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『となりのロボット』の時間と他者性

百合 SF

 『となりのロボット』は昨年冬に発売されたロボットを題材とした百合マンガだ。描写とロボットへの洞察の両面が優れていて、『SFマガジン』2015年10月号に収録の「伊藤計劃読者に勧める「次の10作」ガイド」【コミック編】(V林田)にも「「人間とロボットの恋」というシンプルで古典的とも言えるテーマを、丁寧な筆致をもって百合と高いレベルで融合させた秀作だ。」として挙げられた。以下では、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を基軸に、その読解を試みたい。
 著者の西UKOは『Collectors』『宝石色の夢』などの著作からその博覧強記ぶりがうかがえる。
 『となりのロボット』もその広範な知識からハードウェア、ソフトウェア、ロボットと社会との関係などが実感をもって描写される。そして問題になる人間とロボットの恋愛も、霊魂のような形而上的、あるいは超常現象的な仮定はおかず、現実におこりうることとして解決している。(その点では、物語がピグマリオンの引用である神話となることで結末を迎えた2013年公開の『her』を上回っているかもしれない)。
 人間のチカがロボットであるプラハとの関係をあらためる契機となったのは、二人のもつ時間の相違だ。「もうヒロちゃんより大きいよ、私。いつかこの日が来ると思ってた。だってヒロちゃんは年とらないんだもん。変わらないんだもん」「だから今だと思う。この日が来たら言おうと……思ってた」(『となりのロボット』p.16)
 チカはプラハとの関係を深化させるが、プラハがロボットであることの不安が募り、かえって苦しむことになる。「――そういう…計算の結果でしょ。私が…ヒロちゃんのこと好きって気持ちとは違う」(『となりのロボット』p.77)苦悩のすえにチカは持続することのないプラハとの時間を一瞬のものとすることで、永遠性の代替にしようとする。「あの子は電源が落ちたらただのモノでしかない! 石ころに話しかけているのと同じじゃない! ううん。起きてる時だってその場で望まれる答えが計算されて発されるだけ」「私の時間は永遠じゃないから。だから今――十七歳の胸にヒロちゃんの笑顔、納めておきたかった」(『となりのロボット』p.116)
 ハイデガーは存在の意味を解明することを課題とする『存在と時間』において、われわれ自身を現存在とおき、その存在様態を気遣いとしたが、その関係が道具(道具的存在)とのものであるときは配慮的気遣い、他者とのものであるときは顧慮的気遣いだと分析した。他者は世界内存在において自己と同様の現存在として存在しているために、道具的存在と区別されなければならない。「他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。」(『存在と時間』『世界の名著62 ハイデガー』収録、原佑・渡辺二郎訳、1971年、中央公論社、p.228)
 そして他者との関係は支配と積極的な自由との両端のあいだにある。「積極的な顧慮的な気遣いの二つの極端――尽力し支配する顧慮的な気遣い、および手本を示し解放する顧慮的な気遣い――の間に日常的な相互共存在は保たれており、多様な混合形式を産みだすが、それらの混合形式を記述し分類するのは、ここでの根本的探究の範囲外のことである。」(『存在と時間』p.234)
 現存在の存在を気遣いとして可能ならしめるものは時間性だ。ここでいう時間性はエトムント・フッサールのような通俗的な意味においての時間ではなく、ハイデガー独自のものであり、それが『存在と時間』を執筆した動機のひとつでもある。時間性とは、世界内存在としての存在として、決意性をもちつつ未来に企投する、そうした統一的な過程のことだ。このとき、決意性が問題となる道具的存在への配慮的な気遣いは、予期をふくむとはいえ、存在者を現成化するという現在の働きでしかない。「状況における道具的存在者のもとで決意しつつ存在すること、言いかえれば、環境世界的に現存しているものを行為しつつ出会わせることは、この存在者を現成化することにおいてしか可能ではない。この現成化するという意味での現在としてのみ決意性は、決意性がそれであるところのものでありうる、すなわち、決意性が行為しつつ捕捉する当のものを偽りなく出会わせるはたらきでありうる。」(『存在と時間』p.515)ハイデガーが独自の有限的な時間概念を立てた理由が人間の死であり、事実上、永遠の存在であるプラハが第5話において人間の死に接していることは注目に値する。
 さて、チカはプラハが自分と時間を共にすることができない現実により別離する。二人が再会するのは10年の年月を経たのちのことだ。
 プラハが時間とそれによる変化を認識していることが示される。「私が知ってるチカちゃんでしかない時点で、"この子"はチカちゃんじゃありません。チカちゃんは常に変化します」(『となりのロボット』p.118)
 一方、チカはプラハと再会し、プラハを別離したときのままの相手として接する。「変わらないね…ヒロちゃん…」「胸の奥、蘇る。十年なんて、まるで昨日みたいにヒロちゃんは変わらない」(『となりのロボット』p.125)
 だが、それはプラハの一言によって破られる。「チカちゃん。わたし、持ってないチカちゃんのデータがあるの」「それ今もらってもいい?」(『となりのロボット』p.128)
 この一言で、プラハがチカと別れて過ごした10年間という時間が、重みをもって迫ってくる。その意味は奥寺のモノローグが代表している。「チカちゃん、君は知らない」「プラハがロボットなりに君をどれほど愛しているか」(『となりのロボット』p.130)そして、二人が時間を共にしていることは最終話の最後のコマにおいて象徴的に叙述される。
 ハイデガーの『存在と時間』において現存在と他者の定義は基礎論であり、両者の関係が現存在をどのような存在論的存在者とするかが本論だが、それはおいておこう。それは『となりのロボット』の本文中で「きっとまた不安になるし、きっと時々は苦しいし、でも、それは人間の恋人だって同じだよって、もう私は知ってる」(『となりのロボット』p.132)と語られるとおりだからだ。