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『いたいけな主人』論 アリストテレス『詩学』から笠野頼子まで

百合 文学

 前回、『いたいけな主人』(中里十著、小学館、2009年)がメタフィクションの構造をとっていることを確認した。今回は、なぜ本作がメタフィクションの構造をとっているか考察し、あわせて光の行動を読みときたい。

 まず、光が陸子と別れるまでの行動を確認する。はじめにみておきたいのは、光と陸子が共犯的な役割の演技をおこなっていることだ。光は登場しての第一声が"「恐縮の極みでございます。私も一日千秋の思いでございましたが、陛下の快活なお姿を拝見して、待ち遠しく思ったことなどすっかり忘れてしまいました」"(『いたいけ』p.14)であるように、国王護衛官という立場で芝居がかって畏まり、それは陸子の気質に通じるものでもある(『いたいけ』p.24)。国王護衛官の一次選考でふたりは出会う。このとき光はただの野次馬根性で選考に応募し、陸子に特別な感情をもっておらず(『いたいけ』p.19)、陸子は丁寧語ではなし、光も敬語を忘れる(『いたいけ』pp.19-21)。だが、このとき光が陸子に惚れることでふたりの運命はおおきく変わる。そして最終選考でふたりは国王と国王護衛官の立場でたがいが死ぬ状況をロールプレイし、その関係が固着する(『いたいけ』pp.22-26)。
 本作の文体はその役割の演技によるものだ。『いたいけな主人』は一人称小説であり、これはおなじ著者の『どろぼうの名人』(小学館、2008年)、『君が僕を』(小学館、2009-2010年)も同様だが、本作は第二文が"私は陛下のご実家にお迎えにあがっていた。"(『いたいけ』p.14)であり、全編が過剰敬語で語られる。
 そうした文体の意味とはなにか。中里十は本作の表紙の折返しで『戦場の小さな天使たち』(ジョン・ブアマン監督、1987年)について語っている。"イギリスの映画に『Hope and Glory』という傑作があります。タイトルを直訳すると、『希望と栄光』。しかし日本公開時の邦題は、『戦場の小さな天使たち』。この邦題をつけた人を、私は尊敬しています。なぜこんな邦題に? なぜ尊敬? それは、映画本編をご覧ください。ぜひ。"『戦場の小さな天使たち』は第二次世界大戦中の空襲下のロンドンを子どもの目線で描いたものだ。独特なのは、子どもの視点であるため、悲惨な戦時生活が心躍る冒険に満ちたものとして描かれていることだろう。映画は最後、学校が爆撃され、休校になったことに欣喜雀躍する子どもたちと、「それが人生で最良の日だった」という主人公のビルのナレーションで幕を閉じる。大人の視点ならば、学校が爆撃され休校になることは悲劇のはずだ。この「天使」という単語は、最終章の章題でもある。"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"(なお、『ぴたテン』8巻の引用だ)最終章が光によって語られた「悲劇よりも悲しいハッピーエンド」であることは前回確認したとおりだ。本作では「天使」という単語がもう一箇所で登場する。
 "私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。(中略)自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。陛下のお顔と同じく、お心も天使のようでなく、緋沙子を捨てようとなさる。繰り返すこと。自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。"(『いたいけ』pp.245-246)陸子は捨て子であり、緋沙子を捨てることで自身の体験を再現しようとする。"でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として。二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。"(『いたいけ』p.243)"繰り返すこと。陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。"(『いたいけ』p.245)中里十は本作のあとがきで、『オデュッセイア』の解釈について補足するときにアリストテレスの『詩学』を引用している。アリストテレスは『詩学』で、すべての叙事詩と悲劇、喜劇などの詩作は再現すなわち模倣(ミメーシス)であるとしている(『詩学』(松本仁助訳、岩波書店、1997年)p.21)。ありうべきこと、すなわち普遍的なことの模倣であり、これはプラトンが『国家』で述べた、悲劇作家や画家は、普遍的なものである〈実相〉(エイドス)と、それを具現化する製作者にたいし、具現化されたものを模倣する三番目のものだという仮説(『国家』(藤沢令夫訳、岩波書店、1979年)下巻、pp.302-312)を発展させたものだ。千葉国王が抽選制であり(『いたいけ』p.75)、それがプラトンが同時代の課題として『国家』で述べた僭主独裁制を防止(『国家』下巻、pp.216-221)する方法で、アリストテレスが『政治学』で発展させ、共和制を成すとしたものであるのは興味深い(『世界の名著8』収録 アリストテレス著、田中美知太郎責任編集『政治学』中央公論新社、1972年、p.181)。陸子のおこなおうとする再現が具体的な事実の模倣であるプラトンのものであるのにたいし、光のいう「天使」とはアリストテレスが模倣の対象だとする普遍的なものだろう。そして、すべての創作が再現である以上、光と陸子の役割の演技もまた再現だといえる。光はもとは漫画家を志望しており(『いたいけな』p.75)、才能が発揮されるときを多くの偉大な作品が誕生した十五世紀のフィレンツェに喩えていた(『いたいけ』pp.75-76)。そして、国王護衛官として陸子と特別な関係になったときに、その夢は捨てられる。"私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことでなくても。そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。さようなら、私のフィレンツェ。"(『いたいけ』p.82)

 また同時に、『いたいけな主人』は『オデュッセイア』の再現でもある。『オデュッセイア』の再現にはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』という先例がある。『いたいけな主人』が『オデュッセイア』の筋(ミュートス)の再現であるのにたいし、『ユリシーズ』はその細部と綿密な対応をしておりおおきく異なる。しかし、第9章の章題にポストモダン文学の旗手である笠野頼子を引き、メタフィクションの構成をとる本作が『オデュッセイア』の再現でありながらこの小説を無視していることは考えづらい。アリストテレスは創作を普遍的なものの模倣と定義したが、近代以降の文学ではその模倣自体がエクリチュールとして問われることになる(『零度のエクリチュール』(ロラン・バルト著、渡辺淳・沢村昴一訳、みすず書房、1971年)pp.5-7)。その結果、ポストモダン文学やメタフィクションが誕生する。偶然ということもあるが、陸子の宿願である中学生のメイドの三人、岬早苗、松山結香、木下桃子は第13挿話「ナウシカア」の三人の少女、高飛車なシシー・キャフリー、メガネをかけたイーディ・ボードマン、可憐なガーティ・マクダウェルと対応する。なにより、光と陸子は賢君のオデュッセウスと貞淑なペネロペイアより、『ユリシーズ』でパロディされている妻に甲斐甲斐しく尽くすブルームと浮気症のモリーに喩えたほうが適当だ。モリーは第18挿話「ペネロペイア」で語られるとおり、わがままだが内心では夫のことを愛している〈いたいけな主人〉だ。
 陸子の芝居は芝居であって、芝居でない。"もともと陛下には芝居がかったところがあられる。慣れないうちは、陛下の感情表現はわざとらしく思えることもある。茶番という夢はさほど無理せず見られる。けれどその夢では、あまりいい気持ちにはなれなかった。あのとき、陛下のお心の奥底に、じかに触れたと思ったのに、それも茶番になってしまう。茶番――護衛官選考の最終面接のことを思い出す。あのとき私は、陛下との絆を確かめたと思った。確かめたはずなのに、あとで不安になった。あれは茶番だったのではないか、と。それでもいい、陛下のお側にお仕えできるなら、と思った。私はやっといまになって信じている。陛下のなさることは、まばたきひとつに至るまで、お心をそのまま映している。どんなに嘘をおっしゃり、隠し事をなさっても、みな真心からのことだ。そのことを知らなかったわけではない。けれど心のどこかで疑っていた。もし、なにもかもが真心からのことだとしたら、私はあまりにも、息もできないほど、愛されている。"(『いたいけ』pp.278-279)陸子が芝居がかっている、つまり本心をさらせないのは幼少期に母親に捨てられたからだと思われる。光は緋沙子を助けるために陸子のその深部に踏みこみ、二人が共犯的におこなってきた役割の演技は崩壊する。"「……ひかるちゃん、どうして泣いているの?」「陸子さまを――ちゃんと――守ってあげられなくて――」頭が回らない。言葉遣いが敬語にできない。"(『いたいけ』p.276)そして、ふたりはたがいの愛を確認するが、同時に陸子は光を馘首する(『いたいけ』p.279)。
 そして、光と陸子は離別するが、千葉王国が政情の変化により崩壊の寸前に達したことで、光はふたたび陸子のもとへもどる。それは前回説明した『オデュッセイア』の再現であると同時に、かつての光と陸子の役割の演技の再現でもある。なぜなら、陸子が本心をさらした以上、もはやふたりが役割の演技を継続することはできず、ふたたびそれが開始するとしたら、かつての演技の再現であるからだ。しかし、光はそれを否定しない。護衛官訴訟の最高裁判決が下される直前に光は述懐する。"緋沙子が現れるよりもさらに前、陛下がまだ私に触れてくださらなかった日々。あのとき私は幸せだった。その幸せに、自分で気づくこともなかった。そこは楽園ではなかったけれど、楽園よりも素晴らしいところだった。そこは一四五〇年のフィレンツェだった。そこで私はなにかを作っていた。それは絵のようには残らないし、はっきりと名指すこともできない。きっとルネサンスの芸術家は、「芸術」なんてものは作らなかった。彼らは、建築を飾るための絵や彫刻を作りながら、それを通して、名指すことのできないなにかを作っていた。そのなにかを、あとで「芸術」と呼ぶようになった。私が作ったものは、名づけられることもなく、忘れ去られるだろう。それでいい。あれは陛下のためにだけに作ったものだ。自問自答する。私はあそこに戻りたいだろうか? ――いいえ。あそこにいた私は、自分が幸せだとは知らなかった。なにかを作っているとは知らなかった。だから、そのなにかを持っているのは、その素晴らしさを知っているのは、あそこにいた私ではない。いまの私だ。それに、緋沙子。もしあそこにいたままなら私は、緋沙子を眺めているだけだったはずだ。イタリア・ルネッサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。いまならわかる。本当に素晴らしいことは、一度だけ起こる。二度目はいらない。たとえば人が二度生まれることがないように。"(『いたいけ』pp.410-411)
 それにつづく最終章の章題は上述の"僕の身体を 天使の姿が 見えないように してほしい"だ。最終章の希望は光による創作であり、現実には陸子は逮捕され、緋沙子が陸子に再会することは叶わず、千葉再分離運動の過激派の活動は激化し、自衛隊とロシア軍の緊張は限界まで高まり、千葉内務省の要員だった美園の身も危ないだろう。だが光は偽史を語る。なぜなら、それが光と陸子のたがいに合意した主人と従者という関係のゆくさきであり、母親に捨てられて育った陸子が必要とした、その心に寄りそう方法だからだ。それは人間の営為であり、フィクションなのに美しい。

『いたいけな主人』の最終章の誤読を解く

百合 文学

"「ホメロスの時代には、ギリシアはどん底から抜け出したばかりだったの。紀元前一二〇〇年くらいまでギリシアには、ミケーネ文明っていう文明があった。戦争でこの文明が滅びて、ギリシアは貧しく野蛮になった。ホメロスのころには、貧しくなる前のギリシアがどんなふうだったか、すっかり忘れられてた。ホメロスが描いてる世界は、ミケーネ文明とは似ても似つかない。でも、たぶん、昔のギリシアはいまよりずっと素晴らしかった、ってことだけは覚えてた。だから『オデュッセイア』のラストには、『昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほどかった』っていう嘆きがこめられてる。ペネロペは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元どおりになる――かなわなかった願いがこめられてるの。本当ならペネロペはさっさと再婚してるはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、オデュッセウスを待ちつづけた。本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語のなかでは、すごくがんばって、イタカに戻ってきた。本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳りつづけたはず。だから物語のなかでは、すごく残酷に皆殺しにされた。ひさちゃんはさっき、夫婦が再会してめでたしめでたし、で終わらせちゃったでしょう。原作はちょっと違う。夫婦の再会のあと、オデュッセウスは父親にも再会して、お互いの無事を喜びあう。それと同じころ、オデュッセウスに殺された貴族の仲間が一致団結して、オデュッセウスに復讐するために王宮に向かう。オデュッセウスはわずかな手勢とともに迎え撃つ。その戦いを、女神アテナがやめさせたところで、めでたしめでたし、になる。こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽいでしょう。皆殺しはしないで、特に悪かった奴を見せしめで殺すだけにすればいいのに。父親との再会を先にすませて、ラストは夫婦の再会で締めくくればいいのに。でも私は、意味があることだと思う。『オデュッセイア』という物語が嘘だから、ありえないことだから、こうやって終わらせたんだと思う。これは嘘だよ、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよ――って念を押すために。オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい」"(中里十『いたいけな主人』pp.306-307)

 

"フランス語では歴史のことをhistorieといいますが、この単語には「物語」という意味もあり、さらには「作り話、でたらめ」という意味もあります。本書にも、それなりのhistorieがあります――いえ、「ある」ではなく「ありうる」のほうが正確でしょう。より正確を期すなら、「historieを語ることができる」と言うべきでしょう。"(あとがき)

 ネット上の『いたいけな主人』の感想をみたところ、最終章を字義どおりの意味で受けとっているひとが多くみられたので本稿を執筆することにしました。なので、ここまででなんのことかわかった方はこれ以上読む必要はありません。
 本作は光が陸子と別れ、緋沙子とともにロシアに移住するところでおおきな転機をむかえます。その章の冒頭におかれているのが上記の『オデュッセイア』の解釈です。その後、光は作中で述べられているように(pp.321-322)、さながら『オデュッセイア』のように荒廃した千葉王国に帰還し、陸子に再会します。ただし、この『オデュッセイア』の解釈は、作者が"考古学が明らかにしたミケーネ文明の姿と、『オデュッセイア』に描かれた世界はあまりにも食い違っており、設楽光の解釈は学術的に無理があります。"(あとがき)と補足しており、フィクションです。
 本文で直接的に対応が示されているだけでなく、『いたいけな主人』そのものが『オデュッセイア』のパロディとなっています。オデュッセウスがなぜイタカを離れていたのか、本文では詳述をひかえていますが、これは美貌の女神であるカリュプソに七年間岩屋に引きとめられたためです。成長し、おそろしいほどの美しさを身につけた(p.304)緋沙子は光をロシアに引きとどめます。平石緋沙子という名前も、「石にひさぐ」でカリュプソを連想させます。
 本文ではただ「貴族」とされていますが、『オデュッセイア』では多くの場合「求婚者たち」と記述されています。貴族など有力者たちはペネロペに求婚するためにオデュッセウスの館に集っているからです。陸子の身柄を引きうける候補の旧宮家の継嗣、駐日ベラルーシ大使、千葉統合担当大臣のうち、旧宮家の継嗣のみならず、政治家の千葉統合担当大臣もが陸子に求婚する(p.364)のはパロディを意図したものでしょう。
 さらに、ペネロペは引出物の布を織るまで再婚は避けたいという口実を設け、昼に布を織り、夜にほどくことで再婚を遷延させます。しかし求婚者たちに発覚し、この手段もとることができなくなります。護衛官訴訟はこの推移を連想させます。"となると、もう一回は高裁と最高裁を通ることになり、かなり時間が稼げる。判決の確定は、早くてもロシア大統領選挙の直前になるだろう。なにかが起こるかもしれない"(p.323)"「護衛官訴訟の判決期日が決定。同時に、日本最高裁長官が異例の予告。訴訟の長期化を避けるため差し戻しは行わないとのこと」"(p.330)波多野陸子という名前も、「機織り」でペネロペを連想させます。
 しかし、本書は『オデュッセイア』のパロディをおこないながら、同時にそのことを自己言及しています。それが上記の『オデュッセイア』の解釈であり、また、たびたび『オデュッセイア』の反-現実性を通しておこなわれる現状の確認です。

"オデュッセウスなら、どうやって千葉を元どおりにするだろう。いくら不意打ちとはいえ、わずかな手勢と弓だけで、またたくまに百八人を殺してしまう凄腕のテロリスト、オデュッセウスなら。けれどそんなことは考えるまでもなく不可能だった。きっと三千年前のイタカでも、本当は不可能だった。映画のスーパーマンは、地球を逆回転させることで時間を巻き戻し、死んだヒロインを甦らせた。オデュッセウスの皆殺しも、これと同じだ。不可能なことを成し遂げるための妄想的な手段だ。オデュッセウスなら、どうやって国王公邸に入り込むだろう。嘘を武器にする詐術の達人、オデュッセウスなら。考えていくうちに、オデュッセウスの力はみな私にはないものだと気づく。"(p.321


 そして、護衛官訴訟の最高裁判決を目前にして、千葉再分離運動の過激派、自衛隊予備役の召集、在千ロシア海軍の全将兵の基地呼集と、緊張は最高潮に達し、『オデュッセイア』の空想性と現実との乖離は極点をむかえます。陸子が敗訴と同時に光を殺すという事実上の心中だけは岬早苗の必死の説得で翻意されますが、現実は依然として苛酷なままです。


"同情のこもった視線が木下桃子に集まる。信じられないのは、信じたくないのは、みな同じだったにちがいない。こんなにも美しくて心安らかなものが、明日からはもう存在しないとは。"(p.406)


 さて、そうして迎えた護衛官訴訟の判決は勝訴であり、物語は光が陸子の手をとって終わります。
 ここまで読んだ読者におかれては、その意味はおのずから明らかだと思います。全418ページの物語において、最終章は3ページときわめて軽く、本文の自己言及のとおり"こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽい"ものとなっています。


"「国王の地位がいつまでも法的に有効かを争って裁判してる」「判決はいつごろ?」「あと一年か、一年半」「勝てそう?」「不可能」"(p.311)

 

"「これはどういうことでしょう?」「えっとねー。おうちに帰って、あの子たちと遊んで、ひかるちゃんと一緒に寝るの。朝ごはんも一緒だよ」「誰かが手を回したというようなことは――」「アテナとか? そっかー、ひかるちゃん、私のほかに女がいたんだー」アテナはオデュッセウスを助けた女神だ。妻や祖父との再会のあと、悪党の貴族たちの仲間が復讐に押し寄せてきて、オデュッセウスは勝ち目のない戦いに挑む。そこへ女神アテナが割って入って戦いをやめさせたときに、物語は終わる。おかしなことを思う。もしかして私は誰かの夢を生きているのかもしれない。三千年前のエーゲ海の人々の、かなわなかった夢を、オデュッセウスは生きた。もしそうだとしたら、私は誰の夢を生きているのだろう。陛下のお側に戻れなかった人、千葉が潰え去ったあとの人――"(p.415)


 ここで描かれているのは夢の世界です。作者があとがきで語っているとおり、すべてのフィクションは存在論的には現実と区別できません。しかし、本作では自己言及のメタフィクションによって、最終章が偽史であることが語られています。


"オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語のなかなのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい"(p.307)

 

『となりのロボット』の時間と他者性

百合 SF

 『となりのロボット』は昨年冬に発売されたロボットを題材とした百合マンガだ。描写とロボットへの洞察の両面が優れていて、『SFマガジン』2015年10月号に収録の「伊藤計劃読者に勧める「次の10作」ガイド」【コミック編】(V林田)にも「「人間とロボットの恋」というシンプルで古典的とも言えるテーマを、丁寧な筆致をもって百合と高いレベルで融合させた秀作だ。」として挙げられた。以下では、マルティン・ハイデガーの『存在と時間』を基軸に、その読解を試みたい。
 著者の西UKOは『Collectors』『宝石色の夢』などの著作からその博覧強記ぶりがうかがえる。
 『となりのロボット』もその広範な知識からハードウェア、ソフトウェア、ロボットと社会との関係などが実感をもって描写される。そして問題になる人間とロボットの恋愛も、霊魂のような形而上的、あるいは超常現象的な仮定はおかず、現実におこりうることとして解決している。(その点では、物語がピグマリオンの引用である神話となることで結末を迎えた2013年公開の『her』を上回っているかもしれない)。
 人間のチカがロボットであるプラハとの関係をあらためる契機となったのは、二人のもつ時間の相違だ。「もうヒロちゃんより大きいよ、私。いつかこの日が来ると思ってた。だってヒロちゃんは年とらないんだもん。変わらないんだもん」「だから今だと思う。この日が来たら言おうと……思ってた」(『となりのロボット』p.16)
 チカはプラハとの関係を深化させるが、プラハがロボットであることの不安が募り、かえって苦しむことになる。「――そういう…計算の結果でしょ。私が…ヒロちゃんのこと好きって気持ちとは違う」(『となりのロボット』p.77)苦悩のすえにチカは持続することのないプラハとの時間を一瞬のものとすることで、永遠性の代替にしようとする。「あの子は電源が落ちたらただのモノでしかない! 石ころに話しかけているのと同じじゃない! ううん。起きてる時だってその場で望まれる答えが計算されて発されるだけ」「私の時間は永遠じゃないから。だから今――十七歳の胸にヒロちゃんの笑顔、納めておきたかった」(『となりのロボット』p.116)
 ハイデガーは存在の意味を解明することを課題とする『存在と時間』において、われわれ自身を現存在とおき、その存在様態を気遣いとしたが、その関係が道具(道具的存在)とのものであるときは配慮的気遣い、他者とのものであるときは顧慮的気遣いだと分析した。他者は世界内存在において自己と同様の現存在として存在しているために、道具的存在と区別されなければならない。「他者は、むしろ、ひと自身がそれからおのれをたいていは区別しないでおり、ひともまたそのなかに存在しているところの人々なのである。ひともまた彼らと共に現にそこに存在しているというこのことは、なんらかの世界の内部で「共に」事物的に存在しているという存在論的性格をもってはいない。この「共に」は現存在に適合したものであり、この「もまた」は、配視的な、配慮的に気遣いつつある世界内存在としての存在の同等性を指さしている。「共に」と「もまた」は、実存論的に解されるべきであって、範疇的に解されてはならない。このような共にをおびた世界内存在を根拠として、世界は、そのつどすでにつねに、私が他者と共に分かちあっている世界なのである。現存在の世界は共世界なのである。内存在は他者と共なる共存在なのである。他者の世界内部的な自体存在は共現存在なのである。」(『存在と時間』『世界の名著62 ハイデガー』収録、原佑・渡辺二郎訳、1971年、中央公論社、p.228)
 そして他者との関係は支配と積極的な自由との両端のあいだにある。「積極的な顧慮的な気遣いの二つの極端――尽力し支配する顧慮的な気遣い、および手本を示し解放する顧慮的な気遣い――の間に日常的な相互共存在は保たれており、多様な混合形式を産みだすが、それらの混合形式を記述し分類するのは、ここでの根本的探究の範囲外のことである。」(『存在と時間』p.234)
 現存在の存在を気遣いとして可能ならしめるものは時間性だ。ここでいう時間性はエトムント・フッサールのような通俗的な意味においての時間ではなく、ハイデガー独自のものであり、それが『存在と時間』を執筆した動機のひとつでもある。時間性とは、世界内存在としての存在として、決意性をもちつつ未来に企投する、そうした統一的な過程のことだ。このとき、決意性が問題となる道具的存在への配慮的な気遣いは、予期をふくむとはいえ、存在者を現成化するという現在の働きでしかない。「状況における道具的存在者のもとで決意しつつ存在すること、言いかえれば、環境世界的に現存しているものを行為しつつ出会わせることは、この存在者を現成化することにおいてしか可能ではない。この現成化するという意味での現在としてのみ決意性は、決意性がそれであるところのものでありうる、すなわち、決意性が行為しつつ捕捉する当のものを偽りなく出会わせるはたらきでありうる。」(『存在と時間』p.515)ハイデガーが独自の有限的な時間概念を立てた理由が人間の死であり、事実上、永遠の存在であるプラハが第5話において人間の死に接していることは注目に値する。
 さて、チカはプラハが自分と時間を共にすることができない現実により別離する。二人が再会するのは10年の年月を経たのちのことだ。
 プラハが時間とそれによる変化を認識していることが示される。「私が知ってるチカちゃんでしかない時点で、"この子"はチカちゃんじゃありません。チカちゃんは常に変化します」(『となりのロボット』p.118)
 一方、チカはプラハと再会し、プラハを別離したときのままの相手として接する。「変わらないね…ヒロちゃん…」「胸の奥、蘇る。十年なんて、まるで昨日みたいにヒロちゃんは変わらない」(『となりのロボット』p.125)
 だが、それはプラハの一言によって破られる。「チカちゃん。わたし、持ってないチカちゃんのデータがあるの」「それ今もらってもいい?」(『となりのロボット』p.128)
 この一言で、プラハがチカと別れて過ごした10年間という時間が、重みをもって迫ってくる。その意味は奥寺のモノローグが代表している。「チカちゃん、君は知らない」「プラハがロボットなりに君をどれほど愛しているか」(『となりのロボット』p.130)そして、二人が時間を共にしていることは最終話の最後のコマにおいて象徴的に叙述される。
 ハイデガーの『存在と時間』において現存在と他者の定義は基礎論であり、両者の関係が現存在をどのような存在論的存在者とするかが本論だが、それはおいておこう。それは『となりのロボット』の本文中で「きっとまた不安になるし、きっと時々は苦しいし、でも、それは人間の恋人だって同じだよって、もう私は知ってる」(『となりのロボット』p.132)と語られるとおりだからだ。

『ユリ熊嵐』全話読解、エーリッヒ・フロム『愛するということ』から

百合 アニメ

 『ユリ熊嵐』(幾原邦彦監督、SILVER LINK制作、2015年)は愛をめぐる物語だ。それは各話の冒頭で「わたしたちは最初からあなたたちが大好きで、あなたたちが大嫌いだった。だから、本当の友達になりたかった。あの壁をこえて」というモノローグが読まれることが示している。では、だれの愛がいかにしてだれに与えられたのか。それはどのような意味をもつのか。エーリッヒ・フロム著『愛するということ』を助けに、以上の疑問を解決したい。
 本作において愛は<スキ>と<キス>というかたちで表現される。『ユリ熊嵐』の4話において、るると弟のみるんを登場人物にした<スキ>と<キス>の寓話が語られる。「『ねえお姉たま。本物のスキはお星さまになるって本当?』『本当よ。本物のスキは天に昇ってお星さまになるの。そして流れ星になって地上に落ちたお星さまは約束のキスになるのです』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。みるんはるるにキスをせがみ、そのためにハチミツ壺のかたちをした<約束のキス>をとってくる。るるはみるんを拒絶し、みるんはそのたびにハチミツ壺をとってくるが、ついにハチミツをとるためハチに刺されて死んでしまう。失意のるるは、自分の<約束のキス>を手にいれるという銀子を助けるためともに<断絶の壁>をこえることを決意する。<断絶の壁>をこえるための審判の場、<断絶のコート>での審理は以下のとおりだ。「それでは被告グマ、百合ヶ咲るるに問います。あなたはスキを諦めますか? それともキスを諦めますか?』『わたしはスキを諦めない。キスを諦めます。わたしを人間の女の子にしてください! わたしはどうしても銀子とあの壁の向こうにいきたいの!』『そうすればあなたはキスを永遠に失うことになるのですよ?』『わたしのキスはすでに失われた。もう二度と会えない。でも銀子は会えるから。きっとわたしの代わりに約束のキスを果たしてくれる』」(『ユリ熊嵐』ep.4)。そしてるるは<断絶の壁>をこえ、自分の愛情を叶えようとする銀子に無私の愛情を注ぎ、たびたび自身のもつハチミツ壺から銀子と紅羽にハチミツを分けあたえる。ここにおいて<スキ>は愛を、<キス>は愛の対象からの承認をあらわす。
 エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』において、人間は本質的に孤独であり、そこから脱出するために愛を求めるのだと説く。「人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。この目的の達成に全面的に失敗したら、発狂するしかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ」(エーリッヒ・フロム著『愛するということ』鈴木晶訳、紀伊國屋書店。1991年。p.25)。
 では、『ユリ熊嵐』において銀子の求める<約束のキス>はいかにして果たされたのか。作中に登場する絵本『月の娘と森の娘』がその方法を示す。さまざまな危難のすえに銀子を愛した紅羽は、『月の娘と森の娘』の示す方法に従い銀子に<約束のキス>を与える。その内容は次のとおりだ。「そしてとうとうふたりが空の真ん中までやってきたとき、そこには一枚の大きな鏡が壁のように立ちはだかっていました。鏡には自分自身のすがたが映っています。『さあ、その扉の向こうにあなたの友達が待っています。鏡に映る己が身を千に砕き、万に引き裂けば、彼女に約束のキスを与えられるでしょう。ただし、あなたは命を失うかもしれません。最後にもう一度問います。あなたのスキは本物?』ふたりは鏡に映る自分のすがたを見つめます」(『ユリ熊嵐』ep.6)、「月の娘は勇気をふり絞ります。『私は空の向こうへいきたい。だからわたしはわたしを砕く』森の娘も覚悟を決めました。『わたしは空の向こうへいきたい。だからわたしは空を引き裂く』『私のスキは本物』鏡は一瞬にして砕け散りました。そして見つけたのです、その向こうに立つ友達を。娘たちはゆっくりと歩み寄ると、ただことばもなく約束のキスを友達に与え合いました」(『ユリ熊嵐』ep.10)。それは次のようなかたちで実現される。「『椿姫紅羽、あなたのスキは本物?』『本物です』『わたしは、わたしを砕く! クマリアさま! どうかわたしをクマにしてください!』」(『ユリ熊嵐』ep.12)、そしてクマとなった紅羽は銀子に<約束のキス>を与える。作品の当初から銀子が求めつづけていた<約束のキス>は、紅羽が自分を犠牲にすることで果たされる。ここで語られるのは、<約束のキス>は求めるのではなく与えることで実現するということだ。『愛するということ』は、この愛が求めることによって実現されるという錯覚と、愛を真に実現する方法を次のように語る。「だからといって、人びとが愛を軽く見ているというわけではない。それどころか、誰もが愛に飢えている。(中略)ところが、愛について学ばなければならないことがあるのだと考えている人はほとんどいない。この奇妙な態度は、いくつかの前提のうえに立っている。それらの前提が、個別に、あるいはいくつか組み合わさって、この態度を支えているのだ。まず第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている。つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということなのだ。この目的を達成するために、人びとはいくつかの方法を用いる。おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることである。いっぽう、主として女性が用いる手は、外見を磨いて自分を魅力的にすることである。(中略)実際のところ、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを併せたようなものなのだ」(『愛するということ』pp.12-13)、「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何より与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思いこみである」(『愛するということ』p.43)。
 だから『ユリ熊嵐』の終わりのシークエンスにおけるみるんとるるの会話は次のようなものだ。「《スキがキスになる場所》『こうして約束のキスを果たした二人はスキの星に導かれ、断絶をこえて旅立ちました』『ねーねーお姉たま。それでふたりはどうなったの?』『どうなったのかな。みるんはどう思う?』『うーん、わかんないや。でもひとつわかったことがあるんだ』『なあに?』(みるんがるるの頬にキスをする)『約束のキス、ぼくからすればよかったんだ。ね?』」(『ユリ熊嵐』ep.12)。余談だが、作品の末尾において登場人物が作品を概括する会話をするという手法は『輪るピングドラム』の最終話でのふたりの小学生の会話にもみられる。
 このような愛を実現するのは容易ではない。銀子と紅羽は最終話までに幾多の困難に遭遇する。最終話でその最大のものが明かされる。じつはクマである銀子をヒトに変えたのは、幼い日の紅羽だったのだ。「『傲慢だっていいわ。お願い、銀子をヒトの女の子にしてください』『いいでしょう。ですがひとつ条件があります。あなたにスキを手放してもらいます。目が覚めたとき、あなたは彼女を拒絶するでしょう』(あの日、私は願ってはいけないことを願ってしまった。愚かにも、身勝手な自分のスキを本物だと信じて)」(『ユリ熊嵐』ep.12)。そして幼い日の紅羽は銀子のことを忘れ、1話へと至るふたりの長い苦悩がはじまるのだ。フロムは『愛するということ』のなかでこの課題をこう述べている。「愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛のなかに「とどまっている」という持続的な状態とを、混同していることである。それまで赤の他人どうしだった二人が、たがいを隔てていた壁を突然取り払い、親しみを感じ、一体感をおぼえる瞬間は、生涯をつうじてもっとも心躍り、胸のときめく瞬間である。それまで自分の殻に閉じこもり、愛を知らずに生きてきた人ならば、いっそうすばらしい、奇跡的な瞬間となるだろう。(中略)しかし、この種の愛はどうしても長続きしない。親しくなるにつれ、親密さから奇跡めいたところがなくなり、やがて反感、失望、倦怠が最初の興奮のなごりを消し去ってしまう。しかし、最初は二人ともそんなこととは夢にも思わず、たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ」(『愛するということ』pp.16-17)。
 作中にはほかにもヒトに変身するクマが登場する。そのうちのひとり、百合園蜜子は死んだあとに銀子の心象風景に銀子の欲望というかたちでふたたび登場する。「私はあなたのここに潜む欲望という名の幽霊、ということにしておきましょ」(『ユリ熊嵐』ep.9)。心象風景の蜜子は銀子に次のようにささやく。「『そう。あの瞬間、あなたは欲望の虜になった。嫉妬に駆られ大きな罪を犯した。』『私は罪グマだ。がうがう』『そうね、でも生きるために罪を犯さない生き物がいるかしら? 椿輝紅羽はあなたという友達を忘れ泉乃純花にスキを与えた。この世界で本当に信じられるのは友達なんかじゃない。それは私という欲望だけ。スキは凶暴な感情。スキは相手を支配すること。ひとつになりたいと相手を飲みこんでしまうこと』(中略)『さあ、わたしとひとつになってあなたのスキを証明するのよ』」(『ユリ熊嵐』ep.9)。しかし銀子は最終的に心象風景の蜜子を捨て、<ともだちの扉>を開く。『愛するということ』は欲望について次のように語る。「セックスによる興奮状態の助けを借りるという解決法は、それとはすこしちがう。性的な交わりは、ある程度、孤立感を克服する自然で正常な方法であり、孤独の問題にたいする部分的な答えである。しかし、ほかの方法で孤立感を癒すことのできない人びとの場合は、性的オルガスムを追求することは、アルコールや麻薬にふけるのとあまりちがわない。彼らにとって、セックスは孤立の不安から逃れるための絶望的な試みであり、結局は孤立感を深めてしまうことになる。なぜなら、愛のないセックスとは、男と女のあいだに横たわる暗い川に、ほんのつかのましか橋をかけないからである」(『愛するということ』pp.28-29)。
 紅羽を食べようとする箱仲ユリーカもまたそのひとりだ。ユリーカは紅羽を食べ、自身の<箱の花嫁>にしようとする。「『大切なものは箱に入れなきゃだめだって。箱に入れないと汚れてしまう。失くしてしまう』(中略)『汚れてしまったわたしは空っぽ、透明。もはや箱に入れられる大切なものではありません。だからわたしは箱になったのです。その虚しさを何かで満たすことをただ願う、空っぽの箱になったのです』」(『ユリ熊嵐』ep.8)。ユリーカは子どもに対する大人として学園の生徒と寝て、生徒を食べては箱に詰める。それは支配-被支配の関係だ。しかし、支配するだけではユリーカの心は空虚なままで、だからユリーカは死ぬまえに自分が本当に愛した澪愛を幻視する。『愛するということ』は支配-被支配の関係を以下のように否定する。「共棲的融合の能動的な形は支配である。マゾヒズムに対応する心理学用語を用いれば、サディズムである。サディスティックな人は、孤独感や閉塞感から逃れるために、他人を自分の一部にしてしまおうとする。自分を崇拝する他人を取りこむことによって、自分自身をふくらます」(『愛するということ』pp.40-41)。
 本作の重要なモチーフとして<透明な嵐>というものが登場する。本作においてクマでないヒトは、紅羽をのぞいて全員が<透明な嵐>に所属している。<透明な嵐>は各話でスマートフォンにより排除するものを決める投票、<排除の儀>をおこなう。そのときは全員が一致団結して動作していて、まるでマスゲームのようだ。『愛するということ』によれば、このような団結は愛情の背面に存在するものだ。「人類がそうした原初的な絆から抜け出すにつれ、それだけ自然界から分離し、孤立感から逃れる新しい方法を見つけたいという欲求がつよくなる。そうした目的を達成する一つの方法が、ありとあらゆる種類の祝祭的興奮状態である。いわばお祭りの乱痴気騒ぎのようなものだ。(中略)原始的な部族に見られる多くの儀式は、この種の解決法をいきいきと示している。つかのまの高揚状態のなかで、外界は消え失せ、それとともに外界の孤立感も消える。そうした儀式は共同でおこなわれるので、集団との融合感が加わり、それがこの解決法をいっそう効果的にする。(中略)こうした祝祭的興奮状態に部族全員がそろって参加しているかぎり、人びとのあいだに不安や罪悪感は生まれない。なぜなら、それは祈祷師や祭司が認め、命じたものであり、部族の全員が参加するものだからだ。だから罪悪感をおぼえたり恥じたりする理由はまったくない」(『愛するということ』pp.27-28)、「興奮状態による合一体験には、それがどんな形であれ、三つの共通する特徴がある。第一に、強烈であり、ときには激烈でさえあること。第二に、精神と肉体の双方にわたり、人格全体に起きること。第三に、長続きせず、断続的・周期的に起きることである」(『愛するということ』p.29)、「現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって、個人の自我はほとんど消え、集団の一員になりきることが目的となる。もし私がみんなと同じになり、ほかの人とちがった思想や感情をもたず、習慣においても服装においても思想においても集団全体に同調すれば、私は救われる。孤独という恐ろしい経験から救われる、というわけだ」(『愛するということ』p.30)。また、このような排除はクマの世界においてもおこなわれている。ヒトを愛すると宣言した銀子は、クマリアさまを崇めるクマの教会から追放される。「もはやおまえはクマリアさまの子グマではない! この世界を毒するヒトリカブトの銀子じゃ! 去れ!」(『ユリ熊嵐』ep.11)。『愛するということ』はこのような団結は一般的におこなわれていることなのだと述べる。「しかし、過去においても現在においても、人間が孤立感を克服する解決法としてこれまでもっとも頻繁に選んできた合一の形態は、集団、慣習、慣例、信仰への同調にもとづいた合一である」(『愛するということ』p.29)。
 では、そうしたクマとヒトとはなんなのか。1話のモノローグで、クマとヒト、そして両者を分かつ<断絶の壁>は次のように語られる。「ガウガウー! あるとき宇宙の彼方の小惑星クマリアが爆発しちゃったの。粉々になったクマリアは流星群になって地球に降り注いだんだけど、そしたら世界中の熊が一斉決起! みんなで人間を襲いはじめちゃった。おどろきーって感じだよね。人間たちは断絶の壁をつくってわたしたち熊を自分たちの世界から追い出そうとしたけど、でもでも、人間の作ったルールなんて通用しないんだからね! ガウ! 私たちはクマ、クマは人を食べる。そういう生き物!」。物語の最後に至っても<断絶の壁>は依然として存在している。また、銀子と紅羽は自身を犠牲にしてクマとヒトとの断絶をこえたが、それは個人におけるものであり、クマとヒトの全体を変えるものではない。本作に登場する集団はクマとヒトのふたつだけだ。クマとヒトとは人間社会に存在するあらゆる断絶の象徴なのだろう。これは言いすぎかもしれないが、『愛するということ』では人間の孤独のはじまりを神話に紐解いて説明している。「そればかりでなく、孤立は恥と罪悪感を生む。そうした孤立からくる恥と罪悪感については、聖書のアダムとイヴの物語に描かれている。アダムとイヴは「善悪の区別を知る智恵の木の実」を食べ、神への服従を拒み(不服従の自由がなければ善も悪もない)、自然との原始的な動物的調和から抜け出して人間となった。すなわち人間として誕生した。そしてその後で、二人は「自分たちが裸であることを知り、恥じた」。(中略)この神話の要点は次のようなものだろう――男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、べつべつの性に属しているという意味でたがいに異なった存在であることを知る。しかし、自分たちがそれぞれ孤立していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛しあうことを知らないからだ(アダムがイヴをかばおうとせず、イヴを責めることによってわが身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる」(『愛するということ』pp.24-25)。小惑星クマリアの爆発もまた神話なら、クマとヒトとの断絶は人間の個人の孤立を表しているのかもしれない。

 ユリとクマは<断絶の壁>で分かたれて対立している。そして銀子と紅羽は最終的に現実の世界では大木蝶子の号令のもと撃たれて死んでしまう。「わたしたちは力を合わせてついにやり遂げたのです。そうです、わたしたちはこの学園に蔓延っていた恐るべき悪の排除に成功したのです」(『ユリ熊嵐』ep.12)。しかし銀子と紅羽は撃たれる寸前にクマリアさまの祝福をうけ、<約束のキス>を果たす。このときの劇伴は各話で銀子とるるがクマに変身するときのものだが、このときは『アヴェ・マリア』の歌詞がつく。『愛するということ』は母性的な神についてこう語っている。「母親に愛されるというこの経験は受動的である。愛されるためにしなければならないことは何もない。母親の愛は無条件なのだ。しなければならないことといったら、生きていること、そして母親の子どもであることだけだ。母親の愛は至福であり、平安であり、わざわざ獲得する必要はなく、それを受けるための資格もない」(『愛するということ』p.67)、「母性愛がどのようなものであるかについてはすでに前節で述べた。またその際、母性愛と父性愛のちがいについても論じた。そこで述べたように、母性愛は子どもの生命と必要性にたいする無条件の肯定である。だが、ここで一つ重要なことをつけ加えなければならない。子どもの生命の肯定には二つの側面がある。一つは、子どもの生命と成長を保護するために絶対に必要な、気づかいと責任である。いま一つの側面は、たんなる保護の枠内にとどまらない。それはすなわち、生きることへの愛を子どもに植えつけ、「生きているというのはすばらしい」「子どもであるというのは良いことだ」「この地上に生を受けたことはすばらしい」といった感覚を子どもにあたえるような態度である。母性愛のこの二つの側面は、聖書の天地創造の物語に、ごく簡潔に表現されている。(中略)これと同じ考えは、聖書のまた別の象徴にも表現されているといえよう。約束の地(大地はつねに母の象徴である)は、「乳と蜜の流れる地」として描かれている。乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴である。蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」も与えることのできる母親はごく少数である。蜜を与えることができるためには、母親はたんなる「良い母親」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない」(『愛するということ』pp.80-81)、「母権的宗教の本質を理解するには、私たちが先に母性愛の本質について述べたことを思い出しさえすればいい。母性愛は無条件の愛であり、ひたすら保護し、包みこむ。無条件であるため、コントロールすることも獲得することもできない。母親に愛される人は無上の喜びをおぼえ、愛されない人は孤独と絶望に苦しむ。母親が子どもを愛するのは、その子が自分の子どもだからであって、「良い子」だからでも、言うことをよく聞くからでも、母親の願いや命令どおりにふるまうからでもない。母親の愛は平等なのだ。人間はみんな母親から生まれた子どもであり、母なる大地の子どもであるから、すべての人間は平等である」(『愛するということ』p.103)。そして映像の終わりにおいて、『月の娘と森の娘』の世界でキスをする銀子と紅羽のすがたが映る。ふたりは<透明な嵐>の銃弾に撃たれて死んだが、ここにおいて、ふたりの愛は母の愛、神の愛にたとえられる絶対的なものとなっている。そして、そのことを目撃した亜依撃子は<透明な嵐>を離脱し、クマであり捨てられたこのみを抱きかかえる。それとともに<ユリ熊嵐>という副題のタイトルバックが表示される。銀子と紅羽というクマとヒトとの愛情は、ほかのものにも伝わっていく。だから撃子とこのみの新たな物語がはじまることができた。本作においてユリはクマに対するヒトの意味だ。だから<ユリ熊嵐>という題名はヒトとクマの物語という意味であり、それは無限に伝わっていくものなのだ。わたしはこの場面が、視聴者に自分たちにおけるクマを愛する勇気をもてというメッセージを伝えているのだろうと思う。
 愛はみずから与えるものであり、それを実行することができれば集団の同調に飲まれることもない。だから紅羽はこういう。「スキを忘れなければいつだってひとりじゃない。スキを諦めなければなにかを失っても透明にはならない」(『ユリ熊嵐』ep.12)。だから銀子と紅羽に愛を与えつづけたるるも、最後には《スキがキスになる場所》で愛を実現することができたのだろう。

 

『ファンタジスタドール・イヴ』と『未来のイヴ』の対照および『ファンタジスタドール』再論

百合 SF

 野崎まど著『ファンタジスタドール・イヴ』(早川書房、2013年)はアニメ『ファンタジスタドール』(斎藤久監督、フッズエンタテインメント制作、2013年)の前日譚だ。内容は女性に幻滅した科学者が、それでも女性を欲し、志を同じくする友人とともに人造の女性を創造するというものだ。自身も製作に参加するかという異同はあるが、これはヴィリエ・ド・リラダン著『未来のイヴ』(1886年)と同じ筋書きだ。タイトルをはじめ、『ファンタジスタドール・イヴ』は『未来のイヴ』を援用しており、結末に明確な対照性がある。以下、それを検討するとともに、その対照をもとに『ファンタジスタドール』を再論したい。
 『ファンタジスタドール・イヴ』で主人公の大兄太子は幼少期にミロのヴィーナスをみることで、女性の肉体への憧憬をおぼえる。「連れて行かれたのは、世界で最も有名な美術館、ルーヴルだった。(中略)だが、私は、それに強く魅入られた。裸身の像の近くまで来た私は、たった今述べたような逡巡を一瞬で失い、ただただその裸体を眺めていた。その石像の顔立ちはもちろん名作という評価に違わず美しかったし、整っていたのだが、私の目は顔から離れ、首、そして肩へと続く筋肉の流れを追った。その曲線は、なんとも表現しがたい、だけれどとても良いものに違いないという、何かの真実に触れたような感覚を呼んだ。」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.12-14)。これに対し、『未来のイヴ』ではミロのヴィーナスが女性の外面的な美の象徴として説明される。「私は女を宿まで送って行きました。この義務を果たすと、またルーヴルへ戻って来たのです。私は再びあの神聖な広間へ入りました! そして星を鏤めた「夜」をその形体の中に秘めているあの「女神」を一目見ますと、ああ、生まれて初めて私は、かつて生者を窒息せしめた最も神秘的な嗚咽の一つのために胸がいっぱいになるのを感じたのでした。」(『リラダン全集2』ヴィリエ・ド・リラダン著、斎藤磯雄訳、東京創元社、1977年、pp.83-84)。
 こうした女性の形而上的な美しさに対し、大兄太子、そして『未来のイヴ』の主人公のエワルド卿は現実の女性に幻滅し、理想の女性を創造することを決意する。大兄太子は恋人に近い学友の中砥生美、エワルド卿は愛人であるアリシアへの幻滅がその契機だ。また『ファンタジスタドール・イヴ』においては大兄の友人の遠智要が婚約者に裏切られた経験から、『未来のイヴ』においてはエワルド卿の友人のトマス・エジソンがかつてある男が女性に翻弄されて破滅する様子を目撃したことから、理想の女性の創造に協力する。「「僕は、女性の体が好きなんだ。それが僕の望み、希望なんだ」それから遠智を見て、「でも、君は違うだろう?」「うん」彼は、諦めたように笑って「僕は婚約者に裏切られた。ずっと好きだった女性に不義をされて、酷く傷付けられた。でも、それでも、僕は忘れられなかったんだ。彼女が優しかったことも、彼女が僕を好きだと言ってくれたことも、彼女が僕に与えてくれた全てが愛おしかった。結局僕は、女性を嫌いになど、なれなかった。でももう、彼女には戻れない、心が離れてしまった、新しい人に会いたかった、心を通じ合わせ、そして二度と離れることのない、最高の女性に巡り会いたい。それが僕の希望なんだ」」(『ファンタジスタドール・イヴ』pp.128-129)。「しかしこれは申し上げて置きますが、こうした災厄を惹き起こす女どもの精神的醜悪さというものは、彼女等が肉体的に僅かばかり持合せているらしいそれほど厭らしくない点までも、充分帳消しにしてしまうということです。というのも、単なる動物にも授けられているような愛情能力さえも失っていて、破壊したり堕落させたりすることにしか勇気を持たぬ女どもである以上、彼女等が罹らせる病気、若干の人が恋愛と呼んでいるあの一種の病気については、私の意見を全部述べぬ方がよいと思うからです。見当違いの儀礼から、それを実際の名で呼ばずに、恋愛などという言葉を使うところから、不幸の一部分は出て来るのです。(中略)要するに、もしそれを身代わりに立てて人間の魂を救えるような、或る電気人間というものの創造方式を公式化することが可能ならば、「恋愛」の一方程式を「科学」から抽き出してみようではありませんか。この恋愛は、突如として人類に添えられる、電気人間というこの新たな付加物が無ければ避け得ないものであることが証明されたあの呪詛を惹き起こさないということが、先ず第一の特徴であり、従って情欲の火を制御することにもなるでしょう。」(『リラダン全集2』pp.213-214)
 こうして、両者は理想の女性、『ファンタジスタドール・イヴ』ではイヴ、『未来のイヴ』ではハダリーを創造するが、その結末は異なる。『未来のイヴ』ではエワルド卿はハダリーと精神的な愛情を通わせ、海難事故でハダリーが海中に没したあと、その喪に服することで物語は終了する。ミッシェル・カルージュは『独身者の機械』で、ハダリーが誕生から間もなく海中に没したことに注目し、「ヴィリエのイヴは女でも天使でもなければ、女たちの新しい世代を産む母でもない。彼女こそは、男の独身者の機械によって魂のない石胎の地位に追いやられた女が、それによってみずからもまた独身者の機械に変わっていくところの弁証法的な答えというにほかならない。」(『独身者の機械』ミッシェル・カルージュ著、高山宏訳、ありな書房、1991年、p.166)と断言している。これに対し、『ファンタジスタドール・イヴ』では大兄たちが人造の女性、ファンタジスタドールを創造することを決意するところで作中の時間は停止し、十数年後に第三者の視点から大兄たちの使用した研究所が焼失したことだけが語られる。『ファンタジスタドール・イヴ』の物語は『ファンタジスタドール』につづくのだ。

 『未来のイヴ』のエワルド卿、『ファンタジスタドール・イヴ』の大兄は形而上学的な女性を求め、創造する。形而上学が自然に対してイデアや純粋形相といった超自然的原理を設定し、自然を無機的なものとみる機械論的自然観を形成したことが、近代科学、技術文明の基盤となったことは両書を読むうえで興味深い。
 『ファンタジスタドール』の主人公の鵜野うずめは孤高の存在である大兄太子やエワルド卿と異なり「どこにでもいそうな普通の中学生」(『ファンタジスタドール』オープニングナレーション)だ。うずめはファンタジスタドールであるささらたちと多くの経験をへて、マスターとドールの壁をこえ「友だち」(『ファンタジスタドール』ep.11-12)となる。その友情は他のマスターにも伝わり、ドールを道具として利用していた清正小町は考えをあらため、犠牲にしようとしていたドールのプロトゼロと友情を結ぶ。
 うずめが「どこにでもいそうな普通の中学生」だったからこそ、機械的、形而上学的な、すなわち男性的な二分法から自由にささらたちと友情を結ぶことができたのだと思う。そして、それこそが『ファンタジスタドール・イヴ』で破滅的な結末を迎えた大兄と遠智に対する解答なのだろう。

『君が僕を』と論理実証主義

百合 文学

 中里十著『君が僕を』全4巻(小学館、2009-2010年)のテーマはコミュニケーションの不可能性だ。舞台装置の「恵まれさん」は金銭という概念上の存在を具体化する役割を負っている(『君が僕を3』p.140)。金銭の使用、すなわち交換が生じるのは両者のあいだに価値観の相違が存在するからだ(カール・マルクス著『資本論向坂逸郎訳、第1巻、岩波書店、1969年、pp.191-192)。

 主人公のひとり、絵藤真名は言語をその意味内容と一致したかたちでとらえようとする少女だ。各巻のタイトルは真名がきらう「気持ち悪い言葉」であり、真名はそうしたことばに接したときに、その意味内容に対応することばではなく、そのことばを発する意図に対応することば、あるいは行動を返す。もうひとりの主人公、橘淳子はその孤独を理解したつもりでいたが、1巻はその不理解が暴露されるかたちで決着する。

 ではその真名の世界、ひいてはコミュニケーションの不可能性とはなんなのか、そしてそれは最終的にどういうかたちで決着したのか。わたしはここにルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の援用をみる。以下、それにもとづいて本書を読解し、また結末の意味を解きたい。
 4巻において淳子と真名の再会が語られる。このとき淳子はニューヨークの地下鉄のトンネルに侵入し、多くのひとが「いかにもありそうなことだ」として抽象的なものと認識する落書きのじつは多様なすがたをみる。そしてそこから真名との出会いを連想する(『君が僕を4』pp61-62)。これを『論理哲学論考』は「私の言語の限界が私の世界の世界の限界を意味する」(野矢茂樹訳『論考』(岩波書店、2003年)p.114)とし、経験によってその限界が広がるとする。しかし、これは同時に以下のことも示す。言語は命題の総体だが(『論考』p.39)、命題は現実との比較でその真偽を「語る」ものの、そのための論理形式は不可知であり「示す」ことしかできない(『論考』p.43)。
 また真名は以下のようにいう。「『大人になる』とか、『将来なにになる』とか、みんな筋書き。時間の影」(『君が僕を4』p.239)。これを『論考』では以下のようにいう。「現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。」(『論考』pp.79-80)、あらゆる要素命題は独立であり、その関係は論理形式でしかありえない。そこに因果関係はありえない。
 真名は『論考』の論理形式を重視し、世界を記述する日常言語において、その論理性をあいまいにする記号学的な意味内容と表現の不一致を排除しようとしているのだと思う。
 では、そうした真名の姿勢はどうなったのか。橘れのあは真名に「世の中がたまたまで動いてて、人間がたまたまで生きているのに、人間のやることだけ筋が通ってるなんて、そんなのおかしくな~い?」(『君が僕を4』p.197)といい、その姿勢を改めさせようとするが、真名は変わらない。しかしまた真名も世界を変えることができずに終わる。「れのあのように適当なことを言うなら――真名は、おそらく、変えようとしていた。緑を、自分の両親を、あるいはもっと大きなものを。そのために真名はあんな事件を起こして、緑や両親を巻き込んだ。けれど緑は変わらなかった。おそらく両親も。」(『君が僕を4』p.207)。
 そして、『君が僕を1』において提示されたコミュニケーションの不可能性はどうなったのか。『論考』はコミュニケーションを以下のように述べる。「ある言語から他の言語への翻訳は、一方の各命題から他方の命題へと為されるのではない。ただ命題の構成要素だけが翻訳される。」(『論考』p.44)。『君が僕を4』の最終行において、1巻から問われつづけてきたコミュニケーションの問題は以下のようにタイトルへと終着する。「私は、時間の影じゃなくて、真名の影に。なりたい、なる、じゃなくて、今まさに。きっと真名も。動詞がないあの言葉、『君が僕を』。私は左手の人差し指を、真名の指に。」(『君が僕を4』p.240)。
 『論考』によれば世界の限界は自己の言語の限界であり、ここに他者の世界の不可知性がある。しかし命題を共有することはできる。この命題について『論考』は以下のように述べている。「しかし命題は、意味を介さずには何ものにも対応しない。命題は「真」とか「偽」と呼ばれるなんらかの性質をもったあるもの(真理値)を指示するわけではないからである。命題に対して「真である」や「偽である」という動詞が与えられる、フレーゲはそう考えていたが、それはまちがっている。「真である」という動詞は、その命題が真であることのうちに含まれているのである。」(『論考』pp.49-50)。
 『君が僕を』は真名と淳子が没したあとで淳子の義娘がその手記を発表するという形式をとっている。よって二人の未来に希望的な観測はない。しかし作中で、淳子は真名が死ぬまでその傍にいたように述べられている。ただし、「真名が生きていたあいだ、弱いのはいつでも私だった。」(『君が僕を4』p.71)が示すように、真名は最期まで淳子と本質的な和解はしていない。しかし、4巻の最終行と、淳子が真名の最期まで傍にいたという事実が、ロマンチシズムでない、コミュニケーションの不可能性に立脚した二人のコミュニケーションの成功を示唆しているように思う。