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『ユリ熊嵐』全話読解、エーリッヒ・フロム『愛するということ』から

 『ユリ熊嵐』(幾原邦彦監督、SILVER LINK制作、2015年)は愛をめぐる物語だ。それは各話の冒頭で「わたしたちは最初からあなたたちが大好きで、あなたたちが大嫌いだった。だから、本当の友達になりたかった。あの壁をこえて」というモノローグが読まれることが示している。では、だれの愛がいかにしてだれに与えられたのか。それはどのような意味をもつのか。エーリッヒ・フロム著『愛するということ』を助けに、以上の疑問を解決したい。
 本作において愛は<スキ>と<キス>というかたちで表現される。『ユリ熊嵐』の4話において、るると弟のみるんを登場人物にした<スキ>と<キス>の寓話が語られる。「『ねえお姉たま。本物のスキはお星さまになるって本当?』『本当よ。本物のスキは天に昇ってお星さまになるの。そして流れ星になって地上に落ちたお星さまは約束のキスになるのです』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。みるんはるるにキスをせがみ、そのためにハチミツ壺のかたちをした<約束のキス>をとってくる。るるはみるんを拒絶し、みるんはそのたびにハチミツ壺をとってくるが、ついにハチミツをとるためハチに刺されて死んでしまう。失意のるるは、自分の<約束のキス>を手にいれるという銀子を助けるためともに<断絶の壁>をこえることを決意する。<断絶の壁>をこえるための審判の場、<断絶のコート>での審理は以下のとおりだ。「それでは被告グマ、百合ヶ咲るるに問います。あなたはスキを諦めますか? それともキスを諦めますか?』『わたしはスキを諦めない。キスを諦めます。わたしを人間の女の子にしてください! わたしはどうしても銀子とあの壁の向こうにいきたいの!』『そうすればあなたはキスを永遠に失うことになるのですよ?』『わたしのキスはすでに失われた。もう二度と会えない。でも銀子は会えるから。きっとわたしの代わりに約束のキスを果たしてくれる』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。そしてるるは<断絶の壁>をこえ、自分の愛情を叶えようとする銀子に無私の愛情を注ぎ、たびたび自身のもつハチミツ壺から銀子と紅羽にハチミツを分けあたえる。ここにおいて<スキ>は愛を、<キス>は愛の対象からの承認をあらわす。
 エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』において、人間は本質的に孤独であり、そこから脱出するために愛を求めるのだと説く。「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するしかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」(エーリッヒ・フロム著『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊國屋書店。1991年。p.25)。
 では、『ユリ熊嵐』において銀子の求める<約束のキス>はいかにして果たされたのか。作中に登場する絵本『月の娘と森の娘』がその方法を示す。さまざまな危難のすえに銀子を愛した紅羽は、『月の娘と森の娘』の示す方法に従い銀子に<約束のキス>を与える。その内容は次のとおりだ。「そしてとうとうふたりが空の真ん中までやってきたとき、そこには一枚の大きな鏡が壁のように立ちはだかっていました。鏡には自分自身のすがたが映っています。『さあ、その扉の向こうにあなたの友達が待っています。鏡に映る己が身を千に砕き、万に引き裂けば、彼女に約束のキスを与えられるでしょう。ただし、あなたは命を失うかもしれません。最後にもう一度問います。あなたのスキは本物?』ふたりは鏡に映る自分のすがたを見つめます」(『ユリ熊嵐』ep.6)、「月の娘は勇気をふり絞ります。『私は空の向こうへいきたい。だからわたしはわたしを砕く』森の娘も覚悟を決めました。『わたしは空の向こうへいきたい。だからわたしは空を引き裂く』『私のスキは本物』鏡は一瞬にして砕け散りました。そして見つけたのです、その向こうに立つ友達を。娘たちはゆっくりと歩み寄ると、ただことばもなく約束のキスを友達に与え合いました」(『ユリ熊嵐』ep.10)。それは次のようなかたちで実現される。「『椿姫紅羽、あなたのスキは本物?』『本物です』『わたしは、わたしを砕く! クマリアさま! どうかわたしをクマにしてください!』」(『ユリ熊嵐』ep.12)、そしてクマとなった紅羽は銀子に<約束のキス>を与える。作品の当初から銀子が求めつづけていた<約束のキス>は、紅羽が自分を犠牲にすることで果たされる。ここで語られるのは、<約束のキス>は求めるのではなく与えることで実現するということだ。『愛するということ』は、この愛が求めることによって実現されるという錯覚と、愛を真に実現する方法を次のように語る。「だからといって、人びとが愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、誰もが愛に飢えている。(中略)ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。この奇妙な態度は、いくつかの前提のうえに立っている。それらの前提が、個別に、あるいはいくつか組み合わさって、この態度を支えているのだ。まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。(中略)実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものなのだ」(『愛するということ』pp.12-13)、「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何より与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである」(『愛するということ』p.43)。
 だから『ユリ熊嵐』の終わりのシークエンスにおけるみるんとるるの会話は次のようなものだ。「《スキがキスになる場所》『こうして約束のキスを果たした二人はスキの星に導かれ、断絶をこえて旅立ちました』『ねーねーお姉たま。それでふたりはどうなったの?』『どうなったのかな。みるんはどう思う?』『うーん、わかんないや。でもひとつわかったことがあるんだ』『なあに?』(みるんがるるの頬にキスをする)『約束のキス、ぼくからすればよかったんだ。ね?』」(『ユリ熊嵐』ep.12)。余談だが、作品の末尾において登場人物が作品を概括する会話をするという手法は『輪るピングドラム』の最終話でのふたりの小学生の会話にもみられる。
 このような愛を実現するのは容易ではない。銀子と紅羽は最終話までに幾多の困難に遭遇する。最終話でその最大のものが明かされる。じつはクマである銀子をヒトに変えたのは、幼い日の紅羽だったのだ。「『傲慢だっていいわ。お願い、銀子をヒトの女の子にしてください』『いいでしょう。ですがひとつ条件があります。あなたにスキを手放してもらいます。目が覚めたとき、あなたは彼女を拒絶するでしょう』(あの日、私は願ってはいけないことを願ってしまった。愚かにも、身勝手な自分のスキを本物だと信じて)」(『ユリ熊嵐』ep.12)。そして幼い日の紅羽は銀子のことを忘れ、1話へと至るふたりの長い苦悩がはじまるのだ。フロムは『愛するということ』のなかでこの課題をこう述べている。「愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人ならば、いっそうすばらしい、奇跡的な瞬間となるだろう。(中略)しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」(『愛するということ』pp.16-17)。
 作中にはほかにもヒトに変身するクマが登場する。そのうちのひとり、百合園蜜子は死んだあとに銀子の心象風景に銀子の欲望というかたちでふたたび登場する。「私はあなたのここに潜む欲望という名の幽霊、ということにしておきましょ」(『ユリ熊嵐』ep.9)。心象風景の蜜子は銀子に次のようにささやく。「『そう。あの瞬間、あなたは欲望の虜になった。嫉妬に駆られ大きな罪を犯した。』『私は罪グマだ。がうがう』『そうね、でも生きるために罪を犯さない生き物がいるかしら? 椿輝紅羽はあなたという友達を忘れ泉乃純花にスキを与えた。この世界で本当に信じられるのは友達なんかじゃない。それは私という欲望だけ。スキは凶暴な感情。スキは相手を支配すること。ひとつになりたいと相手を飲みこんでしまうこと』(中略)『さあ、わたしとひとつになってあなたのスキを証明するのよ』」(『ユリ熊嵐』ep.9)。しかし銀子は最終的に心象風景の蜜子を捨て、<ともだちの扉>を開く。『愛するということ』は欲望について次のように語る。「セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法は、それとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題にたいする部分的な答えである。しかし、ほかの方法で孤立感を癒すことのできない人びとの場合は、性的オルガスムを追求することは、アルコールや麻薬にふけるのとあまりちがわない。彼らにとって、セックスは孤立の不安から逃れるための絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまうことになる。なぜなら、愛のないセックスとは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけないからである」(『愛するということ』pp.28-29)。
 紅羽を食べようとする箱仲ユリーカもまたそのひとりだ。ユリーカは紅羽を食べ、自身の<箱の花嫁>にしようとする。「『大切なものは箱に入れなきゃだめだって。箱に入れないと汚れてしまう。失くしてしまう』(中略)『汚れてしまったわたしは空っぽ、透明。もはや箱に入れられる大切なものではありません。だからわたしは箱になったのです。その虚しさを何かで満たすことをただ願う、空っぽの箱になったのです』」(『ユリ熊嵐』ep.8)。ユリーカは子どもに対する大人として学園の生徒と寝て、生徒を食べては箱に詰める。それは支配-被支配の関係だ。しかし、支配するだけではユリーカの心は空虚なままで、だからユリーカは死ぬまえに自分が本当に愛した澪愛を幻視する。『愛するということ』は支配-被支配の関係を以下のように否定する。「共棲的融合の能動的な形は支配である。マゾヒズムに対応する心理学用語を用いれば、サディズムである。サディスティックな人は、孤独感や閉塞感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取りこむことによって、自分自身をふくらます」(『愛するということ』pp.40-41)。
 本作の重要なモチーフとして<透明な嵐>というものが登場する。本作においてクマでないヒトは、紅羽をのぞいて全員が<透明な嵐>に所属している。<透明な嵐>は各話でスマートフォンにより排除するものを決める投票、<排除の儀>をおこなう。そのときは全員が一致団結して動作していて、まるでマスゲームのようだ。『愛するということ』によれば、このような団結は愛情の背面に存在するものだ。「人類がそうした原初的な絆から抜け出すにつれ、それだけ自然界から分離し、孤立感から逃れる新しい方法を見つけたいという欲求がつよくなる。そうした目的を達成する一つの方法が、ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態である。いわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなものだ。(中略)原始的な部族に見られる多くの儀式は、この種の解決法をいきいきと示している。つかのまの高揚状態のなかで、外界は消え失せ、それとともに外界の孤立感も消える。そうした儀式は共同でおこなわれるので、集団との融合感が加わり、それがこの解決法をいっそう効果的にする。(中略)こうした祝祭的興奮状態に部族全員がそろって参加しているかぎり、人びとのあいだに不安や罪悪感は生まれない。なぜなら、それは祈祷師や祭司が認め、命じたものであり、部族の全員が参加するものだからだ。だから罪悪感をおぼえたり恥じたりする理由はまったくない」(『愛するということ』pp.27-28)、「興奮状態による合一体験には、それがどんな形であれ、三つの共通する特徴がある。第一に、強烈であり、ときには激烈でさえあること。第二に、精神と肉体の双方にわたり、人格全体に起きること。第三に、長続きせず、断続的・周期的に起きることである」(『愛するということ』p.29)、「現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。もし私がみんなと同じになり、ほかの人とちがった思想や感情をもたず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ」(『愛するということ』p.30)。また、このような排除はクマの世界においてもおこなわれている。ヒトを愛すると宣言した銀子は、クマリアさまを崇めるクマの教会から追放される。「もはやおまえはクマリアさまの子グマではない! この世界を毒するヒトリカブトの銀子じゃ! 去れ!」(『ユリ熊嵐』ep.11)。『愛するということ』はこのような団結は一般的におこなわれていることなのだと述べる。「しかし、過去においても現在においても、人間が孤立感を克服する解決法としてこれまでもっとも頻繁に選んできた合一の形態は、集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一である」(『愛するということ』p.29)。
 では、そうしたクマとヒトとはなんなのか。1話のモノローグで、クマとヒト、そして両者を分かつ<断絶の壁>は次のように語られる。「ガウガウー! あるとき宇宙の彼方の小惑星クマリアが爆発しちゃったの。粉々になったクマリアは流星群になって地球に降り注いだんだけど、そしたら世界中の熊が一斉決起! みんなで人間を襲いはじめちゃった。おどろきーって感じだよね。人間たちは断絶の壁をつくってわたしたち熊を自分たちの世界から追い出そうとしたけど、でもでも、人間の作ったルールなんて通用しないんだからね! ガウ! 私たちはクマ、クマは人を食べる。そういう生き物!」。物語の最後に至っても<断絶の壁>は依然として存在している。また、銀子と紅羽は自身を犠牲にしてクマとヒトとの断絶をこえたが、それは個人におけるものであり、クマとヒトの全体を変えるものではない。本作に登場する集団はクマとヒトのふたつだけだ。クマとヒトとは人間社会に存在するあらゆる断絶の象徴なのだろう。これは言いすぎかもしれないが、『愛するということ』では人間の孤独のはじまりを神話に紐解いて説明している。「そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。そうした孤立からくる恥と罪悪感については、聖書のアダムとイヴの物語に描かれている。アダムとイヴは「善悪の区別を知る智恵の木の実」を食べ、神への服従を拒み(不服従の自由がなければ善も悪もない)、自然との原始的な動物的調和から抜け出して人間となった。すなわち人間として誕生した。そしてその後で、二人は「自分たちが裸であることを知り、恥じた」。(中略)この神話の要点は次のようなものだろう――男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、べつべつの性に属しているという意味でたがいに異なった存在であることを知る。しかし、自分たちがそれぞれ孤立していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛しあうことを知らないからだ(アダムがイヴをかばおうとせず、イヴを責めることによってわが身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる」(『愛するということ』pp.24-25)。小惑星クマリアの爆発もまた神話なら、クマとヒトとの断絶は人間の個人の孤立を表しているのかもしれない。

 ユリとクマは<断絶の壁>で分かたれて対立している。そして銀子と紅羽は最終的に現実の世界では大木蝶子の号令のもと撃たれて死んでしまう。「わたしたちは力を合わせてついにやり遂げたのです。そうです、わたしたちはこの学園に蔓延っていた恐るべき悪の排除に成功したのです」(『ユリ熊嵐』ep.12)。しかし銀子と紅羽は撃たれる寸前にクマリアさまの祝福をうけ、<約束のキス>を果たす。このときの劇伴は各話で銀子とるるがクマに変身するときのものだが、このときは『アヴェ・マリア』の歌詞がつく。『愛するということ』は母性的な神についてこう語っている。「母親に愛されるというこの経験は受動的である。愛されるためにしなければならないことは何もない。母親の愛は無条件なのだ。しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受けるための資格もない」(『愛するということ』p.67)、「母性愛がどのようなものであるかについてはすでに前節で述べた。またその際、母性愛と父性愛のちがいについても論じた。そこで述べたように、母性愛は子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。だが、ここで一つ重要なことをつけ加えなければならない。子どもの生命の肯定には二つの側面がある。一つは、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。いま一つの側面は、たんなる保護の枠内にとどまらない。それはすなわち、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもにあたえるような態度である。母性愛のこの二つの側面は、聖書の天地創造の物語に、ごく簡潔に表現されている。(中略)これと同じ考えは、聖書のまた別の象徴にも表現されているといえよう。約束の地(大地はつねに母の象徴である)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数である。蜜を与えることができるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない」(『愛するということ』pp.80-81)、「母権的宗教の本質を理解するには、私たちが先に母性愛の本質について述べたことを思い出しさえすればいい。母性愛は無条件の愛であり、ひたすら保護し、包みこむ。無条件であるため、コントロールすることも獲得することもできない。母親に愛される人は無上の喜びをおぼえ、愛されない人は孤独と絶望に苦しむ。母親が子どもを愛するのは、その子が自分の子どもだからであって、「良い子」だからでも、言うことをよく聞くからでも、母親の願いや命令どおりにふるまうからでもない。母親の愛は平等なのだ。人間はみんな母親から生まれた子どもであり、母なる大地の子どもであるから、すべての人間は平等である」(『愛するということ』p.103)。そして映像の終わりにおいて、『月の娘と森の娘』の世界でキスをする銀子と紅羽のすがたが映る。ふたりは<透明な嵐>の銃弾に撃たれて死んだが、ここにおいて、ふたりの愛は母の愛、神の愛にたとえられる絶対的なものとなっている。そして、そのことを目撃した亜依撃子は<透明な嵐>を離脱し、クマであり捨てられたこのみを抱きかかえる。それとともに<ユリ熊嵐>という副題のタイトルバックが表示される。銀子と紅羽というクマとヒトとの愛情は、ほかのものにも伝わっていく。だから撃子とこのみの新たな物語がはじまることができた。本作においてユリはクマに対するヒトの意味だ。だから<ユリ熊嵐>という題名はヒトとクマの物語という意味であり、それは無限に伝わっていくものなのだ。わたしはこの場面が、視聴者に自分たちにおけるクマを愛する勇気をもてというメッセージを伝えているのだろうと思う。
 愛はみずから与えるものであり、それを実行することができれば集団の同調に飲まれることもない。だから紅羽はこういう。「スキを忘れなければいつだってひとりじゃない。スキを諦めなければなにかを失っても透明にはならない」(『ユリ熊嵐』ep.12)。だから銀子と紅羽に愛を与えつづけたるるも、最後には《スキがキスになる場所》で愛を実現することができたのだろう。