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『君が僕を』と論理実証主義

 中里十著『君が僕を』全4巻(小学館、2009-2010年)のテーマはコミュニケーションの不可能性だ。舞台装置の「恵まれさん」は金銭という概念上の存在を具体化する役割を負っている(『君が僕を3』p.140)。金銭の使用、すなわち交換が生じるのは両者のあいだに価値観の相違が存在するからだ(カール・マルクス著『資本論向坂逸郎訳、第1巻、岩波書店、1969年、pp.191-192)。

 主人公のひとり、絵藤真名は言語をその意味内容と一致したかたちでとらえようとする少女だ。各巻のタイトルは真名がきらう「気持ち悪い言葉」であり、真名はそうしたことばに接したときに、その意味内容に対応することばではなく、そのことばを発する意図に対応することば、あるいは行動を返す。もうひとりの主人公、橘淳子はその孤独を理解したつもりでいたが、1巻はその不理解が暴露されるかたちで決着する。

 ではその真名の世界、ひいてはコミュニケーションの不可能性とはなんなのか、そしてそれは最終的にどういうかたちで決着したのか。わたしはここにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の援用をみる。以下、それにもとづいて本書を読解し、また結末の意味を解きたい。
 4巻において淳子と真名の再会が語られる。このとき淳子はニューヨークの地下鉄のトンネルに侵入し、多くのひとが「いかにもありそうなことだ」として抽象的なものと認識する落書きのじつは多様なすがたをみる。そしてそこから真名との出会いを連想する(『君が僕を4』pp61-62)。これを『論理哲学論考』は「私の言語の限界が私の世界の世界の限界を意味する」(野矢茂樹訳『論考』(岩波書店、2003年)p.114)とし、経験によってその限界が広がるとする。しかし、これは同時に以下のことも示す。言語は命題の総体だが(『論考』p.39)、命題は現実との比較でその真偽を「語る」ものの、そのための論理形式は不可知であり「示す」ことしかできない(『論考』p.43)。
 また真名は以下のようにいう。「『大人になる』とか、『将来なにになる』とか、みんな筋書き。時間の影」(『君が僕を4』p.239)。これを『論考』では以下のようにいう。「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。」(『論考』pp.79-80)、あらゆる要素命題は独立であり、その関係は論理形式でしかありえない。そこに因果関係はありえない。
 真名は『論考』の論理形式を重視し、世界を記述する日常言語において、その論理性をあいまいにする記号学的な意味内容と表現の不一致を排除しようとしているのだと思う。
 では、そうした真名の姿勢はどうなったのか。橘れのあは真名に「世の中がたまたまで動いてて、人間がたまたまで生きているのに、人間のやることだけ筋が通ってるなんて、そんなのおかしくな~い?」(『君が僕を4』p.197)といい、その姿勢を改めさせようとするが、真名は変わらない。しかしまた真名も世界を変えることができずに終わる。「れのあのように適当なことを言うなら――真名は、おそらく、変えようとしていた。緑を、自分の両親を、あるいはもっと大きなものを。そのために真名はあんな事件を起こして、緑や両親を巻き込んだ。けれど緑は変わらなかった。おそらく両親も。」(『君が僕を4』p.207)。
 そして、『君が僕を1』において提示されたコミュニケーションの不可能性はどうなったのか。『論考』はコミュニケーションを以下のように述べる。「ある言語から他の言語への翻訳は、一方の各命題から他方の命題へと為されるのではない。ただ命題の構成要素だけが翻訳される。」(『論考』p.44)。『君が僕を4』の最終行において、1巻から問われつづけてきたコミュニケーションの問題は以下のようにタイトルへと終着する。「私は、時間の影じゃなくて、真名の影に。なりたい、なる、じゃなくて、今まさに。きっと真名も。動詞がないあの言葉、『君が僕を』。私は左手の人差し指を、真名の指に。」(『君が僕を4』p.240)。
 『論考』によれば世界の限界は自己の言語の限界であり、ここに他者の世界の不可知性がある。しかし命題を共有することはできる。この命題について『論考』は以下のように述べている。「しかし命題は、意味を介さずには何ものにも対応しない。命題は「真」とか「偽」と呼ばれるなんらかの性質をもったあるもの(真理値)を指示するわけではないからである。命題に対して「真である」や「偽である」という動詞が与えられる、フレーゲはそう考えていたが、それはまちがっている。「真である」という動詞は、その命題が真であることのうちに含まれているのである。」(『論考』pp.49-50)。
 『君が僕を』は真名と淳子が没したあとで淳子の義娘がその手記を発表するという形式をとっている。よって二人の未来に希望的な観測はない。しかし作中で、淳子は真名が死ぬまでその傍にいたように述べられている。ただし、「真名が生きていたあいだ、弱いのはいつでも私だった。」(『君が僕を4』p.71)が示すように、真名は最期まで淳子と本質的な和解はしていない。しかし、4巻の最終行と、淳子が真名の最期まで傍にいたという事実が、ロマンチシズムでない、コミュニケーションの不可能性に立脚した二人のコミュニケーションの成功を示唆しているように思う。