なぜトァンはミァハを撃ったのか ‐ 『ハーモニー』試論 ‐

 『ハーモニー』で全人類のハーモニクスが達成される直前に、なぜトァンはミァハを殺害したのだろうか。ハーモニクスを間近にひかえた状況で行動の意味は乏しく、また、ハーモニクスが達成されれば個人そのものが無化される。本稿では、『ハーモニー』全体を概観するとともに、その疑問に回答したい。
 まず、作中で言明されている動機を確認する。

"「ヴァシロフは――残念だった。トァンのお父さんも」不思議と、ミァハにそう言われても頭に血が上りはしなかった。零下堂キアンの思い出と共に、ねっとりとした怒りが臓腑の奥に淀んでいるのは実感できるけれど。"(伊藤計劃著『ハーモニー』早川書房、2010年、p.330)

"ねえ、御冷ミァハさん、あのお昼、零下堂キアンがカプレーゼに頭を突っこんでから、このチェチェンのバンカーに苦労してやってくるまで、何度わたしがあなたのことを殺そうと思ったか考えたことはなかったの。"(同p.349)

 トァンがキアンとヌァザの二人分として、二発の銃弾を使った(同p.351)ことから、この独白が本心であることがわかる。
 ここで気になるのはミァハがトァンの殺意にたいし、とくに抵抗をみせないことだ。ミァハはトァンに依頼してコーカサスの風景がみえる場所に移動し、死を迎える。それはトァンが迎えるハーモニクスとほぼ同時で、また、明確な区別はされていない。

"身体が、脳が熱を失い、意識が、わたしはわたしであるという意識が、死という、昔ながらの単純で複雑な仕組みによって消え去ってゆく。たとえそれが大脳辺縁系のエミュレーションだったとしても、中脳が生み出すわれわれの意識とそれのあいだに、大した違いはない。"(『ハーモニー』p.352)

 ならば、ミァハが肉体的な死を拒まなかったのは、それがハーモニクスという意識の死と同質だからでないだろうか。
 では、ミァハが全人類のハーモニクスを試みたのはなぜだったのか。

"「幸福を目指すか、真理を目指すか。人類は〈大災禍〉のあと幸福を選んだ。まやかしの永遠であることを、自分は進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないな動物であることの否定を選んだ。自然を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが生きるこの世界のすべてを人工に置換すれば、それが得られる。人類はもう、戻ることのできない一線を越えてしまっていたんだよ」(中略)それを憎んでいたのは、誰よりも否定していたのは、御冷ミァハ、あなたじゃなかったの。"(『ハーモニー』pp.337-338)

 この技術による社会とはどのようなものか。

"「権力が掌握してるのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。死は存在のもっとも秘密の点。もっともプライベートな点」「誰かの言葉、それ」「ミシェル・フーコー」(中略)死っていうのはその権力の限界で、そこから逃れることができる瞬間――。「ここから出て行くには、やっぱり、それしかないのかな」わたしはそうつぶやいてみた。ミァハはじっと目の前の風景を見つめるというよりはそれと対峙しながら、「わたしは前、こことは別の権力に従わされてた。地獄だった」ミァハは振り返らずに背中で語り、「だから逃げてきた、ここに。でも、ここも充分狂っていた。向こう側と同じくらいには、人間が生きるための場所じゃなかった」「向こうって、どんな場所だったの」「こことは真逆な場所。向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。ひどい話だよね」"(同pp.291-292)

 この引用は『知への意志』からだ。

"死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外らそうとしてきたことにつながっている。一つの世界からもう一つの世界へと移ることで、死とは、地上的主権にもう一つの、奇妙にもより強大な主権が取ってかわることだった。死を取りまく豪奢は、政治的典礼に属していた。今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」点である。自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(ミシェル・フーコー著、渡辺守章訳『知への意志』新潮社、1986年、pp.175-176)

"「生府。正確に言うところの医療合意体(メディカル・コンセンサス)。提供される医療システムについて一定の合意に至った人々の集まり。調和者(ハーモニクス)たち。そりゃ、生府にも評議員はいるけど、昔の政府の議員とはぜんぜん違う。評議員連中やコミッショナーあたりに、王様や政府ほどの権力は集中してない。なぜって、みんなに力を細かく割って配りすぎた結果、何もできなくなってしまったから。生府を攻撃しよう、って言ったところで、わたしたちには昔の学生みたいに火炎瓶を叩きつける国会議事堂もありゃしない」"(『ハーモニー』p.46)

"権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。絶えざる闘争と衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出す支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配圏において実体化されるような戦略である。権力が可能になる条件、というか少なくとも権力の行使をその最も「周縁的な」作用に至るまで理解し得るものとする視座であり、それはまた、〈社会的な場〉を理解可能にする読解格子として権力のメカニズムを用いることを許す視座だが、このような条件あるいは視座は、最初に存在するものとしての中心点に、つまり派生して下へと降りる諸形態がそこから拡がるはずの主権の唯一の中枢に求められるべきではない。それは、己が不平等によって絶えず権力の状態を、但し常に局地的で不安定なものとして誘導する力関係というものの、揺れ動く台座なのである。権力の偏在だが、しかしそれは権力が己が無敵の統一性の下にすべてを再統合するという特権を有するからではなく、権力があらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生するからである。"(『知への意志』pp.119-120)

 本作にたいするフーコーの関係は、ウィリアム・ギブスンブルース・スターリングらにたいするドゥルーズ=ガタリの関係に類比される。

"テクノロジーが社会と個にどのような作用を及ぼすのか、そして社会はテクノロジーをどのようにかたちづくるのか、というダイナミクスのもつ面白さをスターリングは教えてくれました。「ネットの中の島々」にはとりわけインパクトを受けたと思います。「スキズ~」でも「巣」でもなく。いわゆるレッテルとしてのサイバーパンク的な「頽廃した近未来」でなく、我々の社会と極端に異なる遠未来でもなく、今のわれわれとあまり変わらない「ちょっとだけ未来」を描いていて、それがすごく新鮮でした。"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

"「トゥアレグ、というのがアラブ語でどんな意味か、知っているかね」「あいにく」「『神に見捨てられし民』だよ、お嬢さん。余所者が勝手につけた名前だ」"(『ハーモニー』p.38)

"「(前略)マリやニジェールアルジェリアの独裁者とも闘った。どれも同じ、帝国主義という名のハードウェアだよ。あなた方のいう〈生命主義〉とて、それらのソフトが入れ替わったに過ぎない代物だ」"(同p.40)

"「トゥアレグ族は知っているかい? サハラの部族だ。知らない?」(中略)「まあ、いい。彼らは自分たちを"ケル・タマシェク"と呼んでいる。"トゥアレグ"というのはアラブ人の呼び名だ――"神に見捨てられたもの"という意味だ」"(ブルース・スターリング著、小川隆訳『ネットの中の島々』下巻、早川書房、1990年、p.248)

"「(前略)ウィーン、マリ、アザニア――みんな帝国主義のハードウェアだ、ブランドネームのちがいにすぎない」"(同p.341)

 『ハーモニー』の郊外住宅地と、他者に寛容で同質な住民で構成された社会は、ウィリアム・ホワイトが『組織のなかの人間』で予言した未来図だ。ホワイトは、そのユートピアを『1984』のアンチ・ユートピアと同視している。

"集団に対するこのような敏感さをどのようにみようと、その道徳的基礎を認めることは重要である。新しい郊外住宅地における人との付合いが、個人的な特徴を非常に超越しているということは、確かに、アメリカの中産階級のもっている諸価値が、次第に同質化してきているということに原因がある。しかしそればかりではなく、もう一つの面として、非常に積極的な寛容ということに帰因している。そしてこのことを諒解しないと、郊外居住者のもっているディレンマの本当のむつかしさを評価することができない。"(ウィリアム・ホワイト著『組織のなかの人間』辻村明、佐田一彦訳、下巻、p.251)

"……しかしさしあたり、私としては、その要点を次のようにのべてよいと考える。人間は社会の一単位として存在する。自分一人だけでは、彼は孤立し、無意味である。人間は他人と協力するとき、はじめて価値のあるものとなる。なぜなら、集団のなかで自分を昇華させることによって、部分の総和よりはもっと偉大な全体を生み出す助けを果たすからだ。そこでは、個人と社会との間に、なんらの相剋もあるはずがない。相剋と考えられるものは、誤解であり、コミュニケーションの障害である。人間関係(ヒューマン・リレーションズ)に科学的方法を適用すれば、意見不一致をきたすこれらの障害は除かれ、社会と個人の双方の要求は一つにして等しい、という調和と平衡の状態が創造される。本質的に、それはユートピアンの信条である。表向きは、それは組織の生活の実際問題に貢献するものとみえる。かつまたその提案者たちは、彼らの研究態度をのべるさいに、しばしば(軟らかい(ソフト)に対して)硬い(ハード)という形容詞を使っている。しかし、集団の倫理の追従者たちを活気づけているのは、その将来への保証である。集団の倫理は明確な達成可能な調和への展望を与える技術と関連しているからだ。ここでは一八四〇年代のユートピア共同社会の信仰が、ただちに想起されるだろう。人間の性格はほとんど一方的に環境によって決定されるという、オウエンの共同社会におけると同じ観念がそこにみられる。フーリエの共同社会における、個人の意欲と社会の要求とは自然の秩序によって同義語なのであり、したがってなんの相剋もあってはならないとする同じ信念がまたそこにみられる。ユートピア社会主義の共同社会とおなじく、ここでは社会は狭い直接的な意味に解される。誰でも、人は社会的責務をもつと信ずることはできる。あるいは、集団の調和が共同社会の試金石だという信念を抱かずとも、個人は窮極的には共同社会に寄与すべきだと信ずることもできよう。しかしながら、私のいう集団の倫理にしたがえば、人間の責務は、ここに、そしていま、あるのだ。彼の義務とは広い意味での共同社会に対するものではなく、個人をとりまく現実の物理的なそれに向けられる。しかも、そこから背を向け――あるいは進んで反逆することによって、かえって結果的にはより大きく奉仕しうるかもしれないという見方はほとんど考慮されていない。実際、集団の倫理のもっとも熱烈な擁護者たちは、社会の広範な問題についてはごく僅かしか心を悩ますことはない。彼らがこの種の問題をかえりみないというのではない。むしろ彼らは組織の目標と道徳性とは容易に一致するものとみなし、社会の福祉といった事柄については、組織に代理権を委任していると考えるのである。"(同、上巻、pp.9-10)

"地獄はたとえどうあろうと、人間の魂にとってやはり地獄である。「偉大なる兄弟」が支配する「一九八四年」になれば、少なくとも人は、誰が敵であるかを――権力を好むがゆえに権力を求める一束の悪人ども――悟るようになるだろう。しかし、別の種類の一九八四年には、人は誰が敵であるかを悟らず、そのために武装解除されてしまうだろう。そして、最後の審判の日がやってきたとき、テーブルの片側に着席している人は偉大なる兄弟の悪しき従者たちではなかろう。その人々は大審問官のように心から諸君の役に立ちたいと望み、そのことを着々と実行しつつある物腰おだやかな治療家たちの一群であろう。"(同、上巻、pp.51-52)。

 さて、では、十三年前に自殺を試みた動機はなにか。

"だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。命が大事にされすぎているから。互いに互いにを思いやりすぎているから。とはいえ、ただ死ぬだけでは駄目だ、なにがしかの方法で健康そのものを嘲笑うようなやり方じゃなくちゃ。あの頃のわたしたちはそんな考えにとりつかれていた。"(『ハーモニー』p.45)

 社会と個人のあいだの齟齬の片面的な解消で、ミァハのことばでいえば幸福の否定であり(p.337)、十三年後に全人類のハーモニクスという完全なものになる。それは幸福と真理の一致ともいえる。

"老人たちがそれぞれのコードを入力し、ハーモニー・プログラムが歌い出した瞬間、人類社会から自殺は消滅した。ほぼすべての争いが消滅した。個はもはや単位ではなかった。社会システムこそが単位だった。システムが即ち人間であること、それに苦しみ続けてきた社会は、真の意味での自我や自意識、自己を消し去ることによって、はじめて幸福な完全一致に達した。"(同p.362)

 すなわち、全人類のハーモニクスは十三年前の自殺の完成された形でもある。十三年前の自殺は社会にたいするテロリズムであると同時に、自己本位な目的の自殺でもある。

"わたしたち三人の死が、その一撃なの……。そうわたしは訊いた。世界って変わるの。わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。そうミァハが答えた。"(同p.336)

 『ハーモニー』は人類の意識が消滅したあとの世界に書かれたテクストという体裁だ。

"これが人類の意識最後の日。これが全世界数十億人の「わたし」が消滅した日。本テクストは、それについて当事者であった人間の主観で綴られた物語だ。"(『ハーモニー』p.359)

 同様の形式では、ミシェル・ウェルベックの『素粒子』が先行する。

"この物語を横切っていった人々の人生、外見、性格に関して、われわれは多くの事柄を知っている。とはいえこの本は、証明可能な唯一の真実を映したものというより、一個のフィクション、部分的な思い出にもとづく信用に足る再構成とみなされるべきである。ミシェル・ジェルジンスキが二〇〇〇年から二〇〇九年のあいだ、その偉大な理論を構築するかたわら綴った回想や個人的印象、そして理論的考察の錯綜する複合体である『クリフデン・ノート』の刊行によって、彼の人生上の出来事、特異な人生観を形成するに至った分岐点や試練、ドラマについてはより多くが判明したとはいえ、なお彼の人生に関しても人柄に関しても多くの謎が残されている。逆に以下の記述は歴史に属するものであり、またジェルジンスキの業績が刊行されて以降の出来事についてはこれまで幾度も記述され、論評され、分析されてきたのであるから、簡単なレジュメで十分であろう。"(ミシェル・ウェルベック著、野崎歓訳『素粒子筑摩書房、2006年、p.339)

"この段階に到達して、人間に動物である部分が残されていた時代に書かれた社会学も経済学も、一夜で破産を迎えた。社会的存在として完全に純化し適応した人間が最小単位となったとき、社会学と経済学は完全な純粋理論と現実の一致をみた。"(『ハーモニー』p.361)

"意識が人間の機能として重要視されていた時代も、もう遠く昔に過ぎ去った。今からは推測することも難しいが、かつて「わたし」や「意識」「意志」が選択において重要な役割を果たすと信じられていた時代は決して短くなかったのだ。システムに完全に従属した現在の人類にとって、旧人類がヒーローや神と呼んでいたようなアイコンはまったく不必要だが、それを知っておくことも無駄ではない。かつて、御冷ミァハと霧慧トァンという女性がいた。彼女たちこそ、我々の「わたし」の最後の弔い手。"(同pp.362-363)

"それはまた、大衆の精神にとって、哲学的問題が明確な指標としての意義をどれほど失っていたかということでもある。数十年に及びとんでもなく過大評価されてきたフーコーラカンデリダドゥルーズの仕事が、突如笑止千万とみなされ省みられなくなって以後、かわりとなる新たな哲学的思考が出現するどころか、「人文科学」を標榜する知識人全体が不信に晒されたのだった。"(『素粒子』pp.345-346)

"歴史は存在する。それは厳として動かしがたく、その支配を免れることはできない。しかし厳密に歴史学的なレベルを超えて、本書の究極の野心は、われわれを造り出した幸薄い、しかし勇気ある種族に敬意を表することである。痛ましくも下劣な、猿とほとんど差のない存在でありながら、この種族は心の内に数々の高貴な願いを抱いてもいた。責めさいなまれ、矛盾を抱え、個人主義的でいさかいに明け暮れた種族、そのエゴイズムに限りはなく、ときにはとんでもない暴力を爆発させた彼らは、しかしながら善と愛を信じることを決してやめようとはしなかったのである。そしてまたこの種族は世界史上初めて、自らを超克する可能性を検討することができたのだし、数年間を経てそれを実行に移すことができたのだ。彼らの最後の生き残りが消えていこうとする今、われわれは人類に最後のオマージュを捧げてしかるべきだろうと考える。そのオマージュもまたいつしか忘れられ、時間の砂漠のうちに失われるだろう。しかし少なくとも一度はしっかりと敬意を表しておく必要がある。本書は人間に捧げられる。"(同p.348)

 ハーモニクスに達した人類が旧人類とはまったく異なる存在ならば、『素粒子』において人類があたらしい生命に希望を託してみずから絶滅したのと同様に、全人類のハーモニクスは人類の集団自殺だったということができる。本書は自殺のモチーフが散在する。十三年前の集団自殺が物語の端緒であり、トァンが捜査する事件は世界における自殺の同時多発であり、全人類のハーモニクスを正当化するのは世界で毎年数万件おきているという自殺だ。(『ハーモニー』p.343)さらに、ミァハは『若きウェルテルの悩み』に言及する。(同p.223)

 エミール・デュルケムは『自殺論』で自殺の社会的要因に社会的規制のゆるみであるアノミーを挙げる。

"だから、そうならないためには、なによりもまずこれらの情念(パッシオン)に限界が画されなければならない。その場合にはじめて情念は能力と調和することができるであろうし、したがって充足されることのできるものは個人のなかには存在しないから、個人の外部にあるなんらかの力が必然的にここに介入してこなければならない。肉体の欲求にたいして有機体の演ずる役割と同じような役割を、精神的欲求にたいしても演ずる、一つの規制力が必要となるのである。それは、この力がもっぱら精神的なものでなければならないという意味である。まどろみつづけていた動物の均衡状態を打ち破ったのは、ほかならなぬ意識の覚醒であり、したがって、この意識のみが、均衡を回復させるすべを与えることができる。物質的強制は、ここでは効果がうすい。物理・化学的な力によっては、人々の心を変えることはできない。欲望が生理的メカニズムによって自動的に規制されない場合には、その欲望は、みずから正当とみとめる限界を前にしてしかふみとどまることができない。人々は、決められた限界をふみこえるだけの正当な理由があると信じているときには、その欲望が制限されることに承服しないだろう。ただ、この正義の法(人々が正当とみとめた限界)も、前述のような理由から、彼らみずからが自分自身に課すというわけにはいくまい。だから、人々は、尊敬し、自発的に服従しているある権威から、この法を与えられなければならないのである。そして、ただ社会だけが、あるときは直接的、全体的に、またあるときにはその諸器官の一つを媒介にして、この規制的役割を果たすことができる。なぜなら、社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威であり、個人はその優越性をみとめているからである。社会は、法律を布告し情熱(パッシオン)をこえてはならない限界をしめすうえで、必要にして唯一の権威である。"(『世界の名著47』収録 エミール・デュルケーム著、宮島喬訳『自殺論』中央公論新社、1968年、pp.205-206)

 豊かさはアノミー的自殺のひとつの原因だ。

"なにを行なう場合にも、欲望は、つねに多少は手段について考慮をめぐらさなければならないが、その手段とは、人がなにかを手に入れようと決めるとき、ある程度手がかりとして依拠したものである。したがって、けっきょく所有しているものが貧しければ貧しいほど、それだけ人は、自分の欲求の範囲を際限もなくひろげようとはしないものである。無力さは、人々に節度を守るようにさせ、また節度を守ることに慣れさせるし、そのうえ、中庸が支配的なところでは羨望をそそるものとてない。ところが反対に、豊かさは、それが与える力から、自分の力でなんでもできるという幻想をいだかせる。それは、物(ショーズ)がわれわれに及ぼしていた手ごたえを減じさせるので、そのため、われわれは、物をいくらでも手に入れることができると思いこんでしまう。ところで、人は、自分に限界が課せられていないと感じると、あらゆる制限をますます耐えがたいと思うようになるものである。(中略)もちろん、このことは、人がその物質的条件を改善していくことに異をとなえる理由にはならない。しかし、あらゆる豊かさの増大から生じる道徳的な危険は、たとえそれを救うすべがあるとしても、見のがされてよいものではない。"(同pp.212-213)

 自殺こそ、上述のフーコーが『知への意志』で権力にたいする生と死の転換で論点にしたことであり、その論法は伊藤計劃がミァハを擬したタイラー・ダーデンの語ったことだ。

"自殺が――かつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死にたいする権利を、まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くには当たらない。それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。"(『知への意志』p.176)

"テーマは百合です。女版タイラー・ダーデンといちゃいちゃする主人公が見物です。"(

http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20081214

)"

"素晴らしい体力と知力に恵まれた君たち、伸びるべき可能性が潰されている。職場と言えば、ガソスタかレストラン、しがないサラリーマン。宣伝文句に煽られて、要りもしない車や服を買わされている。歴史のはざまで生きる目標が何もない。世界大戦もなく、大恐慌もない。俺たちの戦いは魂の戦い。毎日の生活が大恐慌だ。TVは言う「君は明日の億万長者かスーパースター」、大嘘だ。その現実を知って俺たちはムカついている。"(デヴィッド・フィンチャー監督『ファイト・クラブ』1999年)

"知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースを混ぜると、ナパーム弾が作れる。家庭にあるもので、どんな種類の爆弾だって作れるんだぜ"(『ファイト・クラブ』)

"「メディケアの、タンク半分のメディモルさえあれば、大体のことができる。毒ガスを風呂場で造るなんてお茶の子さいさい、だよ」"(『ハーモニー』pp.15-16)

"わたしはといえば、戦場という名の喫煙所から喫煙所へ。空港から空港へ。葉巻から葉巻へ。酒瓶から酒瓶へ。"(同p.96)

 ミァハを失ったあとのトァンは『ファイト・クラブ』の自己破壊のように拒食や過食を試している。

 全人類のハーモニクスが十三年前の自殺の再試行ならば、なぜミァハとトァンはそこに全人類を巻きこんだのだろうか。

"「わたしたちは、未来に生きてるんだよ」ミァハはその一見ポジティヴに聴こえる言葉とは裏腹に、憂鬱そうな口調でため息をつき、「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命と健康をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」"(『ハーモニー』p.33)

 ここで思いだすのが、バラードの『結晶世界』だ。本作は結晶化していく世界で、登場人物の争いののちに、主人公がみずから結晶化に身投げすることで終幕する。いわば自殺だ。

"バントレスはこのことばを無視した。「われわれはみんな前にここに来たことがあるのさ、ドクター。誰もが間もなく気がつくようにね――もし"時間"がありさえすればだが」彼はその"時間"ということばを、鳴り響く鐘の音のように引っぱって、特有の奇妙な抑揚をつけて発音した。彼はそのことばの最後の反響が、消えゆく鎮魂曲のように、無数の水晶の壁の中にこだまして薄れてゆくのに聞き入った。「しかし、それはわれわれみんなそこから逃げ出して行っている何かだって気がするのさ、ドクター。――そうは思わないかね?」(中略)「時間から逃げ出して行ってるって?」彼はおうむ返しに尋いた。「そんなこと、まだ考えたことがなかったね。君の解釈はどういうんだい?」「それははっきりしてるんじゃないか、ドクター? 君自身の"専門"、われわれがここで周りに見ている太陽の暗い側、それが手がかりを与えているんじゃないか? 間違いなく癩病は、ガンのように、何よりまず時間の病気であり、その時間という特別な媒介を通して自分自身を拡大しすぎたことの結果じゃないのか?」サンダース博士はバントレスのことばにうなずきながら、相手が少なくとも顔付きでは軽蔑しているように見えるその時間という要素について論ずる時、その骸骨のような顔が生き生きしてくるのを眺めた。「それは一説ではあるね」彼はバントレスが話を終えた時に同意した。「あまり――」「あまり科学的じゃないが、かね?」バントレスは頭を後ろに引いた。前より大きな声を出して彼は弁じ立てた。「ウイルスを見てみ給え、ドクター。生きてもおらず、生命がないのでもない、その結晶状の構造を。それからその時間に対する免疫を!」彼は片手で窓じきいをひとなでして、ガラスのような粒子を一塊すくい上げ、それからそれを粉々になった大理石のように床の上にぶちまけた。「君もぼくも間もなくこんなようになるのさ、サンダース。そして世界の残りも全部だ。生きてもおらず、死んでもいないような状態にね!」"(『世界SF全集26』収録 J・G・バラード著、峯岸久訳『結晶世界』早川書房、1969年、pp.349-350)

"階下のバーテン――嬉しいことに少なくとも彼はまだ自分の持ち場を離れないでいます(他の者はほとんどすべて行ってしまいました)――のいうところによれば、森はいまや毎日四百ヤードほどの速さで前進しているそうです。やってきてルイーズと話したジャーナリストの一人は、この前進速度でゆくと、次の十年の終わりには、少なくとも地球の表面の三分の一が影響を受け、何十という世界の首都が、すでにマイアミがそうなっているように、虹のような結晶の層の下で石化してしまうだろうと主張しています――もちろん、あなたはあの放棄された保養地が、無数の大寺院の尖塔の立ち並ぶ都市(まち)、ヨハネ書から実体化した状況となっている報道記事をご覧になったことと思います。しかし、実をいえば、こうした先の見通しは、ほとんどわたしの心を悩ましてはいません。前にもいったように、ポール、この原因が物理学以上のものだということが、いまはわたしにははっきりしています。わたしが、かつてバントレスであった救いようもない幻を見てから二日後に、金の十字架を両手にしっかり持って森からよろめき出てきて、モン・ロワイアルから五マイルの軍隊の哨兵線に引っかかった時、わたしはもう二度と森へは行かないと固く決心していました。(中略)しかし、その時の気持ちがどうであったにせよ、いまはわたしは、自分がいつかモン・ロワイアルの森に帰って行くだろうことを知っています。毎晩、エコー衛星の砕けた円盤が頭上を通過し、銀のシャンデリアのように真夜中の空を照らし出しています。そしてポール、わたしは太陽自体が晶化し始めているのを確信しています。日没に、その円盤が深紅色の塵でベールをかけられる時、それは独特の格子模様、巨大な落とし格子で区切られているように思われます。そうした格子模様はいつか外方に拡がって、惑星や恒星に達し、それぞれの軌道上でそれを止めるでしょう。十字架をわたしにくれたあの勇敢な異端の神父の例が示しているように、あの凍った森には無限の報酬が見いだされます。そこでは、あらゆる生き物や生命のない物の変貌が目の前に起こりますし、われわれ自身の肉体的結果として、不死の贈り物が授けられます。この世界でわれわれがどんなに異端であろうとも、そこではわれわれは必然的に虹のような太陽の使徒になるのです。ですから、身体の回復が完全なものになったら、わたしはここを通過する科学探検隊の一つに合流して、モン・ロワイアルへ帰ります。何とかその隊から抜け出すよう工夫するのは、そうむずかしくないはずですから、そうしたらわたしは魔法をかけられた世界の寂しい教会に戻ります。その世界では、昼は夢幻的な鳥が石化した森の中を飛び、宝石化したワニが結晶性の川の土手に紋章上の火とかげのようにきらめき、そして夜は金の車輪のような腕をし、スペクトルの王冠のような頭をした彩飾された人間が、木々の間を走っているのです。"(同pp.424-426)

"いや~、「ホーリー・ファイヤー」とか読むと、スターリングってやっぱどこまでもオプティミストなんだな~って。もう元気いっぱい。イーガンもぼくはある種のオプティミストだと思いますし。わたしの場合は、バラードの心でスターリングのように書きたい、と(笑)"(

http://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/071101.shtml

 全人類のハーモニクスは『結晶世界』における結晶化のような、自殺を安楽にする美しい幻想ではないだろうか。

 また、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』で、人生の苦難の解決手段としての自殺を部分的に認め、しかし、それは世界そのものが存続する以上、部分的な解決にしかなっていないとして意志の否定を訴えている。これは、トァンがはじめに自殺を試み、それに失敗し、意識の消滅を選択したことを思わせる。さらに、ショーペンハウアーは同書で技術の進歩による福祉国家の完成と、それが人類の苦悩の解決になることはないという終末論を述べており、『ハーモニー』の世界観と一致する。

"人生というものは岩礁と渦巻にみちみちている海にほかなるまい。人間はこれらを避けようとしてこのうえなく慎重に気をくばっている。が、それでいて彼は知っているのだ。たとえ彼が努力と手だての限りをつくして岩礁や渦巻をくぐり抜けることに成功したとしても、まさにそのことによって、彼はひと船足ごとに、最大の、全面的難破――避けることもできずに救いようもない難破に近づきつつあるのだということを。いな、彼はもともとこのような難破をめざして――すなわち死をめざして舵を取っていたのだといっていい。死こそ苦難にみちた航海の最後の目標地なのであり、死こそ人間がこれまで避けてきたあらゆる岩礁よりもはるかにひどいものなのである。さて、しかし、ここでただちに注目すべきことは、人生の苦悩と苦患とがふえていくことはこれほどたやすいことであり得るし、全人生はいわば死からの逃亡において成り立っているといってもよいほどなのに、そのような死でさえ、一面では望ましいように思う人、自ら進んで死に急ぐ人が出てくるということである。ところがまたもや他面において、困窮や苦悩からのしばしの休息が人間に恵まれるようなことが起こると、今度はたちまち退屈がまぢかに迫ってきて、人間はいやでもおうでも暇つぶしを必要とするようになってくるということである。いっさいの生あるものを駆り立てて動かしつづけているものは、生存への努力であろう。ところがいったん生存が確保されてしまうと、彼らはこのさきどうしたらよいか分からなくなってしまうのだ。そのため彼らを動かす第二のものは、今度は生存の重荷から逃れ出して、それをもう感じないようにしようという新しい努力となるのであり、「時間をつぶす」こと、すなわち退屈から逃れようとする努力となるのである。"(アルトゥル・ショーペンハウアー著、西尾幹二訳『意志と表象としての世界』(『世界の名著 続10』中央公論新社、1980年)p.561)

"国家がその目的に完全に達したならば、国家は人間の諸力をそのなかに統合することで、人間以外の自然を自分にますます役立てることができるわけだから、最終的には、あらゆる種類の悪禍がとり除かれて、やがてある程度まで「怠惰安逸の歓楽境」に近いような状態が出現することにならないともかぎらない。しかし、現実の国家はまだいぜんとして、この目標からはるかにへだたった所にあるということがひとつ言えるし、さらにもうひとつ、かりに目標に達したとして、人生にとってまったく本質的な悪禍というものはあいかわらず無数に生じてこようし、よしそれらをことごとく除去したとしても、悪禍の立ち去った跡は、たちまち退屈によって占められ、今までと同じように人生を苦しいものにするであろう。さらにもうひとつ、個人同士の争いというような小事でさえ、国家はこれをすっかり解消する力をもっていない。国家は大事であれば罰則をもって禁圧するが、小事はいい加減にあしらってしまうからである。そして最後に、国内から不和の女神エリスを運よく放逐すると、これは結局国外に向かっていくことになる。すなわち不和の女神が個人間の争いとして国家組織の手で追放されると、それは今度は諸国民同士の戦争として、いま一度外からやってくるのであって、個人間の争いのときにはいちいち賢明な予防手段を講じて流血の犠牲だけは免れてきたというのに、戦争になると、今度は累積した負債として、大規模なかたちで、一挙に、流血の犠牲が要求される。いやそれだけにとどまらない。以上のことがことごとく、幾千年もの経験に培われた人間の賢さによって、よしんば最終的に克服され、除去されたとしてみよう。そうなったあかつきには、今度はこの地球全体がしまいには現実に人口過剰に陥る結果になるであろう。その結果の怖るべき悪禍は、今のところ大胆な想像力の持主にしか思い浮かべることはできない。"(同p.617)

"それにしても自殺はまたマーヤーの傑作だともいえる。それは生きんとする意志が自己自身と矛盾撞着する号泣の表現なのだ。われわれはこの矛盾撞着を意志の低次元の諸現象において、自然の諸力のあらゆる発動の間の不断の闘争のうちに、物質と時間と空間とを有機的なあらゆる個体が奪い合う不断の闘争のうちにすでに認めておいた。この闘争は意志の客観化の段階が少しずつ高まっていくにつれて、しだいに恐ろしいほど明瞭にきわ立ってくる闘争であったが、とどのつまり意志の客観化の最高の段階――人間のイデア――に到達すると、この闘争はただ単に同一イデアを表わす個体同士が相互に滅ぼし合うということだけではなしに、同じ個体が自分自身に対して宣戦を布告するということさえもする、そういう程度にまでも達するものなのである。個体が生を意欲するときの激しさ、個体が生を阻むものに歯向かう、つまり苦悩に歯向かうときの激しさが、逆に個体をして自分自身を破壊するにいたらしめる激しさにつながっているのである。その結果、この個体的な意志は、苦悩に打ち挫かれてしまうくらいなら、自分の身体――これは意志自身が可視的になったものにすぎない――を個体自身の意志的な行為によってなきものにしてしまう方をむしろ選ぶ。自殺者は意欲することを中止するわけにはいかないという、まさにその理由のために、生きることを中止する。このとき意志は、意志の現象をまさに廃棄することを通じて、かえって自分自身を肯定していることになるのであり、意志はもはやそういう仕方以外においては自分を肯定することができなくなっているからなのである。"(同p.691)

"こうして「個体化の原理」がますます明らかに看做されていくにつれて、われわれはそこからまず第一に自由なる正義を、第二にエゴイズムの完全な廃棄にいたるまでの愛を、そして最後に諦念もしくは意志の否定を発生させるにいたったのであった。キリスト教教義論の諸教義は、そのものとしては哲学とは無関係なのであるが、わざわざわたしがこれらの諸教義をここに引合いに出しておいたのは、ただ次のようなことをここに示しておきたかったがためにほかならない。本書の考察全体から生まれてきた倫理、本書の考察のあらゆる部分とぴったり符合し連関するこの倫理は、表現のうえからは目新しく、前例のないものかもしれないが、本質的にみればけっしてそんなことはなく、キリスト教本来の教義と完全なまでに一致し、しかも要点は、キリスト教本来の教義そもののの中にすでに含まれ、存在していたといえるのである。本書の考察全体から生まれてきたこの倫理は、じつにまた、インドの聖典というまったく別の形式で述べられたもろもろの考えや道徳訓とも厳密に一致しているのである。以上のことと合わせて、キリスト教教会の諸教義に読者の注意をうながしたことは、次のような見掛けのうえでの矛盾――すなわち一方においては動機が突きつけられると性格のいかなる現われも必然的であること、他方において、意志が自分自身を否定し、性格と、性格にもとづく動機の必然性とをともに廃棄してしまう意志自体の自由、この二つの間の見掛けのうえでの矛盾を、説明し、解明することに役立ったのであった。"(同p.705)

 ここで、はじめの問いにこたえよう。ミァハは十三年前の自殺で、現世への未練になる書物を焼滅させている。

"燃やすの、全部。その言葉が本当ならば、ここにあるのはミァハがお小遣いのほとんどを注ぎ込んで製本してもらった、ミァハの持っている小説全部のはず。そのときのわたしはミァハの家に行ったことがなかったから、本当にそこにあるのがミァハの持っていた本のすべてかどうかはわからない。でも、ミァハが嘘をついているようにもまた、見えなかった。ミァハが言う。「多分これを持っていたら、行けないと思うから」わたしは訊いた。「行けないって……」ミァハは片手で周辺を、いや、わたしたちをとりまく世界を指してからこう答えた。「ここの、向こう側に。皆が天国とか地獄とかあの世とか言ってる世界に。無に。逝けないかもしれない、この子たちがわたしを地上に縛りつけて。もう少し経つまでほっといたら、からだ、弱っちゃって、本をここに運ぶことだってできなかったと思う」"(『ハーモニー』pp.332-333)

 『ハーモニー』がトァンの主観における物語で、全人類のハーモニクスを自分の意思で実行したならば、なぜトァンがミァハを殺害したかわかるだろう。トァンはハーモニクスという完全なかたちの自殺を迎えるまえに、この世界の未練であるミァハを消したかったのだ。それは火葬だ。

"火葬、っていうの。そのときは、棺のなかに死んだ人が好きだったものを入れたんだ。死体の処理が蛋白分解液になってから、そういう習慣はなくなってしまったんだけどね。これはミァハの火葬なの、とわたしは訊いた。うん、とミァハは答える。わたしの棺に、本は入れられないからね。わたしに力をくれたものは、わたしが連れて行く。"(『ハーモニー』p.336)

 

劇場版『ハーモニー』レビュー

(本稿は劇場版『ハーモニー』を鑑賞した筆者が、映画としては最悪、百合としては最高という二心に分裂した苦悩を反映してふたりの女子高生が対話する形式で書かれています。何卒ご了承ください)

 ふたりの女子高生が映画館で集合した。劇場版『ハーモニー』をみるためだ。ひとりはクローム色の革製のジャケットに、ぴったりとしたジーンズを履いている。肩口で切った髪は自分で染髪しており、手入れを怠り、一部が枝毛になっていた。もうひとりはブラウスに緑の薄手のカーディガンを羽織り、細身のスカートを履いている。黒髪をまっすぐに伸ばしていた。
 革ジャンの少女、未来はSFファンで、もうひとりの小百合は百合マンガの愛好家だった。ふたりは女児向けゲーム『プリパラ』、そしてそのアニメにSFと百合の両面があることから意気投合し、親友となっていた。SFとして多数の賞を受賞し、百合としても名高い『ハーモニー』の劇場版をふたりは楽しみにしていた。
「劇場版『ハーモニー』楽しみだね、未来ちゃん」
「うん。監督が『鉄コン筋クリート』のマイケル・アリアスだもん。きっとすばらしい映画だよ」
 場内に入ると、すでに大半の観客が入場していた。ただ奇妙なことに、観客のほぼ全員が大学生とおぼしき十代から二十代の若者で、高田馬場の居酒屋のような雰囲気を呈していた。
「おれ『ハーモニー』もってきたよ」
 ひとりの若者がふたりの友人に白色の文庫版『ハーモニー』を示す。ふたりはほほえみ、同様に文庫版『ハーモニー』を取りだした。
 三人は片手に文庫版『ハーモニー』をもち、両腕を交差させて円陣を組んだ。声を合わせる。
「『いこう、ハーモニーの世界へ』!」
 未来と小百合はそれを嫌悪の眼差しでながめた。
「厄介なオタクだ。ああいうオタクが映画をみたあとにツイッターで悪口とかをいうんだよ」
「やだね」
 未来が小百合にほほえんだ。
「わたしたちはああいうオタクとはちがうからね。劇場版『ハーモニー』を心から楽しもうね!」

 上映終了後、未来は死んでいた。
 一方、小百合は晴れやかだった。場外に出る足取りも軽い。
「ねえ、いっせーのせ、で感想をいおう? せーの」
「最悪だった!」
「最高だった!」
 ふたりは愕然とたがいを見つめた。ふたりは喫茶店にはいった。未来がとつとつとはなしだした。
小野俊太郎の『フランケンシュタインの精神史』によると、『屍者の帝国』は人造人間であるフランケンシュタインの怪物が、メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を発想する源をつくったエラズマス・ダーウィンの孫であるチャールズ・ダーウィンとなる転倒がおこることで、作者の手によるテクストが主体となってあたらしいテクストを生みだすことを象徴しているらしい。遺稿を継いだ『屍者の帝国』自身がそれを現前している。だから、円城塔が原作から大幅に改作された劇場版『屍者の帝国』に、『あなたがそこにいてくれてよかった。』というコメントを寄せたのもそういう意味だったんだと思う。…ってそれで納得できるか!」
 未来はキレた。
「1800円払って十代の腐女子の好きそうなBLみせられてたまるか! 『ゆるゆり なちゅやちゅみ』をみたほうがマシだ!」
「『ゆるゆり なちゅやちゅみ』を悪くいわないで」
「さっきみた『ハイスピード』の劇場予告もみて思ったけど、十代の腐女子の好きそうなBLはどうして登場人物がみんな情緒不安定なの? 『THX-1138』の抑制剤を飲んだほうがいいんじゃない?」
「BLは知らないけど、劇場版『ハーモニー』は百合に焦点を当てていてよかったよ。百合の要素は完全に捨象されることも覚悟していたからね」
「『マルホランド・ドライブ』みたいにちゅっちゅ、ちゅっちゅしやがって。暴力表現もだめなデヴィッド・リンチみたいだし」
「『マルホランド・ドライブ』より『ドライヴ』かもね」
「彩色がニコラス・レフンみたいにけばけばしいんだよ。『ハーモニー』は近未来だ。それなら『ガタカ』や『her』みたいな彩度を落としたやや幻想的な、現実に近い風景を予想しないか? アンドリュー・ニコルが『ガタカ』で予算の都合で未来的な車のデザインができなかったときにどうしたか知ってる? スチュードベーカー・アヴァンティを使ったの。未来的なデザインが用意できないときは、すこしクラシックなデザインを使ったほうがいいってね。劇場版『ハーモニー』の車はなんだ? まるでバトルドームだ」
「網の覆いがあるやつ?」
「町並みも最悪だ。なんでだれもビルについたピンクのガムをそうじしないんだ? 『色彩の薄い立方体が群れて集まる住宅地』がなんでああなる? どうして『マイノリティ・リポート』みたいにできなかったんだ。でも犯罪予防局が予知システムを開発していたら、劇場版『ハーモニー』は公開されなかっただろうね」
「どうして?」
「怒り狂ったファンがスタッフを殺すからだよ!」
「ヒュー!」
「キアンとトァンの会食するビルなんて、まるっきり『鉄コン筋クリート』の塔そのままじゃないか! STUDIO4℃の社員は同じものしか描けないの!? わたしのママだって、『今日は遅くなります』と『夕飯は冷蔵庫のものをチンしてください』のふたつくらい書けるよ!」
「早急に家庭内の話合いをもったほうがいいと思う」
「拡張現実(オーグメンテッド・リアリティ)も最悪。いまは2015年だよ。どうしてあんなに洗練されていないの? まるでピンクのスカウターだよ。戦闘力の代わりに社会評価点(ソーシャル・アセスメント)が表示されるけどね。空港のモニターに『健康』『社会』って表示されるのはなに⁉︎ わたしがみたのは『ニンジャスレイヤー』なの⁉︎
「わたしは『ユージュアル・サスペクツ』の小林弁護士事務所の『力』『成功』『財産』って印字された磨りガラスを思いだしたよ」
「衣装もひどい。なんでスーツにピンクの襟カラーがつけられているの? それが未来のオシャレなの? おまけにキアンは縄文土器みたいなかっこうをしているし。これなら『スタートレック』の低予算全身タイツのほうがマシだよ。螺旋監察官の制服なんて対魔忍と区別つかないんだけど! なんで七十二歳のシュタウフェンベルクまで太ももを露出しているの⁉︎」
榊原良子声の三十代にしかみえない七十二歳の独身ハイレグおばさんなんて最高じゃない」
「もっとも、美術についてはオープニングでいきなりそそり立つWiiリモコンが出てきたときに覚悟していたけどね」
「わたしはiPodかと思った」
Wiiリモコンはいいさ。イントロを文章で示すなら、なんでそこでカットを割るんだ!? だれが考えてもあそこはカットを割っちゃいけないところだろ! それどころか全編に渡って、ずっとカメラがパン、ティルトしつづけているぞ! 安っぽくてまるでマイケル・ベイか大手配給の韓国映画みたいだ! 『ハーモニー』の内容を考えれば静的なカメラワークが当然だろ!?」
「『ハーモニー』はロケーションが世界各国におよぶスパイ活劇の側面もあるから、カメラワークが扇情的なことは否定できないと思うよ。バグダッドの旧市街とバンカーのシークエンスはよかったじゃない」
「ききたいんだけど、ディアン・ケヒトはなんで床までガラス張りなの? わたしがオヤジだったら一日中その下でスカートの女性が通りがかるのを待ってるよ。小泉花陽もいるしね。それに、ヴァシロフと撃ちあいをするときの『灰とダイアモンド』のオマージュはダサすぎだろ。冒頭とふたつだけのアクションシーンなのに、どうしてここだけカメラワークを利かせてないの! 逆だよ! 編集も雑だから展開がつぎはぎにしかみえない! それに劇伴が野暮ったすぎる!」
「トァレグ族が出てきたときに民族調の音楽が流れてきたのは笑えた」
 未来はため息を漏らした。
「どうせレズキスオチなら、『桜Trick』のオープニングを120分ループ再生していたほうがマシだった」
「物語が『ハーモニー』なんだからいいじゃない」
「ぜんぜん『ハーモニー』じゃねーよ! 伊藤計劃は『バラードの心でスターリングのように書きたい』っていったんだ! どこがバラードだ! 自動車でレイプするぞ!(※轢殺するの意味)だいたいミァハの父親がヌァザであることを明かすのが中盤だから、後付けにしかみえないんだよ! 『ハーモニー』は権力の分散した世界なのに、どうして一部の権力者に支配された世界になってるんだよ! メディケアは各家庭に配備されているって原作に書いてあるのに、なんでわざわざ列をなして薬の配給を待つひとびとのシーンをあらたに挿入しているんだよ! 『リベリオン』か! あたまが『メトロポリス』の時代でとまっているんじゃないか!?」
「たしか『メトロポリス』って戦前だよね」
「おまけに百田尚樹レベルの民主主義論を三回もぶちこみやがって! なにが『民主主義でわたしたちが責任を担うようになった。でも、わたしたちのなかに悪いものがあったとしたらどう?』だ! そういう意味じゃねーよ! これじゃフーコーじゃなくて『フーコーの振り子』だっつーの! 2001年9月11日の世界貿易センタービルにいなければ時代の変化もわからないのか!? わからなくてもせめて原作を読めよ! 爆弾積んだ零戦にのせてツインタワーにカミカゼアタックさせるぞ!」
 未来は夢想した。自分が二丁の拳銃をかまえ、ガン=カタでSTUDIO4°Cの社員をつぎつぎに血祭りにあげるところを…
「銀ピカあたまは『1984』のビッグ・ブラザーか!? ゼーレ(※『エヴァンゲリオン』)みたいな螺旋監察官会議や、拡現(オーグ)で通信相手をクレイアニメで再現してくれる面白サービスはがまんしても、これはひどすぎる! マイケル・アリアスが『わかるひとには「ここはマイケルがやったシーンだな」ってわかる』といったらしい。おまえを101号室にぶちこむぞ!」
 未来は目に涙を浮かべていた。
「こんなことなら千円札を燃やして遊んだほうがマシだった…」
「お札を燃やすのはかなりの快感だから、それをこえるのはなかなか難しいよ」
「混乱する世界の映像も『映像の世紀』みたいだったし… 『パリは燃えているか』を劇伴に制作委員会のメンバーを壁にならばせてひとりずつ射殺したい…」
 濡れた目で小百合を見あげる。
「あんたは文句はないの?」
「バンカーのシークエンスがふたりの再会からミァハの独白、暗転と銃声まですべてが完成されていたからかなり満足。欲をいえば、どうせふたりの関係に焦点を当てるなら、もうすこし学生時代にシーンの配分を増やすべきじゃなかったかな。ディレクターズ・カット版に期待」
「そんなに百合が好きなら『ヴァルキリードライヴ マーメイド』でもみてろよ!」
「もちろん無修正版のためにAT-Xに加入して、最高画質で毎週録画してる」
 未来は号泣した。
「『ソラリス』みたいに前作の失敗をふまえたふたつ目の劇場版が制作されるかもしれないじゃない。レムは二度目の映画化にも文句をいってるし、劇場版『ハーモニー』はどちらかというとソーダバーグ版の『ソラリス』みたいだけどね!」
 未来の泣き声がいっそうおおきくなった。
「もういやだ… 『未来世紀ブラジル』のサム・ラウリーみたいに夢の世界に逃避したい」
「それ、肉体は拷問されてるよね」
 ガバッとあたまをあげる。
「『THX-1138』の抑制剤を用意して! もうこんな悲しい思いはしたくない!」
 小百合は顎に指を当てた。
「百合SFはマンガ版がすばらしい出来で、映画化が失敗に終わるのがよくあるパターンみたいだね。『ルー=ガルー』もそうだったし」
 小百合は劇ハモで出てきた妊娠検査薬のような薬剤入れからカプセルを取りだした。
「これを飲めば、意識が消滅する」
 未来は迷わず嚥下した。
 こうして無になった女子高生は三十四歳のオタクと付きあったのだった。(了)

 

『いたいけな主人』論 アリストテレス『詩学』から笠野頼子まで

 前回、『いたいけな主人』(中里十著、小学館、2009年)がメタフィクションの構造をとっていることを確認した。今回は、なぜ本作がメタフィクションの構造をとっているか考察し、あわせて光の行動を読みときたい。

 まず、光が陸子と別れるまでの行動を確認する。はじめにみておきたいのは、光と陸子が共犯的な役割の演技をおこなっていることだ。光は登場しての第一声が"「恐縮の極みでございます。私も一日千秋の思いでございましたが、陛下の快活なお姿を拝見して、待ち遠しく思ったことなどすっかり忘れてしまいました」"(『いたいけ』p.14)であるように、国王護衛官という立場で芝居がかって畏まり、それは陸子の気質に通じるものでもある(『いたいけ』p.24)。国王護衛官の一次選考でふたりは出会う。このとき光はただの野次馬根性で選考に応募し、陸子に特別な感情をもっておらず(『いたいけ』p.19)、陸子は丁寧語ではなし、光も敬語を忘れる(『いたいけ』pp.19-21)。だが、このとき光が陸子に惚れることでふたりの運命はおおきく変わる。そして最終選考でふたりは国王と国王護衛官の立場でたがいが死ぬ状況をロールプレイし、その関係が固着する(『いたいけ』pp.22-26)。
 本作の文体はその役割の演技によるものだ。『いたいけな主人』は一人称小説であり、これはおなじ著者の『どろぼうの名人』(小学館、2008年)、『君が僕を』(小学館、2009-2010年)も同様だが、本作は第二文が"私は陛下のご実家にお迎えにあがっていた。"(『いたいけ』p.14)であり、全編が過剰敬語で語られる。
 そうした文体の意味とはなにか。中里十は本作の表紙の折返しで『戦場の小さな天使たち』(ジョン・ブアマン監督、1987年)について語っている。"イギリスの映画に『Hope and Glory』という傑作があります。タイトルを直訳すると、『希望と栄光』。しかし日本公開時の邦題は、『戦場の小さな天使たち』。この邦題をつけた人を、私は尊敬しています。なぜこんな邦題に? なぜ尊敬? それは、映画本編をご覧ください。ぜひ。"『戦場の小さな天使たち』は第二次世界大戦中の空襲下のロンドンを子どもの目線で描いたものだ。独特なのは、子どもの視点であるため、悲惨な戦時生活が心躍る冒険に満ちたものとして描かれていることだろう。映画は最後、学校が爆撃され、休校になったことに欣喜雀躍する子どもたちと、「それが人生で最良の日だった」という主人公のビルのナレーションで幕を閉じる。大人の視点ならば、学校が爆撃され休校になることは悲劇のはずだ。この「天使」という単語は、最終章の章題でもある。"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"(なお、『ぴたテン』8巻の引用だ)最終章が光によって語られた「悲劇よりも悲しいハッピーエンド」であることは前回確認したとおりだ。本作では「天使」という単語がもう一箇所で登場する。
 "私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。(中略)自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。陛下のお顔と同じく、お心も天使のようでなく、緋沙子を捨てようとなさる。繰り返すこと。自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。"(『いたいけ』pp.245-246)陸子は捨て子であり、緋沙子を捨てることで自身の体験を再現しようとする。"でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として。二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。"(『いたいけ』p.243)"繰り返すこと。陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。"(『いたいけ』p.245)中里十は本作のあとがきで、『オデュッセイア』の解釈について補足するときにアリストテレスの『詩学』を引用している。アリストテレスは『詩学』で、すべての叙事詩と悲劇、喜劇などの詩作は再現すなわち模倣(ミメーシス)であるとしている(『詩学』(松本仁助訳、岩波書店、1997年)p.21)。ありうべきこと、すなわち普遍的なことの模倣であり、これはプラトンが『国家』で述べた、悲劇作家や画家は、普遍的なものである〈実相〉(エイドス)と、それを具現化する製作者にたいし、具現化されたものを模倣する三番目のものだという仮説(『国家』(藤沢令夫訳、岩波書店、1979年)下巻、pp.302-312)を発展させたものだ。千葉国王が抽選制であり(『いたいけ』p.75)、それがプラトンが同時代の課題として『国家』で述べた僭主独裁制を防止(『国家』下巻、pp.216-221)する方法で、アリストテレスが『政治学』で発展させ、共和制を成すとしたものであるのは興味深い(『世界の名著8』収録 アリストテレス著、田中美知太郎責任編集『政治学』中央公論新社、1972年、p.181)。陸子のおこなおうとする再現が具体的な事実の模倣であるプラトンのものであるのにたいし、光のいう「天使」とはアリストテレスが模倣の対象だとする普遍的なものだろう。そして、すべての創作が再現である以上、光と陸子の役割の演技もまた再現だといえる。光はもとは漫画家を志望しており(『いたいけな』p.75)、才能が発揮されるときを多くの偉大な作品が誕生した十五世紀のフィレンツェに喩えていた(『いたいけ』pp.75-76)。そして、国王護衛官として陸子と特別な関係になったときに、その夢は捨てられる。"私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことでなくても。そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。さようなら、私のフィレンツェ。"(『いたいけ』p.82)

 また同時に、『いたいけな主人』は『オデュッセイア』の再現でもある。『オデュッセイア』の再現にはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』という先例がある。『いたいけな主人』が『オデュッセイア』の筋(ミュートス)の再現であるのにたいし、『ユリシーズ』はその細部と綿密な対応をしておりおおきく異なる。しかし、第9章の章題にポストモダン文学の旗手である笠野頼子を引き、メタフィクションの構成をとる本作が『オデュッセイア』の再現でありながらこの小説を無視していることは考えづらい。アリストテレスは創作を普遍的なものの模倣と定義したが、近代以降の文学ではその模倣自体がエクリチュールとして問われることになる(『零度のエクリチュール』(ロラン・バルト著、渡辺淳・沢村昴一訳、みすず書房、1971年)pp.5-7)。その結果、ポストモダン文学やメタフィクションが誕生する。偶然ということもあるが、陸子の宿願である中学生のメイドの三人、岬早苗、松山結香、木下桃子は第13挿話「ナウシカア」の三人の少女、高飛車なシシー・キャフリー、メガネをかけたイーディ・ボードマン、可憐なガーティ・マクダウェルと対応する。なにより、光と陸子は賢君のオデュッセウスと貞淑なペネロペイアより、『ユリシーズ』でパロディされている妻に甲斐甲斐しく尽くすブルームと浮気症のモリーに喩えたほうが適当だ。モリーは第18挿話「ペネロペイア」で語られるとおり、わがままだが内心では夫のことを愛している〈いたいけな主人〉だ。
 陸子の芝居は芝居であって、芝居でない。"もともと陛下には芝居がかったところがあられる。慣れないうちは、陛下の感情表現はわざとらしく思えることもある。茶番という夢はさほど無理せず見られる。けれどその夢では、あまりいい気持ちにはなれなかった。あのとき、陛下のお心の奥底に、じかに触れたと思ったのに、それも茶番になってしまう。茶番――護衛官選考の最終面接のことを思い出す。あのとき私は、陛下との絆を確かめたと思った。確かめたはずなのに、あとで不安になった。あれは茶番だったのではないか、と。それでもいい、陛下のお側にお仕えできるなら、と思った。私はやっといまになって信じている。陛下のなさることは、まばたきひとつに至るまで、お心をそのまま映している。どんなに嘘をおっしゃり、隠し事をなさっても、みな真心からのことだ。そのことを知らなかったわけではない。けれど心のどこかで疑っていた。もし、なにもかもが真心からのことだとしたら、私はあまりにも、息もできないほど、愛されている。"(『いたいけ』pp.278-279)陸子が芝居がかっている、つまり本心をさらせないのは幼少期に母親に捨てられたからだと思われる。光は緋沙子を助けるために陸子のその深部に踏みこみ、二人が共犯的におこなってきた役割の演技は崩壊する。"「……ひかるちゃん、どうして泣いているの?」「陸子さまを――ちゃんと――守ってあげられなくて――」頭が回らない。言葉遣いが敬語にできない。"(『いたいけ』p.276)そして、ふたりはたがいの愛を確認するが、同時に陸子は光を馘首する(『いたいけ』p.279)。
 そして、光と陸子は離別するが、千葉王国が政情の変化により崩壊の寸前に達したことで、光はふたたび陸子のもとへもどる。それは前回説明した『オデュッセイア』の再現であると同時に、かつての光と陸子の役割の演技の再現でもある。なぜなら、陸子が本心をさらした以上、もはやふたりが役割の演技を継続することはできず、ふたたびそれが開始するとしたら、かつての演技の再現であるからだ。しかし、光はそれを否定しない。護衛官訴訟の最高裁判決が下される直前に光は述懐する。"緋沙子が現れるよりもさらに前、陛下がまだ私に触れてくださらなかった日々。あのとき私は幸せだった。その幸せに、自分で気づくこともなかった。そこは楽園ではなかったけれど、楽園よりも素晴らしいところだった。そこは一四五〇年のフィレンツェだった。そこで私はなにかを作っていた。それは絵のようには残らないし、はっきりと名指すこともできない。きっとルネサンスの芸術家は、「芸術」なんてものは作らなかった。彼らは、建築を飾るための絵や彫刻を作りながら、それを通して、名指すことのできないなにかを作っていた。そのなにかを、あとで「芸術」と呼ぶようになった。私が作ったものは、名づけられることもなく、忘れ去られるだろう。それでいい。あれは陛下のためにだけに作ったものだ。自問自答する。私はあそこに戻りたいだろうか? ――いいえ。あそこにいた私は、自分が幸せだとは知らなかった。なにかを作っているとは知らなかった。だから、そのなにかを持っているのは、その素晴らしさを知っているのは、あそこにいた私ではない。いまの私だ。それに、緋沙子。もしあそこにいたままなら私は、緋沙子を眺めているだけだったはずだ。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。いまならわかる。本当に素晴らしいことは、一度だけ起こる。二度目はいらない。たとえば人が二度生まれることがないように。"(『いたいけ』pp.410-411)
 それにつづく最終章の章題は上述の"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"だ。最終章の希望は光による創作であり、現実には陸子は逮捕され、緋沙子が陸子に再会することは叶わず、千葉再分離運動の過激派の活動は激化し、自衛隊とロシア軍の緊張は限界まで高まり、千葉内務省の要員だった美園の身も危ないだろう。だが光は偽史を語る。なぜなら、それが光と陸子のたがいに合意した主人と従者という関係のゆくさきであり、母親に捨てられて育った陸子が必要とした、その心に寄りそう方法だからだ。それは人間の営為であり、フィクションなのに美しい。

『いたいけな主人』の最終章の誤読を解く

"「ホメロスの時代には、ギリシアはどん底から抜け出したばかりだったの。紀元前一二〇〇年くらいまでギリシアには、ミケーネ文明っていう文明があった。戦争でこの文明が滅びて、ギリシアは貧しく野蛮になった。ホメロスのころには、貧しくなる前のギリシアがどんなふうだったか、すっかり忘れられてた。ホメロスが描いてる世界は、ミケーネ文明とは似ても似つかない。でも、たぶん、昔のギリシアはいまよりずっと素晴らしかった、ってことだけは覚えてた。だから『オデュッセイア』のラストには、『昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほどかった』っていう嘆きがこめられてる。ペネロペは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元どおりになる――かなわなかった願いがこめられてるの。本当ならペネロペはさっさと再婚してるはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、オデュッセウスを待ちつづけた。本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、イタカに戻ってきた。本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳りつづけたはず。だから物語のなかでは、すごく残酷に皆殺しにされた。ひさちゃんはさっき、夫婦が再会してめでたしめでたし、で終わらせちゃったでしょう。原作はちょっと違う。夫婦の再会のあと、オデュッセウスは父親にも再会して、お互いの無事を喜びあう。それと同じころ、オデュッセウスに殺された貴族の仲間が一致団結して、オデュッセウスに復讐するために王宮に向かう。オデュッセウスはわずかな手勢とともに迎え撃つ。その戦いを、女神アテナがやめさせたところで、めでたしめでたし、になる。こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽいでしょう。皆殺しはしないで、特に悪かった奴を見せしめで殺すだけにすればいいのに。父親との再会を先にすませて、ラストは夫婦の再会で締めくくればいいのに。でも私は、意味があることだと思う。『オデュッセイア』という物語が嘘だから、ありえないことだから、こうやって終わらせたんだと思う。これは嘘だよ、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよ――って念を押すために。オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい」"(中里十『いたいけな主人』pp.306-307)

 

"フランス語では歴史のことをhistorieといいますが、この単語には「物語」という意味もあり、さらには「作り話、でたらめ」という意味もあります。本書にも、それなりのhistorieがあります――いえ、「ある」ではなく「ありうる」のほうが正確でしょう。より正確を期すなら、「historieを語ることができる」と言うべきでしょう。"(あとがき)

 ネット上の『いたいけな主人』の感想をみたところ、最終章を字義どおりの意味で受けとっているひとが多くみられたので本稿を執筆することにしました。なので、ここまででなんのことかわかった方はこれ以上読む必要はありません。
 本作は光が陸子と別れ、緋沙子とともにロシアに移住するところでおおきな転機をむかえます。その章の冒頭におかれているのが上記の『オデュッセイア』の解釈です。その後、光は作中で述べられているように(pp.321-322)、さながら『オデュッセイア』のように荒廃した千葉王国に帰還し、陸子に再会します。ただし、この『オデュッセイア』の解釈は、作者が"考古学が明らかにしたミケーネ文明の姿と、『オデュッセイア』に描かれた世界はあまりにも食い違っており、設楽光の解釈は学術的に無理があります。"(あとがき)と補足しており、フィクションです。
 本文で直接的に対応が示されているだけでなく、『いたいけな主人』そのものが『オデュッセイア』のパロディとなっています。オデュッセウスがなぜイタカを離れていたのか、本文では詳述をひかえていますが、これは美貌の女神であるカリュプソに七年間岩屋に引きとめられたためです。成長し、おそろしいほどの美しさを身につけた(p.304)緋沙子は光をロシアに引きとどめます。平石緋沙子という名前も、「石にひさぐ」でカリュプソを連想させます。
 本文ではただ「貴族」とされていますが、『オデュッセイア』では多くの場合「求婚者たち」と記述されています。貴族など有力者たちはペネロペに求婚するためにオデュッセウスの館に集っているからです。陸子の身柄を引きうける候補の旧宮家の継嗣、駐日ベラルーシ大使、千葉統合担当大臣のうち、旧宮家の継嗣のみならず、政治家の千葉統合担当大臣もが陸子に求婚する(p.364)のはパロディを意図したものでしょう。
 さらに、ペネロペは引出物の布を織るまで再婚は避けたいという口実を設け、昼に布を織り、夜にほどくことで再婚を遷延させます。しかし求婚者たちに発覚し、この手段もとることができなくなります。護衛官訴訟はこの推移を連想させます。"となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定は、早くてもロシア大統領選挙の直前になるだろう。なにかが起こるかもしれない"(p.323)"「護衛官訴訟の判決期日が決定。同時に、日本最高裁長官が異例の予告。訴訟の長期化を避けるため差し戻しは行わないとのこと」"(p.330)波多野陸子という名前も、「機織り」でペネロペを連想させます。
 しかし、本書は『オデュッセイア』のパロディをおこないながら、同時にそのことを自己言及しています。それが上記の『オデュッセイア』の解釈であり、また、たびたび『オデュッセイア』の反-現実性を通しておこなわれる現状の確認です。

"オデュッセウスなら、どうやって千葉を元どおりにするだろう。いくら不意打ちとはいえ、わずかな手勢と弓だけで、またたくまに百八人を殺してしまう凄腕のテロリスト、オデュッセウスなら。けれどそんなことは考えるまでもなく不可能だった。きっと三千年前のイタカでも、本当は不可能だった。映画のスーパーマンは、地球を逆回転させることで時間を巻き戻し、死んだヒロインを甦らせた。オデュッセウスの皆殺しも、これと同じだ。不可能なことを成し遂げるための妄想的な手段だ。オデュッセウスなら、どうやって国王公邸に入り込むだろう。嘘を武器にする詐術の達人、オデュッセウスなら。考えていくうちに、オデュッセウスの力はみな私にはないものだと気づく。"(p.321


 そして、護衛官訴訟の最高裁判決を目前にして、千葉再分離運動の過激派、自衛隊予備役の召集、在千ロシア海軍の全将兵の基地呼集と、緊張は最高潮に達し、『オデュッセイア』の空想性と現実との乖離は極点をむかえます。陸子が敗訴と同時に光を殺すという事実上の心中だけは岬早苗の必死の説得で翻意されますが、現実は依然として苛酷なままです。


"同情のこもった視線が木下桃子に集まる。信じられないのは、信じたくないのは、みな同じだったにちがいない。こんなにも美しくて心安らかなものが、明日からはもう存在しないとは。"(p.406)


 さて、そうして迎えた護衛官訴訟の判決は勝訴であり、物語は光が陸子の手をとって終わります。
 ここまで読んだ読者におかれては、その意味はおのずから明らかだと思います。全418ページの物語において、最終章は3ページときわめて軽く、本文の自己言及のとおり"こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽい"ものとなっています。


"「国王の地位がいつまでも法的に有効かを争って裁判してる」「判決はいつごろ?」「あと一年か、一年半」「勝てそう?」「不可能」"(p.311)

 

"「これはどういうことでしょう?」「えっとねー。おうちに帰って、あの子たちと遊んで、ひかるちゃんと一緒に寝るの。朝ごはんも一緒だよ」「誰かが手を回したというようなことは――」「アテナとか? そっかー、ひかるちゃん、私のほかに女がいたんだー」アテナはオデュッセウスを助けた女神だ。妻や祖父との再会のあと、悪党の貴族たちの仲間が復讐に押し寄せてきて、オデュッセウスは勝ち目のない戦いに挑む。そこへ女神アテナが割って入って戦いをやめさせたときに、物語は終わる。おかしなことを思う。もしかして私は誰かの夢を生きているのかもしれない。三千年前のエーゲ海の人々の、かなわなかった夢を、オデュッセウスは生きた。もしそうだとしたら、私は誰の夢を生きているのだろう。陛下のお側に戻れなかった人、千葉が潰え去ったあとの人――"(p.415)


 ここで描かれているのは夢の世界です。作者があとがきで語っているとおり、すべてのフィクションは存在論的には現実と区別できません。しかし、本作では自己言及のメタフィクションによって、最終章が偽史であることが語られています。


"オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい"(p.307)

 

『ユリ熊嵐』全話読解、エーリッヒ・フロム『愛するということ』から

 『ユリ熊嵐』(幾原邦彦監督、SILVER LINK制作、2015年)は愛をめぐる物語だ。それは各話の冒頭で「わたしたちは最初からあなたたちが大好きで、あなたたちが大嫌いだった。だから、本当の友達になりたかった。あの壁をこえて」というモノローグが読まれることが示している。では、だれの愛がいかにしてだれに与えられたのか。それはどのような意味をもつのか。エーリッヒ・フロム著『愛するということ』を助けに、以上の疑問を解決したい。
 本作において愛は<スキ>と<キス>というかたちで表現される。『ユリ熊嵐』の4話において、るると弟のみるんを登場人物にした<スキ>と<キス>の寓話が語られる。「『ねえお姉たま。本物のスキはお星さまになるって本当?』『本当よ。本物のスキは天に昇ってお星さまになるの。そして流れ星になって地上に落ちたお星さまは約束のキスになるのです』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。みるんはるるにキスをせがみ、そのためにハチミツ壺のかたちをした<約束のキス>をとってくる。るるはみるんを拒絶し、みるんはそのたびにハチミツ壺をとってくるが、ついにハチミツをとるためハチに刺されて死んでしまう。失意のるるは、自分の<約束のキス>を手にいれるという銀子を助けるためともに<断絶の壁>をこえることを決意する。<断絶の壁>をこえるための審判の場、<断絶のコート>での審理は以下のとおりだ。「それでは被告グマ、百合ヶ咲るるに問います。あなたはスキを諦めますか? それともキスを諦めますか?』『わたしはスキを諦めない。キスを諦めます。わたしを人間の女の子にしてください! わたしはどうしても銀子とあの壁の向こうにいきたいの!』『そうすればあなたはキスを永遠に失うことになるのですよ?』『わたしのキスはすでに失われた。もう二度と会えない。でも銀子は会えるから。きっとわたしの代わりに約束のキスを果たしてくれる』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。そしてるるは<断絶の壁>をこえ、自分の愛情を叶えようとする銀子に無私の愛情を注ぎ、たびたび自身のもつハチミツ壺から銀子と紅羽にハチミツを分けあたえる。ここにおいて<スキ>は愛を、<キス>は愛の対象からの承認をあらわす。
 エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』において、人間は本質的に孤独であり、そこから脱出するために愛を求めるのだと説く。「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するしかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」(エーリッヒ・フロム著『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊國屋書店。1991年。p.25)。
 では、『ユリ熊嵐』において銀子の求める<約束のキス>はいかにして果たされたのか。作中に登場する絵本『月の娘と森の娘』がその方法を示す。さまざまな危難のすえに銀子を愛した紅羽は、『月の娘と森の娘』の示す方法に従い銀子に<約束のキス>を与える。その内容は次のとおりだ。「そしてとうとうふたりが空の真ん中までやってきたとき、そこには一枚の大きな鏡が壁のように立ちはだかっていました。鏡には自分自身のすがたが映っています。『さあ、その扉の向こうにあなたの友達が待っています。鏡に映る己が身を千に砕き、万に引き裂けば、彼女に約束のキスを与えられるでしょう。ただし、あなたは命を失うかもしれません。最後にもう一度問います。あなたのスキは本物?』ふたりは鏡に映る自分のすがたを見つめます」(『ユリ熊嵐』ep.6)、「月の娘は勇気をふり絞ります。『私は空の向こうへいきたい。だからわたしはわたしを砕く』森の娘も覚悟を決めました。『わたしは空の向こうへいきたい。だからわたしは空を引き裂く』『私のスキは本物』鏡は一瞬にして砕け散りました。そして見つけたのです、その向こうに立つ友達を。娘たちはゆっくりと歩み寄ると、ただことばもなく約束のキスを友達に与え合いました」(『ユリ熊嵐』ep.10)。それは次のようなかたちで実現される。「『椿姫紅羽、あなたのスキは本物?』『本物です』『わたしは、わたしを砕く! クマリアさま! どうかわたしをクマにしてください!』」(『ユリ熊嵐』ep.12)、そしてクマとなった紅羽は銀子に<約束のキス>を与える。作品の当初から銀子が求めつづけていた<約束のキス>は、紅羽が自分を犠牲にすることで果たされる。ここで語られるのは、<約束のキス>は求めるのではなく与えることで実現するということだ。『愛するということ』は、この愛が求めることによって実現されるという錯覚と、愛を真に実現する方法を次のように語る。「だからといって、人びとが愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、誰もが愛に飢えている。(中略)ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。この奇妙な態度は、いくつかの前提のうえに立っている。それらの前提が、個別に、あるいはいくつか組み合わさって、この態度を支えているのだ。まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。(中略)実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものなのだ」(『愛するということ』pp.12-13)、「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何より与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである」(『愛するということ』p.43)。
 だから『ユリ熊嵐』の終わりのシークエンスにおけるみるんとるるの会話は次のようなものだ。「《スキがキスになる場所》『こうして約束のキスを果たした二人はスキの星に導かれ、断絶をこえて旅立ちました』『ねーねーお姉たま。それでふたりはどうなったの?』『どうなったのかな。みるんはどう思う?』『うーん、わかんないや。でもひとつわかったことがあるんだ』『なあに?』(みるんがるるの頬にキスをする)『約束のキス、ぼくからすればよかったんだ。ね?』」(『ユリ熊嵐』ep.12)。余談だが、作品の末尾において登場人物が作品を概括する会話をするという手法は『輪るピングドラム』の最終話でのふたりの小学生の会話にもみられる。
 このような愛を実現するのは容易ではない。銀子と紅羽は最終話までに幾多の困難に遭遇する。最終話でその最大のものが明かされる。じつはクマである銀子をヒトに変えたのは、幼い日の紅羽だったのだ。「『傲慢だっていいわ。お願い、銀子をヒトの女の子にしてください』『いいでしょう。ですがひとつ条件があります。あなたにスキを手放してもらいます。目が覚めたとき、あなたは彼女を拒絶するでしょう』(あの日、私は願ってはいけないことを願ってしまった。愚かにも、身勝手な自分のスキを本物だと信じて)」(『ユリ熊嵐』ep.12)。そして幼い日の紅羽は銀子のことを忘れ、1話へと至るふたりの長い苦悩がはじまるのだ。フロムは『愛するということ』のなかでこの課題をこう述べている。「愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人ならば、いっそうすばらしい、奇跡的な瞬間となるだろう。(中略)しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」(『愛するということ』pp.16-17)。
 作中にはほかにもヒトに変身するクマが登場する。そのうちのひとり、百合園蜜子は死んだあとに銀子の心象風景に銀子の欲望というかたちでふたたび登場する。「私はあなたのここに潜む欲望という名の幽霊、ということにしておきましょ」(『ユリ熊嵐』ep.9)。心象風景の蜜子は銀子に次のようにささやく。「『そう。あの瞬間、あなたは欲望の虜になった。嫉妬に駆られ大きな罪を犯した。』『私は罪グマだ。がうがう』『そうね、でも生きるために罪を犯さない生き物がいるかしら? 椿輝紅羽はあなたという友達を忘れ泉乃純花にスキを与えた。この世界で本当に信じられるのは友達なんかじゃない。それは私という欲望だけ。スキは凶暴な感情。スキは相手を支配すること。ひとつになりたいと相手を飲みこんでしまうこと』(中略)『さあ、わたしとひとつになってあなたのスキを証明するのよ』」(『ユリ熊嵐』ep.9)。しかし銀子は最終的に心象風景の蜜子を捨て、<ともだちの扉>を開く。『愛するということ』は欲望について次のように語る。「セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法は、それとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題にたいする部分的な答えである。しかし、ほかの方法で孤立感を癒すことのできない人びとの場合は、性的オルガスムを追求することは、アルコールや麻薬にふけるのとあまりちがわない。彼らにとって、セックスは孤立の不安から逃れるための絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまうことになる。なぜなら、愛のないセックスとは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけないからである」(『愛するということ』pp.28-29)。
 紅羽を食べようとする箱仲ユリーカもまたそのひとりだ。ユリーカは紅羽を食べ、自身の<箱の花嫁>にしようとする。「『大切なものは箱に入れなきゃだめだって。箱に入れないと汚れてしまう。失くしてしまう』(中略)『汚れてしまったわたしは空っぽ、透明。もはや箱に入れられる大切なものではありません。だからわたしは箱になったのです。その虚しさを何かで満たすことをただ願う、空っぽの箱になったのです』」(『ユリ熊嵐』ep.8)。ユリーカは子どもに対する大人として学園の生徒と寝て、生徒を食べては箱に詰める。それは支配-被支配の関係だ。しかし、支配するだけではユリーカの心は空虚なままで、だからユリーカは死ぬまえに自分が本当に愛した澪愛を幻視する。『愛するということ』は支配-被支配の関係を以下のように否定する。「共棲的融合の能動的な形は支配である。マゾヒズムに対応する心理学用語を用いれば、サディズムである。サディスティックな人は、孤独感や閉塞感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取りこむことによって、自分自身をふくらます」(『愛するということ』pp.40-41)。
 本作の重要なモチーフとして<透明な嵐>というものが登場する。本作においてクマでないヒトは、紅羽をのぞいて全員が<透明な嵐>に所属している。<透明な嵐>は各話でスマートフォンにより排除するものを決める投票、<排除の儀>をおこなう。そのときは全員が一致団結して動作していて、まるでマスゲームのようだ。『愛するということ』によれば、このような団結は愛情の背面に存在するものだ。「人類がそうした原初的な絆から抜け出すにつれ、それだけ自然界から分離し、孤立感から逃れる新しい方法を見つけたいという欲求がつよくなる。そうした目的を達成する一つの方法が、ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態である。いわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなものだ。(中略)原始的な部族に見られる多くの儀式は、この種の解決法をいきいきと示している。つかのまの高揚状態のなかで、外界は消え失せ、それとともに外界の孤立感も消える。そうした儀式は共同でおこなわれるので、集団との融合感が加わり、それがこの解決法をいっそう効果的にする。(中略)こうした祝祭的興奮状態に部族全員がそろって参加しているかぎり、人びとのあいだに不安や罪悪感は生まれない。なぜなら、それは祈祷師や祭司が認め、命じたものであり、部族の全員が参加するものだからだ。だから罪悪感をおぼえたり恥じたりする理由はまったくない」(『愛するということ』pp.27-28)、「興奮状態による合一体験には、それがどんな形であれ、三つの共通する特徴がある。第一に、強烈であり、ときには激烈でさえあること。第二に、精神と肉体の双方にわたり、人格全体に起きること。第三に、長続きせず、断続的・周期的に起きることである」(『愛するということ』p.29)、「現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。もし私がみんなと同じになり、ほかの人とちがった思想や感情をもたず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ」(『愛するということ』p.30)。また、このような排除はクマの世界においてもおこなわれている。ヒトを愛すると宣言した銀子は、クマリアさまを崇めるクマの教会から追放される。「もはやおまえはクマリアさまの子グマではない! この世界を毒するヒトリカブトの銀子じゃ! 去れ!」(『ユリ熊嵐』ep.11)。『愛するということ』はこのような団結は一般的におこなわれていることなのだと述べる。「しかし、過去においても現在においても、人間が孤立感を克服する解決法としてこれまでもっとも頻繁に選んできた合一の形態は、集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一である」(『愛するということ』p.29)。
 では、そうしたクマとヒトとはなんなのか。1話のモノローグで、クマとヒト、そして両者を分かつ<断絶の壁>は次のように語られる。「ガウガウー! あるとき宇宙の彼方の小惑星クマリアが爆発しちゃったの。粉々になったクマリアは流星群になって地球に降り注いだんだけど、そしたら世界中の熊が一斉決起! みんなで人間を襲いはじめちゃった。おどろきーって感じだよね。人間たちは断絶の壁をつくってわたしたち熊を自分たちの世界から追い出そうとしたけど、でもでも、人間の作ったルールなんて通用しないんだからね! ガウ! 私たちはクマ、クマは人を食べる。そういう生き物!」。物語の最後に至っても<断絶の壁>は依然として存在している。また、銀子と紅羽は自身を犠牲にしてクマとヒトとの断絶をこえたが、それは個人におけるものであり、クマとヒトの全体を変えるものではない。本作に登場する集団はクマとヒトのふたつだけだ。クマとヒトとは人間社会に存在するあらゆる断絶の象徴なのだろう。これは言いすぎかもしれないが、『愛するということ』では人間の孤独のはじまりを神話に紐解いて説明している。「そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。そうした孤立からくる恥と罪悪感については、聖書のアダムとイヴの物語に描かれている。アダムとイヴは「善悪の区別を知る智恵の木の実」を食べ、神への服従を拒み(不服従の自由がなければ善も悪もない)、自然との原始的な動物的調和から抜け出して人間となった。すなわち人間として誕生した。そしてその後で、二人は「自分たちが裸であることを知り、恥じた」。(中略)この神話の要点は次のようなものだろう――男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、べつべつの性に属しているという意味でたがいに異なった存在であることを知る。しかし、自分たちがそれぞれ孤立していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛しあうことを知らないからだ(アダムがイヴをかばおうとせず、イヴを責めることによってわが身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる」(『愛するということ』pp.24-25)。小惑星クマリアの爆発もまた神話なら、クマとヒトとの断絶は人間の個人の孤立を表しているのかもしれない。

 ユリとクマは<断絶の壁>で分かたれて対立している。そして銀子と紅羽は最終的に現実の世界では大木蝶子の号令のもと撃たれて死んでしまう。「わたしたちは力を合わせてついにやり遂げたのです。そうです、わたしたちはこの学園に蔓延っていた恐るべき悪の排除に成功したのです」(『ユリ熊嵐』ep.12)。しかし銀子と紅羽は撃たれる寸前にクマリアさまの祝福をうけ、<約束のキス>を果たす。このときの劇伴は各話で銀子とるるがクマに変身するときのものだが、このときは『アヴェ・マリア』の歌詞がつく。『愛するということ』は母性的な神についてこう語っている。「母親に愛されるというこの経験は受動的である。愛されるためにしなければならないことは何もない。母親の愛は無条件なのだ。しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受けるための資格もない」(『愛するということ』p.67)、「母性愛がどのようなものであるかについてはすでに前節で述べた。またその際、母性愛と父性愛のちがいについても論じた。そこで述べたように、母性愛は子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。だが、ここで一つ重要なことをつけ加えなければならない。子どもの生命の肯定には二つの側面がある。一つは、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。いま一つの側面は、たんなる保護の枠内にとどまらない。それはすなわち、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもにあたえるような態度である。母性愛のこの二つの側面は、聖書の天地創造の物語に、ごく簡潔に表現されている。(中略)これと同じ考えは、聖書のまた別の象徴にも表現されているといえよう。約束の地(大地はつねに母の象徴である)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数である。蜜を与えることができるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない」(『愛するということ』pp.80-81)、「母権的宗教の本質を理解するには、私たちが先に母性愛の本質について述べたことを思い出しさえすればいい。母性愛は無条件の愛であり、ひたすら保護し、包みこむ。無条件であるため、コントロールすることも獲得することもできない。母親に愛される人は無上の喜びをおぼえ、愛されない人は孤独と絶望に苦しむ。母親が子どもを愛するのは、その子が自分の子どもだからであって、「良い子」だからでも、言うことをよく聞くからでも、母親の願いや命令どおりにふるまうからでもない。母親の愛は平等なのだ。人間はみんな母親から生まれた子どもであり、母なる大地の子どもであるから、すべての人間は平等である」(『愛するということ』p.103)。そして映像の終わりにおいて、『月の娘と森の娘』の世界でキスをする銀子と紅羽のすがたが映る。ふたりは<透明な嵐>の銃弾に撃たれて死んだが、ここにおいて、ふたりの愛は母の愛、神の愛にたとえられる絶対的なものとなっている。そして、そのことを目撃した亜依撃子は<透明な嵐>を離脱し、クマであり捨てられたこのみを抱きかかえる。それとともに<ユリ熊嵐>という副題のタイトルバックが表示される。銀子と紅羽というクマとヒトとの愛情は、ほかのものにも伝わっていく。だから撃子とこのみの新たな物語がはじまることができた。本作においてユリはクマに対するヒトの意味だ。だから<ユリ熊嵐>という題名はヒトとクマの物語という意味であり、それは無限に伝わっていくものなのだ。わたしはこの場面が、視聴者に自分たちにおけるクマを愛する勇気をもてというメッセージを伝えているのだろうと思う。
 愛はみずから与えるものであり、それを実行することができれば集団の同調に飲まれることもない。だから紅羽はこういう。「スキを忘れなければいつだってひとりじゃない。スキを諦めなければなにかを失っても透明にはならない」(『ユリ熊嵐』ep.12)。だから銀子と紅羽に愛を与えつづけたるるも、最後には《スキがキスになる場所》で愛を実現することができたのだろう。

 

『ファンタジスタドール・イヴ』と『未来のイヴ』の対照および『ファンタジスタドール』再論

 野崎まど著『ファンタジスタドール・イヴ』(早川書房、2013年)はアニメ『ファンタジスタドール』(斎藤久監督、フッズエンタテインメント制作、2013年)の前日譚だ。内容は女性に幻滅した科学者が、それでも女性を欲し、志を同じくする友人とともに人造の女性を創造するというものだ。自身も製作に参加するかという異同はあるが、これはヴィリエ・ド・リラダン著『未来のイヴ』(1886年)と同じ筋書きだ。タイトルをはじめ、『ファンタジスタドール・イヴ』は『未来のイヴ』を援用しており、結末に明確な対照性がある。以下、それを検討するとともに、その対照をもとに『ファンタジスタドール』を再論したい。
 『ファンタジスタドール・イヴ』で主人公の大兄太子は幼少期にミロのヴィーナスをみることで、女性の肉体への憧憬をおぼえる。「連れて行かれたのは、世界で最も有名な美術館、ルーヴルだった。(中略)だが、私は、それに強く魅入られた。裸身の像の近くまで来た私は、たった今述べたような逡巡を一瞬で失い、ただただその裸体を眺めていた。その石像の顔立ちはもちろん名作という評価に違わず美しかったし、整っていたのだが、私の目は顔から離れ、首、そして肩へと続く筋肉の流れを追った。その曲線は、なんとも表現しがたい、だけれどとても良いものに違いないという、何かの真実に触れたような感覚を呼んだ。」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.12-14)。これに対し、『未来のイヴ』ではミロのヴィーナスが女性の外面的な美の象徴として説明される。「私は女を宿まで送って行きました。この義務を果たすと、またルーヴルへ戻って来たのです。私は再びあの神聖な広間へ入りました! そして星を鏤めた「夜」をその形体の中に秘めているあの「女神」を一目見ますと、ああ、生まれて初めて私は、かつて生者を窒息せしめた最も神秘的な嗚咽の一つのために胸がいっぱいになるのを感じたのでした。」(『リラダン全集2』ヴィリエ・ド・リラダン著、斎藤磯雄訳、東京創元社、1977年、pp.83-84)。
 こうした女性の形而上的な美しさに対し、大兄太子、そして『未来のイヴ』の主人公のエワルド卿は現実の女性に幻滅し、理想の女性を創造することを決意する。大兄太子は恋人に近い学友の中砥生美、エワルド卿は愛人であるアリシアへの幻滅がその契機だ。また『ファンタジスタドール・イヴ』においては大兄の友人の遠智要が婚約者に裏切られた経験から、『未来のイヴ』においてはエワルド卿の友人のトマス・エジソンがかつてある男が女性に翻弄されて破滅する様子を目撃したことから、理想の女性の創造に協力する。「「僕は、女性の体が好きなんだ。それが僕の望み、希望なんだ」それから遠智を見て、「でも、君は違うだろう?」「うん」彼は、諦めたように笑って「僕は婚約者に裏切られた。ずっと好きだった女性に不義をされて、酷く傷付けられた。でも、それでも、僕は忘れられなかったんだ。彼女が優しかったことも、彼女が僕を好きだと言ってくれたことも、彼女が僕に与えてくれた全てが愛おしかった。結局僕は、女性を嫌いになど、なれなかった。でももう、彼女には戻れない、心が離れてしまった、新しい人に会いたかった、心を通じ合わせ、そして二度と離れることのない、最高の女性に巡り会いたい。それが僕の希望なんだ」」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.128-129)。「しかしこれは申し上げて置きますが、こうした災厄を惹き起こす女どもの精神的醜悪さというものは、彼女等が肉体的に僅かばかり持合せているらしいそれほど厭らしくない点までも、充分帳消しにしてしまうということです。というのも、単なる動物にも授けられているような愛情能力さえも失っていて、破壊したり堕落させたりすることにしか勇気を持たぬ女どもである以上、彼女等が罹らせる病気、若干の人が恋愛と呼んでいるあの一種の病気については、私の意見を全部述べぬ方がよいと思うからです。見当違いの儀礼から、それを実際の名で呼ばずに、恋愛などという言葉を使うところから、不幸の一部分は出て来るのです。(中略)要するに、もしそれを身代わりに立てて人間の魂を救えるような、或る電気人間というものの創造方式を公式化することが可能ならば、「恋愛」の一方程式を「科学」から抽き出してみようではありませんか。この恋愛は、突如として人類に添えられる、電気人間というこの新たな付加物が無ければ避け得ないものであることが証明されたあの呪詛を惹き起こさないということが、先ず第一の特徴であり、従って情欲の火を制御することにもなるでしょう。」(『リラダン全集2』pp.213-214)
 こうして、両者は理想の女性、『ファンタジスタドール・イヴ』ではイヴ、『未来のイヴ』ではハダリーを創造するが、その結末は異なる。『未来のイヴ』ではエワルド卿はハダリーと精神的な愛情を通わせ、海難事故でハダリーが海中に没したあと、その喪に服することで物語は終了する。ミッシェル・カルージュは『独身者の機械』で、ハダリーが誕生から間もなく海中に没したことに注目し、「ヴィリエのイヴは女でも天使でもなければ、女たちの新しい世代を産む母でもない。彼女こそは、男の独身者の機械によって魂のない石胎の地位に追いやられた女が、それによってみずからもまた独身者の機械に変わっていくところの弁証法的な答えというにほかならない。」(『独身者の機械』ミッシェル・カルージュ著、高山宏訳、ありな書房、1991年、p.166)と断言している。これに対し、『ファンタジスタドール・イヴ』では大兄たちが人造の女性、ファンタジスタドールを創造することを決意するところで作中の時間は停止し、十数年後に第三者の視点から大兄たちの使用した研究所が焼失したことだけが語られる。『ファンタジスタドール・イヴ』の物語は『ファンタジスタドール』につづくのだ。

 『未来のイヴ』のエワルド卿、『ファンタジスタドール・イヴ』の大兄は形而上学的な女性を求め、創造する。形而上学が自然に対してイデアや純粋形相といった超自然的原理を設定し、自然を無機的なものとみる機械論的自然観を形成したことが、近代科学、技術文明の基盤となったことは両書を読むうえで興味深い。
 『ファンタジスタドール』の主人公の鵜野うずめは孤高の存在である大兄太子やエワルド卿と異なり「どこにでもいそうな普通の中学生」(『ファンタジスタドール』オープニングナレーション)だ。うずめはファンタジスタドールであるささらたちと多くの経験をへて、マスターとドールの壁をこえ「友だち」(『ファンタジスタドール』ep.11-12)となる。その友情は他のマスターにも伝わり、ドールを道具として利用していた清正小町は考えをあらため、犠牲にしようとしていたドールのプロトゼロと友情を結ぶ。
 うずめが「どこにでもいそうな普通の中学生」だったからこそ、機械的、形而上学的な、すなわち男性的な二分法から自由にささらたちと友情を結ぶことができたのだと思う。そして、それこそが『ファンタジスタドール・イヴ』で破滅的な結末を迎えた大兄と遠智に対する解答なのだろう。

『君が僕を』と論理実証主義

 中里十著『君が僕を』全4巻(小学館、2009-2010年)のテーマはコミュニケーションの不可能性だ。舞台装置の「恵まれさん」は金銭という概念上の存在を具体化する役割を負っている(『君が僕を3』p.140)。金銭の使用、すなわち交換が生じるのは両者のあいだに価値観の相違が存在するからだ(カール・マルクス著『資本論向坂逸郎訳、第1巻、岩波書店、1969年、pp.191-192)。マラッツィが『現代経済の大転換』の注釈で、ヴィトゲンシュタイン情報科学との関係について紙幅を割くのもその謂いだ("『世界機械、創造、認知、情報文化』[La machine univers. Création et culture informatique(La Découvrez, Paris 1987)]の中で、ピエール・レヴィは、かなりのページを割いてルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの哲学理論と情報科学創始者ノーバート・ウィーナーやウォーレン・マカロックの理論のあいだの平行関係を論じている。両者の本質的な差異は、前者の哲学者がともかくも言語化できないものやその「神秘的な」要素に関わっているのに対して、情報言語論者は、言語そのものを増殖させることはできはするものの、言語が論理形式的に翻訳不可能になるたびに、立ち止まってしまうという点にある。「サイバネティックス学者たちは、人間を情報処理を行なう論理的な自動機械と捉えている。それゆえ彼らは言語化できるものにとどまることになり、彼らがいったい誰であるのかということを忘れ、ヴィトゲンシュタインが彼らに示した表現不可能なものを無視したのである」(一二九頁)。もっぱら言語学の領域ではあるが、類似した結論に至っているものに Roberta De Monticelli, Dottrine dell'intelligenza. Saggi su Frege e Wittgenstein, De Donato, Bari 1981.がある。"(クリスティアン・マラッツィ著『現在経済の大転換』多賀健太郎、青土社、2009年、p.171))。

 主人公のひとり、絵藤真名は言語をその意味内容と一致したかたちでとらえようとする少女だ。各巻のタイトルは真名がきらう「気持ち悪い言葉」であり、真名はそうしたことばに接したときに、その意味内容に対応することばではなく、そのことばを発する意図に対応することば、あるいは行動を返す。もうひとりの主人公、橘淳子はその孤独を理解したつもりでいたが、1巻はその不理解が暴露されるかたちで決着する。

 ではその真名の世界、ひいてはコミュニケーションの不可能性とはなんなのか、そしてそれは最終的にどういうかたちで決着したのか。わたしはここにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の援用をみる。以下、それにもとづいて本書を読解し、また結末の意味を解きたい。
 4巻において淳子と真名の再会が語られる。このとき淳子はニューヨークの地下鉄のトンネルに侵入し、多くのひとが「いかにもありそうなことだ」として抽象的なものと認識する落書きのじつは多様なすがたをみる。そしてそこから真名との出会いを連想する(『君が僕を4』pp61-62)。これを『論理哲学論考』は「私の言語の限界が私の世界の世界の限界を意味する」(野矢茂樹訳『論考』(岩波書店、2003年)p.114)とし、経験によってその限界が広がるとする。しかし、これは同時に以下のことも示す。言語は命題の総体だが(『論考』p.39)、命題は現実との比較でその真偽を「語る」ものの、そのための論理形式は不可知であり「示す」ことしかできない(『論考』p.43)。
 また真名は以下のようにいう。「『大人になる』とか、『将来なにになる』とか、みんな筋書き。時間の影」(『君が僕を4』p.239)。これを『論考』では以下のようにいう。「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。」(『論考』pp.79-80)、あらゆる要素命題は独立であり、その関係は論理形式でしかありえない。そこに因果関係はありえない。
 真名は『論考』の論理形式を重視し、世界を記述する日常言語において、その論理性をあいまいにする記号学的な意味内容と表現の不一致を排除しようとしているのだと思う。
 では、そうした真名の姿勢はどうなったのか。橘れのあは真名に「世の中がたまたまで動いてて、人間がたまたまで生きているのに、人間のやることだけ筋が通ってるなんて、そんなのおかしくな~い?」(『君が僕を4』p.197)といい、その姿勢を改めさせようとするが、真名は変わらない。しかしまた真名も世界を変えることができずに終わる。「れのあのように適当なことを言うなら――真名は、おそらく、変えようとしていた。緑を、自分の両親を、あるいはもっと大きなものを。そのために真名はあんな事件を起こして、緑や両親を巻き込んだ。けれど緑は変わらなかった。おそらく両親も。」(『君が僕を4』p.207)。
 そして、『君が僕を1』において提示されたコミュニケーションの不可能性はどうなったのか。『論考』はコミュニケーションを以下のように述べる。「ある言語から他の言語への翻訳は、一方の各命題から他方の命題へと為されるのではない。ただ命題の構成要素だけが翻訳される。」(『論考』p.44)。『君が僕を4』の最終行において、1巻から問われつづけてきたコミュニケーションの問題は以下のようにタイトルへと終着する。「私は、時間の影じゃなくて、真名の影に。なりたい、なる、じゃなくて、今まさに。きっと真名も。動詞がないあの言葉、『君が僕を』。私は左手の人差し指を、真名の指に。」(『君が僕を4』p.240)。
 『論考』によれば世界の限界は自己の言語の限界であり、ここに他者の世界の不可知性がある。しかし命題を共有することはできる。この命題について『論考』は以下のように述べている。「しかし命題は、意味を介さずには何ものにも対応しない。命題は「真」とか「偽」と呼ばれるなんらかの性質をもったあるもの(真理値)を指示するわけではないからである。命題に対して「真である」や「偽である」という動詞が与えられる、フレーゲはそう考えていたが、それはまちがっている。「真である」という動詞は、その命題が真であることのうちに含まれているのである。」(『論考』pp.49-50)。
 『君が僕を』は真名と淳子が没したあとで淳子の義娘がその手記を発表するという形式をとっている。よって二人の未来に希望的な観測はない。しかし作中で、淳子は真名が死ぬまでその傍にいたように述べられている。ただし、「真名が生きていたあいだ、弱いのはいつでも私だった。」(『君が僕を4』p.71)が示すように、真名は最期まで淳子と本質的な和解はしていない。しかし、4巻の最終行と、淳子が真名の最期まで傍にいたという事実が、ロマンチシズムでない、コミュニケーションの不可能性に立脚した二人のコミュニケーションの成功を示唆しているように思う。