』の反-現実性を通しておこなわれる現状の確認です。

"オデュッセウスなら、どうやって千葉を元どおりにするだろう。いくら不意打ちとはいえ、わずかな手勢と弓だけで、またたくまに百八人を殺してしまう凄腕のテロリスト、オデュッセウスなら。けれどそんなことは考えるまでもなく不可能だった。きっと三千年前のイタカでも、本当は不可能だった。映画のスーパーマンは、地球を逆回転させることで時間を巻き戻し、死んだヒロインを甦らせた。オデュッセウスの皆殺しも、これと同じだ。不可能なことを成し遂げるための妄想的な手段だ。オデュッセウスなら、どうやって国王公邸に入り込むだろう。嘘を武器にする詐術の達人、オデュッセウスなら。考えていくうちに、オデュッセウスの力はみな私にはないものだと気づく。"(p.321


 そして、護衛官訴訟の最高裁判決を目前にして、千葉再分離運動の過激派、自衛隊予備役の召集、在千ロシア海軍の全将兵の基地呼集と、緊張は最高潮に達し、『オデュッセイア』の空想性と現実との乖離は極点をむかえます。陸子が敗訴と同時に光を殺すという事実上の心中だけは岬早苗の必死の説得で翻意されますが、現実は依然として苛酷なままです。


"同情のこもった視線が木下桃子に集まる。信じられないのは、信じたくないのは、みな同じだったにちがいない。こんなにも美しくて心安らかなものが、明日からはもう存在しないとは。"(p.406)


 さて、そうして迎えた護衛官訴訟の判決は勝訴であり、物語は光が陸子の手をとって終わります。
 ここまで読んだ読者におかれては、その意味はおのずから明らかだと思います。全418ページの物語において、最終章は3ページときわめて軽く、本文の自己言及のとおり"こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽい"ものとなっています。


"「国王の地位がいつまでも法的に有効かを争って裁判してる」「判決はいつごろ?」「あと一年か、一年半」「勝てそう?」「不可能」"(p.311)

 

"「これはどういうことでしょう?」「えっとねー。おうちに帰って、あの子たちと遊んで、ひかるちゃんと一緒に寝るの。朝ごはんも一緒だよ」「誰かが手を回したというようなことは――」「アテナとか? そっかー、ひかるちゃん、私のほかに女がいたんだー」アテナはオデュッセウスを助けた女神だ。妻や祖父との再会のあと、悪党の貴族たちの仲間が復讐に押し寄せてきて、オデュッセウスは勝ち目のない戦いに挑む。そこへ女神アテナが割って入って戦いをやめさせたときに、物語は終わる。おかしなことを思う。もしかして私は誰かの夢を生きているのかもしれない。三千年前のエーゲ海の人々の、かなわなかった夢を、オデュッセウスは生きた。もしそうだとしたら、私は誰の夢を生きているのだろう。陛下のお側に戻れなかった人、千葉が潰え去ったあとの人――"(p.415)


 ここで描かれているのは夢の世界です。作者があとがきで語っているとおり、すべてのフィクションは存在論的には現実と区別できません。しかし、本作では自己言及のメタフィクションによって、最終章が偽史であることが語られています。


"オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい"(p.307)